2012年6月27日水曜日

深き父の愛

「How Deep the Father's Love for Us」という賛美歌が好き。

http://www.youtube.com/watch?v=SKDujmtyAVk

今現在の罪人であるわたしたちもイエスの十字架の苦しみに加担しているし、その恵みにもあずかっているという「十字架の逆説」をきれいな音楽と合わせてなかなかうまく表わしているものだと思う。

できれば、日本語にしたいけれども、さすが翻訳はとても難しい!意味を保ちながら同じ音楽につけることは、無理に近い!

下記はわたしの長年の努力の成果(聖歌?)。まだ全然満足していない。

How Deep the Father's Love for Us 
Written by Stuart Townend 

How deep the Father's love for us,
 how vast beyond all measure
That he should give his only son,
 to make a wretch his treasure
How great the pain of searing loss,
 the Father turns his face away
As wounds which mar the chosen one,
 bring many sons to glory

Behold the man upon a cross,
 my sin upon his shoulders
Ashamed, I hear my mocking voice
 call out among the scoffers
It was my sin that held him there
 until it was accomplished
His dying breath has brought me life;
 I know that it is finished

I will not boast in anything:
 no gifts, no power, no wisdom
But I will boast in Jesus Christ;
 his death and resurrection
Why should I gain from his reward?
 I cannot give an answer
But this I know with all my heart:
 his wounds have paid my ransom

深き父の愛
 はかりしれない
罪人らのため
 み子を与える
胸が張り裂けて
 見ていられない
み子の負う傷は
 われらの救い

磔の肩に
 わが罪負わせ
罵る群衆
 われも紛れる
すべて成し遂げた
 戦い抜いて
いのちをもたらし
 息絶えるまで

力も、知識も
 誇りとしない
誇りは主イエスの
  死とよみがえり
なぜ主の勝利が
 わがものになる
信じる、その傷が
 われを贖い

2012年6月15日金曜日

a showdown at the harbor (Acts 13:4-12)

Led by the Holy Spirit, Paul and Barnabas preach their way across the island of Cyprus, Barnabus' home, and make a long stay in Paphos, a port on the west coast of the island. "The proconsul, Sergius Paulus" (v. 7) summons Paul and Barnabas to hear their message, which must have been causing quite a stir.

As Roman citizen, Paul is well-suited to establish a rapport with Sergius Paulus, which he uses to tell him the Good News about Jesus Christ. Paulus, "an intelligent man" (v. 7), is impressed by Paul's message, and is nearly ready to accept faith in Jesus. But then Bar-Jesus, the proconsul's Jewish counsellor and fortune-teller, steps in to interfere.

Filled with the wisdom of the Holy Spirit (v. 9), Paul can see what's going on: Bar-Jesus is operating under an evil influence. Satan (=the force of darkness that opposes God and His works) hates it when people come to believe in Christ—the devil doesn't want us to receive the forgiveness or healing or salvation or eternal life that God wants to give us. Forces that try to turn people away from the winsomness of Christ are finally demonic.

Bar-Jesus means "son of salvation," but Paul perceives that Elymas is really "a child of the devil" (v. 10)—i.e. acting as a proxy for the devil.

Serious problems require serious remedies, just as a brain tumor requires radical treatment. Paul declares the remedy that God will take in this situation: Bar-Jesus will be temporarily blinded. In other words, his inward spiritual blindness will be made clear and concrete in the form of temporary physical blindness.

When Paul declares this: "Immediately mist and darkness came over him" (v. 11=Luke the physician is here using contemporary medical language to describe the scene).

Paul surely recalls his own experience of being blinded on the road to Damascus, which changed his life. God does not cause sickness, although He may allow inward spiritual disorders to take on outward physical form. But God certainly does use times of sickness and physical and mental distress to bring about great change in us, fresh awareness, renewed resolution to live in consonance with His will.

The proconsul is deeply impressed because both the words and the actions of Paul reflect the reality of God. And so, Paul leads Paulus to Christ, his first Gentile convert.

2012年6月14日木曜日

love lies in wait

St. Luke's Hospital Chapel News message (translated from the Japanese)

A student at the nursing college recently told me of a unusual experience she had. Because of a tragic loss she suffered, she said, for nearly ten years she was "anti-God"—angry at God for letting this horrible thing happen. So it was with a great deal of resentment and hurt bottled up inside that she took part in the commencement service in the chapel in April. "I'm out of place here," she recalls thinking.

But as soon as she sat down in the chapel seat, she felt as if a great weight was suddenly lifted from her. All the bitter feelings she had been carrying for years dissipated in a moment, and she was left surprised and thankful. She knew then that she had been brought to St. Luke's for a reason.
+   +   +
I met an elderly woman in the hospice ward last month. She seemed to shine whenever I visited her. I always left gladdened by our time together.

This woman lost most of her hearing when she was about 30 years old due to an illness. But she came to view the illness as "a gift from God": She said that it was in the acknowledgement of her own frailty that she was led to see God's kindness and mercy.

