From time to time, I check the record of traffic to Still a Long Way Off.
As far as I know, there are about four people in Japan who know about this blog. One of them is my wife. And even fewer people in the States (although my friend Anne at An Undercurrent of Hostility kindly linked to me from her blog--I will return the favor when I can work out how to...)
With the global reach of Internet search engines, I'm not surprised to get the occasional random visitor. I seem to get a lot of Japanese-language visitors who are searching on particular Bible passages.
I get the occasional European or Latin American visitor.
I get a fairly steady, tiny trickle of visitors from South Korea (감사합니다)
But I am mystified as to why I suddenly had 30--thirty!--visitors from Latvia last week. Or maybe it was one Latvian guy who kept coming back for seconds? Or better yet, a beautiful Latvian maiden desperate for theological enlightenment?
Seriously, why the sudden interest? Did my secret past as a CIA spy operating in Eastern Europe suddenly turn up on Wikileaks? Does the word "Kevin" mean something amusing in Latvian? Did I do something horribly offensive?
Well, all I can say is: Paldies! Let me know what you think, and why I had the pleasure of your visit.
Uz redzēšanos! Ceru, ka drīz atkal tiksimies!
2011年11月9日水曜日
2011年7月12日火曜日
暇になることの恐ろしさ
(2011年7月6日の聖路加国際病院聖ルカ礼拝堂の「夕の祈り」オルガンコンサートでの話。出席者の大半は教会に通う人ではない。30分のオルガン演奏に次いで、30分弱の祈りの中でチャプレンの「一言」がある。コンサートは無料だけど、チャプレンの話に我慢していただく、ってこと)
今までこういうことはあったでしょうか?国が何かを決めると、国民みんなが新しい家電を買わないといけないということ...?!?
わけ分かりませんが、とにかくこのカウントダウンで、もう神経質になってしまっています。今までその警告はテレビの画面の一番下にあったので、無視しようと思えばできたのに、今は、字がでかく左の方に移っています。「後18日!!」
これに強いられて、先週末、やっと地デジ対応テレビを探しに行きました。○○電機でプチパニック状態になりました。どれがいいか、迷っていました。わたしと同じようにぎりぎりまで動き出さなかった人は大勢いるし、あまり集中できないわけです。
やっと「これだ!」と思ったものに落ち着いたら、「在庫がない」と言われました。家に届くのは、早くても8月1日。
げっ!7月24日から8月1日まで---まるまる一週間や!ギョッとしました。
どうしてそこまで困るのか、自分でも分かりません。別に18日後、世の終わりが来るわけでもないけど...ただ、テレビが見れなくなるのです。もっと深刻の問題として、子どもたちにテレビを見せられないのです。
家がシーンと静かになることを想像して...代わりに何をするのか、と不安になるわけです。
+ + +
先ほど読ませていただいた聖マルコによる福音書では、イエスさまの弟子たちが舟に乗って、大きな嵐に遭難しそうになっている話がありました。
