2011年12月29日木曜日

言えること、言えないこと

病院のブレストセンター年末「まとめの会」における、この一年間で亡くなられた患者さんのために一言祈るように頼まれた。

喜んで引き受けた。が、その祈りの内容でちょっと戸惑うことがあった。すなわち、イエス・キリストを主、また救い主として受け入れていなかった人のために、どう祈ればいいか、ということ。

わたしにとって新しい問題ではないが、いろいろ考えさせられた。祈祷書の殆どの祈りは信徒の逝去を前提に書かれている。一つだけ「洗礼を受ける機会がなかった者のため」というものがある。
万民の主、全能の神よ、洗礼によってみ子イエス・キリストの死とよみがえりにあずかる機会を得ないでこの世を去った人たちを顧みてください。どうか主の深い慈しみのうちに彼らを守り、主の全きみ旨を成し遂げてくださいますように、み子、救い主イエス・キリストによってお願いいたします。 アーメン
いい祈りだと思うけど、病院の会議という設定で、患者さんと同様にその場にいる殆どの人たちもノンクリスチャンだし、わざわざ洗礼を受けたか受けなかったかという話をするのは、ちょっと乱暴すぎるかな、という気がする。

でも内容は適切だと思う。つまり、聖書を大事にする教会では、ノンクリスチャンの最終的な行く先について言えることと言えないことがある、ということ。

まず言えること、そして大きな声で言うべきことは、これである:

「神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます」(1テモテ2:4)
だから、どんな状況でも、神の憐れみに信頼をかけることができる。神のみ心は、すべての人々が救われることだ、ということ。そのために神は、どのタイミングでどの方法でその人その人に働きかけてくださるかは、計り知れないものだと思う。でも、一人一人の人が救われる、真理を知るようになることは、神が望んでおられることだということは確実である。

が、しかし、だからと言って、すべての人は無条件に救われるかというと、それはやはり否定しなければならない。イエスご自身はその可能性を否定なさったのである。
「そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分ける」(マタイ25:32)

さらに...
  • 「わたしのこれらの言葉を聞くだけで行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家に襲いかかると、倒れて、その倒れ方がひどかった。」(マタイ7:26-27)
  • 「イエスは言われた。『わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない』」(ヨハネ14:6)
  • イエス・キリストの「ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」 (使徒言行録4:12)
ほかにもたくさんある。しかも、上記の「すべての人々が救われることを望んでおられる」というみ言葉の引き続きはこれである:
「神は唯一であり、神と人との間の仲介者も、人であるキリスト・イエスただおひとりなのです」(1テモテ2:5)
 
だから?救いはイエス・キリストによるものである、と言わざるを得ない。イエスを主、救い主として受け入れる人は「神の子となる資格が与えられ」(ヨハネ1:12)、「永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている」(ヨハネ5:24)のである。

それなら、ノンクリスチャンには、果たして望みはあるだろうか。

もちろん、ある!イエスはすべての人の罪のために命を捧げられた。そして:
「神は、その独り子をお与えになったほどに、[この]世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神がみ子を[この]世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、み子によって世が救われるためである」(ヨハネ3:16-17)

結局、わたしたちすべての人の望みの根拠になるのは、神の慈愛のほかならない。

自分の正しい生活とか、何かの決まり文句を一度口にしたことがあるとか、誰かが頭の上に水を注いだことがあるとか、そういうことが天国へのフリーパスになり得ない。

神の驚くべきほど大きな大きな愛の恵みによって、そしてイエス・キリストを通して、人は救われ得るのである。

その恵みが過去、現在、また将来存在するすべての人一人一人に明らかに促されるときがある。そのタイミングは、何とも言えない。生きている間だの、死という区切りを迎える瞬間だの、死んでからのどこかだの、人間には分からないことである。

だから、亡くなった患者さんのためにもちろん祈れるし、祈るべきだと思う。神の慈愛を確信して、そのみ手にゆだねるべきである。すべての命を授かってくださった神は、必ずその命の上に全きの愛のみ胸を行いますように!

ちなみに、ブレストセンターの祈りは次のように考えてきた。いかがでしょうか。
ブレストセンター逝去者記念の祈り
全能の神、すべての命の源である主よ、この世においても次の世においても、主の憐れみと慈しみは絶えることはありません。わたしたちがその治療に関わってきた患者さんのために、主は、わたしたちが求めたり、思ったりすることすべてをはるかに超えて世話してくださっていることを知っています。神よ、特にこの一年間で亡くなられたブレストセンターの患者さんを覚えて祈ります(ことに___)。この患者さんを初め、世を去ったすべての人をその創造主、また救い主である神のみ手にゆだねます。主の限りない憐れみと知恵と力をもって、彼らの上に主の全きの愛のみ旨を成し遂げてください。主イエス・キリストによってお願いいたします。 アーメン 

2011年12月28日水曜日

our citizenship is in heaven (Philippians 3:20)

I am a huge fan of Brooke Fraser, a young kiwi singer who is also an articulate and passionate Christian poet. In her spare time, she also gets access to clean water for dozens of impoverished communities in Ethiopia and advocates for Rwandan children. You know, that sort of thing.