For 50 years, she walked joyfully with the Lord Jesus. Her very last words were "I'm happy" and "I'm so grateful".
+   +   +
The Holy Spirit who descended at Pentecost still comes, often in less dramatic ways. I recall my own "quiet Pentecost," sitting on a promontory in Kamakura looking out over the ocean—it was on that late afternoon that a small ray of hope and joy penetrated the long, dark winter of my soul. I couldn't know at the time that, from that point, my whole life would be forever changed.

It's as if God is laying in wait for us, always ready to reach out, to bring us healing and comfort and courage. God looks out for any opportunity to turn our hearts back to Him.

We need not speak with other tongues like the first disciples did. But let us not be shy in "declaring the mighty works of God" (Acts 2:12) in our own lives and in this community.

2012年6月13日水曜日

出だしが悪かった(創世記 3:1-21)

聖霊降臨後第2主日(B年)・10時30分 聖餐式
聖路加国際病院聖ルカ礼拝堂

今日の創世記の言葉を皆さんと一緒に見たいと思います。なぜかというと、21世紀に住んでいるわたしたち人間の状況を理解するのに不可欠なものだと思うからです。

でも最初に、この創世記の記事の目的について一言。創世記は科学教科書のような資料ではありません。人類の生物学的な起源を説明しようとしていません(創世記と進化論の概念は基本的に相容れないものではないと思います)。

もちろん、論理的に考えると、何千年も前にどこかの時点で、「最初の親」が登場したはずです。つまり、チンパンジーでもネアンデルタール人でもない人間は、いつかどこかでスタートしたわけです。

でも聖書が興味を置いているのは、そういう点ではありません。アダムとエバの話は象徴的な言葉をもって2つのとても大事な質問に答えようとしています:すなわち、1)人間とはなにか、と2)何で人間は今このようになっているのか、と。

誰でもこの2つの質問について考えるべきだと思います。創世記は、神が知ってもらいたい答えを示しています。だから、限られた時間でも、この文章を皆さんと一緒に見たいと思います。
+   +   +
 主なる神が造られた野の生き物のうちで、最も賢いのは蛇であった。蛇は女に言った。「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか。」(創世記3:1)
教会では、この蛇はサタンあるいはその使いだというふうに理解しています。サタンの動機というのは、洗礼式にあるように「神によって造られたこの世を堕落させ破壊する」のです。

蛇の出だしに注意してください。「[こういうこと]などと神は言われたのか。」これは悪魔の典型的な作戦です:神が示されたことに疑問を投げ掛けること。荒れ野にいたイエスの話を覚えていますか。「あなたは神の子なら...」とサタンが言ったわけです。その前、イエスが洗礼を受けられたとき、「わたしの愛する子、わたしの心に適う者」と天に言われたばかり。なのに悪魔は、それは本当かな?確かか?と疑わせようとします。

わたしたちも毎日同じような誘惑に遭うと思います。すなわち、神が明らかに示してくださったことを疑うように。イエスは隣人を赦しなさいと命じられたのだが、兄嫁もその「隣人」の中に入るかしら。聖書は、本当に結婚外の肉体的関係はだめだと言っているのかな。イエス・キリストは本当にこの世の救い主か。確かか?

でもここで蛇が何に疑問を投げ掛けているのか、注意してほしいです。「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか。」

こういうことを言うのはどういう神でしょうか。イジワルな神に決まっていると思います。人間を美しい園に置き、四方に美味しい食べ物を置きながら「だめだ。食べるな」と言うこととは。

でも実際にこのような神のイメージを持つ人は少なくないと思います。神は厳しい独裁者のような神だと思ったりします。人の楽しみを台無しにしようとしている。長い、難しくてつまらない人生で我慢することを求める。理由もなくこれもあれも禁じる。実は悪魔が持たせたい神のイメージはまさにこのとおりです。

でもこのイメージは果たしてあっているでしょうか。実際に神が仰ったことを聞きましょう。
ちょっと前、2章にはこういうことがありました:
主なる神は人を連れて来て、エデンの園に住まわせ、人がそこを耕し、守るようにされた。主なる神は人に命じて言われた。「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」(創世記2:15-17)

園のすべての木から自由に取って食べなさい、と。どんな木でも!莫大な数の木々からぶら下がっている果物のどれでも食べなさい!いつでも、食べ放題だ!

