2013年6月9日日曜日

まことのパワースポット、イエス(ルカ7:11-17)

聖霊降臨後第3主日(特定5、C年)
聖路加病院 聖ルカ礼拝堂
2013年6月9日年・10時30分 聖餐式


流行りというものは不思議な現象だと思う。

17世紀のヨーロッパでの「チューリップバブル」はご存知?ヨーロッパ、おもにオランダでチューリップの価格は一気に100倍上がったという有名な話がある。

日本も流行り帝国だと思う。約15年前の「たまごっちバブル」は覚えている?出荷するという噂があるだけで3日前から店の前で並んだりする光景がよく見られた。当時、日本ってどういう国だろうと思っていた。が、後で同じTAMAGOTCHIバブルがアメリカでも起こった話を聞いて何も言えなくなった。

大昔、日本におけるウサギブームはご存知?明治初期に起こった(5年ぐらいから)話である。

特に手に入れにくい、外国種の耳の長いウサギが流行したわけ。珍種のウサギは、実際一匹(一羽が正式だけど何で?!)は400円と値段のついたケースも。400円は大したことじゃないと思うかも知れないけれども、当時400円は米12t分に相当する高額だった。

あまりにも流行りすぎてしまって、ウサギに税金がかかった。ウサギの売買の勢いが止まらないから、高い税金を掛け、ウサギ熱を冷ますという狙いだった。ウサギ一匹につき、税金「1円」という法律ができた。当時の1円は米30kg。また、無許可で飼っている場合は2円の罰金!

日本では最近、パワースポットというものが流行っている。パワースポットとは何だろう。一応、地理的な場所で、そこを訪ねる人は特別な何かを感じる。何らかの力、聖なる存在、神、母なる地球など、目に見えない何かを身近に感じるという人がいる。テレビで見るとだいたい若い女性アナウンサーが「いやされる~©」というつまらないコメントをすることが多い。そういう場所。

「パワースポット」という言葉そのものは和製英語だけど、その概念は日本以外にもある。古代のアイルランド人の間で「薄いところ」という話があった。天と地との境界線が薄くなって、天はこの世にあふれ出るようなところ。

書店に行けばおそらく日本中、世界中のパワースポットを教えてくれるガイドブックがあると思う。さて、こういうパワースポットについてどう考えればいいのだろうか。

聖書によれば、神はこの世と世の中のすべてのものをお造りになった。「主の栄光は天地に満つ」と。だから世界の至るところはその造り主を示し得るわけ。世界中は神の指紋だらけになっている。

つい先週の金曜日、病院の新しい研究センター(医療イノベーション部)の部長、東大の科学者である入村先生が仰った:「地上の生き物を詳しく見れば、大きな意思の存在を感じないわけにはいかない。」

だからもしかしたら、実は全世界がパワースポットであって、普段それを認知しないだけかも知れない。いわゆるパワースポットは、天とかを垣間見れるところではなくて、ありのままの地球に気づいているところだけかも知れない。
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昔のユダヤ人にとって、エルサレムにある神殿は偉大なるパワースポットだった。パワースポットの中のパワースポット。神殿(ユダヤ教の本山)は神の住まいと呼ばれていた――実際に全能で永遠の神がそこに住み得るとは当然思っていなかったけれども、神殿で神と触れ合えると信じていたわけ。

神殿の最も奥にある「至聖所」は、神が身近におられすぎて実は恐ろしかった。至聖所には一般信徒は近寄らない。徹底的に身を清めて、ちゃんとしたいけにえを携えている大祭司一人だけが、年に一回だけ入るところだった。(「いやされる~©」のではなくて「死んじゃう!」というコメントがふさわしい!)

至聖所はパワフルすぎるところだったけれども、神殿そのものでは、神と仲直りができる場所(捧げ物を通して)。神の導きを得られる場所(祭司の指導によって)。神とコミュニケーション取れる場所(祈りを通して)。神と一緒にいることを楽しむ場所(祭りを通して)。

詩編84編はこういうことを語る:
「万軍の主よ、あなたのみ住まいは麗しい。わたしの魂は主の庭を慕い、心を込めてあなたの命を喜び歌う...あなたの庭で過ごす一日は、千日にもまさる」(詩編84:1-2, 10a)
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神殿のことを考えれば、確かに神は特定の場所で人と触れ合うことがある、ということが分かる。しかしクリスチャンにとって、イエス・キリストによって神殿への理解がかなり変わった。

