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2013年5月29日水曜日

築地風琴会 第3回「平和を願うつどい」 説教

1920年代、ロンドンタイムズ紙はいろいろな有名人にエッセイを依頼した。そのテーマは「世の中の何が間違っているでしょうか」という質問。

当時のイギリスの批評家、GK・チェスタートンが提出したエッセイ(手紙の形になっている)は次の通り。(全部読むが、時間は大丈夫でしょうか):
ロンドンタイムズ新聞 御中 
拝啓 
わたしです。 
       敬具 
GKチェスタートン
+   +   +
世の中で間違っているのはGKチェスタートン本人だ、ということ。

世の中で間違っているのはわたしたちである。世界平和を願うことはいいんだけど、そういう現実もまず受け止めなければならない...

世の中のすべての苦悩を合わせれば、おそらくその9割ぐらいは、わたしたち人間が原因となっている。人間の欲張り、過剰消費、無知と無関心が。

毎日、予防し得る病気で数千人の子供が亡くなる。薬は十分あるけれども、行けてないだけである。

今現在、地球は世界人口の一人当たり2,700 kcalの食物を作れる。地球に住んでいる人全員のために十分の食べ物がある。にも拘らず、7人の一人は常に空腹状態にいる。昨日も今日もお腹がすいている。その大半はアジア地域に暮らしている。

そういう現実を見て見ぬふりをして日本のテレビで芸能人が一晩中レストランのメニューの全品を食べながら「お腹が痛い!」と文句を言う番組がエンタテインメントとしてあったりする。
+   +   +
世の中で間違っているのはわたしたちである。

世界平和を願うことはいいんだけど、そういう現実もまず受け止めなければならない...

政府とか、よその国や国民とか、遠く離れたところで紛争を引き起こしている「悪者」をとがめるように見ながら、隣に住んでいる人は「ウザイ」とずっと恨んだり、友人を赦さないでいたり、親戚とお金のもめごとに巻き込まれたりするのであれば、とがめるべき人はだれになるだろうか。

世界平和を願いながらも周りの人との平和を実現できないわたしたちなのではないだろうか。
+   +   +
世の中で間違っているのはわたしたちである。私たち人間の心が歪んでいるわけである。

人間は本来、平和の中で暮らせるように造られた存在である。

聖書では「平和」を「シャロム」と言う。このシャロムという言葉は「争いのない状態」よりはるかに深い意味を持つ。シャロムは平和、祝福、幸福、麗しさ――みんなが自分らしく仲良く、喜びと感謝をもって共に生きる状態を表す、とても素敵な言葉である。

人間は本来こういったシャロムを味わい、これを増やし、これを周りの人と分かち合うように造られた存在なのである。

でも心は歪んでいる。壊れたたるが水をためておけないと同じように、わたしたちの心はこういうシャロムを保てない。常に漏れている感じ。
+   +   +
世の中で間違っているのはわたしたちである。

だから、もし平和を願うのであれば、わたしたち自身の心が新たにされるようにも祈らなければならない。壊れた心が癒されるように。

自分のことばかりを考える日々から抜け出して、神のことを思い起こして、命の源である神に感謝することをもう一度学ばなければならない。手にしがみついているものを手放して、あるいは軽くつかむことを学ばなければならない。

そして周りの人に幸せをもたらすことの中に自分の幸せを見出すような人にならなければならない。
+   +   +
平和というのは、わたしたちの心から始まるものだ。心が新たにされて、神の平和を保てるようなものになるように祈っていきたいと思う。

2012年11月14日水曜日

謙虚な人になる練習を(マルコ9:30-37)


聖霊降臨後第17主日(B年)
聖路加国際病院聖ルカ礼拝堂
2012年9月23日・10時30分 聖餐式

イエスが座り、十二人を呼び寄せて言われた。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」(マルコ9:35
この世による「価値あるもの」の概念を真っ向から否定するのは、キリストの十字架。偉い人はだれか。政治家?軍事的指導者?大金持ち?セレブ?優等生?会社の人気者?違う。天から見れば、これらの「ステータスの高い」人たちは、自分を低くして周りの人に仕える者と比べたら、取るに足りない人物ばかり。永遠の命に至る道は十字架しかない。この道を歩む人は、世の中では重要だと言われていることを無視して、恵みの喜びへと目を向け直すのである。

「途中で何を議論していたのか」32)。これを聞かれた弟子たちの顔を想像しやすい。えっ?ヤベッ!バレタ!「彼らは黙っていた。途中でだれがいちばん偉いかと議論し合っていたからである」33

これは、人間としてどれが素晴らしいかというよりも、もっと政治的な話。つまり、「新内閣」で有利な地位に就こうと画策しているわけ。まだまだ弟子たちはイエスのことを勘違いしている。政治的な指導者としてイエスが国をローマの圧政から解放して、建て直してくれる、と思っていたのである。

イエスはその「マニフェスト」を「神の国」と呼んでいる、と思っている。確かにその内容は理解できない部分もあるし、イエスは何だかわけの分からない「死んでよみがえる」話もしているけれども、結局はローマ帝国やローマに操られているユダヤ人たちなどを一掃して、強いイスラエルを取り戻してくれるに違いない、と弟子たちが期待していたわけである。

そしてイエスが国を建て直してくれたら、その「新内閣」では誰がイエスの右腕になるとか、誰が軍司令官になる、誰が神殿を担当するとか、そういった議論を弟子たちが歩きながらしていたわけである。

「途中で何を議論していたのか」とお尋ねになった。彼らは黙っていた。途中でだれがいちばん偉いかと議論し合っていたからである。イエスが座り、十二人を呼び寄せて言われた。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」33-35
+   +   +
人間は、有利な地位を得ようとする傾向が非常に強いと思う。殆どの戦争は、誰かが有利な地位を得ようとすることから始まります。殆どの政治家も何よりも得意なのは、自分の立場を守ることだと思う。それによって国全体が左右されるわけである。

しかも、戦争を引き起こしたり、国を動かしたりするほどの影響力を持つ人は少ないけれども、この有利な地位を得ようとする傾向はすべての人の心にあると思う。わたしたちは、生まれつきそういうのを持っているのだと思う。

子供を見ると、常に自分が先になろうとしている。先にブランコに乗りたい。先におやつを選びたい。先にママに抱っこされたい。(うちでは、歯磨きの仕上げを先にしてまらうのも毎日のバトル!)

(しっかりした)親は子供に、おもちゃを仲良く一緒に使うように、順番こにやるように教え込むのに、何千時間を費やすだろう。つまり、その有利な地位を得ようとする傾向を抑えられるように一生懸命に教えるのである。

そうしないと社会に適応できない人になってしまうからである。社会が成り立てるのは、全員がある程度その利己心を抑えるコツを身に付けているからである。

でもだからと言って、この傾向を脱却するわけではない。むしろ、傾向がどんどん強まるのではないかと思う。大人はただ目立たないやり方を覚えるだけだと思う。大人の場合も、誰と知り合いになるか、自分にとってのメリットを考えて選ぶことが多いと思う。面倒な人からさりげなく遠ざける。大人も、自分の功績が認められるようにうまく立ち回る。やりたくないことを避ける方法を見つける。

また、文字通りに、そして比喩的にも、人より先に進める道を見つける。(昔は、電車に乗るときのおばさんたちがかなり怖かったけど、先週いつもより早い帰りの電車に乗ったら、車両のドアから席までもうぜんと突進する20代、30代の女性はかなりすさまじかった!)

(と言いつつ、正直に言えば、僕もさりげなく座れるように計略を使うことがある!)

とにかく、人間は皆こういう傾向を持っていると思う。聖書はこの傾向を「利己心」や「高慢」と呼んでいる。わたしたちはその利己心を抑えることができるかもしれないけれども、たまには立ち現れてしまう。わたしたちはそういう世の中にどっぷりつかっているわけである。
+   +   +
わたしたちは、社会に適応するために利己心を抑えることを学ぶけれども、聖書によれば、この利己心の傾向を克服しない限り、神の国に適応できないのだ、と言う。

ヤコブは言う:「神は、高慢な者を敵とし、謙遜な者には恵みをお与えになる。」(ヤコブ4:6=箴言3:34)また、「世の友となることが」(つまり、世の中にまん延する利己心とねたみに流されることが)「神の敵となることだとは知らないのか」(ヤコブ4:4)。

今日の福音書でイエスが子供を見本として置いたのも、そういう意味であった。子供は仲良く遊べないからではなく(!)、当時社会では一番低い地位だったからである。殆ど無視される存在で、自己主張する立場にない者だったのである。当然のことながらみんなに仕える。いちばん嫌な仕事をさせられる。

ある日イエスは、若い金持ちと出会ったら、こういう話をされた:「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」(マルコ10:25)。金持ち――つまり、有利な立場にいる人、高慢な人――そういう人は、そのままで神の国に入れないよ。ふさわしくないよ。

神の国、神のみ心のとおりに治められている世界では、この世のありさまがすべてひっくり返される。高慢な人は低くされる。贅沢に暮らす人は空腹を覚える。権力を振るう人はその座からおろされる。

でも謙遜・謙虚な人は高く上げられる。貧しい人は満腹するまで食べる。柔和な人は全世界を受け継ぐ。平和を実現する人は神の子と呼ばれる(マタイ5章参照)。

「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」35

でもイエスはこの世的に有利な立場を得ようとすることを否定しながら、謙虚に人に仕えることによって「いちばん先になる」というのは、結局有利な立場を得ようとしているのではないだろうか!

ちょっと違う。確かに、謙虚になろうとする人には報いがある。それは、芯まで謙虚になれること。外国語を勉強すると一緒。その報いは、お金とかではなくて、外国語を話せるような人になること。神の国で通じる「言語」は謙虚さである。謙虚になろうとすることのご褒美は、謙虚になることである。

でも謙虚な人は世界中いちばん幸せな人だと思う。結局、高慢であること、利己心を持つことは、唯一神の愛が通過できない壁なのである。謙虚さはこの壁を取り崩す。謙虚な人は、その心が広く開かれている。他の人に。世の中の悲しみに。美しさに。真実に。神の愛に開かれているのである。
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「すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい」と仰るイエスは、まさにその見本となってくださった。神のみ子イエスは、すべてを捨てて人間としてわたしたちの間で生きられた。病気の人や困っている人を一生懸命に助けられた。ひざまずいて自ら弟子たちの足を洗われた。最後にその命まで惜しまなかったのである。十字架で死ぬことより低くなることはない。

イエスに従う人は、当然その模範に倣っていく。しかも、倣うための恵みをも、イエスが与えてくださる。「神は...謙遜な者には恵みをお与えになる」(ヤコブ4:6)。イエスの足跡を歩む人には、歩む力と知恵も注がれるのである。

だから、イエスに導かれて、神の助けを得ながら、わたしたちは謙虚な人になるための練習ができる。どういうふうに練習ができるかというと、例えば:
l  すべての通勤電車はその練習の機会を与える。わざと先に乗らない、座らない。
l  人の話を聞く。
l  気づかれないように優しいことをしてあげる。
l  あの辺に見かけたゴミを拾って捨てる。
l  つまらない仕事をあえて引き受ける。
l  他の人と自分を比べることをしない。
l  常に感謝を表す。人に褒められたらお礼を、指摘されてもお礼を言う。成功したら神に感謝する。失敗したら神に感謝する。
l  家で祈るときにたまにはひざまずいてみる。体を持って謙虚な態度を学んでいく。

神の国に入る人はにじり口を通らなければならない。謙虚になるように練習していきましょう。いい先生がいるから:「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい」(マタイ11:29)。

2012年7月26日木曜日

anything can happen

"They were completely amazed, for they had not understood about the loaves; their hearts were hardened" (Mark 6:51b-52)
The disciples witnessed about 10,000 people get fed with just five loaves of bread, but still didn't understand. Many of us don't understand this account either, taking it as some little morality tale about sharing. But the feeding account has nothing to do with sharing and everything to do with who Christ is. In Christ, our preconceptions about "possible" and "impossible" are shattered. When the Kingdom comes, anything can happen. No sin is unforgivable. No chains are unremovable. No difficulty is insurmountable. The King can walk on water. Surely he can save us.