これは独裁者の声?全然違います。これは子煩悩な父親が言うことです。その子供たちのために何不自由ない環境を整えてくださったのです。サタンはよくこの父の愛を疑わせるものです。

 女は蛇に答えた。「わたしたちは園の木の果実を食べてもよいのです。でも、園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないから、と神様はおっしゃいました。」(創世記3:2-3)

もうやばいです。エバは蛇の策略に引っ掛かりはしないが、すでに危ない方向に向かっています。エバが神の命じられたことを大げさに言っていることに気づきましたか?神:「善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。」エバはそれを曖昧にします:「園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない」

神はまず触れることについて何も仰っていません。しかも、「園の中央に生えている木」ではなくてはっきり一本だけの木を指定なさいました。

どうして神はこの善悪の知識の木だけを禁じられるのか。「食べて欲しくないなら、どうしてそういう木を置いたのか」と考える人がいます。その答えは、人間の自由に関係していると思います。

神はご自分にかたどって人間をお造りになった、と聖書。それはおもに、自ら進んで愛に応える、愛を捧げる特徴を表わしていることです。

神への愛を示す一番大きな方法は、神に聞き従うことです。従うか従わないか、わたしたちの自由何です。神は人をロボットのようなもの造られませんでした。だから、エデンの園で、禁止されるものが何もなかったら、アダムとエバには従う・従わないという自由もなかったわけです。本当の意味で神を愛することもできません。愛は自由に、自ら進んですることでなければいけないのです。

でもそれよりも、神が「善悪の知識の木から食べてはならない」と仰ったのは、僕が娘に「あついストーブに触るな」と言うと同じことです。娘を愛しているからそう言っているのです。

善悪の知識の木が禁止になっていたのは、害を加えるものだったからです。基本的に「神に禁じられているから」ことがいけないのではなくて、害になることは神に禁じられるわけです。

アダムとエバはすでに善悪を見分けることができていました。神に従わないで、その木から実を食べることが悪いことだ分かっていました。今までは、彼らは直感的に正しいことが分かり、自然に正しいことを、正しいから、そして神に喜んでもらえるから、ずっとやってきたのです。

でも禁断の果実を食べると、今までにないように善悪を「知る」ことになります。ヘブライ語で「知識」とか「知る」という言葉は、ただ意識する、理解するだけではなくて、知り尽くす、熟知する、その知っていることと密接に関わりを持つ、というニュアンスがあります。善悪の知識の木の実を食べれば、善だけではなくて悪も彼らの心に舞い込むわけです。そうすると、「神のように」なる(と5節に)。つまり、何が善なのか、何が悪なのか、神の仰っていることとは関係なく勝手に決める立場を取ることになるのです。

でも、この蛇とエバのやりとりの一番悲しいところは、エバが言う「神様」という一つの言葉にあると思います。

創世記では今まで神はずっと「主なる神」(Adonai Elohim)と呼ばれていますがここで始めて、ただの「神様」(Elohim)に変わります。「主」(adonai)という言葉には深い関係性の意味合いが含まれています。造り主とその造られた人。主人とその民。導いて守る側と賛美・感謝をもって仕える側。親しく語る主と喜んで耳を傾ける人。愛を注ぐ側と愛を返す側――そういう関係がもう、この時点でも、見失ってしまっているわけです。神はただ「神様」になっています。強い神ではありますが、よそよそしい神でもあります。「木に触れてもいけない!」のように勝手にルールを強要する神。

では恐ろしいシーンを見てみましょう:
 女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆していた。女は実を取って食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も食べた。二人の目は開け、自分たちが裸であることを知り、二人はいちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした。(創世記3:6-7)

禁断の果実を食べると、どうなったでしょうか。

これに続く話を見ますと、まずアダムとエバの関係が崩壊することが分かります。今までは、二人が裸でありながらも別に恥ずかしくない、と書いてありました(創世記2:25)。つまり、ありのままの自分で一緒にいて、相手のありのままを尊敬し、受け入れ合っていたのです。

もはやそうではありません。本当の自分が見られるのは恥ずかしい。しかも、今まで喜びに満ちた、互いに仕え合っていた夫婦関係が変な力関係に変わってしまうのです。

そして、神が恐ろしい存在になってしまいます。今までは神と人は友愛関係をもって、園における協同者でした。もはやそうではありません:
「主なる神はアダムを呼ばれた。『どこにいるのか。』彼は答えた。『あなたの足音が園の中に聞こえたので、恐ろしくなり、隠れております。わたしは裸ですから。』」(創世記3:9-10)

ここにものすごい距離感を感じませんか。ギクシャクして緊張を伴っている場面です。罪は、そういう効果があるのです。わたしたちを神から引き離します。神に見られたくなくなる。神の正しい裁きが恐ろしくなるのです。

続きの言葉を飛ばしますが、注意してほしいです。アダムはエバに責任転嫁して、エバは蛇に責任転嫁するのです。とても情けないことでないなら笑っちゃう場面ですね。このとき以来、人間は責任を回避するようになっています。今の政治化は、特にそれを見事に見せてくれます。

そして最後に、人間は地球そのものから疎遠してしまいます。地球を管理し、守り、耕すように頼まれた人間は、これから苦労して、環境を打ち勝って乱用するようになるのです。
+   +   +
時々こういう話を耳にします:エデンの園で起こった出来事、いわゆる「堕罪」という出来事は、実は良かった、必要だった、という話です。アダムとエバの反抗は人類の成長の苦しみだったのだ、と。自主独立を得るにはこういう道を通らなければならなかったのだ、と。

しかしこれほど聖書全体が言っていることを強引に読み違えることはないと思います。聖書は一貫して「堕罪」という出来事が純然たる大災害でしかないと主張するのです。神と人間との関係、人間同士の関係、自分との関係、地球との関係はこれで引き裂かれたのだ、と訴えるのです。