イエスはサマリア地方で、ある井戸のところにサマリア人の女性とのやり取りがあった。その中でイエスは、ある地理的な場所が他の場所より神に出会いやすい考えを否定なさった。ユダヤ人にとってエルサレムの神殿こそ神と出会いやすい場だったが、サマリア人にとってはゲリジム山が聖なる場所だ。

サマリア人の女性がこういうことに触れるとイエスはこう言われた:
「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る...まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」(ヨハネ4:21-24)

霊と真理をもって礼拝しなければならない。ある「場所」ではなくて、心の態度が大事。神との正しい関わりがその条件だ、と。
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後にイエスはご自分が神殿に代わるようなものだという話をなさる:
「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」(ヨハネ2:19)ご自分の十字架の上の死と、三日後の復活のことを話しておられた。この神殿はイエスご自身。

つまり、わたし自身が一番のパワースポットだ、とイエスが主張しておられた。しかも、固定の場所に限られるのではない。イエスが国中を巡り歩きながら、神の身近な存在を痛感させておられたのである。

今日の福音書でも、ナインの人たちはそういうことが良く分かったと思う。イエスがやもめの一人息子を死者の中から生き返すのを目撃したわけである。「いやされる~©」どころか、死んだ人が生き返った!のだ!
「人々は皆恐れを抱き、神を賛美して、『大預言者が我々の間に現れた』と言い、また、『神はその民を心にかけてくださった』と言った。」(ルカ7:16)

神はその民を心にかけてくださった。これはわたしたち人間の心の奥底にある熱望である。すなわち、神に見放されず、神に見捨てられず、この地球という大きな島に置き去りにされていないで、神はわたしたちを心にかけてくださっているのだ、と。これこそパワースポットへのあこがれだと思う。一人ぼっちではない。神に、偉大なる者がわたしたちを心にかけてくださっているのだ。

その日ナインの人たちは神の憐れみと恵みを痛感したのである。彼らにとって、神は漠然の遠い存在ではなくて、すぐそこに、身近な存在であることが分かった。
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イエスは公の働きの最初に宣言された:「時は満ち、神の国は近づいた!悔い改めて福音を信じなさい!」(マルコ1:15)。後に言われる:「実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ」(ルカ17:21)。

イエスのミッション、すべての言葉と行動の目的は、この真実を世の中に示すことだった。

昔の農業電化プロジェクトに似ている。まず発電所から地域に電気を送るための巨大なケーブルを取り付ける。でも、各家はまだそれにつながっていない期間はしばらくあった。

そのとき、電力会社の者は宣教活動をした:「実に、電気の国はあなたがたの間にあるのだ!」。

そして農業の人たちはこの福音(良い知らせ)を信じて、自分の家に電気を入れさせる必要があった。そのとき、生活は永久に変わった。
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神の国はあなたがたの間にある。すでに。イエス・キリストは何よりのパワースポットである。イエスにあって、天と地の境界線が薄くなっているどころか、亡くなっている。ナインの人たちにとって、弟子たちにとって、イエスに触れられていやされ、解放されたすべての人にとって、イエスを通して天国がこの世に突入してきた。

わたしたちは神に近寄りたかったら、パワースポットのガイドは必要ではない。イエスがいらっしゃる。イエスの霊が与えられている。ある特定の場所だけではなくて、イエスにあって神がわたしたちに近寄ってくださる。
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しかも、イエスはその聖霊を教会に与えてくださっている。聖パウロはコリントに住んでいたクリスチャンに書いて:「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。」(Ⅰコリント3:16)

だから今は、教会そのものもパワースポットになっているはず。建物ではなくて、集まっているわたしたち自身。このに来れば、神に触れ合える(はず)。神の恵みと愛といやし、導きを、集まっているクリスチャンを通して痛感できる(はず)。

ここもパワースポットだし、この後解散して各自自分の生活に戻ってからも、わたしたち一人一人も小さなパワースポットになる。

考えたことはある?自分自身は、職場で同僚とやり取りしているとき、週末家族と一緒に過ごすとき、旦那さん・奥さんや友人と一緒に夕飯を食べるとき、コンビニの店員とたわいない会話をするとき――あなた自身が歩くパワースポットである。