み国が到来すれば何事も成らざらん

「弟子たちは心の中で非常に驚いた。パンの出来事を理解せず、心が鈍くなっていたからである。」(マルコ6:51b-52)
弟子たちはわずか5つのパンで約1万人が満腹したのを自分の目で見たのに、まだ分かっていなかった。今日でもその話を理解せず、「仲良く分かち合おう」というありふれた倫理物語として捉えてしまう人が多い。5つのパンの話は物を分けることとは全く関係なく、キリストが誰なのかということとは大いに関係がある。キリストによって「可能」と「不可能」という先入観は打ち砕かれる。み国が到来すれば何事も成らざらん。赦され得ない罪もない。外せないかせもない。乗り切れない困難もない。み国の王は湖の上を歩くことができる。わたしたちを救うことも当然できるのである。

2012年7月22日日曜日

近い者となったのである(エフェソ2:11-21)

聖霊降臨後第8主日(B年)
聖路加国際病院聖ルカ礼拝堂
2012年7月22日・10時30分 聖餐式・洗礼式


今日、これから洗礼式が行われることは、非常に嬉しく思う。さらに、洗礼式が行われる日に、今日のエフェソの信徒への手紙が読まれることになっているのも、心から神に感謝したいことである。神の計画としか思えない「偶然」だと思う。

僕のワイフのお父さんの本家は福島県の相馬市にある。海(松川浦)のすぐそばにある。

今まで、お盆休みに何回も訪問してきた。本家は古い長屋で、すべての障子を全開するとずっと広がる空間になる。真夏の風通しがいい。

来日した外人として初めてこの国の国民に受け入れてもらえていると実感したのは相馬でのこと。訪問すると初日、みんな何を言っているか全く理解できない。福島弁が強くて(ヒラメ→ヒラミ)。だけど、そのうち耳も慣れ、みんなと溶け込んで、楽しく過ごすのである。

夕方になると、親戚大勢が集まって夕食をする。女性たちは台所でせっせと働いて、男性は居間でせっせと焼酎を飲む(CCLemon割で)。そして順番にお風呂に入って、寝る。

本当に家族の一員として認められていると感じたのは、お風呂上りのおばあさんが堂々とズボンだけで僕もいるところに座って髪にブラシをかけ始めたときである。

残念ながら、3・11のときに家はかなりダメージを受けて、海辺も不安なので、本家はもはや存在しない。(グーグルマップで見たら空き地となっている。)
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本家がない。まさにこの世におけるわたしたちの悲しい状態である。キリストなしでは。

これがパウロが言っていることである。この世では、わたしたち人間は本当の本家がない、ということ。さらに正確な表現をすれば、アダムとエバの罪のせいで園にいられなくなってしまったと同じように、わたしたち人間の罪によって神の平安に留まることができない状態にあるのだ、ということ。

パウロはエフェソという町(現在のトルコの西海岸にある)に住んでいるクリスチャンにこの手紙を書いている。イエスをメシアとして受け入れたユダヤ人もいるかも知れないけれど、異邦人(ユダヤ人でない人)の方が多いコミュニティである。

(初期教会では、異邦人がクリスチャンに改宗するとき、男性が割礼を受けるべきかどうかという論争があった。モーセのときから、割礼が神の民に属しているというユダヤ人にとって最も重要なしるしなのである。熱心なユダヤ人としてモーセの律法をきちんと守るべきだと強く思っていたパウロは、イエスに出会ってから心ががらっと変わり、割礼ではなくてむしろ洗礼が神の民に属しているしるしとなる立場を取った。)

とにかく、パウロはエフェソの兄弟姉妹にこの手紙を書いているのは、救われている喜びを思い起こしてもらうためである。以前に彼らが置かれていた状態と今の状態を比較したいのである。つまりBeforeとAfterの話をしている。

Beforeは本当に悲惨な状況だった。今日の箇所のちょっと前を読むと:
皆さん、以前は自分の過ちと罪のために死んでいたのです。この世を支配する[悪の力、神に反抗することをそそのかす悪の霊]に従い、過ちと罪を犯して歩んでいました。わたしたちも皆...以前は肉の欲望の赴くままに生活し、肉や心の欲するままに行動していたのであり、ほかの人々と同じように、生まれながら神の怒りを受けるべき者でした。」(エフェソ2:1-3)

生々しい言葉になっているけれど、実はごく日常的なことを話している。神のことや周りの人のことも考えず、自分のことばかりを考える、自己本位的な生活をする人たちの話である。都合のいいうそをついたり、ささいなことへのしっとに満ちた心を持ったりする。つまらないことで怒り出す。また、結果をあまり考えずに、とりあえず欲しいものを手に入れる人。自分が満足すればいいと思う人。

つまり、あなたたちは神がいないかのように生きる、神に対して、神が造ってくださった世界や他人に対して何の責任も持たないメンタリティーを持っていた、とパウロが言っているわけ。しかも、それが当たり前のことだと思っていたわけ。

でもそういう生き方は最終的にむなしいということを悟っただろう、と言っている。自分のために生きる人はすでに死んでいる人。欲を満たしても、時たま満足感を味わっても、あまり中身のない楽しみがあっても、真の喜びも平和もない。天国への望みの持てない。
そのころ[あなたたち]は、キリストとかかわりなく、イスラエルの民に属さず、約束を含む契約と関係なく、この世の中で希望を持たず、神を知らずに生きていました(エフェソ2:12)

しかも、自分のために生きる人は、つまり罪深い人間は、神の愛の中に居場所がない、と言っている。神から「遠く離れている」(17節)状態にある。神の国から見ると外人になっている(19節)。神の存在を怒りの存在として感じ取ることしかできない。
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ところが、そういう悲惨な状態にある人のためにこそ、み子イエス・キリストが遣わされたのである。神はご自分を敵対している人間を友達にしたいのである。一人一人の人間は神にとって愛しい存在なのである。

パウロは2章の5-6節にはこう書いている:
神は、罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かして...キリスト・イエスによって共に復活させてくださいました。(エフェソ2:5-6)

これこそ洗礼の正体。死んでいた人が復活させられるのである。だから:
「あなたがたは、以前は遠く離れていたが、今や、キリスト・イエスにおいて、キリストの血によって近い者となったのです」(エフェソ2:13)
また:
「十字架[の自己犠牲]を通して、キリストはユダヤ人も異邦人も一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました(=無くした)」(エフェソ2:16)

ユダヤ人でも、異邦人でも、日本人でも、アメリカ人でも、中国人でも、男性でも女性でも、金持ちでも貧しい人でも、洗礼を50年前に受けた人でも、今日受ける人でも、十字架の前でひざまずいたらみんな平等である。上下関係はない。イエスのおかげで:
「一つの霊に結ばれて、御父に近づくことができるのです」(エフェソ2:18)

大胆に天の父のもとに近づくことができるのである。イエスのおかげでみんなが「聖なる民に属する者、神の家族である」(エフェソ2:19)
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では、このBeforeの状態からAfterの状態に移るにはどうすればいいだろうか。パウロは2章8-9節に:
「事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。行いによるのではありません」(エフェソ2:8-9)
と書いている。

つまり、キリストご自身がわたしたちのために成し遂げてくださったことをただ受け入れるだけである。すごく頑張れば、悪い癖を直せば、心の疑問をすべて撃ち殺せば――そういう話ではなしに、「恵みにより、信仰によって救われる」のである。

「実に、キリストはわたしたちの平和であります」(エフェソ2:14)
ここに出て来る「平和」はシャロムというヘブライ語に当たる(ギリシャ語はエイレネ)。「争いのない状態」という意味ではない。喜びに満ちた、揺るぎない心の安らぎのある、欠けるところのない、完全の幸福の状態を表すとても奥深い言葉である。

神が望んでいらっしゃるシャロムは、キリストのうちにある。キリスト以外にどこにもない。キリストのうちに差し伸べられている。それをただいただければいいわけ。

さて、わが平和であるキリストをいただいた、洗礼によってキリストと結ばれた人たちはどう生きればいいのか。わたしたちは一つの本家になる、大きな大きな長屋に暮らす神の家族なので、その家族のメンバーとしてどういうふうにやっていけばいいだろう。

まず、その本家の土台は聖書のみ言葉であることを常に心に留めておくべきだろう。
「使徒や預言者という土台の上に建てられています。そのかなめ石はキリスト・イエスご自身である」(エフェソ2:20)。

つまり、新約聖書(=使徒)と旧約聖書(預言者)全体が、神の生きたみ言葉としてわたしたちの生活の道しるべ、生きる基準となるのである。み言葉にに慣れ親しもう。

そして、古い自分、この世の中で希望を持たず、神を知らずに生きていた自分を死なせて、新しい自分、キリストと親しく歩む自分を迎えていくのである。

古い自分を死なせて、新しい自分を迎える。これは洗礼式で決定的に起こることではあるが、その後、日に日に自分で、そして毎週毎週この聖なる食卓を共に囲む人たちとして、仲間として、家族として繰り返して、どんどん深めていくことでもある。

実に、キリストはわたしたちの平和である。神がいないかのように生活をするのではなく、キリストにある平和と祝福と豊かな命を味わいながら共に生きようではないか。

2012年7月8日日曜日

まだまだこれから(マルコ6:1-6)

聖霊降臨後第6主日(B年)
聖路加国際病院聖ルカ礼拝堂
2012年7月8日・10時30分 聖餐式


今日のマルコの福音書では、「イエスは人々の不信仰に驚かれた」と書いてあります(マルコ6:6)。イエスはわたしたちの信仰をどう思われるのだろう、とちょっと気になります!

この話の流れを把握したいと思います。イエス・キリストは、人類を悪の束縛から救い出すために神によって遣わされました。そこまではいいですか?世の中を見ると、「こうなるはずではなかった!!神様はどうにかしてくれないか、」と言いたいことに対して、神は「どうにか」してくださったのです。その「どうにか」はイエス・キリストです。

イエスがお生まれになる前からも、彼の使命が明らかになっていました。天使ガブリエルはマリアにもヨセフにも言いました:「この子の名前をイエスにしなさい」(ルカ1:31、マタイ1:21)。その名前自体が「神は救いなり」もしくは「神は癒しなり」という意味になっています。両方はあっています:神はわたしたちの魂だけではなくて体をも大切にしてくださるのです。

み子のミッションは神の救い・癒しとなることでした。しかもみ子が人間の世界来られたとき、人間として来られました。100%人間として。み子としての力と地位を全部捨てたのです:「主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた」とパウロ(Ⅱコリント8:9)。

イエスはわたしたちと同じく完全に人間でした。ただ、わたしたちと違ってイエスは天の父とのつながりが途切れていなかったのです。神とのつながりを切ったり、妨げたりするのは罪なので、罪と何の関わりもないイエスは常に神の愛を直感し、神のみ心を行うことを喜びとされたのです。

ほかすべての点では、イエスは普通の人でした。1世紀のパレスチナのユダヤ人として、その義父ヨセフから大工の仕事を覚えられました。イエスの育ちについて殆ど記録がありません。数百人の村落であったナザレに普通に住んで、その地方の工事現場で普通に働かれたわけです。

ところが30歳のころ、イエスはそのいとこヨハネのもとで洗礼を受けに出掛けられます。洗礼のとき、イエスは聖霊に満たされて、「わたしの愛する子」と天からの声が聞こえる、と聖書が教えてくれます(マルコ1:11)。

ここからですね。イエスは子供のときから天の父の愛を感じ、特別なミッションが与えられていることもご存知です。だけどついに、そのミッションを遂行する力を授かるのです。

イエスの力の源泉は聖霊なのです。神の子であることではありません。そういうことを一切捨てられたのです:「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました」(フィリピ2:6-7)。だから家畜小屋で、小さくて弱い赤ちゃんとしてイエスがこの世に来られました。そして30年間にわたり、人とほぼ変わらない生活を送られるわけです。

そしてついに、普通の人として聖霊に満たされて、やっと仕事に取り掛かれるのです。

イエスは洗礼を受けてから故郷のナザレに戻られます。地元の人たちに早く福音を伝えたいでしょう。マルコの福音書はイエスの行動を強調しますが、ルカの福音書ではそのナザレの会堂でイエスが何を話しておられたか、記録しています。彼はイザヤ書を引用なさるのです:
「神の霊がわたしの上におられる。貧しい人に良い知らせを告げるために、主がわたしをお選びになった。主がわたしを遣わされたのは、束縛されている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げるためである。圧迫されている人を自由にして、今年こそ神が動き出す年だということを宣言するためである。」(ルカ4:18-19)

つまり、イエスが地元の人たちに仰っているのは:400年前に預言されたことは今、起こっている。神は動き出しておられる!大規模な救出作戦が始まってる。この世を支配している暗闇の力から虜となっている人間をこれからどんどん自由にしていくのだ、と。神の国が前進して、暗闇の国が追い払われていくのだ、と。

そしてこられのことの中心は、このわたしなのだ、と。

そしてそこで集まっている人は、はっ?と思うわけです。何言ってんの?何様だと思ってんの?あの大工のお兄さんだろう?!親戚みんな知ってるし...