弟子たちは非常に恐れています。そこでイエスさまは嵐を静めてくださいました。
皆さんは分かりませんが、わたしはしばしば嵐のただなかにあるような気持ちになります。いつも走り回って、辛うじてやることをこなしているような感じです。病院と看護大学での仕事、ファミリーサービス、そしてこのチャペルコミュニティへの責任のバランスをはかりつつ、やっています。
結果として、「器用貧乏」---器用でも言えないから、不器用貧乏?!とにかく、すべてが中途半端になってしまいます。いつも慌てふためいてバタバタしているのです。
そこで文句を言ったりします。「ああ、忙しい!ああ、しんどい!」でも、たぶん、もっといやなのは、忙しくないことだと思います。暇になることを避けている気がします。
いつも何かをしなきゃいけないと思うのは、わたしだけではないと思います。不安に感じる人は少なくないと思います。というのは、電車とかに乗ると、7-8割の人は目が携帯にくぎ付けなんです。何をしているか分かりません。メールをやったり、インターネットを見たり、テレビを見たり、ゲームをしたりして。
電車だけではないのですね。歩きながら、自転車に乗りながらでも、絶えず携帯電話。
(わたしは歩きながら携帯をやってる人の前にわざわざ立ち止まるのが好きです。向こうが背の高いわたしにぶつかる寸前いきなり、ウワッ!と気づくのです。そのビックリした表情はたまらないですね!(笑))
でも携帯はただ新しくできた手段、暇にならないための手段に過ぎません。他にもたくさんあります。携帯に夢中でなければIPodや小説、漫画、雑誌、新聞、テレビに夢中になるわけです。
面白いことに、たまには、車内で座って、手に何も待たないで、ただ周りを見ている人がいたら、ちょっと警戒するのですね。その人は何?ヘンテコリンかも知れない、とゆっくりと離れるのです。
とにかく、暇にならないために、気晴らしにわたしたちはいろんな手段を使います。携帯とかIpodとか新聞そのものは良くも悪くもありません。が、このように常に気晴らしをする傾向は、ある種の中毒になっていると思います。しなきゃ落ち着かない行為になってしまうのです。
(このコンサートが終わったら、礼拝堂を出た途端に携帯をチェックするつもりでいる人は、手を挙げてください!(笑)。今でも携帯をチェックできないのがとても気になる人、手を挙げてください。たった今、こっそりと携帯電話をチェックしている人...(笑))
あるいは、帰ったら、とりあえずテレビを付けます。その内容はどうでもいい。とりあえずインターネットで、1,2,3時間を簡単に過ごします。とりあえず雑誌、小説を眠くなるまで読みます。この「とりあえず」の時間はいつの間にか多くなってしまいます。
このような「気晴らし中毒」の問題は、どんな中毒と同じように、結局不健康なのです。常に忙しくて、暇がない状態は人間らしい状態ではないのです。
健全な精神状態を保つには、時々静かになり、自分を振り返る時間が必要です。日々の生活の出来事や人との出会いから生れる経験を処理しないといけません。想像を巡らせる時間が必要です。また、(メールとかブログではなくて肉体の)人とじっくり関わる時間も必要です。自然の美しさを楽しみ、自然の力を吸収する時間も必要です。
でも魂の健全な状態も心配ですね。古代ギリシャの哲学者ソクラテスの名言があります:「吟味されない人生など、生きるに値しない。」
他の人もそうかも知れないけれども、わたしの場合は、暇になりたくない一つの理由は、自分の人生をあまり吟味したくないからだと思います。問題は、暇になると...なりたい自分に果たしてなっているのか、自分が今なんで生きているのか、本当に大事なことを守っているのか、それとも無駄なことに時間を費やしているのかなど、そういうことを考え出すので、不安です。
だから、自分の人生をあまり吟味したくないのです。でも、逆にそのまま、時の流れに身を任せるままに生きるというのも、何かもったいない気がします...
だから、結局お勧めしたいことは、時々携帯を切って、テレビを消して、読み物を横においてじっくりと自分を見つめ直すという時間を取っておくということです。誰よりも自分自身に言ってる気がしますね。)きっと、そういう時間は有意義なことになると思います。
こういうコンサートの一時は、そういう作業ができるように心を少しでも落ち着かせる効果があればいいなと思います。十分に休息した精神をもって、日々の嵐に戻って、より豊かな毎日を過ごすことにつながるといいな、と思います。
聖書日課:マルコ4:35-41皆さんは地デジ対応テレビは大丈夫ですか?
今までこういうことはあったでしょうか?国が何かを決めると、国民みんなが新しい家電を買わないといけないということ...?!?