そういうことを常に意識したら、どう変わるのだろうか。今週、イエスさまの「歩くパワースポット」として一週間を過ごしてみませんか。

2013年5月29日水曜日

築地風琴会 第3回「平和を願うつどい」 説教

1920年代、ロンドンタイムズ紙はいろいろな有名人にエッセイを依頼した。そのテーマは「世の中の何が間違っているでしょうか」という質問。

当時のイギリスの批評家、GK・チェスタートンが提出したエッセイ(手紙の形になっている)は次の通り。(全部読むが、時間は大丈夫でしょうか):
ロンドンタイムズ新聞 御中 
拝啓 
わたしです。 
       敬具 
GKチェスタートン
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世の中で間違っているのはGKチェスタートン本人だ、ということ。

世の中で間違っているのはわたしたちである。世界平和を願うことはいいんだけど、そういう現実もまず受け止めなければならない...

世の中のすべての苦悩を合わせれば、おそらくその9割ぐらいは、わたしたち人間が原因となっている。人間の欲張り、過剰消費、無知と無関心が。

毎日、予防し得る病気で数千人の子供が亡くなる。薬は十分あるけれども、行けてないだけである。

今現在、地球は世界人口の一人当たり2,700 kcalの食物を作れる。地球に住んでいる人全員のために十分の食べ物がある。にも拘らず、7人の一人は常に空腹状態にいる。昨日も今日もお腹がすいている。その大半はアジア地域に暮らしている。

そういう現実を見て見ぬふりをして日本のテレビで芸能人が一晩中レストランのメニューの全品を食べながら「お腹が痛い!」と文句を言う番組がエンタテインメントとしてあったりする。
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世の中で間違っているのはわたしたちである。

世界平和を願うことはいいんだけど、そういう現実もまず受け止めなければならない...

政府とか、よその国や国民とか、遠く離れたところで紛争を引き起こしている「悪者」をとがめるように見ながら、隣に住んでいる人は「ウザイ」とずっと恨んだり、友人を赦さないでいたり、親戚とお金のもめごとに巻き込まれたりするのであれば、とがめるべき人はだれになるだろうか。

世界平和を願いながらも周りの人との平和を実現できないわたしたちなのではないだろうか。
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世の中で間違っているのはわたしたちである。私たち人間の心が歪んでいるわけである。

人間は本来、平和の中で暮らせるように造られた存在である。

聖書では「平和」を「シャロム」と言う。このシャロムという言葉は「争いのない状態」よりはるかに深い意味を持つ。シャロムは平和、祝福、幸福、麗しさ――みんなが自分らしく仲良く、喜びと感謝をもって共に生きる状態を表す、とても素敵な言葉である。

人間は本来こういったシャロムを味わい、これを増やし、これを周りの人と分かち合うように造られた存在なのである。

でも心は歪んでいる。壊れたたるが水をためておけないと同じように、わたしたちの心はこういうシャロムを保てない。常に漏れている感じ。
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世の中で間違っているのはわたしたちである。

だから、もし平和を願うのであれば、わたしたち自身の心が新たにされるようにも祈らなければならない。壊れた心が癒されるように。

自分のことばかりを考える日々から抜け出して、神のことを思い起こして、命の源である神に感謝することをもう一度学ばなければならない。手にしがみついているものを手放して、あるいは軽くつかむことを学ばなければならない。

そして周りの人に幸せをもたらすことの中に自分の幸せを見出すような人にならなければならない。
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平和というのは、わたしたちの心から始まるものだ。心が新たにされて、神の平和を保てるようなものになるように祈っていきたいと思う。

愛のコミュニティ(イザヤ書6:1-8)

三位一体主日・聖霊降臨後第1主日(C年)
聖路加病院 聖ルカ礼拝堂
2013年5月26日年・10時30分 聖餐式

毎年、この「三位一体主日」では不可能なことをしようとする。それは、神の正体を理解しようとすることである。でも限られた人間は無限の神を理解できるはずがない。ただ、イザヤやヨハネに与えられた幻のように、イメージを通してその理解に近づくしかない。

幸いなことに、何も分からないというわけではない。神はご自身を示してくださっているから。そしてまず、神は唯一の神であることを示してくださっている。3,000年にわたって敬虔なユダヤ人は毎日こういう申命記の言葉を唱えてきた(シェマ):シェマ、イスラエル、アト゛ナイエロヘイヌ、アト゛ナイエハト゛。「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である」(申命記6:4)