「このように、人々はイエスにつまずいた」(マルコ6:2-3)。

つまり、どうしてド田舎の小さな村であるこのナザレ出身の人が救い主であり得るのか、ということでした。「なれなれしさは軽蔑を生む。」イエスのことをよく知っているので、別に特別な人ではないのだ、と。

しかも、20年以上ナザレに住みながら、一度も人を癒したり、奇跡を行ったりすることはない。自分が「救い主だ」と言ったこともない。
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これまで一度もありませんでした。いつもこんなふうなんです。同じような話は、教会でも耳にすることができます、たまには(笑)。

僕はクリスチャンファミリーに生れましたが高校生の頃、信仰から離れました。キリストに立ち帰ったときに一つ気づかされたのは、神やイエス・キリストのこと、教会のことを全部知ってるつもりだったけれども、実はそうではなかった、ということです。最初からやり直して、素朴な質問を聞き直して、学び直すことは本当に多かったです。今も学んでいる最中です。

そしてもう一つ気づかされたのは、神はもしかしたら新しい、予想外のこともなさる可能性がある、ということでした。「これまで一度もない」ことにとらわれてはいけないのです。結局、僕の人生においても、神は予想外のことをなさるかもしれない――実際になさろうとしていらっしゃる――ということを受け入れなければならないことに気づかされたのです。

周りに座っている人をご覧なさい。知っている人はいますか?「だいぶ変わっている人」というわけではないと思います。まあ、何人かへんてこりんがいるかも知れないけれども(笑)。でも、ここにいらっしゃる殆どの人はごく普通の人だと思います。

今日、ここに集まっている人たちを通して、神は新しい、予想外のことをなさる可能性があると思いますか。自分自身を通して、神は新しい、予想外のことをなさる可能性があると思いますか。
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イエスの人生が急に展開したのは、彼が聖霊に満たされて、力づけられたときです。

これはイエスに留まることではありませんでした。来週の聖書日課でも、イエスが十二人の弟子たちを派遣する場面が出てきます。ご自分と全く同じことをさせるのです。すなわち、み国の良い知らせを告げ、病人を癒すなど人々を暗闇の力から解放すること。「十二人は出かけて行って、悔い改めさせるために宣教した。そして、多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人をいやした」(マルコ6:12-13)

こうやって神の国が前進して、暗闇の国が追い払われていくのです。

しかも十二人だけでもありません。後に、イエスは72人のごく普通の弟子たちを派遣されます。その名前さえ知られていないのです。そのミッションは?良い知らせを告げて、病人を癒す。

そして聖霊降臨の後も、このミッションが続くわけです。まずペテロとヨハネ、そしてフィリポ、そしてアナニア、そしてパウロなどなど、イエスに従う人たちが地の果てまで広がりながら常に二つのことに励んでいきます。み国の良い知らせ、すなわち、神が暗闇の力の虜になっている人を救い出すために動き出しておられるという良い知らせを告げることと、その言っていることを行動で証明して、人の癒しと解放のために祈っていくこと。これだけです。

3世紀初頭の教会リーダーであるテルトゥリアヌスは、すべてのクリスチャンにイエスの働きを受け継ぎなさいと促しました:最もえらい生き方は「悪の力に立ち向かって、人の癒しを祈り、神のために生きることなのである」と訴えたのです。

(こういう生き方は劇や競技場の試合を見に行くよりも楽しいのだ、とテルトゥリアヌスは言っていました[『見世物について』29章]。僕は、人の癒しのために祈ることは、オリンピックより楽しいよ!と言ったら、信じてもらえるかしら...)
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神の国が前進して、暗闇の国が追い払われていくことを明らかに示すために、イエスは癒しと悪霊払いの働きに専念されたのです。言葉だけではなくて行動で証明されたのです。そしてイエスの働きを通して、多くの人々の人生が変わりました。その弟子たちの働きを通しても、多くの人々の人生が変わりました。

いずれもその力の源泉は同じ聖霊でした。イエスの従っていくために、イエスが聖霊に満たされていたと同じようにわたしたちも聖霊に満たされなければならないわけです。

わたしたちは、2つの意味で聖霊を必要としています。まず聖霊の力によって、わたしたち自身が変えられなければならないのです。「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です」(ガラテヤ5:22-23)聖霊がわたしたちの心に取り掛かり、わたしたちをもっとイエスのような人に変えてくださいます。相当時間がかかりますが、もっと潤いのある心、もっと神の喜びと平和に開かれた心を与えてくださるのです。

でももう一つは、人を助けることができるために聖霊がいります。助けを必要としている人々のために大胆に祈る勇気を聖霊が与えてくださいます。道に迷っている人々を守り導くための知恵を聖霊が与えてくださいます。不安や困難の中にある人々を支えて励ますための愛を聖霊が与えてくださるのです。

聖霊の助けがなくても、人に優しく関わることができます。しかし聖霊の助けがあったら、わたしたちの祈りによって人が癒されたり、その人生が変わったりします。そこが違います。

もしかしたら、最も聖霊を必要としているのは、神のご計画に目と心を開いてもらうためなのかも知れません。このチャペルコミュニティを通して、わたしたちを通して、あなたを通して、僕を通して、神は予想外のこと、全く新しいことをなさることがおできになるのです。

聖霊よおいでください。わたしたちが口で言っていることを心から信じるようにさせてください:
「わたしたちのうちに働く力によって、わたしたちが求めまた思うところの一切を、
はるかに越えてかなえてくださることができる方に、教会により、またキリスト・
イエスによって、栄光が世々に限りなくありますように  アーメン」
(エペソ 3:20-21、聖餐式の「感謝聖別」の終わり)

you ain't seen nothing yet (Mark 6:1-6)


Sixth Sunday After Pentecost (Year B)
St. Luke's International Hospital Chapel
July 8, 2012– 10:30 a.m. Holy Eucharist


We read in Mark's Gospel this morning: "Jesus was amazed at their lack of faith" (Mark 6:6). I wonder what Jesus would think about our faith…

Let's take a minute to get the big picture of what's going on here. Jesus was sent by God to save mankind from the bondage of evil. Are you with me so far? Look around, the world isn't supposed to be like this. Won't God do something about it? He has, and that "something" is Jesus.

Even before Jesus was born, his mission was clear. The angel Gabriel told both Mary and Joseph: "You are to call the child 'Jesus'" (Luke 1:31; Matthew 1:21). His name means "God saves" or "God heals"—the original word has both meanings. And both are true: God is interested in our bodies as much as our souls.

So that's the mission assigned to the Son of God. But when the Son came into the world, He came as a man, 100% human. He gave up all power and privilege as the Son— "though he was rich, yet for your sake he became poor" (2 Corinthians 8:9).

So Jesus was fully human, like you and me. Although unlike us, He enjoyed unbroken communion with the heavenly Father. Sin breaks or blocks the connection between us and God, but Jesus was without sin. So He lived always knowing the love of God, always taking delight in doing the will of God.

In all other respects, though, He was pretty much a normal guy. A 1st century Palestinian Jew who learned carpentry from his step-father, Joseph. That's why we hear almost nothing about Jesus' life growing up. He lived a normal life in Nazareth, a town of maybe a few hundred people, and worked construction in the area.

But then, at around age 30, Jesus goes off to be baptized by his cousin, John the Baptist. At his baptism, we read that Jesus is filled with the Holy Spirit, and hears a voice from heaven saying to him: "You are my Son, my beloved" (Mark 1:11).

This is where things really kick off. Jesus has always known the Father's love, always known He had a mission to do in the world. But at last, He has the POWER to do it.

The Holy Spirit is the source of Jesus' power. NOT his special status as the Son of God. He put all that aside: "Though he was in the form of God, Christ did not count equality with God a thing to be grasped, but emptied himself, by taking the form of a servant, being born in the likeness of men" (Phil 2:6-7). So Jesus came into the world as a tiny baby born in a stable. For the first 30 years of His life, Jesus never performed any healings or other miracles. He was a normal guy.

But now, as a normal guy, He is filled with the Holy Spirit. So now He can get to work.

Jesus goes back to His hometown, Nazareth. He's probably eager to share the good news with the people He grew up with. Mark's Gospel is heavy on the action, but Luke reports what Jesus said in his hometown synagogue. He reads from the Book of Isaiah:
"God's Spirit is on me. He's chosen me to proclaim good news to the poor. He sent me to announce freedom for prisoners and recovery of sight for the blind. He sent me to set the oppressed free. To announce 'This is God's year to act!'" (Luke 4:18-19)

Jesus tells His fellow Nazarenes: What Isaiah said 400 years ago is happening NOW. God is on the move. God has launched His big rescue operation, to free us from our enslavement to the powers that control this world. God's Kingdom is advancing, the kingdom of darkness is receding.

And all of this is starting with Yours Truly.

And they're all like, huh? What is he TALKING about? Where does he get off talking that way? He's just a construction worker! We know his family!

"And they took offense at him" (Mark 6:2-3).

The people of Nazareth can't imagine that someone who grew up in their little hamlet could be the promised Savior. Familiarity breeds contempt. They know Jesus too well; He can't be special.

Besides, for more than 20 years Jesus lived in Nazareth and never did miracles before. He never claimed to be the Savior before.
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It's never happened before. It's always been this way. These are phrases one often hears in church.

I grew up in a Christian family but left the faith in high school. When I came back to Christ, one thing I was forced to realize was that, although I thought I already knew all about God and Jesus and Christianity, in fact, I didn't. I had to start from the beginning and reask the basic questions, relearn so many things. I'm still learning.

And I had to open my mind to the possibility that God could do new and unexpected things. Eventually I had to open my mind to the possibility that God wanted to do new and unexpected things IN MY LIFE.

Look around you. Do you know anybody here? We're a fairly normal lot, don't you think? A few of us are a bit strange, but…all and all, plain vanilla.

Do you think God is capable of doing something new and unexpected through the people gathered here today?

Do you think God is capable of doing something new and unexpected through you?
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What changed in Jesus' life was that He was filled and empowered by the Holy Spirit.

But it was never only about Jesus. Next week, we'll read about Jesus sending out the Twelve Disciples to do exactly the same thing that He's doing: proclaim the good news of the Kingdom, and heal the sick and deliver people from evil powers:
"They went out and preached that people should repent. They drove out many demons and anointed many sick people with oil and healed them" (Mark 6:12-13).

In this way, God's Kingdom advances, and the kingdom of darkness recedes.

And it's not just the Twelve, either. Later, Jesus sends out Seventy Two plain vanilla disciples—we don't even know their names: Proclaim the good news and heal the sick.

And after Pentecost, the mission continues. First Peter and John, then Philip, then Annanias, then Paul—and on and on, Jesus' followers go out to the ends of the earth. Always doing two things: Proclaiming the good news of the Kingdom, the good news that God is acting to rescue mankind from enslavement to evil, and then backing up their proclamation by praying for people to be healed and set free from bondage.

Tertullian, a Church leader of the early 3rd century, urged all Christians to continue in the ministry of Jesus. He said the noblest life is "to exorcise evil spirits—to perform cures—to live to God."

(Tertullian even argued that doing such things was more exciting than going to plays or sports events! (Tertullian, "De Spectaculis," Ch. 29) If I told you that praying for people was more exciting than watching the Olympics, would you believe me?)
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Jesus focused on a ministry of healing and deliverance to clearly show that God's Kingdom was advancing, and the kingdom of darkness was receding. It wasn't just words, it was His words backed up by His actions. Through His ministry, lives were changed. Through the ministry of His followers, lives were changed.

The source of power for Jesus' followers is the same source as for Jesus Himself: the Holy Spirit. If we are to follow Jesus, we need to be filled with the Holy Spirit just as Jesus was.

We need the Holy Spirit for two reasons. First, we need the Holy Spirit to change us. "The fruit of the Spirit is love, joy, peace, forbearance, kindness, goodness, faithfulness, gentleness and self-control" (Galatians 5:22-23). The Holy Spirit works on our hearts to make us more like Jesus, more full of life, more open to God's joy and peace.

But we also need the Holy Spirit so that we can really help people. The Spirit gives us courage to pray boldly for people who are in need, wisdom to give counsel to those who have lost their way, love to encourage those who are anxious or in doubt.

Without the Spirit, we can be kind and supportive. With the Spirit we can see people being healed and lives changed. That's the difference.

But perhaps most of all we need the Spirit to open our eyes and our hearts to the plans God has in store for us. God is capable of doing something new and unexpected through this chapel, through us, through you, through me.

