2012年8月24日金曜日

Human beings are hard-wired to worship, even if they don't worship God.

That's why you can find imitation worship all over the place. Crowds of people straining to get a glimpse, maybe even touch the clothes, of a movie star. A room packed full of sweaty young "otaku" geeks doing para-para dancing with anime voice-actresses in Akihabara. Live shows and rock concerts. Three-month booked up tours of the Sky Tree. The Electric Parade at Disneyland.

These things are human approximations of real worship. They try to satisfy man's longing to worship something greater than himself, something from which he derives his existence and the meaning of his existence.

But in all these cases, the object of the worship is not God. And so there is no genuine encounter with Life involved. The glow of worship fades, the emotional high dies away, and no heart is changed.

The object of real worship is God. And to encounter God is to be changed forever.

2012年8月19日日曜日

賢い者として(エフェソ5:15-20)

聖霊降臨後第12主日(B年)
司祭 ケビン・シーバー
聖路加国際病院聖ルカ礼拝堂
2012年8月19日・10時30分 聖餐式

「愚かな者としてではなく、賢い者として、細かく気を配って歩みなさい。時をよく用いなさい。今は悪い時代なのです。だから、無分別な者とならず、主のみ心が何であるかを悟りなさい。」(エフェソ5:15-17

聖パウロがこの手紙をエフェソという町に住んでいるクリスチャンのコミュニティ宛てに書いた。つまり、イエス・キリストについての福音に出会い、信じて、洗礼を受けて、救いの恵みをいただいた人たちだった。

だからパウロが目指しているのは、救われる道を案内するのではなくて、救われた者は、どういう生き方をすればいいのか、というのを説明することである。

どういう生活をすべきか。こういうことを定期的に問わなければいけない。なぜかというと、愚かな生活をしている人に四方を囲まれているからである。とんでもないことが当たり前になっている。「今は悪い時代なのです」(エフェソ5:16

エフェソの社会というのは、人間の「性」について大混乱して、ありとあらゆる形で体の欲を満たそうとする人が大勢いる。不倫も売春も同性愛もはびこっている。

また、ねたみ合う社会になっている。商売が命。貪欲で生きている人が多い。金・物を持つことがその人の価値を定めることである。

全体的にエフェソの社会は下品な社会になっていた。迷っている人が多い。純粋なことが賞賛されないで、嘘付いて、計算して生きる人が大勢いる。

つまり、神がいないかのように日々の生活を送っている人たちの社会である。

こういう環境のただ中に置かれているクリスチャンは、気をつけないと流されて、キリストからどんどん離れていってしまうのである。
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だから、残されている時間をどう用いるか、考えないといけない。明日がある、来月、来年があるかどうか分からない。

さて、世の中の自己本位的な、くだらない、浅い考え方に何となく流されていくのか、それとも神にある命を求めるのか。クリスチャン・人間として、恵みにおいて成長するかどうか。

「だから、無分別な者とならず、主のみ心が何であるかを悟りなさい。」(エフェソ5:17

「無分別」と訳されているけれども「あほ」というギリシャ語。

賢くなる第一のポイントはこれである:神はわたしたちを応援する方だ。神はわたしたちの味方である、ということを理解することである。

これは言われなければ分からないことである。いくら世の中を見極めても、いくら自分の心を見極めても、こういう結論に至らないであろう。(まれに神秘的な幸福感を覚えることはあるかも知れないけれども、悪い時代では、ということを理解することである。神は存在しないか、関係ないか、むしろ神が人間を敵対しているか、というふうに見なされるがちである。

でも神はわたしたちを応援する味方である。これは示されたことである。聖書の言葉(Ⅱコリント13:11、Ⅰヨハネ4:8など)というよりも、神とその民の関わり全体によってそれが明らかになっている。

何よりもイエス・キリストによってこのことが明確になっていることである。イエスは「神はわたしたちを応援する味方である」ことを身をもって、しかもその正反対のメッセージを常に発信する世の中で明らかに示してくださることである。

悪い時代ではこういうことを常に思い起こさないといけない。神は愛である。わたしたちをトコトン愛してくださる。言い換えると、神はわたしたちの最善を望んでいらっしゃる。

世の中はこうなっているから、わたしたちが最善に至るには、いろいろな犠牲が伴うかもしれない。大変な目に遭ったり、つらい時期を過ごしたりすることもあるかもしれない。銀が精錬されるようにわたしたちも、神の愛にふさわしくない部分が清められなければならないかもしれない。