神は唯一の主であることは理にもかなっていることだ。現実には一つの起点があるはず。宇宙の第一原因は一つ。すべてのものの創造者は一人いらっしゃる。神ご自身は造られざる者である。神は唯一である。

もちろん、「神」と呼ばれるものは他にもある。日本は神だらけ!でも言葉の意味は違う。「唯一の神」と「神々」の「神」を話すとき、同じ「カミ」という言葉を使うことで全く違うものを指し示していることを見失ってしまうかも知れないが、違うのである。

人間は何でも拝んでしまう。岩、木々、川、山、動物、太陽、月、先祖様、セックス、お金、権力、科学、名声。自分自身!いずれも「偉大なるもの」として拝んだりする。

でもこれらのことはみんな唯一の神ではない。これらのことは何もない状態から宇宙を造ったわけでもない。これらのことはビッグバンを引き起こしたわけでもない。「光あれ」のように、自分の言葉だけですべて存在あるものを存在させたわけでもない。
「主よ、わたしたちの神よ、あなたこそ、栄光と誉れと力とを受けるにふさわしい方。あなたは万物を造られ、み心によって万物は存在し、また創造されたからです」(黙示録4:11)

唯一の神以外にわたしたちの命の源があったり、わたしたちの運命を定めたりするものはないのである。

唯一の神はお一人。ちなみに、それは白髪のおじいさんではない!むしろ、命そのもの、絶対的な存在、時空を超越する方。神はモーセにこういうふうに自己紹介をなさった。「わたしは在る」(出エジプト3)。神お一人は現実の根底である。

イザヤの幻で、天使たちは歌っていた。「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主」(イザヤ6;3)。ヘブライ語の「聖なる」(KBD→カホ゛ト゛)という言葉は絶対的な存在というニュアンスを持っている。「聖であること・神聖」の語根の意味は「重み」となる。自立して重み=実在があるのは神だけである。神と比べてわたしたちは極めてはかない者、煙よりも軽いものとなる。神は実質のある、重みがある方。

だから神への憧れは人間の心に刻まれているのだと思う。聖なるものに近づきたいと思う傾向。命が神によるわたしたち人間は、自分の存在のはかなさをどこかで感じてしまう。そうすると、重みのあるもの、頼りになれるものを求めたくなる。本物の命、豊かな命、永遠の命を求める。つまり、神を求めるわけである。

しかし同時に、神に近づくのは恐ろしい。煙、羽根のように軽いわたしたちは、重みのある、実質のある神に近づくと圧倒されるだろうと分かっているから。

しかも神は正しい方だと分かっている。十戒や律法ではこれが明らかになるけれどもそれ以前、人間は生まれながらその心の奥底で唯一の神は正しい方だということが分かっていると思う。

神は聖なる正しい方。それに対してわたしたち人間は、煙のような軽い存在だけではなく、罪に染まっている存在である。(罪は犯罪ではなくて神の道からはずれることを意味する。)わたしたちは、余儀なく世の中の自己中心の態度や貪欲や無関心に染まっているし、わたしたち自身もそれに加担している。神に背を向けて日々の生活を送る。そういうわたしたちは神に近づけるはずがない。

だからこそ、あらゆる時代であらゆる社会や文化では、人間は神なるものに供え物をする。収穫の初穂、酒、さい銭、動物の血、昔の文化では人の血さえ奉納することもあった。

これは全部、聖なる神に接近することを許してもらうため、そして神の恵みをいただくため。神のご利益やご加護にあやかりたいからである。でも裸の自分、ありままの自分では神に近づく値打ちがないことが分かっているから、こういった価値のあるものを捧げる。
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イザヤは紀元前7世紀の預言者。幻の中で彼は天の玉座を見た。イザヤにとって、とても恐ろしい経験だったようである。
「災いだ。わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇の者。汚れた唇の民の中に住む者。しかも、わたしの目は/王なる万軍の主を仰ぎ見た」(イザヤ6:5)

イザヤはもう死ぬかと思っている。罪に染まっている自分は神のみ前に立つ値打ちがないと分かっているから。聖なる正しい神に近づいたら、自分の存在は消えてしまう。朝の霧が昇る日によって晴れていくのと同じように。