Come, Holy Spirit, and help us to believe in our hearts what we say with our lips:
"Glory to God whose power, working in us, can do infinitely more than we can ask or imagine: Glory to him from generation to generation in the Church, and in Christ Jesus for ever and ever. Amen" (Ephesians 3:20,21, at the end of the Eucharistic Prayer)

2012年6月15日金曜日

a showdown at the harbor (Acts 13:4-12)

Led by the Holy Spirit, Paul and Barnabas preach their way across the island of Cyprus, Barnabus' home, and make a long stay in Paphos, a port on the west coast of the island. "The proconsul, Sergius Paulus" (v. 7) summons Paul and Barnabas to hear their message, which must have been causing quite a stir.

As Roman citizen, Paul is well-suited to establish a rapport with Sergius Paulus, which he uses to tell him the Good News about Jesus Christ. Paulus, "an intelligent man" (v. 7), is impressed by Paul's message, and is nearly ready to accept faith in Jesus. But then Bar-Jesus, the proconsul's Jewish counsellor and fortune-teller, steps in to interfere.

Filled with the wisdom of the Holy Spirit (v. 9), Paul can see what's going on: Bar-Jesus is operating under an evil influence. Satan (=the force of darkness that opposes God and His works) hates it when people come to believe in Christ—the devil doesn't want us to receive the forgiveness or healing or salvation or eternal life that God wants to give us. Forces that try to turn people away from the winsomness of Christ are finally demonic.

Bar-Jesus means "son of salvation," but Paul perceives that Elymas is really "a child of the devil" (v. 10)—i.e. acting as a proxy for the devil.

Serious problems require serious remedies, just as a brain tumor requires radical treatment. Paul declares the remedy that God will take in this situation: Bar-Jesus will be temporarily blinded. In other words, his inward spiritual blindness will be made clear and concrete in the form of temporary physical blindness.

When Paul declares this: "Immediately mist and darkness came over him" (v. 11=Luke the physician is here using contemporary medical language to describe the scene).

Paul surely recalls his own experience of being blinded on the road to Damascus, which changed his life. God does not cause sickness, although He may allow inward spiritual disorders to take on outward physical form. But God certainly does use times of sickness and physical and mental distress to bring about great change in us, fresh awareness, renewed resolution to live in consonance with His will.

The proconsul is deeply impressed because both the words and the actions of Paul reflect the reality of God. And so, Paul leads Paulus to Christ, his first Gentile convert.

2012年6月13日水曜日

出だしが悪かった(創世記 3:1-21)

聖霊降臨後第2主日(B年)・10時30分 聖餐式
聖路加国際病院聖ルカ礼拝堂

今日の創世記の言葉を皆さんと一緒に見たいと思います。なぜかというと、21世紀に住んでいるわたしたち人間の状況を理解するのに不可欠なものだと思うからです。

でも最初に、この創世記の記事の目的について一言。創世記は科学教科書のような資料ではありません。人類の生物学的な起源を説明しようとしていません(創世記と進化論の概念は基本的に相容れないものではないと思います)。

もちろん、論理的に考えると、何千年も前にどこかの時点で、「最初の親」が登場したはずです。つまり、チンパンジーでもネアンデルタール人でもない人間は、いつかどこかでスタートしたわけです。

でも聖書が興味を置いているのは、そういう点ではありません。アダムとエバの話は象徴的な言葉をもって2つのとても大事な質問に答えようとしています:すなわち、1)人間とはなにか、と2)何で人間は今このようになっているのか、と。

誰でもこの2つの質問について考えるべきだと思います。創世記は、神が知ってもらいたい答えを示しています。だから、限られた時間でも、この文章を皆さんと一緒に見たいと思います。
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 主なる神が造られた野の生き物のうちで、最も賢いのは蛇であった。蛇は女に言った。「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか。」(創世記3:1)
教会では、この蛇はサタンあるいはその使いだというふうに理解しています。サタンの動機というのは、洗礼式にあるように「神によって造られたこの世を堕落させ破壊する」のです。

蛇の出だしに注意してください。「[こういうこと]などと神は言われたのか。」これは悪魔の典型的な作戦です:神が示されたことに疑問を投げ掛けること。荒れ野にいたイエスの話を覚えていますか。「あなたは神の子なら...」とサタンが言ったわけです。その前、イエスが洗礼を受けられたとき、「わたしの愛する子、わたしの心に適う者」と天に言われたばかり。なのに悪魔は、それは本当かな?確かか?と疑わせようとします。

わたしたちも毎日同じような誘惑に遭うと思います。すなわち、神が明らかに示してくださったことを疑うように。イエスは隣人を赦しなさいと命じられたのだが、兄嫁もその「隣人」の中に入るかしら。聖書は、本当に結婚外の肉体的関係はだめだと言っているのかな。イエス・キリストは本当にこの世の救い主か。確かか?

でもここで蛇が何に疑問を投げ掛けているのか、注意してほしいです。「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか。」

こういうことを言うのはどういう神でしょうか。イジワルな神に決まっていると思います。人間を美しい園に置き、四方に美味しい食べ物を置きながら「だめだ。食べるな」と言うこととは。

でも実際にこのような神のイメージを持つ人は少なくないと思います。神は厳しい独裁者のような神だと思ったりします。人の楽しみを台無しにしようとしている。長い、難しくてつまらない人生で我慢することを求める。理由もなくこれもあれも禁じる。実は悪魔が持たせたい神のイメージはまさにこのとおりです。

でもこのイメージは果たしてあっているでしょうか。実際に神が仰ったことを聞きましょう。
ちょっと前、2章にはこういうことがありました:
主なる神は人を連れて来て、エデンの園に住まわせ、人がそこを耕し、守るようにされた。主なる神は人に命じて言われた。「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」(創世記2:15-17)

園のすべての木から自由に取って食べなさい、と。どんな木でも!莫大な数の木々からぶら下がっている果物のどれでも食べなさい!いつでも、食べ放題だ!

これは独裁者の声?全然違います。これは子煩悩な父親が言うことです。その子供たちのために何不自由ない環境を整えてくださったのです。サタンはよくこの父の愛を疑わせるものです。

 女は蛇に答えた。「わたしたちは園の木の果実を食べてもよいのです。でも、園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないから、と神様はおっしゃいました。」(創世記3:2-3)

もうやばいです。エバは蛇の策略に引っ掛かりはしないが、すでに危ない方向に向かっています。エバが神の命じられたことを大げさに言っていることに気づきましたか?神:「善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。」エバはそれを曖昧にします:「園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない」

神はまず触れることについて何も仰っていません。しかも、「園の中央に生えている木」ではなくてはっきり一本だけの木を指定なさいました。

どうして神はこの善悪の知識の木だけを禁じられるのか。「食べて欲しくないなら、どうしてそういう木を置いたのか」と考える人がいます。その答えは、人間の自由に関係していると思います。

神はご自分にかたどって人間をお造りになった、と聖書。それはおもに、自ら進んで愛に応える、愛を捧げる特徴を表わしていることです。

神への愛を示す一番大きな方法は、神に聞き従うことです。従うか従わないか、わたしたちの自由何です。神は人をロボットのようなもの造られませんでした。だから、エデンの園で、禁止されるものが何もなかったら、アダムとエバには従う・従わないという自由もなかったわけです。本当の意味で神を愛することもできません。愛は自由に、自ら進んですることでなければいけないのです。

でもそれよりも、神が「善悪の知識の木から食べてはならない」と仰ったのは、僕が娘に「あついストーブに触るな」と言うと同じことです。娘を愛しているからそう言っているのです。

善悪の知識の木が禁止になっていたのは、害を加えるものだったからです。基本的に「神に禁じられているから」ことがいけないのではなくて、害になることは神に禁じられるわけです。

アダムとエバはすでに善悪を見分けることができていました。神に従わないで、その木から実を食べることが悪いことだ分かっていました。今までは、彼らは直感的に正しいことが分かり、自然に正しいことを、正しいから、そして神に喜んでもらえるから、ずっとやってきたのです。

でも禁断の果実を食べると、今までにないように善悪を「知る」ことになります。ヘブライ語で「知識」とか「知る」という言葉は、ただ意識する、理解するだけではなくて、知り尽くす、熟知する、その知っていることと密接に関わりを持つ、というニュアンスがあります。善悪の知識の木の実を食べれば、善だけではなくて悪も彼らの心に舞い込むわけです。そうすると、「神のように」なる(と5節に)。つまり、何が善なのか、何が悪なのか、神の仰っていることとは関係なく勝手に決める立場を取ることになるのです。

でも、この蛇とエバのやりとりの一番悲しいところは、エバが言う「神様」という一つの言葉にあると思います。

創世記では今まで神はずっと「主なる神」(Adonai Elohim)と呼ばれていますがここで始めて、ただの「神様」(Elohim)に変わります。「主」(adonai)という言葉には深い関係性の意味合いが含まれています。造り主とその造られた人。主人とその民。導いて守る側と賛美・感謝をもって仕える側。親しく語る主と喜んで耳を傾ける人。愛を注ぐ側と愛を返す側――そういう関係がもう、この時点でも、見失ってしまっているわけです。神はただ「神様」になっています。強い神ではありますが、よそよそしい神でもあります。「木に触れてもいけない!」のように勝手にルールを強要する神。

では恐ろしいシーンを見てみましょう:
 女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆していた。女は実を取って食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も食べた。二人の目は開け、自分たちが裸であることを知り、二人はいちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした。(創世記3:6-7)

禁断の果実を食べると、どうなったでしょうか。

これに続く話を見ますと、まずアダムとエバの関係が崩壊することが分かります。今までは、二人が裸でありながらも別に恥ずかしくない、と書いてありました(創世記2:25)。つまり、ありのままの自分で一緒にいて、相手のありのままを尊敬し、受け入れ合っていたのです。

もはやそうではありません。本当の自分が見られるのは恥ずかしい。しかも、今まで喜びに満ちた、互いに仕え合っていた夫婦関係が変な力関係に変わってしまうのです。

そして、神が恐ろしい存在になってしまいます。今までは神と人は友愛関係をもって、園における協同者でした。もはやそうではありません:
「主なる神はアダムを呼ばれた。『どこにいるのか。』彼は答えた。『あなたの足音が園の中に聞こえたので、恐ろしくなり、隠れております。わたしは裸ですから。』」(創世記3:9-10)

ここにものすごい距離感を感じませんか。ギクシャクして緊張を伴っている場面です。罪は、そういう効果があるのです。わたしたちを神から引き離します。神に見られたくなくなる。神の正しい裁きが恐ろしくなるのです。

続きの言葉を飛ばしますが、注意してほしいです。アダムはエバに責任転嫁して、エバは蛇に責任転嫁するのです。とても情けないことでないなら笑っちゃう場面ですね。このとき以来、人間は責任を回避するようになっています。今の政治化は、特にそれを見事に見せてくれます。

そして最後に、人間は地球そのものから疎遠してしまいます。地球を管理し、守り、耕すように頼まれた人間は、これから苦労して、環境を打ち勝って乱用するようになるのです。
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時々こういう話を耳にします:エデンの園で起こった出来事、いわゆる「堕罪」という出来事は、実は良かった、必要だった、という話です。アダムとエバの反抗は人類の成長の苦しみだったのだ、と。自主独立を得るにはこういう道を通らなければならなかったのだ、と。

しかしこれほど聖書全体が言っていることを強引に読み違えることはないと思います。聖書は一貫して「堕罪」という出来事が純然たる大災害でしかないと主張するのです。神と人間との関係、人間同士の関係、自分との関係、地球との関係はこれで引き裂かれたのだ、と訴えるのです。

神の子供が成長して巣立った話ではありません。もっと妥当なたとえは、少年や少女が町でスカウトされて、離れた都会で薬物と暴力と売春の人生に消えてしまったというような話になります。

アダムとエバの罪は、何から何まで悲惨なことでした。実は、その時点から、人間のストーリーがどんどん暗くなっていくのです。アダムとエバには二人の子供が生れますが、カインは弟のアベルを殺してしまいます。それからもっとひどくなります。人類を最初からやり直そうと神が思われるぐらいひどくなります。大洪水というリセットのときに、ノアとその家族だけ救われます。が、箱舟から降りるノアはすぐ、酔っ払ったあげくの放蕩に落ちってしまいます。

とにかくわたしたちはアダムとエバの罪の跡継ぎです。毎日、堕罪の結果は目に前に現われます。この世は大きな悪と苦しみの泥沼に巻き込まれています。しかもその殆どが直接あるいは間接的に人間の自己中心や欲張りや暴力、あるいは人間の無関心によるものです。

皆さんはドアに鍵を掛けていますか。僕は掛けています。絶えず年寄りの方に「振り込み詐欺」を警告しなければなりません。結婚はどんどん崩壊しています:日本の離婚率は40%弱(アメリカは50%!)。貧富の差は日本でも世界的にも広がっています。今現在、世界のすべての人に、毎日2,720kcalの食べ物が作られていますが、7人の1人は空腹状態にあります(半分以上はアジアに)。毎日、予防し得る病気で数千人の子供が亡くなっています。今、40ぐらいの武力紛争が世界各地に起きています。掛け替えのない熱帯雨林の破壊がどんどん進んでいます。毎日、3つの絶滅危惧種が消えていきます。

聖書は言います:こんなはずではなかった。この状態は当たり前と思ってはならない!!これは、人間が神の慈しみを疑ってしまうこと、神の代わりにだろうとする心の結果である、と。しかも、この泥沼から抜け出す力は、人間にはない、と。わたしたちの望みはどこにあるのでしょうか。

その話は別の機会にしたいと思います。ただ、最後に、今日の創世記の最後の言葉を見たいです。
 主なる神は、アダムと女に皮の衣を作って着せられた。(創世記3:21)

アダムとエバはもはや園にいられません。ところが、これだけひどいことがあっても、2人が唯一定められた掟を破っても、基本的に神の愛と恵みを信頼していない姿勢を見せても、神の立場を取ろうとしても、園の麗しい平安を永遠に損なっても――それでも、神はどうされますか?彼らを滅ぼしてしまう?忘れてしまう?見捨ててしまうのでしょうか?