神の子供が成長して巣立った話ではありません。もっと妥当なたとえは、少年や少女が町でスカウトされて、離れた都会で薬物と暴力と売春の人生に消えてしまったというような話になります。

アダムとエバの罪は、何から何まで悲惨なことでした。実は、その時点から、人間のストーリーがどんどん暗くなっていくのです。アダムとエバには二人の子供が生れますが、カインは弟のアベルを殺してしまいます。それからもっとひどくなります。人類を最初からやり直そうと神が思われるぐらいひどくなります。大洪水というリセットのときに、ノアとその家族だけ救われます。が、箱舟から降りるノアはすぐ、酔っ払ったあげくの放蕩に落ちってしまいます。

とにかくわたしたちはアダムとエバの罪の跡継ぎです。毎日、堕罪の結果は目に前に現われます。この世は大きな悪と苦しみの泥沼に巻き込まれています。しかもその殆どが直接あるいは間接的に人間の自己中心や欲張りや暴力、あるいは人間の無関心によるものです。

皆さんはドアに鍵を掛けていますか。僕は掛けています。絶えず年寄りの方に「振り込み詐欺」を警告しなければなりません。結婚はどんどん崩壊しています:日本の離婚率は40%弱(アメリカは50%!)。貧富の差は日本でも世界的にも広がっています。今現在、世界のすべての人に、毎日2,720kcalの食べ物が作られていますが、7人の1人は空腹状態にあります(半分以上はアジアに)。毎日、予防し得る病気で数千人の子供が亡くなっています。今、40ぐらいの武力紛争が世界各地に起きています。掛け替えのない熱帯雨林の破壊がどんどん進んでいます。毎日、3つの絶滅危惧種が消えていきます。

聖書は言います:こんなはずではなかった。この状態は当たり前と思ってはならない!!これは、人間が神の慈しみを疑ってしまうこと、神の代わりにだろうとする心の結果である、と。しかも、この泥沼から抜け出す力は、人間にはない、と。わたしたちの望みはどこにあるのでしょうか。

その話は別の機会にしたいと思います。ただ、最後に、今日の創世記の最後の言葉を見たいです。
 主なる神は、アダムと女に皮の衣を作って着せられた。(創世記3:21)

アダムとエバはもはや園にいられません。ところが、これだけひどいことがあっても、2人が唯一定められた掟を破っても、基本的に神の愛と恵みを信頼していない姿勢を見せても、神の立場を取ろうとしても、園の麗しい平安を永遠に損なっても――それでも、神はどうされますか?彼らを滅ぼしてしまう?忘れてしまう?見捨ててしまうのでしょうか?

いや、違います。神は暖かい服を着せてくださるのです。園の外の気候は厳しくて、いちじくの葉だけでは足りないのです。だから神ご自身が衣を用意して、2人の罪の最もきつい結果から彼らを守ってくださるのです。

どうしてかというと、神は変わっておられないからです。アダムとエバは変わりましたが、神はそうではないのです。神は相変わらず、子煩悩な父親です。その子供たちが愛しい。神はわたしたちの幸福と喜び以外に何も望まれていないのです。わたしたちが神を見捨てても、神はわたしたちを見捨てたりはなさらないのです。

最後の最後に、質問があります:その服は、何でできたのか。動物の皮ですね。つまり、アダムとエバがその罪の結果から守られるために、罪のないものの血が流されたわけです。

お分かりでしょうか。ここストーリーの始まりに、ストーリーの終わりに起こることのヒントがあります。罪の結果からわたしたちを救うのが、やはり罪のない犠牲者の血である、ということ。

わたしたちの主イエス・キリストに感謝しましょう。「わたしたちはその血によって贖われ、罪を赦されました。これは、神の豊かな恵みによるものです」(エフェソ1:7)

2012年6月12日火曜日

starting off on the wrong foot (Genesis 3:1-21)

Second Sunday After Pentecost (Year B)
St. Luke's International Hospital Chapel - 10:30 a.m. Holy Eucharist

I want to look a bit at the text from Genesis we read today, because I think what is revealed here is so essential for understanding what it means to live as a human being in the 21st century.

But first I should say a quick word about what this account in Genesis is aiming to do. Genesis is not like a science textbook: It isn't trying to explain the biological origin of the human race.

Of course, even simple logic dictates that, at some point, however many thousands of years ago, our "first parents" had to come on stage—that is, the human race, as distinct from chimpanzees or Neanderthals, had to start at some point, somewhere.

But that's actually not where the Bible's interest lies. The story of Adam and Eve is trying to answer two very important questions: 1. What is a human being? and 2. Why are human beings the way we are now, today?

Every person ought to try to find answers to these questions. Genesis offers the answers God wanted us to know. With that in mind, and in our limited time, I want to explore the text with you.
+   +   +
  • Now the serpent was more crafty than any of the wild animals the Lord God had made. He said to the woman, "Did God really say, 'You must not eat from any tree in the garden'?" (Gen 3:1)
The Church has always understood the serpent to be Satan or his servant. His goal, as we say in baptism, is to seek to "corrupt and destroy the world God created."