I've been thinking recently of her "C.S. Lewis Song." In it, she does an astonishingly good job of condensing and putting to music one of Lewis' arguments for God, heaven, faith: namely, that our desire for something higher, better, more permanent, etc. implies the reality of the object of our desire.

Just as the ability to feel hunger and want food implies the existence of food, our longing for union with God, heaven, divine joy implies the existence of those things.
If I find in myself desires nothing in this world can satisfy,
I can only conclude that I was not made for here
If the flesh that I fight is at best only light and momentary,
then of course I'll feel nude when to where I'm destined I'm compared

In other words, it makes no sense for us to have an ingrained desire for something that has no objective reality.

I think atheists would agree: Yes, it makes no sense. It is senseless.

But it takes a lot of blind faith to believe in that degree of senselessness. I'll stick with the much more likely probability that the desire has a real relationship to the thing that can satisfy the desire.

And so if all our money and material comforts can't satisfy us, if success can't satisfy us, if even romantic love and family don't entirely fill up the hole in our hearts, it must be because the hole is God-shaped.

Of course, Lewis was taking his cue from St. Augustine:
"You have made us for yourself, Lord, and our hearts are restless until they rest in you."
But maybe I'm most psyched by the fact that Brooke Fraser knows Lewis and likes him enough to write a song about one of his ideas. He would be well chuffed* to know that--in fact, I imagine he is.

My admiration has almost nothing to do with the fact that she is also stunningly beautiful...

* "chuffed" is New Zealand slang for "pleased and excited"

2011年12月27日火曜日

hopes expressed and realized (Luke 2:15-21)

"On the eighth day, when it was time to circumcise the child, he was named Jesus, the name the angel had given him before he was conceived." (Luke 2:21)
In biblical culture, the naming of a child expresses hopes for the child's future. The kind of character he will have, the kind of things she will accomplish, what kind of road he will travel. And, what kind of world she will live in. The name "Jesus," which means "God saves," was easily in the top five ranking of popular baby names at the time. That's how much the people of God awaited the day of salvation. At first, only Mary and Joseph and the shepherds knew that the salvation of the world had appeared in Jesus of Nazareth. But from them, eventually this good news would spread to the whole world.

希望とその実現(ルカ2:15-21)

「八日たって割礼の日を迎えたとき、幼子はイエスと名付けられた。これは、胎内に宿る前に天使から示された名である」(ルカ2:21)
聖書文化では、新生児の命名はその子の将来に対する期待を表わす。どういう性格を持ち、どういう業績を上げて、どういう道を歩んで欲しいか。そしてどのような世の中で生きて欲しいか。「主は我々を救う」を意味をする「イエス」という名前は、当時の『赤ちゃんの名前ランキング』のトップファイブに入るぐらい大人気だった。それほど神の民が救いを待ち望んでいたのである。ところがある日、その救いが実際に現われた。最初、ナザレのイエスが神からの救い主だと分かったのは、母マリアとヨセフと羊飼いたちだけだった。しかし、やがてそれが全世界に知られるようになっていく。

2011年12月24日土曜日

愛に強いられて(ヨハネ3:15、イザヤ53:4-5)

クリスマス・イブ礼拝
2011年12月24日(土)午後7:00
聖路加国際病院 聖ルカ礼拝堂


クリスマスについて一言お話させていただきたいのですが...その前に、キリスト教を代表して日本の皆さんに向かって、イエス・キリストの誕生日をこんなに盛大にお祝いくださって、心から御礼を申し上げたいと思います!素晴らしいですね。

毎年、日本ではクリスマスがどんどんにぎやかになってきている気がします。イルミネーションだの、クリスマスコンサートだの、パーティーだの、そしてもちろんあっちこっちの店のビッグセールがあります。先週、友人がたこ焼きを買いに行ったら、たこ焼きの「クリスマスパック」なんてあったらしいです!わざわざイエスさまのためにそんなのを...

まあ、正直、何でここまで盛り上がっているかちょっと分からないのですが、教会では、クリスマスという祭りを大事にするのは、キリストの誕生によって、人間は何であるか、神は誰であるか、生きることの意味は何であるかについて大事なことが示されるからです。
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でもまずちょっと違う話をさせていただきます。2-3ヶ月前にある女性と出会ったら、彼女からとても不思議な話を伺いました。(実は、今夜いらっしゃるかもしれません。)ご本人から許可をいただきましたので、少し分かち合いたいと思います。

この女性は脳腫瘍があると診断され、大手術を受けることになりました。手術自体は約10時間かかりました。後で分かった話しですが、手術中、2回も命がとても危なくなったそうです。

でもご本人の経験は全然違いました。ご本人は、麻酔で意識がなくなった後、気づいたら、光に包まれて手術台から浮かび上がっていると言うのです。自分がいる場所は広大な大聖堂のようなところで、壁と天井は真っ白。

そして彼女はどんどん天井に近づいていきます。下を見ると、実は天使に運ばれているのだと分かります。天使は体に触ってはいないけれども、持ち上げているのです。

そして天井が開きました。すると、見よ、上にとても明るい、暖かい空が広がっています。そして彼女は高く上がれば上がるほど、体のすべての痛み、心の辛さ、すべての不安と悩み、すべての苦しみが消えていってしまいます。すべての苦悩から解放されるのです。そして、彼女には分かりました――その明るい空に立ち昇れば、この上ない幸せになるのだ、ということ。