いや、違います。神は暖かい服を着せてくださるのです。園の外の気候は厳しくて、いちじくの葉だけでは足りないのです。だから神ご自身が衣を用意して、2人の罪の最もきつい結果から彼らを守ってくださるのです。

どうしてかというと、神は変わっておられないからです。アダムとエバは変わりましたが、神はそうではないのです。神は相変わらず、子煩悩な父親です。その子供たちが愛しい。神はわたしたちの幸福と喜び以外に何も望まれていないのです。わたしたちが神を見捨てても、神はわたしたちを見捨てたりはなさらないのです。

最後の最後に、質問があります:その服は、何でできたのか。動物の皮ですね。つまり、アダムとエバがその罪の結果から守られるために、罪のないものの血が流されたわけです。

お分かりでしょうか。ここストーリーの始まりに、ストーリーの終わりに起こることのヒントがあります。罪の結果からわたしたちを救うのが、やはり罪のない犠牲者の血である、ということ。

わたしたちの主イエス・キリストに感謝しましょう。「わたしたちはその血によって贖われ、罪を赦されました。これは、神の豊かな恵みによるものです」(エフェソ1:7)

2012年6月8日金曜日

合格点を得るには(使徒言行録2:1-11、ヨハネ20:19-23)

2012年5月27日・10時30分 聖霊降臨日・主教巡回日(B年)
聖路加国際病院聖ルカ礼拝堂 牧師任命式・聖餐式・堅信式


看護大学でもシーバー家でも、中間テストを迎えている雰囲気になっています。看大の学生たち、また自分の子供の勉強している姿を見て、ただ一つの思いしかありません:僕じゃなくて良かった!と。連発試験を受けることは、もう結構です。

僕は去年、看護大学で新しい評価の仕方を知りました:秀、優、良、可。その後は不合格。

今日は、「教会の誕生」とも言われる聖霊降臨の祭りなので、自分たちの評価について皆さんと考えたいと思います。この礼拝堂としての成績は、どう評価しますか?秀?優?良?

洗礼を受けている皆さん自身は、イエス・キリストに従う人としての成績は、どう自己評価します?良?優?秀?

わたしは牧師として――もう任命式が終わったからあえて言いますが――わたしは牧師として、明らかに不合格だと思います。謙遜ではなくてマジで。

「まあ、クリスチャンとして何とか合格かな」と思っている人は、キリストに従う者たちから何が求められているのか、本当に分かっているのかな、と疑問に思います。基準が分かっているかしら。イエスは山上の説教でその弟子たちに仰います:「あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」、と(マタイ5:48)。

イエスに従う者たちは世の中に大きな影響を与えるはずです。特に個人レベルで。クリスチャンに出会ったら「うわ、何この人?!?何か、すごい!」と思われるのが、本来普通の有様です。イエスは「あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである」(マタイ5:16)。周りの人がわたしたちの言葉と行動と生き方を見て、果たして天の父をあがめるようになっているのでしょうか。

イエスに従う者は神の国のために――つまり、神に喜んでもらえるように実を結ぶことが求められています。祈ると病人が治ったり。絶えず祈ったり、しかも大いなる確信を持って祈ったりする。悪に立ち向かう。世の中の偽りに流されない。自分の行動と言葉でイエス・キリストの麗しさを人に見せる。人に仕えることに熱心である。などなど。

つまり言いたいのはわたしたちの考え方は小さ過ぎるのではないか、ということです。日本では、クリスチャンであることは好みのレベルにあると思われます。趣味と同じぐらい。あるいは、教会に関わることは、自分の心の拠りどころとして、結び付きがだいぶ薄れてきた近所の代わりになるものとして考えられがちです。名前が知られて心地よい居場所。

でも聖書が示すのは、だいぶ違うイメージです。もちろん、クリスチャンであることは大いに心の拠りどころになるはず――「聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれている」(ローマ5:5)とパウロ。そしてクリスチャン同士の愛はほかのどんな絆よりも深いはず:「神のみ心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ」(マルコ3:35)。

でもそれだけではないわけです!クリスチャンであるというのは、何よりも偉大な救出作戦に加わることだ、と聖書が示してくれます。全世界の人々を暗闇の支配から、霊的な死から解放するという膨大な運動に参加するわけです。特祷にあるように「永遠の命の道を開かれる」神の働きにあずかることです。

さて、皆さんの成績はどうしましょう?このチャペルとしてどしましょう?僕自身、どうしましょう?秀?優?良?可?それとも不合格?
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エルサレムで待機していた弟子たちを考えると、なかなか面白い。彼らはいろんな意味で「クリスチャン」と見なしていいと思います。聖書は(一応)知っている。きちんと礼拝に出る。3年間、イエスの教えを学んできた。体の復活の真実を受け入れている!イエスによる赦しを確信している。イエスを救い主として、主として受け入れているのです。

そして共に集まっている。そこに一つのコミュニティができているわけです。

しかし、これでも不十分だそうです。イエスの望みは、彼らがずっとその家に座り込むのではないそうです。いずれ派遣するつもり。でもまだ、何かが足りないのです。

まるで夜のステンドグラスのような状態。すべての部分が整っているけど、光がないから役目を果たせないという感じです。
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ところがある日、何か不思議なことが起こりました。この小さくて弱い、方向性のない弟子たちのグループがいきなり、後にも先にも現れることのないような、世界を変えるような力強い運動の推進役に変身したのです。

何かが起こって、弟子たちはパッと行動に移り、その家を出て、世界の果てまで出掛けて行ったのです。そして3,4百年もの間で、イギリスからインドまで大勢の人々がよみがえりのイエス・キリストによる救いの喜びを経験することになったのです。

この弟子たちは歴史の流れを変えたのです。わたしたちが今日ここにいるのも、このチャペル、病院、看護大学が存在するのも、その数十人の男性、女性のおかげなのです。彼らの働きによって、暗闇に覆われている世の中で「永遠の命の道が開かれた」。

そのおかげで2,000年後、世界3人に一人がキリストのお世話になっているわけです。

いったい何が起こったのかというと、聖霊が与えられたのです。米粒より小さいエネルギーの塊りから宇宙をお造りになった神の力が注がれたのです。その力が弟子たちを「小さなキリスト」の部隊に変えたのです。(「クリスチャン」の本質的な意味)
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日本の多くの聖公会の教会は家の中で座り込んでいるままになっている気がします。「ここは心地がいい」と言って、ずっと家にいるわけです。

でも神は、わたしたちを通して想像を超えるような素晴らしいことをなさりたいのです。しかもその素晴らしい働きを果たすための力を与えようとしておられるのです。

イエスは「わたしを離れては、あなたがたは何もできない」と仰いました(ヨハネ15:5)。夜のステンドグラスのごとき。

でも神のみ前で唯一の合格者であるイエス・キリストはご自分の力をくださろうとしておられます:「聖霊を受けなさい」と弟子たちに仰るように(ヨハネ20:22)。

神はわたしたちを通して素晴らしいことをなさりたいのです。例えばどういうことか?何か新しい委員会を作るとか、施設を建てるとか、署名運動に加わるとか新しい活動をするとか――そういう話ではありません。仕事を捨ててアフリカで宣教師になるとか、そういう話でもありません。まず。

そうではなくて、「小さなキリスト」の部隊になってほしいのです。

だから一人一人のやっていることは全く変わらないかもしれません。やっていることは変わらないけれども、その意図とその質が変わります。キリストにあって、キリストと共に、キリストの力と知恵を得てやっていくと、その意味、そのインパクトは比べ物にならないほど深くなるのではないかと思います。
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キリストの働きに加わるための、キリストの力と知恵を得させる――これこそ聖霊の役目なのだと思います。

では、どうやって聖霊の恵みを受けることができるのでしょうか?洗礼や堅信を受けるとき聖霊の恵みを受けているはずです。でもどうすれば、その聖霊の恵みをイキイキとしたものとして受けることができるのでしょうか。一回だけではなくてずっとこれから。「霊に満たされ続けなさい」とパウロが言っているように(エフェソ5:18)。

まず、祈るべきですね。エルサレムの弟子たちは一緒に家に集まって「心を合わせて熱心に祈っていた」と使徒言行録に書いてあります(1:14)。

祈らなければなりません。そして自分の生活の中で何か聖霊の恵みを妨げることがあれば、それを告白して神の赦しをいただく必要があります。人を赦していないとか。神に喜ばれない何かと関わっているとか。そういうことがあれば、それを退ける必要があります。

そして聖霊の恵みを求めるのです。一人ででも、誰かと一緒にでも、祈って、聖霊の恵みを求める、求め続けるのです。

ただそれだけです。イエスが言われました:「天の父は求める者に喜んで聖霊を与えてくださる」(ルカ11:13)。

正式に牧師に任命された者として、僕はこれまで以上に聖霊を求めて、聖霊の助けを頼りにしなければいけないという事実を痛感しています。

ぜひ、皆さんも共に聖霊の恵みを求めていただければ、嬉しく思います。

2012年5月20日日曜日

The Key Is Knowing Where You're Heading (Hebrews 12:18-29)

Evening Prayer, St. Luke's Chapel, Teusler Hall
May 20, 2012

The Letter to the Hebrews is actually not a letter but a sermon. It was written to be preached in worship. The preacher is addressing a first-century Christian community, a relatively tiny group of believers living in a very big society.

These are people for whom being Christian, living as followers of Christ, has been pretty rough at times. It's cost them. Some members have lost their homes and businesses. Some have gone to prison. Most of them are subject to verbal abuse and ridicule. If nothing else, they get the cold shoulder from most of their non-Christian neighbors.

So there's all sorts of hardship coming from the surrounding society. Being a Christian definitely doesn't win any popularity contests. And it could even bring you loss or harm.

But there's also the hardship that comes just from trying to follow the teachings of Jesus. A few verses back, the preacher is getting at this: "Strive for peace with everyone, and for the holy living without which no one will see the Lord" (Hebrews 12:14).

"Holy living" doesn't mean going up to a mountaintop and fasting for twenty years. That might even be easier, since there's nobody else around to interfere with your holiness!

No, holy living is much more down-to-earth, day-to-day, messy. Striving to get along with everyone, even the jerks! Trying to forgive people who have wronged you. Trying to be considerate and patient with people you meet. Not joining in gossip or bad-mouthing anyone. Giving sexual immorality a wide berth. Using your money and talents to the glory of God. Living simply and not self-indulgently. Taking care of community members who need help. Trying to have some kind of prayer life. Coming together regularly in worship.

Some of those listening to this sermon are genuinely trying to walk the walk. But others are feeling the strain, and are starting to fall away. They're tired of being different, tired of not being accepted or understood. They're tired of trying to live lifestyles that are so out of step with the rest of the world. Frankly, it's a pain in the neck to follow Christ.

The preacher has just mentioned Esau, Jacob's brother, who "sold his birthright for a single meal" (Hebrews 12:16). In other words, Esau missed his chance at eternal blessing just to satisfy his immediate hunger.

We face the same temptation: Of settling for what's easy, what's NOT a pain in the neck, settling for what the rest of the world is doing—and thereby missing our chance at eternal blessing.
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If the March 11 earthquake taught us anything, it taught us that everything in this world can be shaken.