でもこの長いプロセスの中で神はイエス・キリストはずっとそばにいて、守り導いてくださるのである。

だから、神はわたしたちを応援する味方であり、愛してくださり、わたしたちの最善を望んでいらっしゃる。だからこそ「主のみ心が何であるかを悟る」(エフェソ5:17b)ことが大切である。主のみ心は、わたしたちの本物の喜びの平和につながる道なのである。

主のみ心にそった生活を実践することこそが、恵みにおいて成長する方法である。

主のみ心とは、隠された、謎に包まれたものではない。その基本要綱は、神が啓示なさったこの聖書において概説されているのである。
「聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です。こうして、神に仕える人は、どのような善い業をも行うことができるように、十分に整えられるのです。」(テモテへの手紙二3:16-17

だから、わたしたちは謙遜になって聖書を拝読すれば、祈りながら「これは神がこのわたしに語りかけているみ言葉だ」という姿勢をとって読めば、「主のみ心が何であるか」ということが見えてくるのである。
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「酒に酔いしれてはなりません。それは身を持ち崩すもとです」(エフェソ5:18a

お酒を飲みすぎるということは、エフェソ社会では一つ大きな問題になっていたようである。聖公会の信徒の間でも問題になっていたりしている!と、昨日、お店で2本の赤ワインを買った僕が自分自身に言い聞かせている!

聖書は「お酒を飲むな」とは言っていない。イエスご自身が「大酒飲み」と非難されたぐらいお酒を楽しんでいた。飲むのは大丈夫。酔っ払うことは良くないと言われている。

アルコールの乱用や大量飲酒はもちろん一つの問題。アメリカでは「飲み過ぎ」とされているのは、男性の場合は一日2杯を超えること、女性の場合は一杯を超えることだそうである。

酔っ払うことは体や人間関係に悪い影響を与える。さまざまな抑制をを弱めてしまう、と大学4年間の経験でこの僕は証言できる。

でも「酒に酔いしれてはならない」という戒めのもっと深い意味は、お酒とかを使って自分の心を麻痺してはいけない。分別して、細かく気を配って歩み、時をよく用いて、主のみ心が何であるかを考えないと流されてしまうから、精神を覚醒しないといけない。

判断しないで、ただ悪い時代の流れにそのまま乗ってしまう人生はもったいない。
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「むしろ、霊に満たされなさい」(エフェソ5:18b
この短い文章にはクリスチャンライフ全体がかかっている。ギリシャ語を直訳すると「霊に満たされ続けなさい」となる。毎日、一瞬一瞬聖霊に満たされて生きることがイエスに従う人生の秘訣である。

聖霊に満たされるというのは、どいうことか。神は、ご自分の命と力にあずからせてくださる。その結果は、お酒がもたらす幸福感よりはるかに大きな喜びをもたらすのである。神が身近にいらっしゃることをより実感する。そのみ心に寄り添う知恵と力が得られる。そして神に対する愛、周りに対する愛がわたしたちの心に注がれるのである(ローマ5:5

お酒や携帯メールやフェースブックを求める以上にわたしたちは聖霊を求めるべきである。
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「むしろ、霊に満たされ、詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさい。そして、いつも、あらゆることについて、わたしたちの主イエス・キリストの名により、父である神に感謝しなさい」(エフェソ5:18b-20

最後にパウロが神への感謝と賛美の大切さを教えている。感謝と賛美はクリスチャンライフの縦糸と横糸になるはずである。

チャプレンとしていろんな人と出会って話を聞くけれども、ネガティブなことにしか目を向けない人が意外と多い。人生をマイナス思考で考えてしまうと、心も体も引きずり降ろされてしまう。

人生では大変なことは山ほどある。つらい目に遭うこともある。自分の思うようにうまくいかないこともしばしばある。

けれども、その中でも神の絶えない恵みがきっとあるはず。まだ生かされている。まだ他人とのつながりがある。まだ違う将来を想像することができる。まだ祈れる。まだせみの声が聞こえる。花の香りがかぐことができる。夕焼けを見ることができる。

わたしたちクリスチャンは、感謝の達人にならなければならない。だれよりも感謝できることを見出して、呼吸すると同じぐらい「ありがとう」を人に対して、神に対して言えるようにならなければならない。これは聖書が命じることである。

この聖餐式は、感謝と賛美の祭りである。今日も、わたしたちを応援する味方である神に心から感謝と賛美を捧げたいと思う。

2012年8月16日木曜日

wanting more (John 6: 37-51)

The setting for the Gospel is the outskirts of Capernaum, a city on the shore of the Sea of Galilee. The people were flocking to Jesus, coming to be fed, to be healed. They were doing the right thing, but for—if not the wrong reasons, at least inadequate reasons.