わけ分かりませんが、とにかくこのカウントダウンで、もう神経質になってしまっています。今までその警告はテレビの画面の一番下にあったので、無視しようと思えばできたのに、今は、字がでかく左の方に移っています。「後18日!!」
これに強いられて、先週末、やっと地デジ対応テレビを探しに行きました。○○電機でプチパニック状態になりました。どれがいいか、迷っていました。わたしと同じようにぎりぎりまで動き出さなかった人は大勢いるし、あまり集中できないわけです。
やっと「これだ!」と思ったものに落ち着いたら、「在庫がない」と言われました。家に届くのは、早くても8月1日。
げっ!7月24日から8月1日まで---まるまる一週間や!ギョッとしました。
どうしてそこまで困るのか、自分でも分かりません。別に18日後、世の終わりが来るわけでもないけど...ただ、テレビが見れなくなるのです。もっと深刻の問題として、子どもたちにテレビを見せられないのです。
家がシーンと静かになることを想像して...代わりに何をするのか、と不安になるわけです。
+ + +
先ほど読ませていただいた聖マルコによる福音書では、イエスさまの弟子たちが舟に乗って、大きな嵐に遭難しそうになっている話がありました。
弟子たちは非常に恐れています。そこでイエスさまは嵐を静めてくださいました。
皆さんは分かりませんが、わたしはしばしば嵐のただなかにあるような気持ちになります。いつも走り回って、辛うじてやることをこなしているような感じです。病院と看護大学での仕事、ファミリーサービス、そしてこのチャペルコミュニティへの責任のバランスをはかりつつ、やっています。
結果として、「器用貧乏」---器用でも言えないから、不器用貧乏?!とにかく、すべてが中途半端になってしまいます。いつも慌てふためいてバタバタしているのです。
そこで文句を言ったりします。「ああ、忙しい!ああ、しんどい!」でも、たぶん、もっといやなのは、忙しくないことだと思います。暇になることを避けている気がします。
いつも何かをしなきゃいけないと思うのは、わたしだけではないと思います。不安に感じる人は少なくないと思います。というのは、電車とかに乗ると、7-8割の人は目が携帯にくぎ付けなんです。何をしているか分かりません。メールをやったり、インターネットを見たり、テレビを見たり、ゲームをしたりして。
電車だけではないのですね。歩きながら、自転車に乗りながらでも、絶えず携帯電話。
(わたしは歩きながら携帯をやってる人の前にわざわざ立ち止まるのが好きです。向こうが背の高いわたしにぶつかる寸前いきなり、ウワッ!と気づくのです。そのビックリした表情はたまらないですね!(笑))
でも携帯はただ新しくできた手段、暇にならないための手段に過ぎません。他にもたくさんあります。携帯に夢中でなければIPodや小説、漫画、雑誌、新聞、テレビに夢中になるわけです。
面白いことに、たまには、車内で座って、手に何も待たないで、ただ周りを見ている人がいたら、ちょっと警戒するのですね。その人は何?ヘンテコリンかも知れない、とゆっくりと離れるのです。
とにかく、暇にならないために、気晴らしにわたしたちはいろんな手段を使います。携帯とかIpodとか新聞そのものは良くも悪くもありません。が、このように常に気晴らしをする傾向は、ある種の中毒になっていると思います。しなきゃ落ち着かない行為になってしまうのです。
(このコンサートが終わったら、礼拝堂を出た途端に携帯をチェックするつもりでいる人は、手を挙げてください!(笑)。今でも携帯をチェックできないのがとても気になる人、手を挙げてください。たった今、こっそりと携帯電話をチェックしている人...(笑))
あるいは、帰ったら、とりあえずテレビを付けます。その内容はどうでもいい。とりあえずインターネットで、1,2,3時間を簡単に過ごします。とりあえず雑誌、小説を眠くなるまで読みます。この「とりあえず」の時間はいつの間にか多くなってしまいます。
このような「気晴らし中毒」の問題は、どんな中毒と同じように、結局不健康なのです。常に忙しくて、暇がない状態は人間らしい状態ではないのです。
健全な精神状態を保つには、時々静かになり、自分を振り返る時間が必要です。日々の生活の出来事や人との出会いから生れる経験を処理しないといけません。想像を巡らせる時間が必要です。また、(メールとかブログではなくて肉体の)人とじっくり関わる時間も必要です。自然の美しさを楽しみ、自然の力を吸収する時間も必要です。
でも魂の健全な状態も心配ですね。古代ギリシャの哲学者ソクラテスの名言があります:「吟味されない人生など、生きるに値しない。」
他の人もそうかも知れないけれども、わたしの場合は、暇になりたくない一つの理由は、自分の人生をあまり吟味したくないからだと思います。問題は、暇になると...なりたい自分に果たしてなっているのか、自分が今なんで生きているのか、本当に大事なことを守っているのか、それとも無駄なことに時間を費やしているのかなど、そういうことを考え出すので、不安です。
だから、自分の人生をあまり吟味したくないのです。でも、逆にそのまま、時の流れに身を任せるままに生きるというのも、何かもったいない気がします...
だから、結局お勧めしたいことは、時々携帯を切って、テレビを消して、読み物を横においてじっくりと自分を見つめ直すという時間を取っておくということです。誰よりも自分自身に言ってる気がしますね。)きっと、そういう時間は有意義なことになると思います。
こういうコンサートの一時は、そういう作業ができるように心を少しでも落ち着かせる効果があればいいなと思います。十分に休息した精神をもって、日々の嵐に戻って、より豊かな毎日を過ごすことにつながるといいな、と思います。
2011年6月3日金曜日
still not sure
One of the things that kept me from starting a blog is a sneaking suspicion that blogs are evil.
