2011年8月30日火曜日

celebration

Tatsu, a little five-year-old boy I first met in the peds ward, stopped by my office today. Apparently he insisted that his mom bring him here, after his check-up.

The circle bandaid on his arm told me that he had blood drawn. "Did you cry?" I ask. "No," he said, like the question was ridiculous. Sheer pride is the only thing that stops me from crying when they take my blood. How many times must Tatsu have been poked in the past two years...

When I first met Tatsu he was almost totally bald. Now he has a full, thick head of hair, sticking out from under the chic beige riding cap he was sporting. He starts back at kindergarten on Thursday, and can't wait.

Tatsu left the hospital a few months ago. He's been having every-other-week check-ups ever since. He has stopped by the chaplain's office before. But today, the doctors told him he could change to once every three weeks.

Hooray! "So far, so good," said his mother. I wonder if the day will come when she will finally and truly be able to breathe easy, no longer afraid that the shadow of cancer will fall again over her little boy.

"Good job!" I squat down and hold up my hand up. Smack! A good, solid connection, the sound of life and vigor. The manly high-five of a little boy with a future.

2011年8月28日日曜日

オール・オア・ナッシング

聖霊降臨後第11主日(A年・特定17)
聖路加国際病院聖ルカ礼拝堂
2011年8月28日・10時30分 聖餐式

そろそろ秋。学校は、始まっているところがあります。教会も(神さまは夏休みはなさらないけれど)8月はわりと静かですが、そろそろ信仰生活を改めて見詰める時期。個々人として、及びコミュニティとして。(来週、チャペルの求められているホスピタリティについて考えます)。

聖パウロは信仰生活のビジョンを描いてくれています。
「こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます」(ローマ12:1      

まず、この「こういうわけで」とは、どういうことでしょう。今までパウロが話していたのは、遠ざかっていた人たちは、神の憐れみによって神に近寄ることができている、ということです。11章の最後:
「あなたがたは、かつては神に不従順でしたが、
 今は...憐れみを受けています。 
 ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。
 だれが、神の定めを究め尽くし、
 神の道を理解し尽くせよう。 
 すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、
 神に向かっているのです。
 栄光が神に永遠にありますように、アーメン。」(ローマ11:30, 33, 36

さて、こういった「神の憐れみによって」わたしたちはどう生きればよいでしょうか。遠ざかっていて、神の愛から離れていたわたしたちは、神の憐れみによって、そのみ子イエス・キリストを通してウェルカムされている、いつまでも神につながっているので、どう応えるべきでしょうか。

12章では、パウロが信仰生活のビジョンを描いてくれます。おもに三つの側面があります。

I. オール・オア・ナッシング
まず最初に、弟子であることはオール・オア・ナッシングの問題です。
「こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。」12:1

「自分の体」。聖書では、「体」はその人全体、全人格、そして自分が送る人生全体を表す単語です。だから聖書によれば、日曜日と平日の違いはありません。最終的には肉体と魂を分けて考えられません。

わたしたちはクリスチャンとして、自分の一部分だけを神に捧げようとすることはよくあります。自宅を売りつつその中の部屋に「立入禁止」という掲示を貼るような感じです。

キリストが教えてくださった祈りでは「日ごとの糧を今日もお与えください」となっています。それは、神が日常のすべてにご関心をお持ちだからです。わたしたちの人生のあらゆるところが良い知らせの対象となっています。神はわたしたちが自分のすべてを捧げて欲しい。思いも、話し方も、関わり方も、キャリアも、様々な選択も。そうすれば、神はわたしたちのすべてを癒し、祝福してくださるのです。わたしたちが捧げないことは、神は祝福なさらないのです。

エフェソのクリスチャンたちにパウロがこう書きました。わたしたちは「愛に根ざして真理を語り、あらゆる面で、頭であるキリストに向かって成長していきます」(エフェソ4:15

要は、12章の1節でパウロがこういうことを言っていると思います。
「皆さん、神の助けを得てこういうことに頑張って欲しいです。すなわち、皆さんの日常生活――つまり寝て、起きて、食べて、働いて、走り回っている日々を神への供え物として捧げなさい。神に一番喜んでもらえることは、日々の生活の中で神の恵みと神のご計画を受け入れることです」

オール・オア・ナッシング。わたしたちはすべてを神に捧げます。神はすべてを癒し祝福してくださるのです。

II. 戦いであることを覚悟しなさい
それからパウロが言っているのは、信仰生活は戦いであることを覚悟しなさい、ということです。
「あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい」12:2

世の中にいながらイエスに従うことは、戦いです。困難と摩擦が必ず伴われます。すべての福音書ではイエスが仰っています。「世があなたがたに対立するなら、その前にわたしに対立していたことを覚えなさい」(ヨハネ15:18。マタイ10:22、マルコ13:13、ルカ21:17参照)。

摩擦が生じるのは、イエスに従うこと=世のやり方に従わないことだからです。弟子は違う道を歩むのです。視野を狭くしたりヘンテコリンになったりするわけではありません。が、「変わっている人」と思われてしまうことにひるまないことです。みんなと違う選択をすることで理解してもらえないときがある、軽蔑されるときもあることを覚悟することです。み国の価値観は世の価値観とは違います。重なるときもあれば、全く異なるときもあるのです。

この2節でパウロがこういうことを言っているのではないかと思います:
この世の型に押し込められることをやめなさい。何も考えずに、周りの人たちのやっていることに合わせてはいけない。むしろ、神をじっと見詰めなさい。そうすれば、あなたたちはうちから新たにされ、変えられていくのです。神の求めていることは何であるか理解するように努力して、それに積極的に応えなさい。周りの社会はいつもそのいいかげんな生き方に倣わせようとしているけれども、一方、神はあなたのうちにある素晴らしさを引き出し、一人前の人間に仕立ててくださるのです。