On that day, all the things we normally think we can rely on were gone in an instant. As people in Tohoku left the house that morning, they assumed that they would see their loved ones again. That they would have a bed to sleep in that night. That they would have a car to drive. That there would be gasoline for the car. We all thought we'd be able to use our cell phones. That the train would come, and come on time. That there'd be food in the supermarket. That if you had money, somehow things would work out.

But it turns out that the things all of us normally take for granted are actually very unreliable. One small shift in the earth's crust and—bang, suddenly everything changes. Everything is shaken.

It's the same thing, on a smaller scale, in the hospital. People are going about their normal, everyday lives, when suddenly, with a single word from the doctor, everything is shaken. The whole world comes crashing down.

What happened after March 11, and what I see happening so often in the hospital, is that when everything gets shaken up people realize, maybe for the first time, what we can truly rely on.

And we're surprised to find out that it's mostly the things we can't see that turn out to be the most reliable. Things like courage. Kindness. Hope. Love.

And the most reliable thing, the most rock-solid thing in the whole world is the love of God. No earthquake, no tsunami, no bad news from the doctor, no illness, no even death itself can shake the love God has for us.

The preacher in Hebrews is urging us to hold fast to that love, to let the love of God be both the foundation of our lives and the destination of our lives.

He is speaking so urgently because it is possible for us to refuse God's love. It is a terrifying truth that we can, by our lives, show that God's love means nothing to us. We can live as if God were not there. (Not so many people go around saying "God's love means nothing to me." But lots of us do say that very thing by the way we live our lives.)

The Israelites in Moses' day turned away from God. They showed that His love was, in fact, meaningless to them. They refused His love by refusing to listen to His word of grace. By their own free choice, they wandered for forty years in the wilderness. They died without reaching the promised land of rest.

That option is open to us. We can refuse God's love. We can live our own way, and spend our lives wandering in the wilderness, never really knowing rest.

But if by grace we say "Yes!" to God's love—then nothing can take away from us the blessing that God longs for us to enjoy. Christ on the cross defeated all the forces in the world that would try to rob us of this blessing. So God's eternal blessing is assured—if we just keep on walking by faith on the path towards it.

Even now, we often get glimpses and foretastes of God's eternal blessing. If life with Christ isn't always easy or comfortable, if it makes us different from others, if it's a pain in the neck at times, it also has its rewards. It brings unshakeable peace.

And it is the only thing that can really satisfy the deep longings of the human heart.

But the glimpses and foretastes we enjoy now pale in comparison with the great joy that we will know when we arrive at our true home, "the city of the living God, the heavenly Jerusalem" (Hebrews 12:22).

There, it's going to be a great, unending festival. We will join the angels in singing. And every hardship we faced, every small sacrifice we made, every small act of obedience to Christ, will become a source of delight to us. We will never tire of giving thanks to God, who through the shed blood of His Son made us His friends again, and who by His Holy Spirit gave us the strength and the wisdom to follow the path that brought us home.

"Therefore let us be grateful for receiving a kingdom that cannot be shaken, and thus let us offer to God acceptable worship, with reverence and awe " (Hebrews 12:28-29).

どこに向かっているのか、分かった方がいい(ヘブライ12:18-29)

夕の祈り 2012年5月20日
聖路加国際病院 聖ルカ礼拝堂


ヘブライ人への手紙は実は手紙ではなくて説教の原稿なのである。礼拝の中で読み上げられるように書かれている。説教者は、1世紀の教会コミュニティに向かって話している。大きな社会の中に住んでいる信者たちの小さなグループである。

この人たちにとって、クリスチャンであること、キリストに従って生きることは、時々すごく大変なことになっている。いろいろなつらい思いをしてきた。あるメンバーは家や職を失ってきた。あるメンバーは牢屋に入れられた。殆どのメンバーは周りの人からののしられたり、あざけられたりしている。少なくとも、冷たい目で見られている。

だから外からいろんな形で困難がある。クリスチャンであることは、決して人気を集める方法ではない。むしろ、損失や損害につながることもある。

これ以外にも、イエスの教えに従っていこうとすることからもいろんな困難が出て来る。今日読んだ箇所の前に説教者は言った:「すべての人との平和を、また聖なる生活を追い求めなさい。聖なる生活を抜きにして、だれも主を見ることはできません」(ヘブライ12:14)。

「聖なる生活」というのは、山の上で20年間断食するというような話ではない。そちらの方がやりやすいかも知れない。邪魔する人がいないから!

むしろ、「聖なる生活」は極めて日常的、かなり地味なことである。すべての人と仲良くすること――嫌なやつを含めて!自分に悪いことをした人を赦すこと。出会う人に思いやりと忍耐を示すこと。噂話に加わらないこと。人の悪口を言わないこと。みだらなことと関わらないこと。お金や才能を神に喜んでもらえるように使うこと。贅沢ではなくてわりとシンプルな生活をすること。同じコミュニティの人で助けを必要としている人がいれば世話をすること。何らかの祈りの生活を守ること。定期的に礼拝に集まること。

この説教を聞いている人たちの中で、できるだけこういう「聖なる生活」に励んでいこうと思っている人はいるだろうけれども、逆にその負担を感じて、あきらめつつある人たちもいる。周りのみんなと違う生活はもう疲れている。社会に理解されない、受け入れてもらえないことはもう、十分。正直言えば、キリストに従うことは面倒くさく感じる!

説教者は、ちょっと前にヤコブのお兄さんエサウの話をした。エサウは「ただ一杯の食物のために長子の権利を譲り渡した」と言ってしまった(ヘブライ12:16)。つまり、今の空いているお腹を満たすために、永遠の祝福をいただくチャンスを見逃したのである。

わたしたちにも同じように誘惑がある、と言っている。安易な生活、面倒くさくない生活、周りのみんなと同じような生活で「まあ、いいか!」と言って、永遠の祝福のチャンスを見逃すのである。
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3・11の大震災によって一つ明らかになったのは、世の中のすべてが揺り動かされ得る、ということではないかと思う。

普段、当たり前と思われていること、信頼できるだろうと思われていることは、またたく間に消えてしまった。東北の人たちはその朝、家を出たとき、当然また愛する人に会えると思っていた。その夜、寝る場所があると思っていた。車があると思っていた。そのためのガソリンがあると思っていた。わたしたちも、一日中携帯電話が使えると思っていた。電車が来る、しかも時刻どおりに来ると思っていた。スーパーに飲み物、食べ物があると思っていた。お金さえあれば、何とかなると思っていた。

でも普段わたしたちが当然だと思っていることは実は極めてもろいのだということに気づかされたのである。地球の地殻がちょっとだけ動くとドカン!すべてが変わってしまう。すべてが揺り動かされる。

スケールはもっと小さいけど、病院でも同じようなことがある。何も考えないで、普段の日常生活を送っている人が、ある日、医者に一言言われると、突然すべてが揺り動かされてしまう。自分の周りで世界が粉々に砕け散っていく。

3・11の後で見えたのは、そして病院でもよく見えるのは、すべてが揺り動かされてしまうと、人は本当に信頼できることに気づいたりする、ということ。

そして意外と、最も信頼できることはたいてい目に見えないことだということに気づくのである。例えば勇気。人の親切。希望。愛。

そして世の中で最も確信できることは、神の愛である。どんな地震でも津波でも、どんな医者からの宣告でも、どんな病気でも、死そのものでも、神の愛を揺り動かすことができるのは、何一つない。

ヘブライの説教者は、その愛にしっかりしがみつきなさい、ということを促しているのである。その神の愛を自分の人生の土台にして、そして人生の目的として置きなさい、と。

説教者が必死に話しているのは、神の愛を拒むことが可能だからである。恐ろしいことに、わたしたちは生き方によって、神の愛は自分にとって意味ないことだ、と示すことができるのである。神がいないかのように生きることができる。

(もちろん「神の愛はわたしにとって意味ない」とはっきり言う人は少ないが、でも実際の生き方によって、まさにそういうことをそれとなく言っている人はいる――経験者が語る!)

モーセのときにイスラエルの人々も神に背を向いた。わたしたちにとって神の愛は何だ、とそれとなく示したのである。神の恵み深いみ言葉を聞かないことによって、事実上、その愛を拒んだのである。

このように自分たちの自由に選んだことによって、40年間荒れ野でさまようい、約束された憩いの土地に入れずに死んでしまったのである。

わたしたちにも、同じことを選ぶことができるのである。神の愛を拒むことができる。自分の思うように生きていって、一生ある種の荒れ野でさまようい、平安を味わうことなく過ごしてしまうことはあり得るのである。

ところが、み恵みによって神の愛を受け入れるのであれば、何があっても、神の祝福からわたしたちを引き離すことがない。世の中で神の祝福を奪い取ろうとするあらゆる力を、イエス・キリストは十字架の上で打ち破ってくださったのである。だから神の永遠の祝福は確信できる。その祝福に向かって歩み続ければ、必ず辿り着くのである。

今でも、その永遠の祝福を垣間見たり、味わうことができる。キリストと共に生きることは楽ではないかも知れない。所々周りのみんなと違う生活になるかも知れない。面倒くさいと感じるときもあるかも知れない。

でも、その報いもある。揺り動かすことのできない平安を知ることができる。

しかもキリストと共に生きること以外に、人の心の飢え渇きを満たすことがないのである。

でもこの世では垣間見たり、味わったりする喜びは、やがて本当の故郷、「生ける神の都、天のエルサレム」(ヘブライ12:22)に着いたら、もう取るに足りないことと思うようになるだろう。

そのとき、終わることのない大きな祭りになる。天使たちの合唱にわたしたちも加わる。そして、この世において直面した苦難や小さな犠牲、キリストに捧げた小さな愛の業一つ一つが喜びをもたらすものになる。そのとき、神への感謝は尽きない。神は、そのみ子の流された血によってわたしたちをご自分の友達にして、その聖霊の力と知恵によってわたしたちに最後まで帰り道を辿るようにしてくださったことが明らかになるからである。

「このように、わたしたちは揺り動かされることのないみ国を受けているのですから、感謝しよう。感謝の念をもって、畏れ敬いながら、神に喜ばれるように仕えていこう」(ヘブライ12:28)

2012年5月13日日曜日

キリストの愛を住まいに(ヨハネ15:9-17)

復活節第6主日(B年)
聖路加国際病院聖ルカ礼拝堂 10時30分 聖餐式


最近、同じ家に住むということについて考えています。当たり前のことと思われますが、夫婦や家族同士でも同じ屋根の下で生活をして、同じ空気を吸って、同じ食卓を囲む――やはり大したものだと思います。世の中に家のない人もたくさんいますし。

何でこういうことについて考えているかというと、最近、家庭でうまく行かなくなった話を伺っているからです。やはり同じ家に住むには、たとえ親戚であっても最低限のルールというか条件があると思います。一緒に住んでいる人たちにつらい思いをさせないとか、乱暴なことをしないとか――こういう根本的なルールは多くはないけどあると思います。せめてこういうルールを守れない人は、家から出てもらうしかなくなってしまうのです。

聖書はこの世界自体が人間の「家」として造られたのだと言います。今日のイザヤ書でも:
神は「天を創造し、地を形づくり/造り上げて、固く据えられた...混沌として創造されたのではなく/人の住む所として形づくられた」(イザヤ45:18)

これは、物理化学の分野でも話題にされます。つまり宇宙も、物質も、生命そのものも存在し得るように、すべてがぴったりできている、ということです。

これは実に不思議な話です。まず、何かが在るということ自体は不思議です。何もないという可能性もあったのです。むしろ、何も存在しない確率の方がはなはだしく高かったのに、この世界が存在するようにすべてがぴったりできているわけです。

こういうふうにたとえられます。あなたは南米とかで死刑を宣告された囚人だと想像してみてください。壁の前に立たされる。銃殺隊が出て来る。50人の兵士たちが並び、ライフル銃を構えてあなたの胸を狙う。少佐の命令をスタンバっている。

少佐は「討て!」と叫び、50人の銃声が響く...

ところがどういうわけか、あなたは生き残っている!しかも、かすり傷一つない!そこで何気なく「ああ、危なかった!さあ、帰ろう!」と言うのでしょうか。「どうして?!?」と何か説明を求めるに違いないと思います!