What they were seeking from Jesus was a solution to their immediate needs. But they should have been seeking something so much more valuable.

Just the day before, the people had seen Jesus feed a crowd of maybe 10,000 with a handful of food—or if they didn't see it themselves they heard about it soon enough. This was truly something amazing. Unheard of.

And everybody knew Jesus possessed great healing powers. All throughout the region of Galilee, many thousands of people had been healed by Jesus' touch. Jesus himself didn't want to be thought of as a miracle worker, but that had become his image anyway. News about his power to heal sickness and to drive out evil spirits had spread far and wide.

So, more and more people sought out Jesus. And notice that Jesus didn't refuse them:
"All those the Father gives me will come to me, and whoever comes to me I will never drive away" (John 6:37).

In his work, Jesus made it abundantly clear that God is concerned about people's immediate needs. He taught his followers to pray: "Give us this day our daily bread" (Matt 6:11). And He showed compassion for the plight of people around Him.

So when hungry people came to Jesus, He fed them. When sick people came to Jesus, He healed them. When people who were troubled by the dark forces that keep humanity in bondage came to Jesus, He freed them. He never refused people.
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At the same time, Jesus knew that there was so much more than this. What the people in Capernaum were seeking from Jesus was a solution to their immediate needs. But they should have been seeking Jesus himself:
"I am the living bread that came down from heaven. Whoever eats this bread will live forever" (John 6:51).

Living bread. The bread of life. The bread that came down from heaven.

The Bible speaks of two kinds of life. On the one hand, there is the biological functioning of an organism—sleeping, eating, breathing, moving around. In Greek, this is bios.

But the life Jesus talks about is another kind of life altogether. He uses the word zoe.

This word zoe describes the quality of a life well lived. It means a life radiating with love and joy and peace. Those who have zoe-life are fully alive, fully human, fully themselves. They delight in using their gifts, delight in having fruitful relationships with others.

Alone among all the creatures, God gave this zoe-life to man. In Genesis we read:
"Then the LORD God formed the man of dust from the ground and breathed into his nostrils the breath of life, and the man became a living creature" (Genesis 2:7).

So zoe-life comes from God, and is sustained by communion with God. Our first parents, Adam and Eve, had this life, because God gave it to them and because they were living in intimate communion with God.

But sin cuts us off from zoe-life because sin separates us from God. When we turn our backs on God, we turn our backs on abundant life as well.

So when Adam and Eve sinned, they lost their zoe-life. Even though they didn't die physically, at least not right away, they lost the abundant life that comes from God. Although they were still breathing, they were already dead inside.
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That's how human beings are. That's our human situation. Just like the people in Capernaum 2,000 years ago, we, too, are heirs of Adam and Eve. We long for zoe-life, and yet we don't possess it.

Without the life that comes from God, we are dead inside. Our hearts are beating, we seem alive on the outside, but our inward selves do not have life.

This is the deepest hunger in the human heart, even though many people don't recognize it: abundant life.

We long to live well. To radiate love and joy and peace. To be fully alive, fully ourselves. We long to find joy in using our unique gifts, in making a contribution to the bettering of this world. We long for rich friendships with others.

And yet our longings remain unfulfilled. Abudant life eludes our grasp.

We turn to all sorts of other things to try and simulate the zoe-life we long for. Material goods. Work. Sex. Pleasure. Entertainment.

But nothing works. Nothing lasts. Nothing really satisfies our heart hunger.
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Jesus said that the very reason He came to earth was to restore to human beings the zoe-life that we had lost:
"I came that they may have life and have it abundantly" (John 10:10)

This was the will of the Father from the beginning:
"For God so loved the world, that he gave his only Son, that whoever believes in him should not perish but have eternal life" (John 3:16)

Or as we read this morning:
"My Father’s will is that everyone who looks to the Son and believes in him shall have eternal life, and I will raise them up at the last day" (John 6:40).

If zoe-life comes from God, from communion with God, that means that it can't be interrupted by anything, even by death. That's why Jesus calls it eternal life—not because it is life after death, but because it is life that is not changed by death.

Jesus came to earth to restore to human beings the zoe-life that we had lost. And He does this by offering us His own life:
"I am the living bread that came down from heaven. Whoever eats this bread will live forever. This bread is my flesh, which I will give for the life of the world" (John 6:53).

Jesus gives to the world the life that He has. From the cross, He offers His life to anyone who'll have it. Whoever eats this bread, that is to say, whoever receives Jesus by faith.