これは決して安易なことではないと思います。わたしは、毎朝、着替えながら主の祈りを唱えます。「み国が来ますように、みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように」と言ってからだいたい30分以内にこの世の型に押し込められてしまいます。我が先で、慌しくて、気を散らされたもう一人に。

だからこそ、毎朝「誘惑に陥らせず、悪からお救いください」ということをも祈っています。四方八方から悪魔に悩まされてしまうのです。つまずかせようとしています。悪魔はとても機敏で、その人その人にあった誘惑をもたらすのです。人によって甘いものだったり、いけない雑誌だったり、意地の悪い思いだったり、噂話だったり、お金に関する選択だったりして。

しかしながら、21世紀の日本社会に住んでいるわたしたちにとって、共通して気をつけないといけないところがあると思います。クリスチャンとして、わたしたちは流されないように精一杯立ち向かわなければならないと思います。

A. 一つは、子どもに対する態度だと思います。日本は、実施される中絶の数において、世界のトップクラスに入ります。子どもにとって、母親の胎内でさえ安全でないことが多いわけです。

だけど実際にこの世に生れる子どもたちの間でも、お家が安全でないことがいかに多いことでしょうか。この一年間、病院の小児病棟に何人か、親から虐待を受けた子どものケースがありました。一生の体の傷を受けている子もいます。全員、当然心に深い傷を受けています。

このようなニュースは毎週のように耳に入ります。つい昨日、大阪で7歳の子どもがずっと虐待を受け、やがて暴行で殺されたというニュースがありました。残念ながら全く珍しくない話です。

でも報道される話だけではありません。先日、結婚を考えている女性と話していて、殆ど毎日夜12時前に帰ることがない仕事をしながらどうやって子育てができるか、と悩んでいたのです。わたしは「それは無理です」とずばり言いました。それはある種の育児放棄だから、そういう仕事をやめてから子供を考えなさい、と言いました。

少なくとも、彼女は悩んでいました。自分の子のクラスメートの間で、下校して夕方7時、8時、9時まで一人で留守番する子は1人だけではありません。両親は何を考えているでしょうか。借金でもあるかも知れません。もしくは、快適な生活やいい旅行や私立学校のためにお金をためているかも知れません。会社での立場を失いたくないかも知れません。

分からないけれどもいずれにしても子どもの心はどうなるのでしょうか。愛情に包まれている安心感。お父さんとお母さんにとって何よりも大事な存在だという自覚。

今の日本社会においてこそ、クリスチャンの両親だけではなくて、子どもたちとの関わりのある人――つまりわたしたち全員が気をつけないといけません。経済的な余裕、キャリア、自己実現などを子どもよりも大事にする社会に倣ってはいけないのです。

子どもたちは、神からの贈り物です。わたしたちに託されている聖なる責任です。神は特に弱い者、無防備な者に心を配られます。なおさら弱くて無防備な子どもたちはそうです。

B. もう一つ要注意なところは、人間理解です。世の中で、人間の命は、その生産性や役に立つことによって評価されがちです。

何も生産しない、もう役に立たないと思われる人は、では、価値がないのでしょうか。例えばアルツハイマーを患っている人。寝たきりになっている人。知的障害のある人など。こういう人たちは社会から除外されるべきでしょうか。実際にそう訴える人はいます。

生産しない人、「役に立つ」と思われるようなことができない人はどうも「迷惑」とされる傾向は日本に強いと思います。こういう考えをうのみにしている人が緩和ケア病棟に入院すると大変なことになります。当然、生きたいという望みはあります。愛する人とできるだけつながっていたいのです。でも同時に非常に不安。生きることそのものが周りの人に迷惑に過ぎないと感じるからです。生きる価値がないと思ってしまいます。だから鬱っぽく、早く終わりにしたいと嘆いて最期を迎えるのです。

役に立たないと思われる人生をできるだけ早く終わらせる動きはどんどん盛んになっています。今は、ヨーロッパで最も著しくなっていますが、アメリカと日本は同じ方向に進んでいます。

わたしたちは気をつけないといけません。命を粗末にしてはなりません。人間の尊厳は、神にかたどって造られていることにあって、役に立つかどうかとは関係ありません。

III. 素直に自分を見詰める
最後に、パウロは、自分自身を素直に見詰めることを進めています。
「自分を過大に評価してはなりません。むしろ、神が各自に分け与えてくださった信仰の度合いに応じて慎み深く評価すべきです。」12:3

他の人の弱点を探すのが得意であるのは、わたしだけではないはずです。逆に、自分自身の粗削りのところは見逃しやすいです。

皆さんは、人生で今何をしているのでしょうか。どこに向かっているのでしょうか。いつまでも時間があるわけではありません。皆さんは分かりませんが、自分の場合は、なりたい自分、神に望まれている自分と今現在の自分との間のギャップがあることを痛感しています。かなり大きなギャップです。

自分のことで、気づいていない欠点は何でしょうか。神の恵みによって変えていただくべきところは何でしょうか。魂の庭で生えている雑草は何でしょうか。

こういう雑草を見極める、現実的な目で自分を見詰めるスキルは信仰生活に必要不可欠。ここで、昔からの習慣として、毎日の振り返りが非常に役立ちます。5分でもかけて、去った一日を振り返って、神の恵みが働き掛けていたところはどこだったのか、み心に応えていなかったときはいつだったのか。

もっともっと話すべきことがありますが、ここまでにします。パウロは、イエス・キリストに従う人生・信仰生活のビジョンを描いてくれています。このような信仰生活は難しいです。たまには不便で、つらいことがあります。でも、この上ないやりがいがあるので、挑戦してみませんか。

2011年8月26日金曜日

friday afternoon at the crematorium

I had the privilege of accompanying a family to the crematorium this afternoon, after the funeral of their 82 year old mother/grandmother at the chapel. She was a Christian, who died last Tuesday in the hospital.

