2011年7月31日日曜日

わずかなものしかない?さえある?(マタイ14:13-21)

聖霊降臨後第7主日(A年・特定13)
司祭 ケビン・シーバー
聖路加国際病院聖ルカ礼拝堂
2011年7月31日・10時30分 聖餐式 


周りを見れば見るほど、人々の深刻なニーズに直面します。

東北の被災地は、言うまでもないことです。職や住まいを失ったり、大事な人を失ったり、未だに先が全く見えてこない人がたくさんいます。

先週、看護大学のボランティアが書いた記事を読みました。おじいさんとおばあさん二人とも足が不自由で、地震のとき、娘さんと一緒に家にいたのです。津波警報がなったら、娘さんは自分の子供のことを心配して、少しでも高いところと思って、お父さんとお母さんをちゃぶ台に上に乗せて子供を向かいに出掛けました。

津波が家に入り込み、おじいさんとおばあさんは天井まで浮き上がりました。いよいよ水が自分たちを越えるのでは、と思ったらやっと水が引いて、ちゃぶ台が再びゆっくりと床に付く。家の中はめちゃくちゃになっていたけれども、二人は助かったのです。

が、娘さんと孫さんはそのまま戻りませんでした。避難所でおばあさんは「自分が死ぬべきだった」と涙ながら話す。おじいさんは足をこっすりながら黙っています。おじいさんとおばあさんの深い悲しみは、どうすれば和らげられるのか。
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先月、虐待を受けた子供たちの保護施設で働いている人に会いました。心が深く傷ついている子供たちは、大人を信頼するには相当時間がかかるのに、施設に入っている期間はごく短い。どうしたら子供たちが立ち直ることに役に立つことができるか、とのことでした。
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先日、もうこれ以上治療が望ましくないと言われて動揺しているあるお母さんの娘と話していました。お母さんは死ぬことに対する恐怖を抱いています。娘さんはクリスチャンで、お母さんにイエスさまにある慰めと希望を何とかして伝えたいけれどもなかなかうまく伝わらない。どうすればお母さんの負担を軽くできるのか。
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先週の日曜日、浅草聖ヨハネ教会に行ってきました。野宿生活をしている人は(女性も若者も含めて)増えているのに、支援活動をする教会やNPOはどんどんやめているようです。
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旦那さんがうつ病になってしまった奥さんと先日会いました。夫にどう接したらいいか、どうやってサポートできるか、自分も倒れてしまうのではないか、と心配しているのですが、なかなか先が見えないのです。
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などなど。これ以外にもたくさんたくさんのニーズが世の中にあります。考えれば考えるほど圧倒されそうになります。これに対して何ができるでしょうか。無力感を覚えます。

イエスの弟子たちも今日のストーリーで圧倒されそうになっていたと思います。一日中、イエスは神の国について教えるとともに、大勢の病人をいやすことによって神の国を目に見える形にして来られました。ある種の重労働だと思われます。

もう、そろそろいいのではないか。もう、お疲れさま。みんな、お腹がペコペコになってきましたので、早く解散して帰らせた方がいいよ、と弟子たちはイエスに提案します。
「そうすれば、自分で村へ食べ物を買いに行くでしょう」と(マタイ14:15b-16)

ここでイエスは妙なことを仰います。
「行かせることはない。あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい。」(マタイ14:16)

弟子たちは戸惑いながら、イエスの命令に従って、わずか5つのパンと2匹の魚で、女性と子どもを入れておよそ1万人の人に給食をする、という話です。

ここで、19世紀の半ばから一つの面白い解釈が出てきました。すなわち、イエスとその弟子たちが自分たちの持っている少しばかりの食べ物を出して、気前よくそれをみんなと分かち合おうとしているのを見た群衆は、自分たちのわがままを恥ずかしく思って、ポケットとか荷物に隠していた食べ物を持ち出してみんなと分かち合うようになった。こうやって全員が少し食べて、そしてその場で盛り上がった雰囲気でお腹がいっぱいに感じた、と。

確かに心温まる、面白い解釈ですね。

ところが、これほど的外れな解釈はありません。

1800年以上にわたりそういう話が一度も出て来なかったのは当然です。間違っている自己流の解釈ですから。まるでイエスをおとなしくしようとしている話に過ぎません。

この「大勢の人に食べ物を与える」という「力の業」は、珍しく4つの福音書のいずれにも出ています。いわゆる「奇跡」で言えば、これと復活の話ぐらいですね。それほど最初のクリスチャンの先輩たちにとってこの話は非常に大事なものだったと推定できます。

彼らにとって大事なのは、大勢の人が感動していきなり優しくなったことではありません。マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネはそういうことにあまり関心がありません。

