2012年11月14日水曜日

finding grace somehow

I can't remember my last day off. The hospital is like a game of musical chairs on acid sometimes. (Not that I'd ever admit to ever playing such a game...)

I just came off a weekend of three back-to-back three funerals and a wedding, sandwiching the normal Sunday celebration. Pretty wiped out by the whole barrage. But somehow I found something meaningful to say to the grieving families. Somehow I could offer some solace and support. Somehow no one went careening off the rails of healthy grieving.

In my Sunday sermon I suggested that the widow who put her last two dimes into the collection plate was actually a dupe, conned by the self-righteous scribes, like some old biddy signing over her welfare check to a slick televangelist.

But her heart was in the right place. And guess who happened to be observing her every move? Talk about love.

Sometimes I feel like I'm a mite short of two mites. But somehow, God takes the negligible little bits that I have to offer, and adds His limitless grace to it, and it comes out all right. Somehow.
Come to think of it,
there may be a slight
resemblance...

すべてをささげた人(マルコ12:38-44)


聖霊降臨後第24主日(B年)
聖路加国際病院聖ルカ礼拝堂
2012年11月11日・10時30分 聖餐式

「皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである。」(マルコ12:44
イエスが賞賛なさる「信仰」は、神の良さへの完全な、幼子のような信頼である。生活費まで献金するやもめ。イエス先生からの一言で僕を治していただけるのを確信する百人隊長(マタイ8:8)。天の慈愛はユダヤ人にだけ与えられるものではないと信じるカナンの女性(マタイ15:21-28)。十字架の上から、良い父である神にその霊をゆだねるみ子(ルカ23:46)。このような信仰は、好調なときに持てるものではなくて、辛い中でも耐えるものである。このような信仰は、切に求めるべき賜物である。

イエスは、エルサレムの神殿(=ユダヤ教の本山)で座って人々を観察中。そして、賽銭箱に自分の生活費まで入れるやもめ(=未亡人!)のことに気にとらわれる。

このやもめをうまく利用して「献金をちゃんとせよ!」と訴える牧師は少なくないと思う(僕もそのようなことを言ったことがあるかも知れない!)。このやもめは生活費を丸ごと献金できたのなら、皆さんももう少し出せるのではないか、というような話をする。

でもイエスは果たしてこのやもめを献金の模範として挙げておられるのだろうか。むしろ彼女のことを可愛そうに思っておられるのではないだろうか。

というのは、このやもめは律法学者たちにだまされている一人になるではないか。今日の福音書の前半では、イエスは彼らを非難される。「律法学者に気をつけなさい...彼らはやもめの家を食い物にする」(マルコ12:38, 40

どうやってやもめの「家を食い物に」しているかというと、罪悪感を押し付けているのである:
罪深くて、きちんと掟を守れない人は神に受け入れてもらえると思うのか!俺たちと違って律法が殆ど分かっていないやつは、どうして神に愛されていると言えるのかあなたみたいな人は赦してもらいたかったら、相当の寄付が必要だろう!相当の寄付!

オレオレ詐欺ではないけどそれに似ている。この弱くて貧しいやもめは、神との和解をはかるために、空腹を覚悟して、賽銭箱に生活費を全部入れているわけである。

これは献金の見習うべき模範ではなくて、訓戒的な話ではないだろうか。

[むしろ、わたしたちにとって献金の模範になるのは「有り余る中から入れた」(マルコ12:44)人たちになるではないだろうか。現代の日本は、不景気とはいえ、史上最高に物質的に恵まれている国の一つである。正直に言えば、わたしたちはこのやもめが味わっていた貧困を想像できないと思う。彼女の生活費全体、レプトン銅貨二枚は、当時の一日分の賃金の百分の一ぐらいになる。つまり彼女の「持っている物すべて」と言っても、麦パン一個を買えるか買えないか、そういうスケールの貧困である。]
+   +   +
イエスはこのやもめを見て、献金どうのこうのではなくて、彼女が一生懸命に神への愛を現していることに心が打たれているのではないかと思う。

先週の福音書にあったように、この前、イエスは神殿で第一の掟を教えてくれた。「イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」(マルコ12:19-30