I always say a final prayer over the body at the entrance to the oven. Then the men with white gloves and limousine driver hats shove the coffin in and close the golden doors and push a button. Then...we wait.

It takes about an hour to thoroughly burn the body of a non-obese adult. There are waiting rooms upstairs at the crematorium. As the priest, I'm always expected to lead the group, which includes maybe 10-20 relatives and close friends. A close family member carries the blown up photograph of the deceased.

The staff always tells us to watch our step on the escalator. Why is that? Does any sighted person actually stumble when getting on to an escalator?

As we enter the waiting room, we are handed a paper o-shibori, I guess because even being around a dead body is icky. Various cakes, chips, rice crackers, as well as bottles of drinks are on small tables around the room. Oolong tea, orange juice, beer. They come around later with pots of hot green tea.

This hour of waiting with the family is different every time. Sometimes, the family is shaken and subdued. Sometimes there's a lot of tears and sniffles. Sometimes they want to tell me about the person who has died. Sometimes they want to talk about anything else. I've had some really fun and interesting conversations at such times. Occasionally, it can be quite jovial and raucous, almost a party.

Once, I even got an acupressure treatment right there at the table.

The worst, though, is when a child has died. Bleak, raw pain, more or less well masked by the formalities of conversation. Once in a while, I get the big questions. Is my baby in heaven? Is he lonely? Why did she die? Will I ever feel all right again?

Today was a little...businesslike. The woman who died was a dedicated wife and mother and then grandmother, who spent her life supporting and caring for her dentist husband and all those around her. Her best friends were her classmates at the girl's high school she attended. They went through the War together, working and sleeping at a factory more often than studying. Three of the ladies were there.

I enjoyed talking with her granddaughter, a first year high-school student and cellist. We swapped orchestra stories. They are practicing every day during the summer, from 10:30 a.m. to 6:30 p.m.

The girl's father and mother were moving around most of the time, making arrangements for the post-cremation dinner and taking care of other business, I guess.

Finally, an announcement tells us it's time to go back down. I'm in the lead again.

We return to the oven, and the men with white gloves pull out the fireproof slab. I'm always surprised at how little volume of bone there is. They transfer it all to a stainless steel box, and take it to another table where there is a ceramic urn with the person's name on it.

Family members pair up and use oversize chopsticks to pick up a bone fragment and put it in the urn. Two people, two pairs of chopsticks, one piece of bone. That's the reason why you can never use chopsticks to pass food directly to another person in Japan. You invite the spectre of death if you do that.

Finally, after using a powerful magnet to suck out all the coffin nails, the main bone packer guy goes through a practiced shpiel about what bones are what. He arranges the skull parts to go on top. He always points out the top spinal vertebrae, which is supposed to look like Buddha sitting lotus position. (Today, he stopped himself and said, "Oh, but you guys are Christian" which was actually a wrong assumption. Besides me and the one going into the urn, I don't think there were any Christians present.)

Sometimes they even put the person's eyeglasses in the urn. If I go to heaven, or the Pure Land, or get reincarnated or what have you, do I really have to keep my physical defects? I want to come back with an Adonis body, serious abs and 20-20 vision.

Then they close up the urn and bow for about the 18th time. And, with urn and photograph in hand, everybody loads up the microbus to go have dinner.

May the souls of the faithful departed, by the mercy of God, rest in peace.

2011年8月25日木曜日

the right to live

"Destruction of the embryo in the mother's womb is a violation of the right to live which God has bestowed on this nascent life. To raise the question whether we are here concerned already with a human being or not is merely to confuse the issue. The simple fact is that God certainly intended to create a human being and that this nascent human being has been deliberately deprived of his life. And that is nothing but murder."
--Dietrich Bonhoeffer, Ethics (New York; Macmillan, 1965) 175-6.

「母の胎内にいる胎児を滅ぼすことは、神がこの初期の命に与えてくださった生きる権利を侵害することである。ここで胎児がすでに「人間」であるかどうかという疑問を提起するというのは、問題をごまかすことに過ぎない。実際、神は人間を造るご意志があって、この初期の人間は命が意図的に奪われてしまったのである。それは殺人のほかにならない。」

ーディートリッヒ・ボンヘッファー『倫理』

2011年8月24日水曜日

人の悪口

「彼から人の悪口を一度も聞いたことがない。」

先々週、礼拝堂で尊敬すべき年長の聖歌隊メンバーが亡くなった。その葬儀は僕がアメリカにいっている間に行われたので、残念ながら立ち会うことができなかった。

この方は病院のもと職員でもあった。経営管理に関わる立場で、病院の成長に伴うさまざまなトラブルが発生する時代を過ごした。よくそういうトラブルの矢面に立っていたようである。

強い意見を持ちしばしば衝突し合っていた管理者の中にいたはず。決して穏やかな環境ではなかったと思う。

それにも関わらず、先日、亡くなった方の同僚から上記の言葉を耳にした。

そう言われてみると、チャペル委員会(礼拝堂の運営委員会)や聖歌隊の飲み会など、いろいろな場面でこの方と接する機会があったけど、いつもポジティブな話し方をしていたよね、と今になって気づいている。

「人の悪口を一切言わない。」そういうポリシーを徹底できる人はそんなに多くはいないと思う。少なくとも、そう思ってもらえない自分がいる。

ところが、聖書によれば、悪口を言わない人でない限り、神に近寄れない。
 主よ、どのような人が、あなたの幕屋に宿り
 聖なる山に住むことができるのでしょうか。 
それは、完全な道を歩き、正しいことを行う人。
 心には真実の言葉があり 
 舌には中傷をもたない人。
(詩編15編1-3)

まさに、僕はstill a long way off だね。罪深い心が新たにされるのは、いかに時間がかかるか!