Mind you, not serious, Level 5, grab your crucifix and holy water kind of evil. But a little bit evil, in that blogs contribute to the massive erosion of physical, interpersonal contact that is engulfing our world.
Get on a subway in Tokyo, nearly everyone is texting or watching TV on their cell phones. If not, they're zoned out plugged into an IPod. A smattering of old-school nonconformists are reading manga or old-fashioned paperbacks.
The sidewalks aren't much better. People careen around, heads down, monads with their brains suctioned on to some sort of electronic device. There's always a moment of shock when they look up just before plowing into a person or stationery object.
Even friends, colleagues, couples sitting in a restaurant, at the slightest pause in the conversation whip out their cell phones to check for messages or whatever they do. Often there's no conversation at all, just two people texting next to each other.
This trend of virtualizing all human interactions is evil. Blogs are part of that.
I'm not saying that blog interactions aren't meaningful. I'm stimulated and encouraged and challenged by the blogs that I read. I feel a real connection with the people who write them. I pray for them when they're sick or pregnant. I'm sad when they experience a loss.
But there's a problem when we go to the blogosphere to engage in interactions instead of dealing with the warm, breathing human beings who are right next to us.
God places us in communities to stimulate and encourage us, yes, but also to frustrate and infuriate and confuse us. Dealing with people and all their warts, not just the parts they choose to publish, is part of how we grow in charity. Letting people deal with us and all our warts is part of how we grow in humility and grace.
But at the end of the day, it's not just about my stimulation or encouragement, or even my personal growth. God uses local communities of ill-equipped, stumbling and plodding men and women to bring transformation and healing and grace to whole districts and cities and nations.
So if a blog is a source of inspiration or encouragement or comfort or challenge, that is a good and godly thing. But if the blogosphere is the only place where you really engage with other human beings, I think that's a problem.
Note to self: Look up. Log off. Get out of the house. Get out into real life.
Mind you, not serious, Level 5, grab your crucifix and holy water kind of evil. But a little bit evil, in that blogs contribute to the massive erosion of physical, interpersonal contact that is engulfing our world.
Get on a subway in Tokyo, nearly everyone is texting or watching TV on their cell phones. If not, they're zoned out plugged into an IPod. A smattering of old-school nonconformists are reading manga or old-fashioned paperbacks.
The sidewalks aren't much better. People careen around, heads down, monads with their brains suctioned on to some sort of electronic device. There's always a moment of shock when they look up just before plowing into a person or stationery object.
Even friends, colleagues, couples sitting in a restaurant, at the slightest pause in the conversation whip out their cell phones to check for messages or whatever they do. Often there's no conversation at all, just two people texting next to each other.
This trend of virtualizing all human interactions is evil. Blogs are part of that.
I'm not saying that blog interactions aren't meaningful. I'm stimulated and encouraged and challenged by the blogs that I read. I feel a real connection with the people who write them. I pray for them when they're sick or pregnant. I'm sad when they experience a loss.
But there's a problem when we go to the blogosphere to engage in interactions instead of dealing with the warm, breathing human beings who are right next to us.
God places us in communities to stimulate and encourage us, yes, but also to frustrate and infuriate and confuse us. Dealing with people and all their warts, not just the parts they choose to publish, is part of how we grow in charity. Letting people deal with us and all our warts is part of how we grow in humility and grace.
But at the end of the day, it's not just about my stimulation or encouragement, or even my personal growth. God uses local communities of ill-equipped, stumbling and plodding men and women to bring transformation and healing and grace to whole districts and cities and nations.
So if a blog is a source of inspiration or encouragement or comfort or challenge, that is a good and godly thing. But if the blogosphere is the only place where you really engage with other human beings, I think that's a problem.
Note to self: Look up. Log off. Get out of the house. Get out into real life.
2011年6月2日木曜日
my first blog
Certain I have almost nothing new or worthwhile to add to the blogiverse, I have put off creating a blog. But stories don't have to be wholly original to be worth telling. And maybe an interesting thought or two will stray through my brain from time to time.
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