Notice how the serpent starts out: "Did God really say…?" That's a typical approach for the devil: To cast doubt on what God has revealed. Do you recall what Satan said to Jesus in the wilderness: "If you are the Son of God" (Matt 4:3)? God had just declared at Jesus' baptism: "You are my Son, my Beloved," but the devil says, Is it really true? Are you absolutely sure?

Every day, we face similar temptations to doubt what God has clearly shown us. Jesus commanded us to forgive our neighbor, but did He really mean my sister-in-law? Does the Bible really say no sex outside marriage? Is Jesus Christ really Lord and Savior of the world? Are you absolutely sure?

But notice what the serpent is trying to get Eve to doubt here: "Did God really say, 'You must not eat from any tree in the garden'?"

What kind of God would say such a thing?! A cruel, tyrannical God! To put man in a beautiful garden, surround him with good things to eat, and then to say: Sorry, not for you. Hands off.

Actually, many people have a similar view of God. They assume God is a harsh tyrant. He's out to spoil our enjoyment of life. He asks us stoically to endure life as one long, joyless grind. He forbids this and that for no reason. And that's exactly the image of God the devil wants us to have!

But is it true? Let's listen to what God really did say, a few verses back in Chapter 2:
The Lord God took the man and put him in the Garden of Eden to work it and take care of it. And the Lord God commanded the man, "You are free to eat from any tree in the garden; but you must not eat from the tree of the knowledge of good and evil." (Genesis 2:15-17)

You are free to eat from any tree in the garden! Any tree! Thousands upon thousands of trees bearing wonderful fruit and vegetables--and you can eat whatever you like! Whenever you like! As much as you like!

Does that sound like a tyrant? No, that is a loving Father who has provided for the needs of his children. Nothing is lacking. And yet, getting us to doubt the love of the Father is one of Satan's most successful tactics.

  • The woman said to the serpent, "We may eat fruit from the trees in the garden, but God did say, 'You must not eat fruit from the tree that is in the middle of the garden, and you must not touch it, or you will die.'" (Gen 3:2-3)
Uh oh. Eve doesn't fall for the serpent's trick, but she's already halfway there. Did you notice how she expands on what God commanded? God said: "Don't eat from the tree of the knowledge of good and evil." Eve is much more vague: "We mustn't eat from the tree that is in the middle of the garden, AND we mustn't touch it."

God never said anything about touching the tree. And He was very specific: "the tree of the knowledge of good and evil".

Why did God forbid that tree? Some people ask, "Why did God make the tree in the first place if He didn't want people eating from it?" The answer has to do with freedom. God made man in His image, which means He made us free to respond to Him, and free to offer love. And the primary way we show that we love God is by obeying what God says.

We are free to obey, or not to obey. God did not make people like robots. If nothing were forbidden in Eden, there wouldn't be even the possibility of Adam and Eve choosing to not obey. Which means there would also be no possibility of loving God: Love has to be freely chosen, or else it's not love.

But more importantly, God said "Don't eat from the tree of the knowledge of good and evil" in the same way I say to my daughter, "Don't touch the hot stove." I say that precisely because I love her.

Well, the tree was off limits because it was harmful. Something isn't just wrong because it is forbidden by God; God forbids things that are harmful.

Adam and Eve already knew right from wrong. They knew it was wrong to disobey God and eat from that tree. Up until now, Adam and Eve have had an intuitive knowledge of good. They have naturally done what is good, simply because it is good and because it is pleasing to God.

In eating this fruit, though, Adam and Eve will "know" good and evil in a way they never did before. The Hebrew word for "knowledge" doesn't just mean awareness--it means being enmeshed with the thing known. After eating the forbidden fruit, evil will become part of them. And they will become "like God," it says in verse 5. Which means, they put themselves in the position of deciding what is good and what is evil--regardless of what God says.

But the saddest thing about this interaction between Eve and the serpent is one word spoken by Eve: "God" (kami-sama).

Up until now in Genesis, God has been called "the Lord God" (adonai Elohim in Hebrew). But now Eve says simply, "God" (Elohim).

"Lord" signifies a profound relationship. Creator and created. The Lord and his people. The One who guides and protects and those who serve Him with praise and thanksgiving. The One who speaks intimately and those who listen with joy. The One who pours out love and those who return love.

Already at this point, Eve has lost sight of this relationship. For her, "God" is powerful, but distant. He is Someone who simply imposes rules: Don't even touch the tree!

Let's move ahead to the awful scene itself: 
  • When the woman saw that the fruit of the tree was good for food and pleasing to the eye, and also desirable for gaining wisdom, she took some and ate it. She also gave some to her husband, who was with her, and he ate it. Then the eyes of both of them were opened, and they realized they were naked; so they sewed fig leaves together and made coverings for themselves. (Gen 3:6-7)
So what happens when they eat the fruit?