そして第二の掟:「隣人を自分のように愛しなさい。」(マルコ12:31)。律法全体はこの二つの掟でまとめられる。これだけは、人間と神との関わりの根底になる。

残念ながら、わたしたち弱い人間は、この二つの掟でさえ守れないのである。調子のいいときには全身全霊で神を愛し、隣人への思いやりをしばらく持つことができるかも知れないが、やはりむらがある。わたしたちの愛が十分大きくない。

しかも神から疎遠していて、冷たい世の中に住んでいる者として、わたしたちはいろいろな悲しい思い、さびしい思い、辛い思いがあって、涙を流さずにはいられない。

それに加えてこのやもめは、きっと律法学者が主張するような厳しい掟を必死に守ろうとして、結局守り切れないことを痛感して、遠くから神殿まで足を運んで来たのではないかと思う。どうしても神との仲直りをしたい、どうしても赦してもらいたい、どうしても神に近づきたい!

そのために人が神殿に来る。神殿は、ユダヤ人にとって神と出会える場所だと思われた。天と地の唯一の接点はここである。ここは神との触れ合いがある場所だと思われた。

このやもめは神に出会いたい。神の愛に触れたい。だから賽銭箱に自分が持っているお金、銅貨二枚を入れる。


そして不思議で素晴らしいことに、彼女の小さな捧げ物をご覧になっているのは、神から遣わされたみ子なのである。

エルサレムの神殿に巡礼に来ている人の中で決して彼女は目立たないはず。一人で寄って来ている。その服はボロボロであろう。遠くから来て疲れているであろう。きっと彼女の顔は笑いじわと泣きじわだらけであろう。

しかし大勢の中からこの人に、神から遣わされたみ子が心を留めておられるわけである。一生懸命神への愛を現せようとしている彼女にイエスはどんなに暖かい眼差しを注いでおられるであろうか。

このやもめは確かに律法学者たちにだまされていたかも知れない。でも結局は、律法学者たちよりも彼女の方が神に近づいていたのである。イエスのすぐそばまで。

律法学者たちは、口では神のことをいろいろ言いながら人間の誉れを求めるのである。
このやもめは「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして」神を愛しようとしているわけである。

二つの小さな銀貨には、とても大きな意味があったのである。
+   +   +
このやもめと出会って数日後、イエスはこの神殿からそんなに遠く離れていないところで、違った種類のささげものをなさった。今度は賽銭箱ではなくて、十字架だったのである。

十字架の上で、ヘブライ人への手紙の言葉を借りると、イエスは「人間の手で造られた聖所ではなく、天そのものに入られた」(ヘブライ9:24)のである。

イエスも、やもめのように、持っている物をすべてささげられたのである。その命まで。

十字架の上で、イエスは「わたしたちのために神のみ前に現れてくださって」(ヘブライ9:24「ご自身をいけにえとしてささげて罪を」――やもめの罪、律法学者たちの罪、僕の罪、皆さんの罪を「取り去るために、現れてくださいました」(ヘブライ9:26

これこそ惜しみない愛の業。

イエスのささげものによってやもめが切に望んでいたことが実現されたのである。つまり、神の赦し、神との和解をイエスがわたしたちのために手に入れたくださったのである。
+   +   +
「罪」というものは――わたしたち自身のさまざまな背きやわがまま、そしてわたしたちの両親の罪と彼らの両親の罪、社会の罪、世の中の罪――これらのものは、わたしたちを神から引き離してしまっているのである。

しかもわたしたちがいくらささげものをささげても、いくら献金をしても、いくら律法や掟を守っても、いくら「いいこと」をしようとしても、罪が作る深い溝を越えて神に近づくことができない。

でも神はその溝を越えてくださった。イエス・キリストがささげてくださった尊い命は、その架け橋になる。神の愛を求める人にとって、イエスの十字架を通れば近づける。

さて、どうすればこのことに応えることができるか。

イエスのささげものに便乗するしかない。やもめのように、わたしたちがささげ得るものは、ほんのわずかしか持っていない。銅貨二枚ほどの愛しかない。だけれども、その愛をイエスの十字架のささげものに合わせることができるのである。