彼女はもう行きたくて仕方がありませんでした。何も怖くなかった、と仰るのです。

ところが、そこでご自分を待っている家族のことを思い出しました。彼女のことを大事にして、手術をとても心配してくれている人。お別れをしたらとても悲しむ人。彼女は、彼らの悲しい顔が見えました。

そこで、もう帰らなくちゃと思ったわけです。心配になって。そして見ていた場面が消えると、気が付いたときには術後室にいました。
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この話を伺ったとき、この人は愛に強いられてこの世に戻ってきたのではないかと思いました。

とても感銘を受けた話です。でも似ているようなことはほかにもあると思います。誰かを愛するとき、自分自身にとても強い「けん引力」がかかってしまうのだと思います。親しい人、特にその人が困っていたり、不安になったり、痛みを覚えたりすると、わたしたちは愛に強いられてその人のところに引っ張られるようなことがあると思います。

小児病棟でも、こういうことがよく見られます。白血病と闘っている子どもの病床から離れることのできない父親、母親がいます。自分たちの健康に気を使わないことが多いので、注意しないといけません。

緩和ケア病棟でも見られます。時折、長い間重い病気と闘ってきた人は、「もう行ってもいい」という思いがあります。でも同時に、未だに大事な人のところに思いが寄せられています。残された人のことばかり心配しています。

日常生活でも、もっと小さなところで同じことがあります。子どもが転んで怪我したときとか、親しい人が悩んでいるとき、苦しんでいるときとか。近寄りたくなるのです。手をつないだり、抱っこしたり、何か言葉を掛けたりしたい。どうにかして慰めてあげたい。良くしてあげたい。

わたしたちもこのように愛に強いらることがあるのです。
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人生の最もつらいことの一つは、良くしてあげたいけれどもどうしようもできないことです。大事な人が慰めを、癒しを必要としているのに、わたしたちはそれを与えられないこと。

それは、単純にこちらには助ける能力がない場合もあります。あるいは、その人から距離的、もしくは精神的に離れていて、相手がわたしたちから助けを受け入れる状況ではない場合もあります。

でも助けてあげたい気持ちは変わりません。こういうときに、人はたまにはすごいことを言います。
「できれば主人の代わりにわたしが上司の怒りの矢面に立ちたい。」
「その人は君ではなくて僕に八つ当たりをすればいいのに...」
「子どもに代わってわたしが癌になりたい。」
「彼女が助かるなら、わたしはもう、死んでもいい...」

このすごさが分かります?つまりそういう人は、愛する人のためなら困難を選ぶ。自ら進んで苦しみを受け入れる。命でさえ惜しまない姿勢を取ろうとしています。できることなら立場を交換したいのです。

人間の愛って、本当にすごいものだと思います。そこまで愛に強いられることがあるのです。

もちろん、残念ながら人と立場を交換することはあまりできません。殆どの場合は、人を救う力がわたしたちにはないのです。

ただ一緒にいて、共にいることで慰めて支えることしかできないのです。
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聖書によれば、人間は神にかたどって造られた。神の姿に似せて造られているのだと言うのです。

逆に考えれば、人間の性質・本性は神の性質・本性の影に過ぎないわけです。意思の自由とか、自分自身を意識していることとか。何よりも愛し得ること。これらの「人間らしい」性質は神の性格を示唆しているものだという話です。

それなら、もし小さくて不完全な人間は、時折このような偉大な愛を示すことができるのであれば、神の完全な愛は遥かに偉大なものだと考えざるを得ないと思います。

わたしたちは、親しい人が怖くなったり、悲しんだり、苦しみ悩んだりするとき、近寄らなければならないと強く感じます。まして神は、不安、悲しみ、苦悩に暮れているこの世の人たちをご覧になるとき、どういう思いがあるのでしょうか。

聖書は言います:「神は、その独り子をお与えになったほどに、[この]世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神がみ子を[この]世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、み子によって世が救われるためである」(ヨハネ3:16-17)
  
神のみ子がこの世に来られたのは、苦しみ悩んでいる人たちと共にいるためでした。つまり、わたしたちすべての人間です。わたしたちみんな、ある程度この世の悲しみ、悲劇に巻き込まれているのです。争い、暴力、欲張り、病気、貧困問題がはびこっている世界、しかも大勢の人々の苦痛に無関心でいられる人の心のむなしさに満たされている世界に生きている限り、これらのことにある程度巻き込まれてしまうことです。

神は、愛を込めてお造りになった人たちがこういった困難、困惑に打ちひしがれているのを見ていられなかったのです。神も愛に強いられて、わたしたちに近寄り、共にいることによって慰めることを決められたのです。

イエス・キリストは近寄ってくださる神の愛そのものです。実は、イエスの一つの呼び方は「インマヌエル」となっています。その意味は、「我々と共にいてくださる神」なのです。

