聖霊降臨後第24主日(B年)
聖路加国際病院聖ルカ礼拝堂
2012年11月11日・10時30分 聖餐式
「皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである。」(マルコ12:44)
イエスが賞賛なさる「信仰」は、神の良さへの完全な、幼子のような信頼である。生活費まで献金するやもめ。イエス先生からの一言で僕を治していただけるのを確信する百人隊長(マタイ8:8)。天の慈愛はユダヤ人にだけ与えられるものではないと信じるカナンの女性(マタイ15:21-28)。十字架の上から、良い父である神にその霊をゆだねるみ子(ルカ23:46)。このような信仰は、好調なときに持てるものではなくて、辛い中でも耐えるものである。このような信仰は、切に求めるべき賜物である。
イエスは、エルサレムの神殿(=ユダヤ教の本山)で座って人々を観察中。そして、賽銭箱に自分の生活費まで入れるやもめ(=未亡人!)のことに気にとらわれる。
このやもめをうまく利用して「献金をちゃんとせよ!」と訴える牧師は少なくないと思う(僕もそのようなことを言ったことがあるかも知れない!)。このやもめは生活費を丸ごと献金できたのなら、皆さんももう少し出せるのではないか、というような話をする。
でもイエスは果たしてこのやもめを献金の模範として挙げておられるのだろうか。むしろ彼女のことを可愛そうに思っておられるのではないだろうか。
というのは、このやもめは律法学者たちにだまされている一人になるではないか。今日の福音書の前半では、イエスは彼らを非難される。「律法学者に気をつけなさい...彼らはやもめの家を食い物にする」(マルコ12:38, 40)
どうやってやもめの「家を食い物に」しているかというと、罪悪感を押し付けているのである:
罪深くて、きちんと掟を守れない人は神に受け入れてもらえると思うのか!俺たちと違って律法が殆ど分かっていないやつは、どうして神に愛されていると言えるのか!あなたみたいな人は赦してもらいたかったら、相当の寄付が必要だろう!相当の寄付!
オレオレ詐欺ではないけどそれに似ている。この弱くて貧しいやもめは、神との和解をはかるために、空腹を覚悟して、賽銭箱に生活費を全部入れているわけである。
これは献金の見習うべき模範ではなくて、訓戒的な話ではないだろうか。
[むしろ、わたしたちにとって献金の模範になるのは「有り余る中から入れた」(マルコ12:44)人たちになるではないだろうか。現代の日本は、不景気とはいえ、史上最高に物質的に恵まれている国の一つである。正直に言えば、わたしたちはこのやもめが味わっていた貧困を想像できないと思う。彼女の生活費全体、レプトン銅貨二枚は、当時の一日分の賃金の百分の一ぐらいになる。つまり彼女の「持っている物すべて」と言っても、麦パン一個を買えるか買えないか、そういうスケールの貧困である。]
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イエスはこのやもめを見て、献金どうのこうのではなくて、彼女が一生懸命に神への愛を現していることに心が打たれているのではないかと思う。
先週の福音書にあったように、この前、イエスは神殿で第一の掟を教えてくれた。「イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」(マルコ12:19-30)
そして第二の掟:「隣人を自分のように愛しなさい。」(マルコ12:31)。律法全体はこの二つの掟でまとめられる。これだけは、人間と神との関わりの根底になる。
残念ながら、わたしたち弱い人間は、この二つの掟でさえ守れないのである。調子のいいときには全身全霊で神を愛し、隣人への思いやりをしばらく持つことができるかも知れないが、やはりむらがある。わたしたちの愛が十分大きくない。
しかも神から疎遠していて、冷たい世の中に住んでいる者として、わたしたちはいろいろな悲しい思い、さびしい思い、辛い思いがあって、涙を流さずにはいられない。
それに加えてこのやもめは、きっと律法学者が主張するような厳しい掟を必死に守ろうとして、結局守り切れないことを痛感して、遠くから神殿まで足を運んで来たのではないかと思う。どうしても神との仲直りをしたい、どうしても赦してもらいたい、どうしても神に近づきたい!
そのために人が神殿に来る。神殿は、ユダヤ人にとって神と出会える場所だと思われた。天と地の唯一の接点はここである。ここは神との触れ合いがある場所だと思われた。
このやもめは神に出会いたい。神の愛に触れたい。だから賽銭箱に自分が持っているお金、銅貨二枚を入れる。
そして不思議で素晴らしいことに、彼女の小さな捧げ物をご覧になっているのは、神から遣わされたみ子なのである。
エルサレムの神殿に巡礼に来ている人の中で決して彼女は目立たないはず。一人で寄って来ている。その服はボロボロであろう。遠くから来て疲れているであろう。きっと彼女の顔は笑いじわと泣きじわだらけであろう。
しかし大勢の中からこの人に、神から遣わされたみ子が心を留めておられるわけである。一生懸命神への愛を現せようとしている彼女にイエスはどんなに暖かい眼差しを注いでおられるであろうか。
このやもめは確かに律法学者たちにだまされていたかも知れない。でも結局は、律法学者たちよりも彼女の方が神に近づいていたのである。イエスのすぐそばまで。
律法学者たちは、口では神のことをいろいろ言いながら人間の誉れを求めるのである。
このやもめは「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして」神を愛しようとしているわけである。
二つの小さな銀貨には、とても大きな意味があったのである。
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このやもめと出会って数日後、イエスはこの神殿からそんなに遠く離れていないところで、違った種類のささげものをなさった。今度は賽銭箱ではなくて、十字架だったのである。
十字架の上で、ヘブライ人への手紙の言葉を借りると、イエスは「人間の手で造られた聖所ではなく、天そのものに入られた」(ヘブライ9:24)のである。
イエスも、やもめのように、持っている物をすべてささげられたのである。その命まで。
十字架の上で、イエスは「わたしたちのために神のみ前に現れてくださって」(ヘブライ9:24)「ご自身をいけにえとしてささげて罪を」――やもめの罪、律法学者たちの罪、僕の罪、皆さんの罪を「取り去るために、現れてくださいました」(ヘブライ9:26)
これこそ惜しみない愛の業。
イエスのささげものによってやもめが切に望んでいたことが実現されたのである。つまり、神の赦し、神との和解をイエスがわたしたちのために手に入れたくださったのである。
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「罪」というものは――わたしたち自身のさまざまな背きやわがまま、そしてわたしたちの両親の罪と彼らの両親の罪、社会の罪、世の中の罪――これらのものは、わたしたちを神から引き離してしまっているのである。
しかもわたしたちがいくらささげものをささげても、いくら献金をしても、いくら律法や掟を守っても、いくら「いいこと」をしようとしても、罪が作る深い溝を越えて神に近づくことができない。
でも神はその溝を越えてくださった。イエス・キリストがささげてくださった尊い命は、その架け橋になる。神の愛を求める人にとって、イエスの十字架を通れば近づける。
さて、どうすればこのことに応えることができるか。
イエスのささげものに便乗するしかない。やもめのように、わたしたちがささげ得るものは、ほんのわずかしか持っていない。銅貨二枚ほどの愛しかない。だけれども、その愛をイエスの十字架のささげものに合わせることができるのである。
そうすれば、大いに神に喜んでもらえるのである。
わたしたちも日々、一生懸命神への愛を現したいと思う。