As we skim over the next verses of Genesis 3, first we see Adam and Eve's relationship breaks down. Until now, the two of them have been naked but not ashamed (Gen 2:25). In other words, they were completely themselves with each other; each completely accepted the other one as they were.

But now they're ashamed to be seen as they really are. What's more, the husband-wife relationship which was one of delight and mutual service becomes an imbalanced power relationship.

The second thing we see is that Adam and Eve are terrified of God. Up until now, God and man were friends, co-workers in the garden. But no longer: "The Lord God called to the man, 'Where are you?' He answered, 'I heard you in the garden, and I was afraid…'" (Genesis 3:9-10)

Can you feel the incredible distance, the anxiety here? That's what sin does: It pulls us far away from God, and makes us afraid of submitting to His gaze, afraid of His righteous judgments.

I will skip over the next verses. But notice how Adam shifts blame to Eve, and Eve shifts blame to the serpent--people have been denying responsibility ever since. Our politicians are a shining example of this.

Finally, man is alienated from the natural world itself. Man, whose job was to manage and protect and till the soil now has to fight to dominate the natural world.
+   +   +
Once in awhile you hear someone say what happened in the garden of Eden, what's commonly called "the Fall," was somehow good or necessary. The disobedience of Adam and Eve was sort of humankind's "growing pains," the cost of gaining autonomy.

It's hard to imagine a more outrageous misreading of everything the Bible says about Eden. Scripture speaks with one voice in declaring the Fall an unmitigated catastrophe, a total dislocation of man from right relationship to God, to his fellow man, to himself and the natural world.

It wasn't that God's children grew up and left the nest. A better example would be a teenager being "scouted" and lured into a life of drug abuse, violence, and prostitution, in a city far from home.

Absolutely nothing about the sin of Adam and Eve was good or necessary. In fact, from this point on, the human story just goes from bad to worse. Adam and Eve have two sons, Cain and Abel. Cain ends up killing Abel. It gets even worse after that. So bad, in fact, that God decides to start over, using the Flood as a kind of reset button for the human race. Only Noah and his family are spared--but as soon as they get off the boat, they fall back into drunken perversion.

We are inheritors of the sin of Adam and Eve. Every day we live with the consequences of the Fall. Our world is stuck in the mire of great evil and suffering, the bulk of which is caused directly or indirectly by human selfishness and greed and violence, as well as sheer disinterest.

Do you lock your door? I do. Elder people constantly have to be warned about bank transfer frauds. Marriages are failing left and right: the divorce rate in Japan is just under 40% (50% in America!). The rich-poor gap is growing both in Japan and globally. Even though the earth currently produces enough food for every single person to have 2,720 kcal of food every day, 1 in 7 people goes hungry--mostly in Asia. There are a dozen ongoing major armed conflicts in the world and twice that many minor ones. Irreplaceable rainforests are being progressively destroyed. Every day, three endangered species disappear forever.

The Bible declares: It wasn't supposed to be like this! This is not normal! This is the result of man's lack of trust in the goodness of God, and his desire to put himself in the place of God. What's more, we are powerless to get ourselves out of this mess. What hope do we have?

On that note, I want to end by looking at the last verse in our text today: 
  • The Lord God made garments of skin for Adam and his wife and clothed them. (Genesis 3:21)
Adam and Eve have to leave the Garden. But even after all that has happened, even after they have disobeyed the only commandment they were given, even after they have demonstrated their basic distrust of God's love and gracious provision and tried to put themselves in the place of God, even if they have forever spoiled the beautiful harmony of the garden--even after all this, what does God do? Destroy them? Forget about them? Cut off all ties with them?

No. God gives them warm clothes to wear. The climate outside the garden is harsh, and Adam and Eve's fig leaves just won't cut it. So God himself acts to protect them, to keep them safe from the worst results of their sin.

Why? Because God has not changed. Adam and Eve have changed, but not God. He is the same loving Father he has always been. His children are precious in His sight. He wants nothing more than our well-being and our joy. Even when we reject God, He does not reject us.

I want to leave you with this last thought: What were the clothes made of? Animal skin. In other words, the blood of innocent creatures was shed so that Adam and Eve would be protected from the effects of their own sin.

Do you see, here at the very beginning of the story, a hint of what happens at the end of the story? Do you see that it's the blood of an innocent victim which alone saves us from the consequences of our sin?

As Paul writes: Praise to our Lord Jesus Christ, for "in Him we have redemption through his blood, the forgiveness of our trespasses, according to the riches of his grace, which he lavished upon us." (Eph 1:7-8)

2012年6月8日金曜日

合格点を得るには(使徒言行録2:1-11、ヨハネ20:19-23)

2012年5月27日・10時30分 聖霊降臨日・主教巡回日(B年)
聖路加国際病院聖ルカ礼拝堂 牧師任命式・聖餐式・堅信式


看護大学でもシーバー家でも、中間テストを迎えている雰囲気になっています。看大の学生たち、また自分の子供の勉強している姿を見て、ただ一つの思いしかありません:僕じゃなくて良かった!と。連発試験を受けることは、もう結構です。

僕は去年、看護大学で新しい評価の仕方を知りました:秀、優、良、可。その後は不合格。

今日は、「教会の誕生」とも言われる聖霊降臨の祭りなので、自分たちの評価について皆さんと考えたいと思います。この礼拝堂としての成績は、どう評価しますか?秀?優?良?