でもクリスマスはそれだけの意味ではありません。神のみ子は、わたしたちと共にいるだけではなくて、わたしたちの苦しみを共有するために来られたのです。

キリストは天の計り知れない喜びを脇において、わたしたちの苦悩をご自分のものにして、同じ人間として、人類の一員として同じ生涯を送るために来られたのです。

クリスマスはキリストの誕生を記念する日ですが、やがて十字架の上でそれは重大な局面に達しました。その最期の日、イエスは苦しむ人間と完全に一体化されたのです。腐敗した当局から迫害を受け、仲間に見捨てられ、拷問を受けて十字架にはりつけにされました。生まれたときよりも全く頼りない。体を動かすことすらできない。自分を助けることもできないのです。

しかもこれこそ、イエスがお選びになった運命でした。避けようとしたら十分避けられました。でもそうなさらなかったのです。どうして?愛に強いられていたからです。イエスは困難を選び、自ら進んで苦しみを受け入れ、命でさえ惜しまれなかったのです。それは、わたしたち人間を救うためでした。

そうなんです。つまり、わたしたちがしてあげたいと思ってもできないことは、イエスにはできました。それは、わたしたちと立場を交換することです。ヘンデルの「メサイア」に出て来る預言者イザヤの言葉(53:4-5)は次の通りです:
彼が(=神がお遣わしになった救い主が)
担ったのはわたしたちの病
 彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに
 わたしたちは思っていた
 神の手にかかり、打たれたから
 彼は苦しんでいるのだ、と。 
彼が刺し貫かれたのは
 わたしたちの背きのためであり
 彼が打ち砕かれたのは
 わたしたちの[迷っている心]のためであった。
彼の受けた懲らしめによって
 わたしたちに平和が与えられ
 彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。 
クリスマスは、神のみ子、この世に派遣された救い主の誕生日をお祝いする祭りです。イエスは「我々と共にいてくださる神」なのです。苦しむとき、怖いとき、つらいときなど、いつどこでもイエスは共にいてくださるのです。

でも、クリスマスのもっと深い意味は、キリストがわたしたちを解放することができる救い主だということです。罪や罪悪感の重荷から解放できます。むなしい世の中に生きる不安と悩みから解放できます。そして大きな慰めと平安を、今、部分的に、そしてやがて完全にもたらしてくださるのです。

今夜わたしたちは天から降って来た愛、わたしたちから離れていられなかった愛をお祝いしています。わたしたち一人一人に近寄り、いやしてくださる愛を感謝し、お祝いしているのです。

2011年12月22日木曜日

神の積極的な治療法

聖路加国際病院クリスマス礼拝
2011年12月20日(火)午後6時
ベンジャミンホール(スターバックス前)


クリスマスは楽しいですね。こうやってパーティーをするし、街角にイルミネーションがあり、サンタさんもプレゼントもあります。

でもそもそも何を祝っているのかというとやはりイエス・キリストの誕生です。

でも、だから何?と問わなければならないと思います。それで...?
今年は、先ほど読まれたイザヤの「彼の受けた傷によってわたしたちはいやされた」という言葉に非常に感銘を受けました。

クリスマス、イエスの誕生は、この世に対する神の積極的な治療法だった、というふうに考えてもいいのではないかと思いました。

病んでいるこの世をただ見ていられない神が、クリスマスという形で対応なさった、ということです。

病んでいる世の中の病状としては、2千年前も今もあまり変わらないと思いますが、各地の争い、暴力、虐待、欲望、貧困問題などなど。またこれらの人の苦しみへの無関心。そして、病気、深い不安、死そのものと死に対する恐怖。

これらのことは、神にとって耐えられないほど悲しいことです。

これは深刻な問題だ、と神は診断して、そこでわたしたちの苦しみ、悩み、悲しみに対して神は思い切った治療法を決められたのだということです。

その介入は、イエス・キリストと呼ばれる方の誕生...

これは、外科的な介入よりも内科的な介入と言った方がいいと思います。つまり、神のみ子が「わたしたちの間に宿られた」(ヨハネ1:14)のです。中から働きかける治療だったのです。み子を派遣することによって、神は問題の核心を突こうとされたのです。
それは、世の中のさまざまな困難、苦難、困惑のおもな原因となる人々の病んでいる心に直接取り組む方法でした。だからイエスの働きは:
  • 人々を自己本位的な思いから解放すること
  • 神から離れている心を立ち帰らせること
  • 日々の感謝を妨げる体や心の病気を治すこと
  • 社会から仲間はずれされている人の友達になること
こうやってイエス・キリストは、またその弟子たち、またその弟子たちの弟子たちは、少しずつ、一人一人の心、一つ一つのコミュニティの本来の姿を取り戻していったわけです。

これは病んでいるこの世に対する神の積極的な治療法だと思います。

わたしたちも、この治療法に参与する恵みが与えられています。この病院はイエス・キリストの働きを果たすために存在しているわけです。この病院に関わっている一人一人の人として、病んでいる世の中を少しずつ良くしていくように呼び集められているのです。

この大事な働きを果たしていこうとするときに、最もうまくいく方法は、今日、わたしたちがその誕生日をお祝いしているイエス・キリストの助けを頼りにしながら、祈りながら頑張っていくことだと思います。

そういう思いを込めて皆さんに心からMerry Christmasを申し上げます。

2011年12月18日日曜日

必ず約束を守る神(イザヤ書42:1-12)

降臨第4主日 夕の礼拝

好きなアメリカンドラマの一つ:CSIマイアミ。警察の科学捜査の話。好きな理由の一つ:捜査本部長である主人公はまさに「正義の味方」。とても頼もしい人。いったん何か約束したら、必ずそれおを守るということが分かるから。

助けを求めに来る人に「必ずこの問題を解決するぞ」や悪いやつに「お前を捕まえるぞ」と言うと、間違いなくそれを成し遂げるのです。

それを知っているから、彼がそういう発言をするとき、言葉に非常に重みがある。また、ホッとする。彼がそう言うならきっと大丈夫。

こちら見ている人もそう思うけど、ドラマの中の人たちは何となくそれを直感しているような演技をする。

彼は必ず言ったことを守るような男だから、きっと大丈夫。言っただけで、希望が沸いて来る。今の困難から抜け出せるときが近い。あるいは悪いやつに天罰が下る日が近い!