そうすれば、大いに神に喜んでもらえるのである。

わたしたちも日々、一生懸命神への愛を現したいと思う。

謙虚な人になる練習を(マルコ9:30-37)


聖霊降臨後第17主日(B年)
聖路加国際病院聖ルカ礼拝堂
2012年9月23日・10時30分 聖餐式

イエスが座り、十二人を呼び寄せて言われた。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」(マルコ9:35
この世による「価値あるもの」の概念を真っ向から否定するのは、キリストの十字架。偉い人はだれか。政治家?軍事的指導者?大金持ち?セレブ?優等生?会社の人気者?違う。天から見れば、これらの「ステータスの高い」人たちは、自分を低くして周りの人に仕える者と比べたら、取るに足りない人物ばかり。永遠の命に至る道は十字架しかない。この道を歩む人は、世の中では重要だと言われていることを無視して、恵みの喜びへと目を向け直すのである。

「途中で何を議論していたのか」32)。これを聞かれた弟子たちの顔を想像しやすい。えっ?ヤベッ!バレタ!「彼らは黙っていた。途中でだれがいちばん偉いかと議論し合っていたからである」33

これは、人間としてどれが素晴らしいかというよりも、もっと政治的な話。つまり、「新内閣」で有利な地位に就こうと画策しているわけ。まだまだ弟子たちはイエスのことを勘違いしている。政治的な指導者としてイエスが国をローマの圧政から解放して、建て直してくれる、と思っていたのである。

イエスはその「マニフェスト」を「神の国」と呼んでいる、と思っている。確かにその内容は理解できない部分もあるし、イエスは何だかわけの分からない「死んでよみがえる」話もしているけれども、結局はローマ帝国やローマに操られているユダヤ人たちなどを一掃して、強いイスラエルを取り戻してくれるに違いない、と弟子たちが期待していたわけである。

そしてイエスが国を建て直してくれたら、その「新内閣」では誰がイエスの右腕になるとか、誰が軍司令官になる、誰が神殿を担当するとか、そういった議論を弟子たちが歩きながらしていたわけである。

「途中で何を議論していたのか」とお尋ねになった。彼らは黙っていた。途中でだれがいちばん偉いかと議論し合っていたからである。イエスが座り、十二人を呼び寄せて言われた。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」33-35
+   +   +
人間は、有利な地位を得ようとする傾向が非常に強いと思う。殆どの戦争は、誰かが有利な地位を得ようとすることから始まります。殆どの政治家も何よりも得意なのは、自分の立場を守ることだと思う。それによって国全体が左右されるわけである。

しかも、戦争を引き起こしたり、国を動かしたりするほどの影響力を持つ人は少ないけれども、この有利な地位を得ようとする傾向はすべての人の心にあると思う。わたしたちは、生まれつきそういうのを持っているのだと思う。

子供を見ると、常に自分が先になろうとしている。先にブランコに乗りたい。先におやつを選びたい。先にママに抱っこされたい。(うちでは、歯磨きの仕上げを先にしてまらうのも毎日のバトル!)

(しっかりした)親は子供に、おもちゃを仲良く一緒に使うように、順番こにやるように教え込むのに、何千時間を費やすだろう。つまり、その有利な地位を得ようとする傾向を抑えられるように一生懸命に教えるのである。

そうしないと社会に適応できない人になってしまうからである。社会が成り立てるのは、全員がある程度その利己心を抑えるコツを身に付けているからである。

でもだからと言って、この傾向を脱却するわけではない。むしろ、傾向がどんどん強まるのではないかと思う。大人はただ目立たないやり方を覚えるだけだと思う。大人の場合も、誰と知り合いになるか、自分にとってのメリットを考えて選ぶことが多いと思う。面倒な人からさりげなく遠ざける。大人も、自分の功績が認められるようにうまく立ち回る。やりたくないことを避ける方法を見つける。

また、文字通りに、そして比喩的にも、人より先に進める道を見つける。(昔は、電車に乗るときのおばさんたちがかなり怖かったけど、先週いつもより早い帰りの電車に乗ったら、車両のドアから席までもうぜんと突進する20代、30代の女性はかなりすさまじかった!)

(と言いつつ、正直に言えば、僕もさりげなく座れるように計略を使うことがある!)