洗礼を受けている皆さん自身は、イエス・キリストに従う人としての成績は、どう自己評価します?良?優?秀?

わたしは牧師として――もう任命式が終わったからあえて言いますが――わたしは牧師として、明らかに不合格だと思います。謙遜ではなくてマジで。

「まあ、クリスチャンとして何とか合格かな」と思っている人は、キリストに従う者たちから何が求められているのか、本当に分かっているのかな、と疑問に思います。基準が分かっているかしら。イエスは山上の説教でその弟子たちに仰います:「あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」、と(マタイ5:48)。

イエスに従う者たちは世の中に大きな影響を与えるはずです。特に個人レベルで。クリスチャンに出会ったら「うわ、何この人?!?何か、すごい!」と思われるのが、本来普通の有様です。イエスは「あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである」(マタイ5:16)。周りの人がわたしたちの言葉と行動と生き方を見て、果たして天の父をあがめるようになっているのでしょうか。

イエスに従う者は神の国のために――つまり、神に喜んでもらえるように実を結ぶことが求められています。祈ると病人が治ったり。絶えず祈ったり、しかも大いなる確信を持って祈ったりする。悪に立ち向かう。世の中の偽りに流されない。自分の行動と言葉でイエス・キリストの麗しさを人に見せる。人に仕えることに熱心である。などなど。

つまり言いたいのはわたしたちの考え方は小さ過ぎるのではないか、ということです。日本では、クリスチャンであることは好みのレベルにあると思われます。趣味と同じぐらい。あるいは、教会に関わることは、自分の心の拠りどころとして、結び付きがだいぶ薄れてきた近所の代わりになるものとして考えられがちです。名前が知られて心地よい居場所。

でも聖書が示すのは、だいぶ違うイメージです。もちろん、クリスチャンであることは大いに心の拠りどころになるはず――「聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれている」(ローマ5:5)とパウロ。そしてクリスチャン同士の愛はほかのどんな絆よりも深いはず:「神のみ心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ」(マルコ3:35)。

でもそれだけではないわけです!クリスチャンであるというのは、何よりも偉大な救出作戦に加わることだ、と聖書が示してくれます。全世界の人々を暗闇の支配から、霊的な死から解放するという膨大な運動に参加するわけです。特祷にあるように「永遠の命の道を開かれる」神の働きにあずかることです。

さて、皆さんの成績はどうしましょう?このチャペルとしてどしましょう?僕自身、どうしましょう?秀?優?良?可?それとも不合格?
+   +   +
エルサレムで待機していた弟子たちを考えると、なかなか面白い。彼らはいろんな意味で「クリスチャン」と見なしていいと思います。聖書は(一応)知っている。きちんと礼拝に出る。3年間、イエスの教えを学んできた。体の復活の真実を受け入れている!イエスによる赦しを確信している。イエスを救い主として、主として受け入れているのです。

そして共に集まっている。そこに一つのコミュニティができているわけです。

しかし、これでも不十分だそうです。イエスの望みは、彼らがずっとその家に座り込むのではないそうです。いずれ派遣するつもり。でもまだ、何かが足りないのです。

まるで夜のステンドグラスのような状態。すべての部分が整っているけど、光がないから役目を果たせないという感じです。
+   +   +
ところがある日、何か不思議なことが起こりました。この小さくて弱い、方向性のない弟子たちのグループがいきなり、後にも先にも現れることのないような、世界を変えるような力強い運動の推進役に変身したのです。

何かが起こって、弟子たちはパッと行動に移り、その家を出て、世界の果てまで出掛けて行ったのです。そして3,4百年もの間で、イギリスからインドまで大勢の人々がよみがえりのイエス・キリストによる救いの喜びを経験することになったのです。

この弟子たちは歴史の流れを変えたのです。わたしたちが今日ここにいるのも、このチャペル、病院、看護大学が存在するのも、その数十人の男性、女性のおかげなのです。彼らの働きによって、暗闇に覆われている世の中で「永遠の命の道が開かれた」。

そのおかげで2,000年後、世界3人に一人がキリストのお世話になっているわけです。

いったい何が起こったのかというと、聖霊が与えられたのです。米粒より小さいエネルギーの塊りから宇宙をお造りになった神の力が注がれたのです。その力が弟子たちを「小さなキリスト」の部隊に変えたのです。(「クリスチャン」の本質的な意味)
+   +   +
日本の多くの聖公会の教会は家の中で座り込んでいるままになっている気がします。「ここは心地がいい」と言って、ずっと家にいるわけです。