そのとき、見た感じでは、何も変わっていない。けど、見る目が変わっている。約束があるから。
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でもそれはテレビで、現実の世界では、そういう頼もしい人は少ない。約束したら、必ずそれを守る、成し遂げる人は果たしているのでしょうか。

政治家はどうでしょう?政治家は基本的に自分の立場を守るのに必死になっている。そのために何でも約束する。しかも、自分の力で(あるいは国全体の力でも)どうしようもできないことに対してまで約束したりする。

頼もしくない、全然。

企業はどうでしょう?企業はCMとかでは、ものすごいことを約束する。この車を買ったら幸せになる。この商品を手に入れると人生は充実になる。ハワイで旅行したらロマンスを体験できる。

もちろん、嘘ばっかり。

結婚式でも偉い約束をしてもらっているけど、実際はどうでしょう。
「幸いなときも災いのときも、豊かなときも貧しいときも、健康なときも病気のときも、あなたを愛し、あなたを敬い、あなたに仕え、あなたとともに生涯を送ります」とだって。

最後までこれがずっとできる人はそんなにいない気がする...神の助けを得ながら、何とかなれるかもしれませんが、ずっと、むらなく、相手をそういうふうに大事にできる人は、いる?

アメリカの離婚率は5割になっている。日本は4割弱だそうです。離婚まで行かなくても、十分にこの大きな約束を守れる夫婦はそんなに多くはないと思います(自分を含めて!)
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ところが、神はいったん約束をなさったら、それを絶対守ってくださる、と聖書は一貫して教えてくれる。捜査本部長よりも遥かに頼もしい方です!

そして神はイザヤとかに一つ大きな約束をなさいました。それは、救い主を送るぞ、ということ。
「見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。わたしが選び、喜び迎える者を。彼の上にわたしの霊は置かれ/彼は国々の裁きを導き出す。」(イザヤ書42:1)

この派遣される「僕」の仕事は何でしょう?光として立ち上がること。そして、「見ることのできない目を開き/捕らわれ人をその枷から/闇に住む人をその牢獄から救い出す。」(イザヤ書42:6-7)

そしてその対象は?全世界です。「地の果て」まで、「島々」「諸国」「地の上に住むすべての人々」に、神は心を止めてくださっているのです。
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そしてついに、約束のとおり、神は救い主を与えてくださいました。クリスマスはそういう話です。神はご自分のみ子を送ってくださいました。

イザヤに与えられた言葉は、再びイエスの洗礼の場面で語られた:
「『見よ、これはわたしの愛する子、わたし喜び迎える者』と言う声が、天から聞こえた」(マタイ3:17)

そしてイエスがその「神の国運動」を始めようされたとき、ご自分のふるさとのナザレに帰られてこういう宣言をなさいました:
「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、/主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、/捕らわれている人に解放を、/目の見えない人に視力の回復を告げ、/圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。」(ルカ4:18-19)

それはイエスのミッションでした。イザヤとかで示された神の約束を成就することがイエスのミッションでした。

そしてイエスも、一つの大きな約束しました。それは、聖霊を通してご自分に結ばれている人たちと共にいてくださる、ということ。

これは教会そのものです。イエスに結ばれている、イエスと共に生きる人たち。

そしてこのことによって、イザヤに授けられた約束はどんどん実現されて来たわけ。今日に至るまで、地の果てまで、島々、諸国、地の上に住むすべての人々に――この日本という島に住んでいるわたしたちにも、愛の光がもたらされています。

今でも、「見ることのできない目を開いて」、人生に迷っている人、道が見えなくなってきた人、行き詰っている人々を導いてくださっています。

「捕らわれ人をその枷から/闇に住む人をその牢獄から救い出して」、さまざまな束縛や罪から、心の痛みから大勢の人々を救い出してくださっています。
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イエスが教えたことやなさったことに照らされて、少しずつ神の性格が分かっていくと、少しホッとすることがある。神がそう仰るならきっと大丈夫。神は必ず仰ったことを守るような方だから。

なので神の約束を知っているだけで、希望が持てる。

見た感じでは、何も変わっていないかもしれませんが、見る目が変わる。神の約束があるから。今の困難から抜け出せるときが近い。その日が必ずやって来る。世の中のさまざまな闇の力も、こう見えても最終的に一掃される日が近い!