でもここで注意していただきたいのは、神がイニシアティブを取ること。イザヤがそこに居続けることができるように、神は備えてくださったのである。主の天使、セラフという火の天使のひとりが、炭火を持ってイザヤのところに飛んで来る。
「彼はわたしの口に火を触れさせて言った。『見よ、これがあなたの唇に触れたので、あなたの咎は取り去られ、罪は赦された』」(イザヤ6:7)
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神ご自身、イザヤがみ前に立ち続けられるようにしてくださったのである。

ここで「三位一体主日」の話の続きへの大きなヒントがある。神は唯一の神である――と同時に、神は単独ではなくてコミュニティである。これは教会の最も貴重な発見:唯一の神は「ただ一位ではなく、三位一体であられます」(「三位一体主日」の特別叙唱より)

三位一体とは何ぞや!要は、「神は愛である」とヨハネが言う(Ⅰヨハネ4:8)。愛は、神がなさることではなくて神の本質そのものである。愛であるならば、愛する相手は当然いるわけ。父から子への愛があり、子から父への愛があり、その相互の愛の実質は聖霊である。

だから、神は本質的に愛の交わりなのである。天地万物を、特にわたしたち人間をお造りになった一番大きな利用は、もっともっと愛を注ぐ先がほしかった、ということである。

そういうわけで、神、トコトン愛し合っている父と子と聖霊なる神は、最初からその愛の交わりにはわたしたちにも参加させようと思われたわけ。それが本来、人間の運命だった。神はご自分のもとに愛しい人間をずっと近寄らせようとしてこられた、ということ。

こういった神の本質への洞察はすべてイエス・キリストとの出会いから生まれたものだ。イエス・キリストにおいて、顔と顔を合わせて神と出会う、と教会は確信している:「父が持っておられるものはすべて、わたしのものである」(ヨハネ16:1)とイエスが仰ったいる。

わたしたち小さい人間にとって、全能で無限の神を理解することは無理だったので、み子において神はご自分を分かりやすい形にしてくださった。こういう意味でヨハネの福音書ではイエスが神の「ことば」と呼ばれる。イエスは天の父の自己表現であるのである。

わたしたちは神に近づきたいけれども、弱くて、そんな値打ちがないため恐ろしい。でもイエスにおいて、神がわたしたちに近づいてくださった。罪がわたしたちと神との間の大きな壁となっているけれども、イエスはこの壁を取り除いてくださった。

ヘブライ人への手紙では、次のように書かれている:
「わたしたちは、イエスの血によって聖所に入れると確信しています。イエスは、垂れ幕、つまり、ご自分の肉を通って、新しい生きた道をわたしたちのために開いてくださったのです...信頼しきって、真心から神に近づこうではありませんか」(ヘブライ10:19-22)

ありのままのわたしたちは、弱くて、罪に汚れている。でもイエスはその正しさをもってわたしたちを覆ってくださる。二度と神のみ前にいるのは怖くないはずである。むしろ、今はキリストによって、わたしたちはその子どもとして神に近づくことができるのである。
「時が満ちると、神は、そのみ子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました。それは、律法の支配下にある者を贖い出して、わたしたちを神の子となさるためでした。あなたがたが子であることは、神が、『アッバ、父よ』と叫ぶみ子の霊を、わたしたちの心に送ってくださった事実から分かります」(ガラテヤ4:4-6)

こういうわけで、「三位一体主日」をもって、神は愛の交わりそのものであることを覚える。そして、その交わりにわたしたちも受け入れていただける。イエス・キリストのおかげで、今も、そしていつまでも、神の明るい家に属する人となれることを喜びとして受け止めたいと思う。

カーナビと聖霊(ヨハネ14:21-29)

夕の礼拝 聖霊降臨日 2013年5月19日

今朝、使徒言行録の話があった。聖霊降臨の出来事。聖霊降臨日(ヘ゜ンテコステ)とは?家に集まっていた弟子たちの上に「聖霊」が降り、全員その聖霊に満たされた、と。

先ほど、ヨハネの福音書では、聖霊を送ることを予告するイエス。

聖書とは何?「霊」(フ゜ニューマ、ルアハ)=息、息吹、風。神の息が吹き込められること(=ちょっと口移しの人工呼吸に聞こえる!)