2011年8月23日火曜日

just follow

Just back from a trip, my first, to Montana. Part of me is still there, actually. The big, wide sky and clear water and a hundred shades of green and yellow and cows did my soul a world of good.

So did being with my good friend, Bart, one of that rarest of breeds, the married Catholic priest, and with his (publicly acknowledged!) wife and kids. Including our beloved god-daughter, whom we were overjoyed to meet for the first time since she was a little bug curled up in a sling hanging from her mama's neck. (It's funny how praying for somebody even from afar usually makes you come to love them.)

Thanks to Bart, my Big City family got to experience the joy of floating down the Bighorn River, one of the planet's best trout rivers.

Bart rowed us to all the right spots in the river, deftly avoided the half-hidden rocks and stumps, told us where to cast our spinners and how to bring them in. He even pulled out a few hooks for us, including the one embedded in my scalp by my enthusiastic son.

On our second trip, we pulled in 15 brown trout and rainbow trout and even a lowly and despised (by Bart) whitefish. I, who never has luck with the lure, started feeling like a bona fide angler.

The river was generous to us. And Bart was a good guide.

But perhaps the most transfixing experience was being out on a lake up in the soaring mountains just north of Yellowstone. East Rosebud Lake, got to via a very long, gravel road and after passing through Roscoe, Montana, where they reportedly sell T-shirts that say "Where the hell is Roscoe?"

In the morning all of us got out onto the clear, deep water with canoes and single and two-man kayaks. We stayed in close to the shore at first, for the sake of the little ones who were just learning, but we all got bolder as we got the hang of things.

Here again, Bart led the way, with my little girl and his little boy and Zinger the cold-hearted rat terrier on board his canoe. Bart pointed out fish swimming down below us. He took us up a tributary where it got so shallow we had to get out and pull for a bit, the melted snow so chilly it stung the ankles.

He also warned us away from the far end of the lake, where the outflow was so strong you were likely to get pulled out of the lake and never, ever return. Or at least that's how I told it to my boys.
+   +   +
It seems to me that the life of faith is a bit like being out on the water with a good guide.

We have Jesus, and Mary, and all the saints to teach us where to go, where it is good to go. They are our guides. Just as my friend was intimately familiar with the river he has known from childhood, and the lake, too, Jesus and his saints are intimately familiar with the heart of God, with the good and gracious ways of the Lord.

If we follow where our guides go, do what they teach us to do, we can avoid the hurtful rocks of bad choices, avoid being drawn into situations we don't want to find ourselves in, avoid things that will pull us away from the love of God.

Likewise, we can find the spots "where the fish are"--where fruitfulness and joy await, where our efforts can make a real difference in the world. Become fishers of men, even.

We can try to make life up as we go along. Good luck with that.

Or, we can entrust ourselves to the guides God has provided for us.

2011年8月7日日曜日

祈りから期待できること(ヨナ2:1-10)

聖霊降臨後第8主日(A年・特定14)
聖路加国際病院聖ルカ礼拝堂
2011年8月7日・10時30分 聖餐式


今日は、おぼれそうになった人が助かった話は二つあります!普段、福音書に基づいてお話しますが、今日は旧約聖書のヨナ書について皆さんと一緒に考えたいと思います。

正直に言えば、わたしにとってこのヨナと巨大な魚の話は信じ難いものです。子供の頃、日曜学校でこれを学んだら「本当の話」としてすんなりと受け入れましたが、大人になるとよく考えもしないで「作り話」として見なすようになりました。でも今は、どう捉えればいいか、分からなくなっています。

わたしたちはみんな自然主義的な世界観を教え込まれました。すべての出来事に対して、化学的な常識範囲内の説明を求めるように教わったのです。このような話を否定する傾向が強いのです。

何よりも先に申し上げたいのは、ヨナの物語をどう捉えようと、それは救いに関わることではない、ということです。イエスを救い主として、主として信じるか信じないかとは全然違う次元です。でも、ヨナの話を思い巡らす際、二つ留意点があると思います。

一つは、ヨナが歴史的人物だった、ということです。聖書の他のところにもヨナが出てきます。
「イスラエルの神、主が、ガト・ヘフェル出身のその僕、預言者、アミタイの子ヨナを通して告げられた言葉のとおり、彼はレボ・ハマトからアラバの海までイスラエルの領域を回復した。」(列王記下14:25)

ヨナ書の冒頭にも:「主の言葉がアミタイの子ヨナに臨んだ」(ヨナ書1:1)と。同じ人物です。だから、ヨナは単にたとえ話にだけ出て来る登場人物ではなくて、紀元前8世紀の半ば、北のイスラエル王国に住んだ、父親と同じように預言者として活躍した人でした。