しかも、政治家のように不可能なことを約束するのではない。
「神にできないことは何一つない」(ルカ1:36)と今朝の福音書で読まれました。

また、偽物幸福とか幻想、むなしくて、本当の幸せにつながらないことを約束するのではなくて、本当の、深い、いつまでも続く喜びを約束なさっているのです。

その神の約束に信頼をかけて、続けて祈りを捧げたいと思います。

2011年12月17日土曜日

onward and upward

Here is a nice news segment about the Anglican Church in North America, and how it is growing, especially among college students. The report features a bit about my friend Matt and the church where he and his wife serve, Church of the Good Shepherd in Binghamton, New York, which I had the great pleasure of visiting a few months ago.

Very encouraging stuff...

center of gravity

Some friends were recently talking on Facebook about an atheist's view of death. I thought I could sense an undercurrent of hostility (!) toward Christian faith for being preoccupied with "the afterlife" and therefore not really engaged in this life, this world. "The heavenly minded are no earthly good" kind of vibe.

But that's quite different from my understanding of the Christian faith. I wrote:

The center of gravity for my own faith and, I would argue strongly, of the gospel, is not "life after death" but rather the quality of living, character, and relationships in this life (though not bounded by this life). In other words, authentic human flourishing and growth in virtue. At the same time, I can understand in an age or society dominated by war, famine, and plague, why the accent might shift to "a better world after this one." And, as someone who works on a pediatrics oncology ward, the hope of heaven has never been so visceral to me as it is now. Still, Jesus said the kingdom of God is among you, in the here and now. Love calls us to the things of this world.

自分自身の信仰の中心は、そして福音の中心でもあると主張したいのだが、「死後の命」ではなくて、むしろこの世における生き方、人格、人間関係の質にあると思う。(まあ、この世でだけの話ではないけど)。つまり、まことの人間の繁栄と徳における成長に関わるものである。同時に、戦争や飢饉や伝染病だらけの時代、社会の中で、どうして「より良いあの世」への関心が高まるか分からないわけではない。なお、小児ガンの病棟に関わっている者として、わたしはかつてないほど、天国への望みを「はらわたで」抱いているのである。しかし、イエスが仰ったのは、神の国はあなたがたの間にある、今、ここで、と。わたしたちは愛によってこの世のことにこそ呼ばれるのである。
That last sentence is the title of an excellent poem by Richard Wilbur, a former poet laureate in the US. You can see him reading the poem here. And the poem itself is below. The story is about a man woken from a sleep in New York by the sound of a neighbor hanging laundry out to dry. The sleeper doesn't want to wake up and return to the world of the day-to-day, but he does, finally. "The soul descends once more in bitter
love / To accept the waking body." Because...

Love Calls Us To The Things Of This World

The eyes open to a cry of pulleys,
And spirited from sleep, the astounded
soul
Hangs for a moment bodiless and
simple
As false dawn.
Outside the open window
The morning air is all awash with
angels.

Some are in bed-sheets, some are
in blouses,
Some are in smocks: but truly there
they are.
Now they are rising together in calm
swells
Of halcyon feeling, filling whatever they
wear
With the deep joy of their impersonal
breathing;

Now they are flying in place,
conveying
The terrible speed of their
omnipresence, moving
And staying like white water; and now
of a sudden
They swoon down in so rapt a quiet
That nobody seems to be there.
The soul shrinks

From all that it is about to remember,
From the punctual rape of every
blessed day,
And cries,
"Oh, let there be nothing on
earth but laundry,
Nothing but rosy hands in the rising
steam
And clear dances done in the sight of
heaven."

Yet, as the sun acknowledges
With a warm look the world's hunks
and colors,
The soul descends once more in bitter
love
To accept the waking body, saying now
In a changed voice as the man yawns
and rises,

"Bring them down from their ruddy
gallows;
Let there be clean linen for the backs
of thieves;
Let lovers go fresh and sweet to be
undone,
And the heaviest nuns walk in a pure
floating
Of dark habits,
keeping their difficult
balance." 

2011年12月6日火曜日

reflections on a girl's funeral

I took the stairs down to the hospital mortuary feeling slightly nauseous. It was probably not so much the dread of seeing Sara (not her real name) as fear of facing the grief of her family.

When a child dies, nobody "comes to terms" with it. None of the soothing platitudes make a good fit. "It was her time." "She led a full life." "At least she went peacefully." I've never heard somebody try to put a positive spin on things. Nobody's okay with it.
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When I saw her lying there, the breath went out of me like I'd been sucker punched.

She was so small, and still.

Not too long before, we had been exchanging slightly wary nods on the ward. I find it hard to establish a rapport with the girls in the peds ward, at least the older ones. I never know what to say. No more than I did when I was a teenager.

Plus, most of the time the girls stay behind their pink curtains, which might as well be as thick as castle stones. Their own worlds. I can never think up a good excuse to intrude.

So whenever I do get the chance, I make eye contact and nod and smile, and keep waiting for God to create opportunities to be helpful, if I can. Meanwhile I pray, every day, from the sidelines.
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The blown-up picture showed Sara with Luke, her beagle. (Her mother said it was "coincidence" that she happened to choose to give her dog the name of the hospital where she would spend the last years of her life. Yeah, right.)

In the photo she was maybe eleven or twelve. Sitting on grass, a park somewhere. Smiling unself-consciously, just because she was with Luke, and it was a good day.