「イキ」=「息」、「生き」、「意気揚々」の「意気」=生命体の命ではなくて、豊かな命、イキイキとした命。つまり、聖書が言う「永遠の命」をもたらのが聖霊。

このような息が吹き込められた弟子たちは180度変わった。変えられた。脆弱で、引っ込み思案で、方向性のない集まりから、出かけて大胆にイエスの良い知らせを宣べ伝えるように変わったのである。

しかも、一時的なことではなくてずっとその後も、神の聖なる霊が内にあって、力と知恵を貸してくれることを体験する。神と共に働いてくださっている、という親近感があった。

聖霊は、ある意味でナビに似ていると思う。カーナビ・携帯ナビに目的地を入れると道を案内してくれる。間違って道からそれたら、戻るように案内してくれる。

わたしたちの目的地は天国、神のもと。顔と顔を合わせて神に会えるところ。そこまで辿り着く道を聖霊が案内してくれる。祈りの中とか、聖書を通して、また直感を通して。

でも車とかと違って、目的地ばかりが大切ではない。それに向かって進みながらやることはたくさんある。進みながら成長していく。人に仕えていく。イエスに似てくる:
「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」(ガラテヤ5:22-23)

そうなるには、イエスの掟・教えてことを守る。「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る」(ヨハネ14:21)。

聖霊はその守り方を教えてくれる。「弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる」(ヨハネ14:26)。

わたしたちはそれに協力するだけ。こうやって神は、わたしたち一人一人の周りにその国・その理想を実現していく。

難しいこと!でも例えには限界がある。聖霊はカーナビだけではなくて、力でもある。聖霊の助けを得て、周りの人たちに恵みをもたらす。自分にしか与えられていないあなたを通して、神は祝福をもたらす。

新しい教皇は言った:「心を聖霊に開き、神によって清められ照らされなければ、形だけのクリスチャンになってしまう」

聖霊に心を大きく開きましょう。

2013年1月30日水曜日

"yes" and everything else

The response to God's offer of forgiveness, mercy, and love in Christ is not something we get to make up as we see fit. It's like when someone proposes marriage. There's "Yes" and there's everything else, which is "not Yes". In Christ, God both proposes and promises love--engagement and wedding combined. The "Yes" is clearly defined in Scripture: faith (complete trust in Jesus Christ), repentence, baptism, and the intention, with God's help, to live a life of obedience (or at least try one's level best). That's it. Anything else is "not Yes". That means a "decision for Christ" is, biblically speaking, not yet a "Yes"--find some water somewhere, finish what you started! Much less is something along the lines of "I'm so thankful for the love God has shown me, and I will try never to forget this feeling of gratitude." That's a "not Yes." You're flattered, but your Suitor is still on His knees, waiting.

「はい」と「はいではない」

キリストにあって提案されている神の赦し、憐れみ、慈しみへの応答は、わたしたちが好きなように考えられ得るものではない。結婚のプロポーズに似ている。プロポーズに「はい」か、それ以外「はいではない」か、どちらかである。神はキリストにあって愛を提案し、愛を約束なさる――婚約と結婚が一緒になっている感じ。それに対する「はい」は、聖書によって明らかになっている。すなわち、信仰(キリストへの全きの信頼)、悔い改め、洗礼、そして、神の助けによって、一生神に従う意図(少なくとも、神に従うように励む意図)。それだけである。それ以外のことは「はいではない」ことになる。だから「信仰の決断」は聖書的に言うとまだ「はい」にはなっていない。どこか水があるところに行って、始まったことを最後までやりなさい!まして「神が示してくださった愛に感謝している。このありがたさを忘れないでいこう」というような返事は、「はい」にはならない。あなたはうれしく思うかも知れないけれど、求愛する方はまだあなたの前でひざまずいて、待っておられる。

2012年12月5日水曜日

我々のアルファとオメガ


(ダニエル書7:9-14,黙示録1:1-8,ヨハネ18:31-37
聖霊降臨後第26主日(B年)
聖路加国際病院聖ルカ礼拝堂
2012年11月25日・10時30分 聖餐式

来週は降臨節(クリスマス前の4週間)、教会暦で新しい年の始まり(C年)。今日は、「降臨節前主日」、一年の最後の日曜日。伝統では、「王なるキリスト主日」。この日は、イエスがわたしたちの王である、実は全世界の王であることを覚える。

今日の「特祷」から:
「永遠にいます全能の神よ、あなたのみ旨は、王の王、主の主であるみ子にあって、あらゆるものを回復されることにあります。どうかこの世の人びとが、み恵みにより、み子の最も慈しみ深い支配のもとで、解放され、また、ともに集められますように...」