Anyone! It doesn't matter where you've been or what you've done.

Anyone! Those who have somehow been muddling along through life, and those who have made a real mess of things. Anyone! Those who have been seeking something for a long time and those who haven't even known that they should be seeking.

Anyone. You, me. Whosoever "looks to the Son and believes in him shall have eternal life" (John 6:40).
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It is good for us to come to church, to come to Jesus, asking to be fed, asking to be healed, asking for God's help in meeting our immediate needs. God wants us to come to Him. He wants us to ask for His help. He is our loving Father.

But we should also seek what is so much more valuable—we should seek abundant life, eternal life. Which is to say, we should seek Jesus Himself.

Look to the Son. Look to Jesus. Believe that He is your life. Entrust your life to Him. If you want to do that but don't know how, let's talk later. It's not hard.

If you look to Jesus and believe in Him, He will give you eternal life—abundant life, life with God, life which begins today and never ends.

At the very beginning, Jesus established at the center of the community of His followers this meal, this Eucharist. In it, we receive the bread that Jesus called His Body, and the wine that Jesus called His Blood.

Let us pray. Lord, we long to have abundant life. Open our hearts. Make us ever more hungry to receive the bread that comes from heaven. Deepen our hunger, Lord, and draw us to yourself. Amen.

より大事なものを求める(ヨハネ6: 37-51)

今日の福音書の設定は、カファルナウムというガリラヤ湖岸沿いの町の周辺となっている。群衆は大勢でイエスのところに来ている。食べさせてもらいに、癒してもらいに。彼らがやっていることは妥当。しかしやっている理由は、間違ってはいないが、不完全である。

人々がイエスに求めているのは、今の問題への解決。しかしもっと大事なものを求めるべきだったのである。

前の日、イエスがわずかな食べ物をもっておよそ1万人の給食ができたことを、みんなが自分の目で見たあるいはその噂を耳にした。不思議で仕方がない話である。聞いたことがないような話である。

そもそもイエスは癒しの力の持ち主であることが知られている。ガリラヤ地方全体にわたり、多くの人がイエスに手を置かれ病気を治してもらってきている。イエスご本人は「奇跡を行う人」として知られたくなかったらしいけれども、そういうふうに見なされてきた。病気を癒す力、悪霊を追い出す力があることは広く知られているのである。

そういうわけで人がどんどんイエスのところに来ている。しかもイエスはそういう人たちを決して拒んだりはなさらない。
「父がわたしにお与えになる人は皆、わたしのところに来る。わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さない」(ヨハネ6:32

イエスはその働きを通して、天の父は人々の日常の必要に関心を寄せてくださる方であることを示して来られた。「日ごとの糧を今日もお与えください」(マタイ6:11)という祈り方を弟子たちに教えられた。そしてイエスご自身が必ず困っている人に憐れみの手を差し伸べて来られた。

イエスのところにお腹がすいている人が来たら、食べさせてやったのである。病気の人が来たら、治してやったのである。人類を支配する暗闇の力に悩まされている人が来たら、イエスはそういう人を自由にしてやったのである。決して拒みはなさらない。
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同時にイエスはこれらのことだけで満足してほしくなかったそうである。カファルナウムの人々がイエスに求めているのは、今の問題への解決。しかしもっと大事なものを――つまり、イエスご自身を求めるべきだったのである。
「わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。」(ヨハネ6:51

天から降って来たパン。生きたパン。命のパン。

聖書は命に当たる言葉は二つある。「ビオス」というギリシャ語は、生物学的機能など、「命・生命」を指し示す。寝る、食べる、呼吸する、動き回るなど。

しかしイエスが話される「命」はまったく違うものである。イエスは「ゾエ」という言葉を使われる。

「ゾエ」とは、豊かな命、充実した人生の質を意味する。愛と喜びと平和に燃え立つ生活のことを意味する。ゾエ=命を持つ人は精いっぱい生きる、人間らしく、自分らしく生きるのである。与えられた賜物を大いに生かす喜びを知っている人になる。他の人との豊かな関わりにある喜びを味わう人になる。

神はお造りになったものの中で、こういうゾエ=命を人間にだけお与えになった。創世記で書いてある:
「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」(創世記2:7

ゾエ=命は、神から来るものであって、神との交わりの中で支えられているものである。わたしたちの先祖であるアダムとエバはこの命を持っていた。神からいただいて、神との親しい交わりの中で生かされていたからである。