とにかく、人間は皆こういう傾向を持っていると思う。聖書はこの傾向を「利己心」や「高慢」と呼んでいる。わたしたちはその利己心を抑えることができるかもしれないけれども、たまには立ち現れてしまう。わたしたちはそういう世の中にどっぷりつかっているわけである。
+   +   +
わたしたちは、社会に適応するために利己心を抑えることを学ぶけれども、聖書によれば、この利己心の傾向を克服しない限り、神の国に適応できないのだ、と言う。

ヤコブは言う:「神は、高慢な者を敵とし、謙遜な者には恵みをお与えになる。」(ヤコブ4:6=箴言3:34)また、「世の友となることが」(つまり、世の中にまん延する利己心とねたみに流されることが)「神の敵となることだとは知らないのか」(ヤコブ4:4)。

今日の福音書でイエスが子供を見本として置いたのも、そういう意味であった。子供は仲良く遊べないからではなく(!)、当時社会では一番低い地位だったからである。殆ど無視される存在で、自己主張する立場にない者だったのである。当然のことながらみんなに仕える。いちばん嫌な仕事をさせられる。

ある日イエスは、若い金持ちと出会ったら、こういう話をされた:「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」(マルコ10:25)。金持ち――つまり、有利な立場にいる人、高慢な人――そういう人は、そのままで神の国に入れないよ。ふさわしくないよ。

神の国、神のみ心のとおりに治められている世界では、この世のありさまがすべてひっくり返される。高慢な人は低くされる。贅沢に暮らす人は空腹を覚える。権力を振るう人はその座からおろされる。

でも謙遜・謙虚な人は高く上げられる。貧しい人は満腹するまで食べる。柔和な人は全世界を受け継ぐ。平和を実現する人は神の子と呼ばれる(マタイ5章参照)。

「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」35

でもイエスはこの世的に有利な立場を得ようとすることを否定しながら、謙虚に人に仕えることによって「いちばん先になる」というのは、結局有利な立場を得ようとしているのではないだろうか!

ちょっと違う。確かに、謙虚になろうとする人には報いがある。それは、芯まで謙虚になれること。外国語を勉強すると一緒。その報いは、お金とかではなくて、外国語を話せるような人になること。神の国で通じる「言語」は謙虚さである。謙虚になろうとすることのご褒美は、謙虚になることである。

でも謙虚な人は世界中いちばん幸せな人だと思う。結局、高慢であること、利己心を持つことは、唯一神の愛が通過できない壁なのである。謙虚さはこの壁を取り崩す。謙虚な人は、その心が広く開かれている。他の人に。世の中の悲しみに。美しさに。真実に。神の愛に開かれているのである。
+   +   +
「すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい」と仰るイエスは、まさにその見本となってくださった。神のみ子イエスは、すべてを捨てて人間としてわたしたちの間で生きられた。病気の人や困っている人を一生懸命に助けられた。ひざまずいて自ら弟子たちの足を洗われた。最後にその命まで惜しまなかったのである。十字架で死ぬことより低くなることはない。

イエスに従う人は、当然その模範に倣っていく。しかも、倣うための恵みをも、イエスが与えてくださる。「神は...謙遜な者には恵みをお与えになる」(ヤコブ4:6)。イエスの足跡を歩む人には、歩む力と知恵も注がれるのである。

だから、イエスに導かれて、神の助けを得ながら、わたしたちは謙虚な人になるための練習ができる。どういうふうに練習ができるかというと、例えば:
l  すべての通勤電車はその練習の機会を与える。わざと先に乗らない、座らない。
l  人の話を聞く。
l  気づかれないように優しいことをしてあげる。
l  あの辺に見かけたゴミを拾って捨てる。
l  つまらない仕事をあえて引き受ける。
l  他の人と自分を比べることをしない。
l  常に感謝を表す。人に褒められたらお礼を、指摘されてもお礼を言う。成功したら神に感謝する。失敗したら神に感謝する。
l  家で祈るときにたまにはひざまずいてみる。体を持って謙虚な態度を学んでいく。

神の国に入る人はにじり口を通らなければならない。謙虚になるように練習していきましょう。いい先生がいるから:「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい」(マタイ11:29)。