むしろ、初代教会にとって大事なのはこの「力の業」によってナザレのイエスがどういうお方なのか、垣間見ることができるのだ、ということです。

イエスが病人をいやされたとき、その人たちの本来の元気な姿を取り戻しておられました。そういうことができる人は他にもいました。しかしこの業によっては、イエスは以前存在していなかったものを与えてくださっているのです。

この話の設定によって本当の意味が示唆されているようです。日本語で「人里離れた所」という言葉がありますが、これは「荒れ野」に当たるギリシャ語です(=ヘルモス)。

つまり、40年間神の民がさまよっていた荒れ野と一緒です。そのとき、今日のネヘミヤ書や詩編にあるように、神はずっと彼らに「口からマナを取り上げることなく/渇けば水を与えられた」(ネヘミヤ9:20)

旧約聖書で一貫して言われているのは、神は「罪を赦す神。恵みに満ち、憐れみ深く/忍耐強く、慈しみに溢れる」(ネヘミヤ9:17)。全く同じように「イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て深く憐れみ、その中の病人をいやされた」(マタイ14:14)

つまり神は、その大きな大きな慈しみに強いられて、荒れ野・人里離れた所で困っていた民にマナ・天のパンを与えずにはいられませんでした。ただ単にそういう神なのですから。

神のみ子であるイエス・キリストも、荒れ野・人里離れた所で困っている人々に食べ物を与えられたわけです。

み子においては、天の父の慈愛が現れるのです。スピリチュアルなこと、信仰に関係することだけではなくて、イエスはわたしたちの食べ物まで、健やかな体まで、日常生活に必要なことまで、関心を寄せてくださるのです。

「わたしたちの糧を、今日もお与えください」とイエスが教えてくださった通りです。
そしてそれらのことを与える力も、み子において現れるのです。これがこの話のポイントです。イエスは励みの存在だけではなくて、必要なことを与え得る力をお持ちの方でもあります。

しかも、イエスは弟子たちを通して与えることをお選びになるのです。弟子たちは、わずかな食べ物しか持っていないけれども、君たちがそれを分け与えなさい、とイエスが命じられるのです。そうすると、イエスの言うことに従って実際に動き出す弟子たちを通して、イエスが必要なものを与えられるのです。
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わたしたちは無力感で立ち止まるとき、もう疲れて、余裕がない、わたしには何ができるかと叫びたいときに、イエスは「君たちが彼らに食べる物を与えなさい」とわたしたちにも仰るのです。
  • 少しでも、あなたが被災者への支援に協力しなさい。
  • わずかの間でも、あなたがこの子供たちをトコトン可愛がってあげなさい。
  • 死を怖がっているおかあさんに、あなたは自分が抱いている望みを語ってあげなさい。
  • ホームレスの問題を知ったあなたが、それを心に留めておきなさい。
  • 落ち込んでいる旦那さんのそばに、あなたが黙っていてでも、居続けなさい、と
などなど。

「でもこれしかできない!」と言うのをやめましょう。それは、自分の目で物事を見ているからそう思っているだけです。イエスの目で物事を見れば、「ほら、これさえあれば!」

あるものから、持っているものから、できることからやりなさい、とイエスは仰います。わずかなものでも、それをイエスに捧げれば、その豊かな恵みが付け加えられて世の中に流れ出るのです。

神の国でことを評価する基準は、大きい小さいとか、多い少ないとかではありません。神を信じて、神が求めておられることにできるだけ応えようとするかどうか、とうことで評価されるのです。

そしてイエスは、弟子たちを通して食べ物を与えられたのを忘れないでいただきたいです。
「五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて弟子たちにお渡しになった。弟子たちはそのパンを群衆に与えた。」(マタイ14:19)

イエスの慈しみ深い働きに加わるようにと、わたしたちも召されています。とりあえず、この聖餐式でイエスが与えてくださるパンを食べ、少し元気出して、協力してみませんか。

2011年7月27日水曜日

kingdom justice

"The phrase ‘social justice’ can be loaded. To some people it is a political or a liberal conversation, but to me, it is a Kingdom conversation. There are people behind these stories and statistics, and God’s heart for justice burns on their behalf."

「『社会正義』という表現は誤解されやすい。ある人にとって、政治的な話、あるいはリベラルな話になってしまう。でもわたしはみ国の話だと思う。さまざまな記事や統計の裏には、実際に人間がいる。そして正義を愛する神の心は、この人たちのために燃えているのだ。」

Sara Groves, Catholic singer/songwriter

2011年7月26日火曜日

surely a day will come...

...when at first a relatively small group of people, and then a society, and then the human race will wake up and realize with horror the true worth of all our money. Which is, virtually zero.

I saw an ad on the train for "the power of banking inside your mobile phone." It seems your phone will become both your debit card and your online account management hardware.

The idea isn't entirely new in Japan, but for some reason it made me uneasy. I mean, soon, nobody will carry cash (and Japan has never had personal checques), and we will no longer even have credit cards. We'll just have our regular old mobile phones = portable multimedia centers, connected to some server somewhere which records that we have X number of points, which happen to be called "yen."