50人の兵士たちが一斉にあなたから外れたのは偶然と思えるのでしょうか。もう一つの可能性があります:自分が知らないだけで、兵士たちは実はあなたの味方であって、あなたを応援していて、わざと外した、ということです。

わたしたち人間が在ることは、殆どあり得なかったのです。存在しない確率が非常に高い。宇宙は絶好なバランスが取れているから、存在し得るようになっています。例えば:
 重力と電磁気力の比率がちょうどいい(相対的強弱度)
 宇宙の膨張速度(早く広がっているスピード)もちょうどいい
 原子核の結合エネルギーもちょうどいい(核子の結合の強さの度合い)などなど

原子核の結合エネルギーというのは、Post-Itと同じ話です。Post-Itの接着力が強過ぎると、紙にくっ付いてしまって、取るとき紙をやぶいてしまいます。接着力が弱過ぎると、紙にちゃんとくっ付かないで、落ちてしまいます。

原子核の結合エネルギーも、ちょっとだけ強過ぎると回っている粒子が回れなくなって、核に衝突してしまいます。ちょっとだけ弱過ぎると粒子がどっかに飛んでしまいます。

宇宙のすべてがちょうどぴったりできています。ちょうどいいと言うと、いろんな値はあるけれども、例えば10の40乗分の1ぐらい変わったら、宇宙が存在し得なくなったり、物質そのものができなくなったり、まして生命を維持できなくなるのです。さまざまな値は無限小に近い偏差より少しずれたら...すべてがパッ!になる、という話です。

この非常に良くバランスの取れている宇宙ならでは人間の生命が可能となるわけです。「偶然の積み重ね」だけでは理にかなわない話です。人間が存在し得るように造った方がいるとしか説明のしようがないのです。しかも、物理科学の視点から見ても、この方がわたしたち人間の味方であり、わたしたちを応援して、わざとこの世を「人の住む所として形づくられた」ように思われるのです。
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聖書では、アダムとエバという最初の人は人類を代表する立場にあります。彼らの住まいとして、神はこの世界をお造りになったと言われます。

神は人のために絶好な環境を用意してくださいました。「園のすべての木から取って食べなさい!」(創世記2:16)と神は仰います。何不自由ない世界になっていたのです。

でも、そのエデンの園という「住まい」に住むには、一つだけの条件がありました。善悪の知識の木からは食べてはならない、というこれだけのルールがありました。

(こういう話は、人間の自由を表わしている話です。つまり人間はロボットではないから、神の愛に応える=神の言うことを聞くかどうか、選択できるはずです。強制ではありません。善悪の知識の木は、神が示してくださることとは関係なく、自分で身勝手に良し悪しを決める態度を表わしていると思います。)

とにかく神により絶好な環境が備えられて平和と幸福の道が開かれたところに、アダムとエバはそのたった一つのルールを破ったのです。唯一の禁断の果実を食べてしまいました。

人の心の中には、反抗したがる何かが存在しているということだと思います。安全で、幸せいっぱいの暮らしが用意されても、あえてそれを拒んで、勝手に進む道を選んでしまう傾向が人の心にあるということだと思います...
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イエスはその弟子たちに:「わたしの愛にとどまりなさい」(ヨハネ15:10)。この「とどまる」に当たる単語(meno)は「住む」という意味です。「わたしの愛の中に住みなさい・居候しなさい」とイエスが仰っています。

つまり、イエスとの親しい交わりの中には、わたしたちの居場所がある、ということです。心のよりどころ。生きているキリストと一緒に日々の生活を送ることができるのです。イエスの友人として生きることができるのです。それこそ、「喜びが満たされる」人の生き方になる、とイエスが仰っているのだと思います。

でも、イエスとの交わりを保つには、イエスの愛の中に居候するには、やはり条件があります:「わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。」(ヨハネ15:10)

注意:イエスの愛・憐れみをいただく、イエスとの交わりに迎え入れていただくためにその掟を守らなければならないという話ではない――それだけ分かっていただきたいです。
 「わたしはあなたがたを愛してきた」(ヨハネ15:9)
 「わたしはあなたがたを友と[呼んである]」(15:15b)
 「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ」(15:16)
イエスの愛が必ず先です。わたしたちに先立って、イエスが愛してくださっているのです。

神は愛をもって、愛のゆえにこの世界を人の住む所として形づくられたと同じように、イエスは愛のゆえにわたしたちをその交わりに迎え入れてくださるのです。

ただし、わたしたちはそこに住み続けるためには、イエスに倣って生きるように励むことが求められているわけです。それはこの「家」の決まりなのです。「わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる」(15:10)

イエスの掟とは?簡単であって簡単でない気がします:「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である」(15:12)

この掟は実は幼稚園児にも分かる話です。仲良く遊ぶこと。おもちゃを一緒に使うこと。頭ぶつかったり、泣かせたりしたら「ごめんね」と誤ること。「ごめんね」と言われたら「いいよ」と赦してあげること。

「互いに愛し合いなさい。」家族関係や近所付き合い、教会の付き合いだけではなくて、国際情勢や国家の経済レベルでこういう掟が守られたら、世の中はいきなり天国のようになります。

だけでそう簡単にはいかないのです。人間の心の中には、反抗したがる何かが存在しているからです。でも幸いなことに「わたしの愛にとどまりなさい」と仰るイエスは、とどまるための恵みをもわたしたちに与えてくださいます。

「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」(15:13)。これはわたしたちへの模範である以前に、イエスのしてくださったことを表わしている言葉です。わたしたちを「友」と呼んでくださったイエスは、わたしたちのためにご自分の尊い命を十字架の上で捨ててくださったのです。

その「十字架の愛」という大きな力をいただく人は、少しずつ愛することを学んでいけるのです。学んで、また失敗して、また学び直していけるのです。そしてイエスはそういう人の味方になり、応援してくださるのです。

イエス・キリストは、わたしたちをご自分の交わりに招いてくださっています。ご自分の愛にとどまってほしいのです。そのために、わたしたちに呼び掛けて、ご自分の跡に従っていく恵みを日に日に注いでくださるのです。

キリストの愛の家に居候していいのです。今日、これからその愛の家の食卓を囲み、イエスとの交わりにいられることへの感謝を分かち合いたいと思います。

2012年5月12日土曜日

道を迷わないため(知恵の書4:16-5:8)

2012年5月2日「夕の祈り」オルガンコンサート
聖路加国際病院 聖ルカ礼拝堂

最近、久々に本格的に道を迷うことがあった。

ある老人ホームでのミーティングの予定があった。誰かと一緒に前に1回行ったことがあったところなので、大丈夫だと思った。およそ30分早く駅に着いたもので、余裕だと思って歩き出した。

持っていた地図はNGだった(という言い訳を使おう)。インターネットから印刷したアクセス・マップみたいなもので、目印は本当に少なくて、しかもそれだけ見れば、一回だけ曲がればあと直線で行けると思わせるような地図だった。

しかも、見た感じでは徒歩2-3分の距離しかないように見える。「前回来たときにもっと歩いたはずなのになぁ...」と思った。

出発して2-3分どころか7-8分もの歩いて、それでも地図にある目印一つも出て来ない。どんどん不安になってくる。

プライドを捨ててその辺を歩いているお姉さんに聞くことにした。(可愛い女性でもあったのは、話し掛けたことと何の関係もない!)

行きたい施設の名前を言ってもよく分からないようだった。地域ではこの施設が結構知られているはずなのに。

そして、お姉さんとやり取りをしているうちに気づいた:地図では、北が下になっている!

長年日本に住んでも何度も間違ったことである。アメリカではどんな地図でも、必ず北が上で、必ず南が下になっているのである。だから考えないでこのアクセス・マップを見て「北が上だ」と思い込んでしまったわけである。

急いで駅まで引き返して最初からやり直し!まだ時間があるので、間に合う!今度こそ大丈夫...と思いきや、また迷ってしまった。

確かに方向的にこっちだったんだろうなと思いつつ、見ている風景と地図に書いてあるものとあまり一致しない。

今度、完全にプライドを捨てて(相手も選ばず)誰かと擦れ違う度に聞くことにした。あるお母さんと娘さんに聞くと「ずっとまっすぐに行って右に入る」と言われたので、進んでいく。

だが、犬の散歩をしているおじさんに聞くと、向こうは自信満々で「あっち行かないと!しかも遠いよ!」と言われちゃう。

もう一人の人に尋ねたかったけど、その人は僕の顔を見てかなりびびってしまったので「すいません!」と聞くのをやめた。(そんなに怖い顔をしているかな?!)

かなり遠回りしてから、結局、先のお母さんの仰るとおりに行けばよかったことが分かった。

やっと会議の場所に辿り着いた。余裕で着くと思ったところで、20分遅れてしまって。

でももう一人、さらに20分送れて到着する人もいた。彼女に聞いたら、犬の散歩をしているおじさんに「あっち!あっち!しかも遠いよ!」と言われたらしい...(笑)
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迷わないためにいい地図が大事だね。あるいはちゃんと案内してくれる人がいないと。

(また最近、歩行者用の携帯ナビも役立つだろうなと思う、アナログ人間であるわたしはそんなテクノロジーに向いていないと思う...)

一番いいのは、道が分かって同行してくれる人。

人生も似ているものだと思う。正しい道が分からなければ迷いやすいものだと思う。

先ほど、「知恵の書」を読んだ。聖書で言う「知恵」(ヘブライ語:ホックマ、ギリシャ語:ソフィア)というのは、ナビゲーションができるための教え、良い道に誘導する教え、というニュアンスがある。

今日の聖書のメッセージは、神さまがお造りになった世界だし、神さまがお造りになったわたしたちだから、一番良い道、一番豊かな道を案内できるのは神さまだ、ということ。

逆に神がいないかのように生きる人は迷子になってもったいない、ということ。

どのような生活をすればいいのか、分からない。だから、ブラブラしながら何とか生きていくけど、いつの間にか時間だけが経って、ひとかどの人生とは言えない自分がいる人は少なくない。

また、ただ周りに流されてしまう。世の中には、犬の散歩をしていたおじさんのように、変なことを言う人は大勢いる。
「大事なことはお金だ!」とか
「大事なことは自分を豊かにすることだ!」とか
「仕事で成功することが生きる意味!」とか
「精一杯楽しまなきゃ!」とか
「まず自分の幸せを考えないと」とか

そしてもちろん商売の舌先三寸はこれである:「モノを手に入れれば幸せになるよ!」というウソ。

このように、自信満々でこういったメッセージばかりが伝わってくる。

日本では、大勢の人が間違ったことを言ったら、それが間違っていても「常識」になってしまう!そして逆にそういう間違った考えに左右されないで、正しいことを大事にしようとする人はいつの間にか「非常識」になってしまう!

でも、それは日本だけではないようである:
「この[人たち]を、かつて我々はあざ笑い、/愚かにも、ののしりを浴びせた。その生き方を狂気のさた[=非常識、おかしい]と考えた...それがどうして神の子らの一人となり、/聖なる人たちの仲間に加わったのか。
我々はまことの道を踏み外した。義の光は我々の上に輝かず、/太陽も我々のためには昇らなかった。
我々は不法と滅びの道をひたすら歩み続け、/道なき荒れ野を突き進んだ。主の道を知ることがなかったのだ。
高慢は我々にとって何の役に立ち、/富とおごりは何をもたらしてくれたか。」

世の中では、人生の地図をさかさまにしている人、迷っている人、間違った案内をしようとしている人は大勢いる。これらの人たちに惑わされないで、本当の良い道を教えてくれる人を見つけるのが、わたしたちの課題だと思う。

一人一人の歩むべき道が分かっている方に尋ねるのが、知恵の始まりではないかと思う。

2012年4月15日日曜日

there's a reason why you're here (1 John 4:7-21)

Talk at Evening Prayer
St. Luke's College of Nursing Orientation
New Hall, Seisenryo, Kiyosato, Yamanashi


As a hospital chaplain, I spend lots of time talking with patients. Well, listening, mostly.

Doctors, nurses and other medical professionals usually deal with the questions "what" and "how". They try to diagnose "what is the problem with this patient"? And they consider "how can we provide her with the best care"?

But a lot of what a chaplain does is deal with the question, "Why?" Why did I get sick? Why did this happen to me now? Or, more basically, Why was I born? Why am I living?

So tonight, I want to think briefly about this question: Why are you here? Why have you come to study at St. Luke's College of Nursing?

Well, almost all of you would probably answer "to become a nurse." Still, why did you decide you wanted to be a nurse?

In the group work, you have talked about the occasion for your entering St. Luke's College of Nursing. But I want to make a bold statement. You may not believe me, and that's okay. But I think the idea of becoming a nurse, of coming to study at this school, did not actually originate with you.

I'll probably get in trouble for saying this, but the meaning of life is not something we create, but rather something we discover. The meaning of life is given to us. Likewise, I belive the occasion for your entering this school was also given to you.