二つ目の留意点は、イエスがヨナについて仰ったことです。マタイの福音書12章に:
「イエスはお答えになった。『よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがるが、預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。つまり、ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、大地の中にいることになる。ニネベの人たちは裁きの時、今の時代の者たちと一緒に立ち上がり、彼らを罪に定めるであろう。ニネベの人々は、ヨナの説教を聞いて悔い改めたからである。ここに、ヨナにまさるものがある。』」(12:39-41)

まとめてみると、ヨナは実在した歴史的人物。そしてイエスはヨナの物語を真剣に受け止められました。

もう一つ言わせていただくと、わたしたちはよく知っているように(知っておいた方がいいように)、神のことを、「完全に理解できる」という狭い枠組みにはめ込もうとすることはふさわしくないのです。そうすると、受肉(み子が人としてお生まれになった出来事)はどうなるのでしょうか。イエスのいやしの「力の業」は?復活は?皆さんご自身の祈りがかなったことを完全に理解できるのでしょうか。

つまり神は、常に完全に理解できる、自然主義的な先入観に沿った形でしか動けないはずはないのではないかと思います。

とにかく、このヨナの話を何らかの歴史的出来事として捉えるのか、神話的な伝説のようなものとして捉えるのか、その中間なのかを別にして、確かに言えることはこれです:神のご計画によってヨナ書がわたしたちの聖書にあるというのは、この話から学ぶべきことがある、ということです。

先ほど読んだように、イエスは「預言者ヨナのしるし」と仰ったのです。ヨナの物語はしるしです。神はどういうお方なのか、とりわけ神はどのようにわたしたちの祈りに答えてくださるかを示すのです。

だから、少し腰低くして、神のなさる業は必ずしも分かりやすいものではないということを認めて、この話について考えましょう。そうすると、きっとこのみ言葉を通して学ぶことが出て来ると思います。

☆これまでの話...☆
ヨナ書のこれまでの話は、覚えているでしょうか。簡単に言いますと、神はヨナを派遣しようとしたらヨナは「嫌だ!」と拒否しました。神は、ヨナをニネベという都に送って、ニネベの人たちに「罪を悔い改めなさい」というメッセージを伝えてもらおうとなさったのです。

ニネベとは、イスラエルの敵国であるアッシリア帝国の首都でした。(韓流ブームのヨン様をピョンヤンに遣わして、金正日に「悔い改めなさい」と言わせると同じようなことです。)

ニネベはイスラエルより東の方にありますので、ヨナは西方向に逃げてしまいます。タルシシュ(=スパイン)行きの船に乗ってに逃げ出します。だが、神は船をものすごく大きな嵐に遭遇させます。船乗りたちは誰の責任で嵐が起こったか、くじを引きます。そのくじはヨナに当たってしまいます。ヨナは責任を認めて、「俺を海に投げれば嵐はおさまる」と言います。船乗りたちは結局ヨナの言うとおり彼を海に投げ込みます。ヨナは海底に沈み始めます。溺れそうになります。

さて、そのとき、何が起こったでしょう?ヨナは神に叫びを上げたのです。その瞬間で思い出します。主は「恵みと憐れみの神であり、忍耐深く、慈しみに富み、災いをくだそうとしても思い直される方です。」(ヨナ4:2)

(先週、わたしたちはネヘミヤ書で同じことを読みましたね。旧約聖書一貫して...)

だから、どんどん海底に沈み、海草が頭に絡みつきながらヨナは神の憐れみを切に求めます。そうすると、神は巨大な魚を送り、ヨナを救ってくださいます。今日、わたしたちが呼んだ箇所は、助かったヨナの祈りです。

☆神はその子どもたちの叫びを聞き入れられる☆
ここでの最も重要なメッセージがあります。すなわち:苦難の中で、その子どもたちが叫ぶとき、神は答えてくださる、ということです。今日の説教からこれだけ覚えていただければ嬉しく思います。

ヨナ書2:2-3「ヨナは魚の腹の中から自分の神、主に祈りをささげて、言った。苦難の中で、わたしが叫ぶと/主は答えてくださった。/陰府の底から、助けを求めると/わたしの声を聞いてくださった。」

神は、心の込めていない祈りにはあまり耳を傾けられないと思います。また、自分の力で何とかことを収拾できる人に関して、普段ほっておいてくださいます。でも本当に困っているとき――「陰府の底から」とヨナが言いました。暗闇の中で道に迷うとき、死にそうになっているとき、神の光から遠く、遠く離れているときに、叫びを上げたら、主は答えてくださるのです。詩編145が言うように:
「主はおられる、助けを求める人の近くに∥ 心から祈る人の傍らに
 神を畏れる人の願いを聞き入れ∥ その叫びを聞いて助けられる」
(詩編145:18-19)

☆神はその子どもたちの背きにも拘らず祈りを聞き入れられる☆
次に気づいていただきたいのは、神はわたしたちの背きにも拘らず祈りを聞き入れられる、ということ。

ヨナは神から逃げていた最中、海に投げ込まれました。み心に反抗していました。そこでヨナは、「主よ、ごめんなさい。悪かったです。主の道に立ち帰りました。み心に励んでいます。助けてください」とは言わないのです。違います。それらのことの前に、神はヨナの祈りに応えてくださったのです。

そういう祈りは神に届きます。詩編50編では、主はこう言われます:
「苦悩の日にわたしを呼び求めよ∥ わたしはお前を救う」(詩編50:15)。

つまり、困った時の神頼みは、神の望みでもあるのです!