In the photo, there was not even the hint of a shadow of cancer in her eyes.
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At the wake, I was looking out at all of Sara's schoolfriends who came. Pretty much all of her classmates from middleschool, I learned later. All the way from out in West Tokyo, more than an hour away by train.

Now, except for Sara, they had all gone off to various highschools, as freshmen, so they were wearing different school uniforms. But they all looked pretty much the same. Most of the girls' skirts were too short. Most of the boys' hair was too long and scruffy. Typical high school kids, in other words.

As each one came up to lay a flower in front of Sara's picture, pretty much all the girls were crying. Some were in bad shape. All the boys looked uncomfortable. A few of them had "deer in the headlights" expressions.

As I watched them, I felt a kind of anger welling up inside. Or maybe it was sadness, or frustration. I don't know, really. A tightening in the pit of the stomach.

"These kids' shouldn't have to be here," I thought. "They shouldn't have to be here, and Sara shouldn't have to be in this pine box up here. She should be out there, with them. They should all be hanging out in a park somewhere, or at MacDonald's. Copying each others' homework. Girls talking about boys. Boys talking about sports. Nobody should be here."
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The funeral was quieter. Most of Sara's friends were back in school.

I nearly lost it halfway through the sermon. I was talking about Sara's courage, and the courage of her family. And suddenly I was struck by the sheer unfairness of what each of them had been called to deal with. And for what end? All that sacrifice and determination and and love-in-action--and still she died.

Tears sprang into my eyes. I couldn't see my sermon text. My nose started running. I felt like an idiot. Somehow I pushed on and got through.
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Sara's father and little brother rode in the Hearse to the crematorium. Her mother drove herself. Somehow, that struck me as strange. So quotidien.
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While waiting at the crematorium, the girl's mother told me she found out from the Chapel website that she (the mother) and I were the same age. We both smiled at that. But under the surface of that smile, feelings so shadowy and complex that I couldn't begin to sort through them.

Two forty-somethings, sitting down having tea. Her oldest child in a furnace downstairs.
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As I watched them put Sara's bones into the white ceramic urn, I thought: Well, we finally managed to destroy this particular batch of cancer cells. And all it cost was...
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Blessed Mary, you know the pain of losing a child. Yea, the sword of grief has pierced through thine own soul also. Pray for the family of Sara, and for us all. Pray for your Son to come again, and soon.

なぜいやしの祈りをするのか

2011年12月4日の17:00で初めて試みた「いやしの祈り」夕の礼拝でのトーク...

なぜ、今夜の「いやしの祈り」をするのかというと、おもに3つの理由があると思う。

① イエスご自身がいやしの祈りをものすごく大事にしておられたから...

ペテロがイエスのキャリアをまとめる:
「神は、聖霊と力によって[ナザレのイエス]を油注がれた者となさいました。イエスは、方々を巡り歩いて人々を助け、悪魔に苦しめられている人たちをすべていやされたのですが、それは、神が御一緒だったからです。」(使徒言行録10:38)

イエスの働きの中でいやしが何よりも大事にされていたのである。

② イエスの弟子たちもその働きをそのまま引き継いだから...

今日の聖書箇所=使徒言行録3:1-10。聖霊がくだってきた間もなくの話だが、ペテロとヨハネが生まれながら足の不自由な人のために祈り、その人が治った。

「イエスの名によって」と書いてある。聖書では、人の名によってするというのは、その人の権威・権力を持って、その代わりにする、という意味。

教会はイエスの権威・権力を授かっているので、いやしの祈りに励む。

③ イエスはその教会に命じられたから...

「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい...[そうする人たちには]次のようなしるしが伴う...病人に手を置けば治る。」(マコ16:15a, 17, 18b)

イエスに派遣されているから、わたしたちはいやしのために祈るのである。

でも、何でこんなにいやしを強調されるのか?

イエスは一生懸命に「神の国」を伝えようとしておられた。

「神の国は近づいた!」それは、イエスご自分のメッセージでもあり、弟子たちを派遣したときに彼らに託したメッセージでもある。どこかに行ったら「その町の病人をいやし、また、『神の国はあなたがたに近づいた』と言いなさい」(ルカ10:9)。

神の国とは何なのかというと、神の憐れみと慈しみが現されること。神が望んでいらっしゃることが実現されること。

これを言葉だけでは伝わらない。実感してもらえるためにイエスはいやしに力を注がれたのである。

神の国が近づくと、事柄が変わるのだ。目に見えることである。神の国は、人の人生にインパクトがある

何よりも、人がいやされる!体と心と魂がいやされるのである。
体のいやしとは、病、痛み、人に仕えることを妨げる苦しみが取り除かれる。
心のいやしとは、孤独、絶望、不安が取り除かれる。
魂のいやしとは、神から離れている思い、罪に苦しんでいる思い、人とうまく行かないことがが取り除かれる。

つまり、その人の本来のイキイキとした姿が取り戻されることである。

この病院や看護大学も同じビジョンを持っている。つまり、人間の幸福、平安、喜び、健康(=well-being)

このビジョンはそもも神の国のビジョン、神の憐れみと慈しみを受け入れた人たちの間で生まれたビジョンなのである。

今夜わたしたちが望んでいるのは、神の国が目に見える形になること。それだけである。魔術でも、ただのフィーリングや雰囲気でもない。単純に、神がわたしたちの間で働き、体と心と魂の本来の元気な姿を取り戻してくださるように願い求めたいと思う。

2011年12月4日日曜日

in the system

Working in a hospital, one thing I've discovered is: medical records are never destroyed. It doesn't matter if the patient dies, or moves to the North Pole, or gets abducted by aliens. Once a record is created, it's there in the system. Until the end of the world.