旧約聖書のダニエル書と新約聖書のヨハネの黙示録は数百年で分かれているけれども、両方はapocalypsis(黙示)というジャンルになる。apocalypsisとは、「隠れていたことが打ち明けられる」という意味である。

この両方の書物は人間が置かれている状況の隠れている真相を明るみに出そうとしている。人生の舞台裏を見せる感じ。両方は、まことの神への信仰のために迫害を受けている人(ユダヤ人と初期教会のクリスチャン)に向かった書かれた。ダニエル書もヨハネの黙示録も、希望に満ちているものである。なぜかというと、かの日神が現れて、いろんな苦難や罪悪を引き起こすこの世での権力者を打ち負かせてくださることを待ち望むからである。
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ダニエル書の設定。ギリシャの王アンティオコスがエルサレムの神殿をけがした(その真ん中にゼウスの像を建てて祭壇で豚をいけにえとして捧げた、12月25日に!)など、ユダヤ人を律法から引き離そうとした。抵抗した大勢のユダヤ人は拷問や処刑を受けた。

こういう暗い、大変つらい中、ダニエルは言う:「夜の幻をなお見ていると、見よ、「人の子」のような者が天の雲に乗って」来られた!と(ダニエル7:13)。

イエスは、しばしばご自分のことを「人の子」と呼ばれたが、これは意図的にこのダニエル書の話を連想させようとしておられたようである。まさにイエスは「日の老いたる者」――つまり、天の父――の前に進み、天の父から「権威、威光、王権を受けられた」のである。そして実際にイエスの王国、その支配は、他のどんな国と違って「とこしえに続き、その統治は滅びることがない」(ダニエル7:13)。

イエスを処刑したのは、ローマ帝国だったが、今になってローマ帝国は歴史の教科書にしかないものになってしまったけれども、イエスがお立ち上げになった教会は今でも存続している!

イエスご自身が言われた:「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」(マタイ24:35)。イエスの国は不滅で永遠なものである。
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ヨハネの黙示録も、ダニエル書と非常に似ている状況の中で書かれたものである。初期の教会はローマ帝国の各地で激しい迫害を受けていた。大勢の人が投獄されたり、殉教したりして、クリスチャンはこっそりと集まらなければならない状況だった。

ヨハネの黙示録はこの「地下教会」に送られた書物である。押さえ付けられているクリスチャンを勇気付けるために書かれた。たくさんの旧約聖書への言及や抽象的なイメージを使っているので、クリスチャン同士には分かっていたけど外に人には意味不明。

2千年後、さまざまな研究のおかげでいろんな難しい意味が分かるようになってきたけれども、未だに推測するしかない部分がある。(だから非常に偏った解釈が生じたり、21世紀の事柄の枠の中に無理やり押し込めようとすることがある。)

先ほど読まれた1章の部分はイエスへの賛美歌:「死者の中から最初に復活した方、地上の王たちの支配者!」(黙示録1:5)そしてダニエル書のまねして:
「見よ、その方が雲に乗って来られる」ので「すべての人の目が彼を仰ぎ見る、ことに、彼を突き刺した者どもは」(黙示録1:6)つまり、十字架にはりつけにさせた人たち。

また、「地上の諸民族は皆、彼のために嘆き悲しむ」と書いてある。これは、イエスの苦しみへの憐れみでもあるけれども、自分たち自身がその苦しみに加担したという罪悪感を抱くという意味でもある。イエスはわたしたち全員の罪のために十字架で死なれたのである。誰も「自分とは関係ない」と言える人はいない。

しかしイエスが仰る:「わたしはアルファであり、オメガである」(黙示録1:7
これはギリシャ語のアルファベットの最初と最後の文字。始まりと終わり。イエス・キリストは、すべてのもの、すべての命の源である。アルファ。神のみ言葉であるみ子を通して、すべてのものが造られたのである(ヨハネ1:3)。

そしてオメガでもある、この世の、人類の歴史の目的である。人間すべての経験、すべての出会い、すべての夢、すべての達成したことは、イエスのもとに置かれている、イエスにあって理解できる。アウグスチヌス:「主よ、わたしたちをご自分のためにお造りになったので、わたしたちの心が主のうちに憩えるまで決して憩うことができない」