No one bestows life upon himself. No one in this room sat around trying to decide when, in what country, to what family they would be born. Life is given to us from outside ourselves.

And along with life, I believe, we are each given a destiny, a mission. It comes from outside ourselves. To each of us is given a call to which we must respond if we are to be truly happy.

This kind of talk is pretty much rank heresy in the modern world. We moderns tend to want to believe everything is relative. I have "my" truth, you have "your" truth, and both are equally valid. I can make it up as I go along.

And we believe we can invent and reinvent ourselves, that it's up to us to determine the path of our lives. We each get to decide what the meaning of life is.

We may wish this all were true, but things simply don't work like that. No matter how much he may wish to be, a man cannot become his own Creator.

Certainly, we can change and grow, and we should try to change and grow. The goal of all study is to change the student. Any study that doesn't change you is meaningless and a waste of time.

But changing and growing, too, is part of the destiny we have been given. It is part of the call to which we are expected to respond.

The path of life is not something we make up. It is something we discover and accept.

Moreover, this is something to be very thankful for. Because to discover and accept the path we are to walk in life is to discover real freedom. To respond to the call placed upon our lives is to discover deep joy. And that is because the One who calls us is Love. "God is love," it says in the Letter of St. John " (4:16).

The Letter also says: "We love, because God first loved us" (4:19).

And that is the real reason each one of you is here. It's the same reason for us all: Our destiny is to respond in love to God's love.

Of course, how you respond, what shape that response takes, will differ from person to person. There are many ways of responding. That, too, is God's desire.

You each have different gifts, backgrounds, passions, different encounters. Your own unique experiences have shaped you and prepared you for this moment.

And what you experience here and whom you encounter at St. Luke's will further shape you and determine how exactly you respond to your call. Your time here will help you explore the contours of the destiny you have been given.

But at heart, all our destinies are the same: Together, and individually, our lives are meant to be a response to the love of God who made us. We are all called into the service of Love.

You are here for a reason. Knowingly or not, you have already begun to respond to the call. My fervent prayer is that you'll be able to taste the joy of knowing that God who is Love has chosen you and called you to share in His work of healing the world.

あなたがここにいるのは、わけあり(Ⅰヨハネ4:7-21)

夕の礼拝 聖路加看護大学オリエンテーションセミナー
清里『清泉寮』新館ホール


病院で働く牧師・司祭として、患者さんと話す機会が多い。話すというよりも、話を聞くことが多い。

医師や看護師などの医療者は、いつも二つの質問に取り組んでいる:
What(何であるか)とHow(どうやって)。

つまり、この患者さんの疾患は何であるか、診断する。そしてどうやってその病気を治せるか、どうやって患者さんのケアができるか。WhatとHow。

でもチャプレンは、よくWhy(何で・なぜ)という質問に付き添っている。何でわたしがこの病気になったのか。なぜ今こんな大変な眼に遭わなくてはならないか。もっと根本的なところで、なぜわたしは生れたのか。何で今生きているのか。Why。

だから、今夜は、皆さんと簡単に一つの質問について考えたい。それは、Why are you here?何であなたがここにいるのか。何で聖路加看護大学で勉強をしに来たのか。

「看護師になるためだ」と答える人は殆どでしょう。ある意味でその通りだと思う。でも、何で看護師になりたいと思ったのか。皆さんは、グループワークで「入学のきっかけ」についてすでに話し合っている(準備が終わっているでしょうか)。

でもわたしは、一つ大胆なことを言いたいと思う。信じてもらえないかもしれないけど、それでも大丈夫。でも、こういうことである看護師になりたいと思うようになったこと、そして聖路加看護大学でそのための勉強をしたいと思うようになったことは、最終的には皆さんに端をしている思いではない、ということである。

言ったら厄介なことになるかもしれないけれども、人生の意味は作り出すことではなくて、見出すことである。与えられていることである。同じように、皆さんの聖路加看護大学入学のきっかけも与えられたことだと思う。

自分にこの世に生を受けさせる人は誰もいない。いつ、どこの国、どういう家族に生れようか、と自分で決めた人はここに一人もいない。命は、自分を越えたところから授かっているものである。

そして命とともに、わたしたち一人一人に、運命、使命が与えられている、とわたしは信じている。一人一人が実は呼びかけられている。そして幸せになるには、その呼びかけに応えらなければならないのである。

現代世界ではこのような話が大それた異説になる。現代人であるわたしたちは、すべてを相対化しようとするから。「わたしにとっての真実」があって、「あなたにとっての真実」もあって、いずれも同じように妥当である、と。

しかもこの「わたしにとっての真実」を好きなだけ変えることができるのだ、と。都合のいい話だね。自分自身を作り変えることもできるのだ、と。人生の道を自分で決めることもできるのだ、と。人生の意味は自分で決めるのだ、と。

そうではありたいけれども、そういうわけには行かないのである。本当は違うのだから。

もちろん、変わって成長していくことができる。むしろ、成長していかなければならない。すべての勉強の目的は、勉強する人を変えることである。自分を変えない勉強は無意味であって、時間の無駄遣いである。

でも変わって成長していくことも、わたしたちの与えられた使命の中に含まれていると思う。わたしたちは成長していくようにも呼びかけられているのである。

人生の道は、自分勝手に決めるのではなくて、それを見出して、受け入れるものである。

でも、結局これはとてもありがたい話である。なぜかというと、自分の歩むべき道を見出して、それを受け入れることには、本当の自由がある、本当の幸せにつながることなのである。

自分自身への呼びかけに応えることには、深い喜びがある。

それは、呼びかけてくださっているのは、愛なのである。「神は愛です」とヨハネの手紙で書かれている(4:16)。

また、この手紙にはこういうことが書いている:
「わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです」と(4:19)。

わたしたちが気づく前から、神にトコトン愛されているというのが、教会の確信しているところです。

ありのままのわたしが愛されているのです。ありのままのわたしです。そして、愛されているわたしが、今度その愛に応えるように呼びかけられているのだ、と。

結局、皆さんが今、ここにいらっしゃる理由はまさにそこにある。わたしたちみんなの運命は、愛をもっと神の愛に応えることなのである。

もちろん、どういうふうに応えるのか、その応えの形は、人によって異なる。さまざまな応え方がある。それも神の望みである。皆さんはそれぞれ違う賜物、違う背景、違うパッションをもって、違う出会いに恵まれてきたのである。

一人一人のユニークな経験によって、今、このときのために、皆さんが整えられてきたのである。そして、聖路加においても、さまざまな経験や出会いによって、さらに養われて、変えられて、成長させられて、これからの応え方が形成されていくのである。聖路加での3年間ないし4年間は、自分ならではの歩むべき道を探検する期間でもあると思う。

でも最終的に、わたしたちの運命は同じである。すなわち、個々人として、そして仲間として、わたしたちの人生は、わたしたちを造ってくださった神の愛に応えるためにある、ということである。

看護師として、その愛に仕えるために皆さんが召されているのである。だから、皆さんは、わけがあってここにいるのだと思う。

それに気づいていらっしゃるかどうか分からないけれども、あるいは漠然としてしか気づいていないかもしれないけれども、皆さんはすでにその呼びかけに実は応え始めていらっしゃる。

わたしが心から祈っているのは、愛である神があなたを選び、深く病んでいる世の中のいやしの働きに呼んでくださっていることに気づく喜びを味わえることである。

2012年4月3日火曜日

a totally unexpected morning

"Trembling and bewildered, the women went out and fled from the tomb. They said nothing to anyone, because they were afraid." (Mark 16:8)

The resurrection of Christ, before it is a source of joy, is a source of astonishment and terror. We may not think of it simply as a story of a man brought back from the dead. Nor is it that a great tragedy has somehow been erased, and things reset to "the way they were." No. The resurrection of Christ is a new act of creation. It bristles with the mighty power of God who made heaven and earth. It is the firstfruits of a completely new kind of life, a manifestation not of "the way things were" but of "the way things will be". It is our clearest glimpse into that new world of freedom and peace that is waiting to be born when the curtain falls on the heart-rending drama of our present world.

奇想天外な朝

「婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。」(マルコ16:8)

キリストの復活は、喜び以前に驚きと恐怖をもたらす出来事だった。単に、ある人が死者の中から生き返らせられた話だと思ってはならない。また、ある大惨事がどうにか帳消しされて、物事が「元通り」に取り戻された話でもない。違う。キリストの復活は新しい創造のわざである。天地を造られた神の強大な力に満ち溢れる出来事である。全く新しい類の命の初穂として、「元通り」ではなくて「やがて」のことを現しているのである。キリストの復活にあって、切ないドラマであるこの世に幕が下りてからやがて生れて来る、自由と平和の世界を垣間見ることができるのである。

2012年3月30日金曜日

説教プレビュー:残念ながら、悪役だよ

「群集:『十字架につけろ。』」(マルコ15:13)

毎年、この「復活前主日」礼拝の中で、上記のひどい冒涜の言葉を口にさせられる。最も美しくて最も清い神のみ子の死をしつこく求めるのがわたしたちの役。イエスの受難には、人間の苦しみや迷いのどん底まで憐れみのみ手が差し伸べられているという意味も含まれている。しかし、わたしたちも――み心を否定したり、自己本位的な生活をしたり、人の命、己の命に傷つけたりして――わたしたち自身がその受難に加担しているのだ、という意味も含まれている。命の主であるキリストの苦悩をさらに大きくしている自分を見詰めるのは、この「聖週」の課題の一つでしょう。

2012年3月23日金曜日

マリアが教えてくれること

お昼のコンサート
日本聖公会聖歌集 234番「天使のみ告げをおののき受ける」


クリスマス(イエスの誕生日)=12月25日なら、逆算すると3月25日が母マリアが妊娠したことになります(西洋では妊娠期間が9ヶ月と数えられます=日本式では1ヶ月、アメリカ式では0ヶ月)

だから、「聖マリアへのみ告げの日」が明後日に当たる。聖歌はその祝日のものです。[聖歌234番の1を歌う]

ご存知の方が多いと思いますが、このストーリーを簡単にご紹介をしたい:
時が満ちて、神さまは、ガリラヤのナザレという町の、マリアという名の少女のところに、天使ガブリエルを、送られました...天使は、マリアの家に入ってきて、言いました。「おめでとう、神の恵みに満ちたマリアよ、主は、あなたと共におられます。」

この言葉を聞いて、マリアは驚きました。天使は言いました。「恐れることはありません。あなたは男の子を産むでしょう。その子をイエスと名付けなさい。その子は王となり、永遠に、人々を治めることになるでしょう。」

マリアは答えました。「でも、どうしてそんなことが起こるでしょうか。わたしは結婚していないのに。」

天使は言いました。「聖霊が、あなたの上に降りて、神さまの力が、あなたを包みます。だから、あなたの子は神のみ子と呼ばれるのです。」

そこで、マリアは言いました。「わたしは、信じて、神さまに任せます。あなたが言われたとおりに、なりますように。」(『こころのおくりもの~聖書ものがたり』ドン・ボスコ社96ページ)
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キリスト教のスタートに辿り着きますと、このマリアの話があるというのは、非常に大きな意味を持つと思います。マリアは、わたしたち人間の模範だと思っているのです。

神はマリアに「救い主になってくれ」とは頼まれなかった。スーパーマンのような力持ちになるとか、誰にも勝る知恵を身につけるとか、カリスマ性のリーダーになるとか、そういうことをしてくれとは仰らなかったのです。「母親になってちょうだい」と頼まれただけです。

マリアさんにできることでした。その後どうなるか、分からない。不安でいっぱい。シングルマザーを受け入れる社会では決してない。だから聖歌の「み告げをおののき受ける」となっています。

でも、「神さまに任せます」、とマリアが言いました。神に任せるなら、きっと大丈夫だ、ということです。

マリアは、神の呼び掛けにただ応えただけです。わたしたちも、一人一人に与えられた使命があります。「天職」と言えば、何かの職務が浮かび上がるけれども、それだけではない。英語のcallingの方がふさわしい。「呼び掛け」。病院の外来と同じように人によって呼びかけの内容が違います。ただ自分なりにその呼び掛けに応えればいい。職場でも、家でも、学校でも、近所でも、神の呼び掛けに応え続けるように求められているのだ、とわたしは思います。

でも応えていくと結果は、不安で、険しい道のりのかなたに、やはり喜びがあるのです:「み母の喜びわれらは歌う」

喜びがあると言ってもつらいことはないというわけではありません。自分の子どもの苦しみに立ち会わないとならなかったマリアの悲しみもありました。が、神は最後まで見守る方だ、という素直な信仰をマリアがわたしたちにも教えてくださると思います。