One further oddity about medical records, at least where I work, is that they never stop counting your age. When a patient dies, of course the pronouncement of death is noted in the chart. But the record continues to show the patient's current age, as if he or she were still alive.

I think that's an interesting analogy for human existence. Once we receive life in the womb, we are "in God's system"--forever. Each chapter in the story of our lives is recorded indelibly in God's memory. Just like the memories of those we care about stay with us--except that, unlike us, God's memory is perfect and never fails.

And even when we die, when our bodies finally break down, we are not deleted from the mind of God. On the contrary, we remain in Him, and our stories continue to be recorded. Because to God, we are still alive. "Now he is not God of the dead, but of the living, for all live to him" (Luke 20:38).

The story that God wants to tell through us goes on--even after the end of the world.

2011年12月1日木曜日

教会の重要な務め:いやしの祈り

2011年11月27日発刊の「チャペルニュース」に出た巻頭メッセージです...

来る12月から、このチャペルでは月一回「いやしの祈り」という新しい礼拝を始めようと計画しています。毎月、第1日曜日午後5時から、トイスラーホールにて行う予定です(第1主日の「夕の礼拝」の代わりになります)。

大体いつもの夕の礼拝と同じ流れの中で、祈りを希望する方一人一人のために司式者が手を置いて祈るという時間を取る、というわりとシンプルな礼拝を予定しています。

いやしのために祈るというのは、極めて重要なことだと思います。イエスご自身がその働きの中でとても大事にされたことです。また、その弟子たちを派遣なさったとき、イエスは人々のいやしのために祈りなさいと命じられました(ルカ九・二、十・九など)。そしてご復活後でも、そのいやしの祈りは弟子たちによって引き続き行われました。このように二千年間にわたり、教会はいつでもこの働きを続けてきたのです。

聖書では、イエスの弟子の一人である聖ヤコブがこう書きました。「あなたがたの中で病気の人は、教会の長老を招いて、主の名によってオリーブ油を塗り、祈ってもらいなさい」(ヤコブ五・十四)。教会に来ていやしの祈りを求めることは、まさにこういうことでしょう。

教会の祈りはあくまでも神の恵みを求めることであって、人はその器に過ぎません。祈ってもらうとき、何か感じる人もいれば、そうでない人もいます。いずれにしても、神が共におられ、わたしたちの祈りを聞き入れてくださること、そしてわたしたち一人一人に最もふさわしい形でのいやしを喜んで与えてくださることを信じています。

本当の祈りは「ご利益」ではなく、ただ単に心の望みを神に言い表すことです。わたしたちは体のいやしを願っても、神はその病を残し、新しいことに気づく機会や心を向け直す機会として用いてくださる場合もあります。つまり、わたしたちが想像していた「いやし」とは違う恵みが与えられることもあります。それを素直に受け止めることは、神に求められる信仰心と言えましょう。

なお、医学分野と同じくいやしの祈りでも、即座に改善が見られる場合もあれば、時間をかけて、繰り返し祈ってもらう中で改善に向かう場合もあります。いずれにしても、神の望みはわたしたちの健康、平安、喜びであり、また赦し合える心、愛し合える心を持つことである――つまり、自らの本来の姿が取り戻されることです。こういった神の慈愛を見詰めて、あきらめずに自分のために、そして他人のために祈り続け、友の祈りを願い続けることが大切です。

当チャペルの新しい働きとなるこの「いやしの祈り」のために祈ってくだされば幸いです。

two kinds of slow

"The Lord is not slow to fulfill his promise as some count slowness, but is patient toward you, not wishing that any should perish, but that all should reach repentance." (2 Peter 3:9)

"Sorry." "It's okay." Much of man's fellowship with God circles around these two words. We repent. God forgives us. But when we do, our respective attitudes are miles apart. So often we manage to pout even while we repent, and to seek forgiveness even while only half believing we need it. We grudgingly admit our sin, all the time aware of the much greater sin of others. We are slow to turn our hearts back to God. God is slow, too, but slow to anger. In forgiving us, God is as swift as lightning and as unstinting as a heavy downpour. Like a lover, His heart is set on making things right with us.

両方は遅い!

「ある人たちは、遅いと考えているようですが、主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです」(Ⅱペテロ3:-9)

「...ごめんなさい。」「いいよ。」人間と神との交わりはこの二つの言葉の周りを巡る。わたしたちは悔い改める。神は赦してくださる。でもそのとき、お互いの態度はだいぶ違う。わたしたちはむくれながら悔い改め、赦しが必要ないと半分思いながら赦しを求めることが多い。自分の罪をしぶしぶ認めながら、他人のもっと大きな罪をずっと意識する。神に心を向け直すのに遅い。神も遅い。怒ることには。赦すことには、神が稲妻よりも速く、大雨よりも惜しまない。恋人のように、わたしたちとの仲直りに一心であられる。