こういう意味でイエス・キリストはわたしたちの王である。わたしたち人間の生きる意味はイエスにある。わたしたちのアイデンティティはイエスにある。
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ヨハネの福音書は全く違う設定になる。ヨハネの福音書では、イエスが夜中逮捕され、つるし上げられ、ご自分を神と等しい者だという冒涜という死刑に値する罪において有罪とされた。しかしユダヤ人には死刑を実行する権限が許されていないため、イエスがローマ帝国の当局に引き渡される。

こういう経緯でイエスがパレスチナの総督であるポンティオ・ピラトの前に立たされておられるのである。「お前がユダヤ人の王なのか」とピラトが聞く(ヨハネ18:33)。貧しい服を着て、すでにたたきのめされているイエスをバカにしているように聞こえる。

ところがイエスの答えは静かな威厳を放つ:「あなたは自分の考えで、そう言うのですか。それとも、ほかの者がわたしについて、あなたにそう言ったのですか」(ヨハネ18:34

つまり、あなたは利用されているのではないか、とイエスが仰っている。しかも、ローマの法律で必要とされる証拠を求める聞き方でもあった。

ピラトは普段、ユダヤ人からこういう話し方をされなかったせいか、ムカッとする。「俺はユダヤ人かよ!お前の同胞や祭司長たちが、お前を俺に引き渡したのだ。いったい何をしたのか。」(ヨハネ18:35

「いったい何をしたのか。」簡単に答えられない質問だね。

ベツレヘムの家畜小屋で生れたときから始まって、また大人になって数え切れない人を癒したり、慰めたり、励ましたりして、暗闇の力の虜になっている人を解放したりして、神の愛の国を力強く、分かりやすく教えたりして来られたイエス。そしてついに苦しみを受け、これから命をささげ、またよみがえられるイエス。すべて愛のために。

だからイエスはピラトの質問に答えず、ご自分がどのような王であるかを話される:
「わたしの国は、この世には属していない。」全く違う次元のものである。この世的、政治的な国だったら「わたしがユダヤ人に引き渡されないように、部下が戦ったことだろう」(ヨハネ18:36

でもイエスのために戦っている人は誰もいなくなってしまった。みんな恐怖と混乱に襲われて逃げてしまった。でもこれも神のご計画に入ることでもある。こういう意味でもイエスの国は全く違う次元のものである。ピラトでさえコントロールできない次元である。

イエスの返事にちょっと驚いたピラトはもう一度聞く:「それでは、やはり王なのか」。イエスはの答えはなぞなぞに似ている。「わたしが王だとは、あなたが言っていることです」

そこでイエスにとってその王であることはどういう意味を持つのか:
「わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。」

イエスの支配は、トップダウンではない。法律や軍事力や強制力によるものではない。特祷にあるように「み子の最も慈しみ深い支配」なのである。人々の心の目を開き、生きることの本当の意味に気づいてもらうことによって影響を及ぼされるのである。自分の命の尊厳、他人の命の尊厳、世界全体の尊厳に目覚めさせるのである。

こうやってイエスは人の心を治めるのである。イエスは2千年間、そして今現在世界の3分の一の人の王となっている。「真理に属する人は皆、わたしの声を聞く」(ヨハネ18:37

イエスを王として認め、従うというのは、イエスの世界観を共有し、神と共に生きる命へのヴィジョンに賛同して、イエスと同じ目的を持つ、ということである。

しかもイエスに従う人は、思いがけない解放感を得る。以前イエスは仰った:
「あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」(ヨハネ8:32)。

キリスト教の信仰は束縛ではない。イエスに従うことは自由を失うのではない。「完全な自由は主に仕えることにある」と朝の礼拝の祈りがある。王の王であるイエスの目を通して真理を見て、その真理を豊かな生き方の基盤として受け入れた人こそ、自由人なのである。「わたしが来たのは、[彼ら]が命を受けるため、しかも豊かな命を受けるためである」(ヨハネ10:10)、そして「真理はあなたたちを自由にする」(ヨハネ8:32)とイエスが教えてくださる。

こういうわけで今日、王なるキリストを覚える日である。イエス・キリストはわたしたちの王だけではなくて、すべての人の王である。真理は一つだからである。イエスはアルファでありオメガである。「王の王、主の主であるみ子にあって、あらゆるものが回復される」

イエスについて行く人は、真理と愛の神のもとにたどり着き、心の平安を得る。「わたしたちの心が主のうちに憩えるまで決して憩うことができない」