今日、ここにも、神から逃げていたり、み心に背いていたりして、困っている方はいらっしゃるかも知れません。家でも仕事でも信仰生活でも越えるべきではない一線を踏み越えたかも知れません。

その場合、果たして神の憐れみを望めるかと悩んでいたら、ヨナの話をみて安心してください。ヨナはその背きのせいで困っていました。それにも拘らず、神は祈りを聞き入れ、またチャンスを与えてくださったのです。皆さんは、同じような立場だったら、悔い改めて主に祈ってください。その背きにも拘らず、神は祈りを聞き入れてくださるのです。

☆神はご自分自身の裁きにも拘らず祈りを聞き入れられる☆
 

そして、神はご自分自身の裁きにも拘らず祈りを聞き入れられる、ということが分かります。
ヨナ書2:4「あなたは、わたしを深い海に投げ込まれた」とヨナ。

実際にヨナを投げ込んだのは船乗りたちだったのですが、それは神のご意思だったことは、ヨナに分かります。嵐も、海に投げ込まれることも。ヨナは主に背いたので、主に罰せられたのです。

時たま、神はわたしたちに大変な目に遭うことをお許しになります。だからと言って、すべての困難は神から送られたものという話ではありません。でも確かに、神はわたしたちの困難をうまく利用して、わたしたちの目を覚まさせたり、信仰の怠惰から呼び起こしたりなさるのです。

そこで、この窮地にわたしを立たせたのは神ならば、果たして神の助けを求める意味はあるのか?ヨナはまさにそうしたのです。海底に沈んでいるのは神の裁きによるものだと分かった上で、祈ったのです。

すると、神はその祈りを聞き入れ、ヨナを救ったくださいました。わたしたちがみ心に背くことがあっても、神はただ単に懲らしめることはなさいません。いつも神の狙いは、わたしたちを救うことです。一時的にわたしたちを窮地に立たせても、それはわたしたちを救おうとしておられるからです。

今の困難は神からの試練だと思っていても、助けを求めることをためらわない方がいい。神はご自分自身の裁きにも拘らず祈りを聞き入れられるからです。

☆神は「無理」なときに、しかもちょうど間に合うように祈りを聞き入れられる☆
 

4番目のポイントは、神は「無理」だと思われるときにも、わたしたちを救い出してくださいます。
ヨナ書2:6-7「大水がわたしを襲って喉に達する。/深淵に呑み込まれ、水草が頭に絡みつく。
 わたしは山々の基まで、地の底まで沈み/地はわたしの上に永久に扉を閉ざす」


荒れ狂う嵐のただなかでヨナは海に投げ込められました。海底に飲み込まれました。水面に戻ろうと必死に泳いでいたけど、海草に巻き込まれました。ああ、怖い!無理な状況になるまで、神はヨナを助けてくださらなかったようです。

信仰生活ではそういうことはよくあると思います。いろいろな問題が単独で発生すれば何とか対応できるでしょうけど、重なると圧倒されそうになってしまいます。泣きっ面に蜂!

まるで神はわたしたちの手上げを待っていていらっしゃるのではないかと感じるときがあります。自分には自分を救う力がないことに気づくまで。

しかし、完全に無理だと思ったら、神が登場されます。神の助けを求めたときに、それを得られないが、ぎりぎり間に合うような感じです。

ブラックゴスペル曲があります。「He may not come when you want Him but He's right on time.」(来て欲しいときにおいでにならないかもしれんが、ぎりぎり間に合う)

クリスチャンである限り、どこかでハバククのような思いを胸にすることがあるでしょう:「主よ、わたしが助けを求めて叫んでいるのに/いつまで、あなたは聞いてくださらないのか」(ハバクク1:2)ヨナを見習って、続けて祈り、続けて叫び、最終的には神の助けを得られると信じる勇気を持つのです。

☆神は段階的に祈りに答えてくださる☆

最後は、神は祈りに段階的に答えてくださるときもある、ということです。巨大な魚のお腹の中にいることは、陸地に立つほどのことではなかったのです。でも海のもくずとなるよりはましでしょう。

生ける神への生きている祈りというのは、オール・オア・ナッシングの問題ではありません。神は、わたしたちの祈りの一部分しかかなえてくださらないこともやはりあります。そして時間が経つとまたさらにかなえてくださることもあります。それまでには、どのような複雑な手配が必要だったか、分かったものではないのです。

部分的な奇跡をないがしろにしてはいけません。神は段階的ににわたしたちを癒してくださったり、階段的にわたしたちの状況を良くしてくださったりすることもありがたい話です。続けて祈りましょう。

☆どういう返事をすればよいか☆
 

こうやってヨナの話から、祈りから何が期待できる、示唆されることがあります。そして神に差し上げるべき返事も示されています。すなわち、感謝です。そしてみ心に応答することです。
ヨナ書2:10「わたしは感謝の声をあげ/いけにえをささげて、誓ったことを果たそう。
 救いは、主にこそある。」


困ったときに神頼みする2人がます。2人とも自分には自分を救う力がないことに気づかされて、神に叫びを上げます。そして神は2人に助けを与えてくださいます。

一人は、困難から救われたので、たちまち神のことを忘れ去って、自己中心の生活に戻ります。自分の力でやっていき、神のご都合を伺わずに自分の道を決めていくのです。

もう一人は、困難から救われたので、感謝の気持ちでいっぱい。救ってくださった神を賛美します。これから、自分のできる限り、主に仕えて生きて行きたいと決心します。

この二人の間に、御利益主義とまことの信仰の違いがある気がします。

わたしたちは、困難のとき、確信を持って神に叫びを上げましょう。神は慈悲深い神ですから。そして神に示された一つ一つの恵みに感謝の気持ちを覚えましょう。

まさに「救いは、主にこそある」のです。

2011年8月6日土曜日

beginning of wisdom

"The fear of the LORD is the beginning of wisdom, and knowledge of the Holy One is understanding." (Proverbs 9:10, Job 28:28, Psalm 111:10)

The "fear"--the awe-struck reverence, the tearful speechlessness, the uprushing, overwhelming desire to shout "YES!" in the face of the transcendent, absolute Really Real whose love and power course through the universe--the LORD--and, yes, even the gut-level terror--the fear of this LORD is the beginning of all wisdom.