でも神は、わたしたちを通して想像を超えるような素晴らしいことをなさりたいのです。しかもその素晴らしい働きを果たすための力を与えようとしておられるのです。

イエスは「わたしを離れては、あなたがたは何もできない」と仰いました(ヨハネ15:5)。夜のステンドグラスのごとき。

でも神のみ前で唯一の合格者であるイエス・キリストはご自分の力をくださろうとしておられます:「聖霊を受けなさい」と弟子たちに仰るように(ヨハネ20:22)。

神はわたしたちを通して素晴らしいことをなさりたいのです。例えばどういうことか?何か新しい委員会を作るとか、施設を建てるとか、署名運動に加わるとか新しい活動をするとか――そういう話ではありません。仕事を捨ててアフリカで宣教師になるとか、そういう話でもありません。まず。

そうではなくて、「小さなキリスト」の部隊になってほしいのです。

だから一人一人のやっていることは全く変わらないかもしれません。やっていることは変わらないけれども、その意図とその質が変わります。キリストにあって、キリストと共に、キリストの力と知恵を得てやっていくと、その意味、そのインパクトは比べ物にならないほど深くなるのではないかと思います。
+   +   +
キリストの働きに加わるための、キリストの力と知恵を得させる――これこそ聖霊の役目なのだと思います。

では、どうやって聖霊の恵みを受けることができるのでしょうか?洗礼や堅信を受けるとき聖霊の恵みを受けているはずです。でもどうすれば、その聖霊の恵みをイキイキとしたものとして受けることができるのでしょうか。一回だけではなくてずっとこれから。「霊に満たされ続けなさい」とパウロが言っているように(エフェソ5:18)。

まず、祈るべきですね。エルサレムの弟子たちは一緒に家に集まって「心を合わせて熱心に祈っていた」と使徒言行録に書いてあります(1:14)。

祈らなければなりません。そして自分の生活の中で何か聖霊の恵みを妨げることがあれば、それを告白して神の赦しをいただく必要があります。人を赦していないとか。神に喜ばれない何かと関わっているとか。そういうことがあれば、それを退ける必要があります。

そして聖霊の恵みを求めるのです。一人ででも、誰かと一緒にでも、祈って、聖霊の恵みを求める、求め続けるのです。

ただそれだけです。イエスが言われました:「天の父は求める者に喜んで聖霊を与えてくださる」(ルカ11:13)。

正式に牧師に任命された者として、僕はこれまで以上に聖霊を求めて、聖霊の助けを頼りにしなければいけないという事実を痛感しています。

ぜひ、皆さんも共に聖霊の恵みを求めていただければ、嬉しく思います。

2012年6月7日木曜日

the sadness of sin


"The Lord God called to the man and said to him, 'Where are you?' And he said, 'I heard you in the garden, and I was afraid, because I was naked, so I hid.'" (Genesis 3:9-10)

This is the great sadness of sin: It erects a wall of fear and alienation between us and God. God calls out to us as a loving Father, who made us and seeks only our good. Our sinful ears hear Him as a terrifying and dangerous tyrant. Sin makes us afraid to submit our true selves to His gaze, afraid that He will spoil our fun, put us in a straitjacket, reject us. And so the deep joy of life lived with God eludes us. How can we recover this joy?

罪の悲しみ


「主なる神はアダムを呼ばれた。『どこにいるのか。』彼は答えた。『あなたの足音が園の中に聞こえたので、恐ろしくなり、隠れております。わたしは裸ですから。』」(創世記3:9-10)

ここは「罪」の大きな悲しみがある。罪によって、わたしたちと神との間に恐怖と疎遠の壁が建てられてしまう。神はわたしたちを造り、わたしたちの最善を望んでおられる子煩悩な父親として声をかけてくださる。が、わたしたちの罪深い耳は、それを恐ろしい独裁者の声として聞き受ける。罪の影響で、ありのままの自分を神に見せたくなくなる。わたしの楽しみを台無しにする、自由を奪うだろう。わたしを拒絶するだろう、と思って。だから神と共に生きる深い喜びを見逃してしまう。どうすればこの喜びを取り戻すことができるか。

2012年6月1日金曜日

good: 1; evil: 0

For a change of scenery, I was grading papers on the steps overlooking the Sumida River (right next to St. Luke's). Building storm clouds reflected on the gray, roiling water of the canal.

Then a huge wasp showed up and I made a hasty departure. So hasty, in fact, that I left my appointment calendar on the steps. I only noticed it was gone after I got back to the office. Instant panic. Lost calendar=end of world.

I rushed back, retracing my steps, reviewing in my mind all the places I might have possibly laid the book down. Finally, I get to the steps: Nothing.

Then I notice a dog-walking couple standing close by, talking as they examined something. My calendar! I thank them profusely, resisting the urge to hug them.

I start to breathe again. As I head back to the hospital, the first drops of rain start to fall.

Fortunate? You might think so. But I prefer to think of it as a narrow victory over the Forces of Darkness that were trying to disrupt my work and make me really, really bummed. It's more interesting to see myself as involved, albeit in a very miniscule way, in an epic clash between Light and Darkness.

Besides, I have absolutely no trouble imagining wasps as agents of the devil.