ところが、罪というものはこのゾエ=命を奪い取ってしまう。なぜかというと、罪は人を神から引き離すから。神に背を向けると、豊かな命にも背を向けることになってしまう。

だから、アダムとエバは罪を犯したことによって、ゾエ=命を失ってしまったのである。身体的にはすぐに死ななかったけれども、神から来る豊かな命を、神との親しい交わりを失ってしまった。まだ生命があっても、内ではすでに死んでしまっていたのである。
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わたしたち人間はこういう状態に置かれている。2千年前の人たちもわたしたちもアダムとエバの受け継ぐ者である。ゾエ=命、豊かな命を慕うけれども、それを持てない。

しかも神から来る命がなければ、わたしたちは内面的に死んでいる。心拍があって、呼吸していて、生きているように見えても、内なる自分には豊かな命がないのである。

この豊かな命は人の心の最も深い望みである。多くの人はこういうことをはっきり意識しないかもしれないけれど、豊かな命を慕う。

みんなが充実の人生を送りたい。愛と喜びと平和に燃え立つ生活をしたい。精いっぱい、自分らしく生きたい。自分にしかない賜物を生かし、世の中をより素晴らしいものにする喜びを感じたい。他の人との豊かな友愛関係を持ちたい。

ところがこういう望みは満たされていない。豊かな命をなかなか手に入れられない。

だから色々他のものを追求してしまう。豊かな命の代わりとして、物質的なものや仕事やセックスや快楽やエンターテインメント、などなど。

でもこれらのことはどれもうまくいかない。続かない。心の飢え渇きを癒せない。
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イエスは、この世に来られたのは、ゾエ=命を人に取り戻すためだ、とご自分が仰った。
「わたしが来たのは、[人々]が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。」
(ヨハネ10:10

これは、最初から天の父のみ心だったのである。
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命[ゾエ]を得るためである」(ヨハネ3:16
今朝もあったように:
「わたしの父のみ心は、子を見て信じる者が皆永遠の命[ゾエ]を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである」(ヨハネ6:40

もしゾエ=命が神から来るのであれば、神との交わりの中で支えられるのであれば、どんなことによっても断ち切られることはない。死そのものもそうである。だからイエスはこの命を「永遠の命」と呼ばれるのである。死んでからの命ではなくて、死によって妨げ得ない命だからである。

イエスは、人間が失ってしまったこのゾエ=命を取り戻すために来られた。そして、それを取り戻すためには、ご自分の命を捧げてくださったのである。
「わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである」(ヨハネ6:51

イエスは、ご自分の内にある命をこの世の人々に与えてくださるわけ。十字架の上から、その命をいただく者だれにでも与えてくださるのである。このパンを食べる者、つまり、信仰を持ってイエスを受け入れる者だれにでも。

だれにでも!今までどこに行ったとしても、何を知っていたとしても。

だれにでも!わりと平穏な人生を送って来た人でも、大失敗して来た人でも。だれにでも!ずっと何かを探してきた人も、何かを探すべきことさえ意識していなかった人でも。

だれにでも。皆さんも。僕も。「子を見て信じる者が**永遠の命を得る」(ヨハネ6:40)。
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わたしたちは日曜日教会に来て、イエスのところに集まって、養ってもらったり、癒してもらったり、今、目の前にある問題を乗り切るための助けを求めたりすることは、とてもいいことである。神さまはそうしてほしい。神の助けを求めるのを望んでおられる、わたしたちを愛してくださる天の父だから。

でももっと大事なものをも求めるべきである。豊かな命。永遠の命。つまり、イエスご自身を求めるべきだと思う。

み子を見つめましょう。イエスが自分の命であることを信じて、すべてをキリストに委ねましょう。イエスを信じ、イエスに自分の命を委ねることはどういうことか、もっと知りたい方がいらっしゃったら、後で声を掛けてください。難しい話ではない。

イエスを見て、信じれば、永遠の命が与えられる、という約束が今日の福音書にあった。豊かな命。神と共に生きる命。今日からはじまって終わることのない命。

イエス・キリストは、一番最初にその弟子たちのコミュニティの中心にこの食事、聖餐式を定められた。これによって、イエスがご自分の「からだ」と呼ばれたパンを、そしてご自分の「血」と呼ばれたぶどう酒をいただける。今日も、この恵みにあずかりましょう。

祈りましょう。
主よ、わたしたちは豊かな命がほしい。それをいただけるようにわたしたちの心を開いてください。天から降って来た生きたパンをより一層求めさせてください。わたしたちの飢え渇きをさらに増大させて、わたしたちをご自分のもとへ引き寄せてください。アーメン