This week, I had the flash of insight that this statement is objectively true.

What I mean is, I had always read this as a kind of exhortation: "You should fear the LORD, so that you can begin to attain wisdom." But that's not it. It's an objective description of reality. Fear of the LORD = beginning of wisdom.

In other words, an attitude of humility and receptiveness to the Absolute is itself the access portal to wisdom. It is the entryway to the deeper dimension of the ordered, grace-infused, outward-facing life that the Bible calls wisdom. Without which attitude, wisdom is simply inaccessible. Hidden behind a veil.

That's why a person can be smart but not wise.

A Christian may well be both ignorant and foolish. Sadly, a great many Christians today provide examples of this. I'm afraid I'm among them, more often than not.

An atheist, however, may be brilliant, but can never be wise (although the current crop of Walmart variety atheists generally fail to exhibit even much that could be called brilliance. More's the pity.).

On the other hand, a Christian may be unlearned, or simple, or lack an aptitude for reasoned argument, and yet be immeasurably wise, if she has taken into herself the fear of the LORD.

I think this is true of any God-fearer, actually. Both in the Church and beyond, the starting point of wisdom lies in the knowledge that I, as limited, finite, and insignificant as I am, am in a real, living, and utterly inequitable relationship with the Almighty.

I was mulling these things over when I came across the following from Chesterton, writing about Aquinas:
"The Fear of the Lord, that is the beginning of wisdom, and therefore belongs to the beginnings, and is felt in the first cold hours before the dawn of civilisation; the power that comes out of the wilderness and rides on the whirlwind and breaks the gods of stone; the power before which the eastern nations are prostrate like a pavement; the power before which the primitive prophets run naked and shouting, at once proclaiming and escaping from their god; the fear that is rightly rooted in the beginnings of every religion, true or false: the Fear of the Lord, that is the beginning of wisdom; but not the end.”
The fear of the LORD is the access point, the entryway. Beyond this point lies the experience of the forgiveness, the mercy, the love, the tender provision of the LORD. In other words, beyond this point we encounter the face of Jesus Christ.

2011年8月5日金曜日

we are not getting wiser

I've been reading Chesterton's little book on St. Thomas Aquinas.

It is enjoyable on many levels. Getting a clearer sense of the Angelic Doctor as a man. Getting a feel for the heart of his theological vision, which turns out to be earthy, world-affirming, revelation-enlightened commonsense.

And the pure enjoyment of Chesterton's prose. And the good, solid thrubbing he gives pretentious "leading lights" of his day, who are every bit as assinine and god-denying as the ones we're stuck with.

But the overall feeling I get from reading about Thomas at this point in history--as Japan slips into a radioactive morass, and America spends its way into collapse and irrelevance, and the Islamic world devours itself and anyone else who gets too near, and the heaps of murdered babies pile up in every "advanced" nation in the world--is that, as a human race, we are WAY MORE ignorant and banal and self-absorbed than we were 700 years ago. And boring, as only the truly demonic can be boring.

99% of the world population couldn't reason its way out of a wet paper bag and wouldn't even want to, and of the remaining 1%, most want to apply their thinking skills to the justification of evildoing.

I look around and find no reason to be proud of the time in which I live.

Am I missing something?

2011年8月3日水曜日

やっぱり、忠実であること

神はジョン・ストット博士の長年の働きを通してその栄光をいろいろな形で現したと思う。その一つは、ストット博士を用いて、聖公会の中でも聖書に基づく正統的な信仰の居場所を保ってくださった、ということがあると思う。

60年以上にわたり、聖公会全体はますます大胆に異端的な不誠実へと進んでいる。少なくとも、イギリスやアメリカというかつて支配的な力を持った地域ではそういう傾向は強い。

一方では、今全聖公会の大半となっているアフリカや東南アジアの各管区は、最初から正統的な信仰を支持してきた。

ストット博士は両世界において大きな存在だった。信仰に関する真理を常に、明瞭に説く彼の熱心によって、圧倒されそうになっている西洋の信者は大いに励まされて、聖公会から離脱する誘惑に耐える力を得たのである。

また、ストット博士がグローバルサウスの各地に行き渡って証をすることによって、若い聖公会の信者の戸惑いをなくすことに至ったと思う。すなわち、欧米の宣教師たちから「これは神のみ言葉だ」と言われた聖書を受け入れたのに、今になって「その中で教えていることを真剣に受け止めなくてもいい」と言われている矛盾。

明らかになっているのは、聖書や「一度伝えられた信仰」(ユダ3)に忠実である教会は、そのコミュニティは成長して増える。そうでない教会は、縮んで死んでしまう方向にどんどん早く進んでいく、ということ。

これは、聖公会で急激に衰えている地域でも、飛躍的に成長している地域でもそうだと思う。前者の例えと言えば、イギリスにおけるアルファ系の教会植え付けブームや新しくできた北米聖公会の成長(創立以来2年も経たない間、250の教会を植え付け、1400人以上の大人に洗礼を授けている成果がある。)

ストット博士についてのある記事で、日本のことも触れられたことに驚いた。オクスフォード宣教研究センターの創立者ビナイ・サミュエル博士は次のように書いた:
広がっていく聖公会では「聖書において、エバンジェリカリズムにおいて、正統な信仰において忠実であった教会は成長してきた。日本にあったように、この様子が見られなかった教会は死んでしまった。結果として、今日、非西洋の聖公会の3分の2の教会は、聖書に忠実である、エバジェリカル系の教会になっているのである。」
死亡を宣告された教会に属しているわたしにとって、全然嬉しくない話である。でもサミュエル博士は間違っているとも思えない。

しかも、サミュエル博士がわたしたちに日本における「教会復活」の唯一の道を示してくれている気がする。どうか、主がこれを実現できる大勢の人を育ててくださるように祈っている次第である。

it's faithfulness, stupid

It seems to me that one of the ways God showed forth His glory through the long ministry of Dr. John Stott was by using him to help preserve a foothold for biblical orthodoxy within Anglicanism.

For more than 60 years, Anglicanism as a whole has moved with increasing confidence in the direction of heterodox disobedience. At least that is the case in formerly dominant regions like the UK and North America.

By contrast, in the provinces of Africa and Southeast Asia, which now make up the vast majority of the Anglican world, Anglicanism has been predominantly orthodox from the outset.

Dr. Stott was a major presence in both worlds. His consistent, clearly articulated convictions about the essential truths of the faith greatly helped to shore up the confidence of besieged Western-world believers tempted to give up on the Anglican Communion.

Likewise, Stott's witness and extensive travels to the Global South helped dispel the confusion facing younger Anglicans, namely this contradiction: You missionaries gave us the Bible and told us it was the Word of God, and now you tell us we don't need to take the Bible's teaching seriously.

The way things work is fairly clear cut: Where the church is faithful to the scriptures and "the faith once received" (Jude 3), Anglican communities grow and multiply. Where this is not the case, churches fall into ever more rapid contraction and death.

This seems to hold true both in regions where Anglicanism is waning rapidly as well as in the younger churches that are growing by leaps and bounds. Some signs of the former can be found in the Alpha church planting boom in England, and in the Anglican Church in North America (which has planted 250 churches and baptised more than 1,400 *adults* since its inception less than two years ago).

I was surprised to find Japan "outed" in this regard in one article I read on Dr. Stott. Dr. Vinay Samuel, founder of the Oxford Centre for Mission Studies, wrote this:
In the growing worldwide Anglican Communion, "where there was biblical evangelical and orthodox faithfulness, the churches grew. Where these elements were not present, the church died, as in Japan. The result today is that two-thirds of the non-western Anglican Churches are biblically faithful Anglicans of the evangelical variety."
I must say, I'm not glad to be a part of a church that has been pronounced dead. But I also do not think Dr. Samuel is wrong.

Moreover, I think Dr. Samuel points us to the only possible avenue for resurrection in Japan. May God raise up faithful men and women to make it so.

2011年8月1日月曜日

ジョン・ストット、忠実な良い僕

先週、ジョン・ストット博士(90歳)が7月27日主のもとに召されたという悲しいニュースを知りました。

ストット博士は60年にわたりエバンジェリカリズムの世界的なリーダーとして大活躍しました。英国聖公会の司祭でもありました。そしてその二つの事実が今日に至るまで互いに矛盾していないのは、大いにストット博士のお陰だと言えましょう。

(あえてカタカナのエバンジェリカリズムを使っているのは、日本語の「福音主義運動」という表現にいろいろな言外の意味が寄せられているからです。エバンジェリカリズムとは、おもに個人的回心、信仰による救い、キリストの贖罪の死、そして積極的な福音宣教・伝道を特に強調する運動と言っていいと思います。わたしから見るとキリスト教の根本だと思うけど、すっかり道に迷っている聖公会では根本は根本でなくなっている...)

ストット博士が書いた『Basic Christianity』(『信仰入門』)という本は、30代のわたしにとってイエス・キリストへの信仰に立ち帰るきっかけの一つでした。キリスト教の本質に触れる書物ですが、この本を通して教会や聖書の深さ、力強さ、そして知的魅力をかいま見ることができたのです。

これを読んでいくうちに、自分の生活を聖書に沿わせるということは、それまでに想像していたような退屈で厳しい束縛ではなくて、大きな喜びと目的意識のある人生の源になり得るのではないか、とはじめて直感することができたのです。

John Stott: good and faithful servant

(translated from the Japanese)

I was sad to read last week about the death of Dr. John Stott, called to go home to the Lord on July 27, at age 90. For more than 60 years Dr. Stott was a major figure in worldwide evangelicalism. He was also a Church of England priest. And he's one of the reasons why, today, evangelicalism and Anglicanism are not mutually exclusive ideas.

(The reason I use the English term "evangelicalism" is that the Japanese expression, literally "gospelism movement," carries a lot of baggage. Evangelicalism emphasizes personal conversion, salvation by faith, Christ's atoning death, and active evangelization. At one point I would have thought this was simply the basics of Christianity, but in the adrift at sea Anglican world, the basics are no longer the basics...)

Reading Stott's book "Basic Christianity" was one of the things that brought me back to faith in Jesus Christ in my 30s. Through that book, touching on the heart of the faith, I glimpsed the depth, the power, and the intellectual appeal of Christianity and the Bible.

It was in reading Stott that I sensed, for the first time, that to conform my life to the Bible would be, not the grim constraining grind I had come to imagine, but rather the fountain of deep joy and a sense of purpose.