It made sense when we exchanged cows and turnips and daughters. Things that had intrinsic value which you could touch (although touch my daughter and see how long you keep breathing).

It still made sense when we bartered "services rendered"--I help you dig a well, you help me invade the hamlet across the valley.

But then somewhere along the line, we made this huge leap from Things Which Are Obviously Useful For Living over to shells and pretty stones.

(And how did that happen, anyway? I mean, at some point, some guy must have taken, say, a dozen eggs from his neighbor's barn and said, "Right, here's your baubles" and yet DIDN'T get his face pounded into the mud. Instead, the neighbor must've said, "Baubles? Great! I think I'll just pop out and get that new pair of snowshoes for the Missus!" And, voila! Economy was born?!?)

But with the shift from real goods and services to symbolic CURRENCY, it seems to me that human civilization basically ran off the edge of the cliff, and as soon as we look down and realize there's no ground under our feet, we're going to start dropping. Fast.

Shiney metal disks engraved with intricate designs. Rectangular sheets of specialty paper with--oh! a watermark! A plastic card with your name embossed on it in, check it out, gold letters... If you squint real hard you can still sort of pretend that these contain value or represent something, I don't know, real.

All modern societies literally depend on your continued gullibility.

But points stored on your mobile phone? Just like points stored from your last Donkey Kong game. And the difference is...?

How long before that light bulb goes off?

where we can encounter Jesus (Matt 25:31-46)

Evening Prayer at St. Luke's Chapel, July 21, 2011 (translated from Japanese)

Joshua challenges us to "choose this day whom you will serve"—either the true, living God or everything else that we take to be gods. Take your pick, he says.

Well, to jump to the end of a long and dynamic sermon, you should choose to serve God. Because God is the One who made you and loves you and can give you abundant life. And all the other gods, in the end, give you absolutely nothing.

But that's not where I want to go this evening. I'd like to simply take as given that choosing to serve God is a good thing, in fact, the most important thing we can do with our lives. More specifically, serving Jesus is the most important thing we can do with our lives, because Jesus is the face of the God who loves us.

But I want to think about the question, How? How do we serve Jesus? Do we sacrifice virgins? Do we go on jihad? Do we put little sake jars in front of our Jesus shrine? Do we throw a big wad of cash in the offertory box?

Well, Jesus tells us how to serve Him:
"Truly, I say to you, as you did it to one of the least of my brothers, you did it to me." (Matt 25:40)

So we serve Jesus by serving those who need our help.

Incidentally, this is one of the things the 19th century German philosopher Nietzsche hated about Christianity: Its sentimental attempt to serve the least, the last, and the lost. In a world where the fittest survive, Nietzsche thought, Christians actually go against nature by showing compassion to the "losers," the weak and those who are made weak in society.

Well, few people have the cajones to say it as clearly, or the intellect to say it as forcefully as Nietzsche, but certainly the spirit of Nietzsche is alive and well in, say, the hearts of government bureaucracies.

Last week, I visited a free clinic down in Sanya (an area along the Sumida River near Minami Senju). I spent the morning at the clinic and the afternoon delivering food to the guys who live in blue-sheet tents along the river.

Currently, there are less than two dozen tents out there. There used to be about 300. When I asked why the decline, they told me "it's because Tokyo Sky Tree got built, and you can see the tents from the observation deck."

So I guess if you can't see it, it's not there. Only civil servants and toddlers think that way.

But I don't want to pick on apparatchiks. Nietzsche was simply giving expression to something that actually lies in every human heart: a basic lack of interest in the plight of my neighbor.

From time to time, this lack of interest changes into outright hatred. Usually that happens when the plight of my neighbor starts to impinge on my life.

Just this morning, I was at Asakusa St. John's (a church which runs a Sunday food bank operation). Today, they distributed over 600 hundred rice lunches. They started at 9:30 and ended at 9:50. Just about 20 minutes.

There were heaps of volunteers there to make absolutely sure that there is no littering, no loitering, no wandering around, no urinating, no sleeping. The men (and a few women) are led from a major avenue to the church, and back to a major avenue again.

But even all of that is not enough, of course. Some of the neighbors are outraged at the simple fact that these homeless men so much as enter their airspace. The only thing that will satisfy the neighbors is to go back to their former state of total disinterest as soon as possible.

Well, Nietzsche would be very proud of that neighborhood! Jesus, maybe not so much.

I think, as followers of Jesus, as the mind of Christ (1 Cor 2:16) grows within us by the power of the Holy Spirit, we gradually tend to turn our eyes to the poor and the weak, just as Jesus did.

At first, our compassion might be simple obedience to Jesus' command to "love your neighbor." But then I think, by the outworking of grace, we actually begin to love the people Jesus loves, little by little.

Furthermore, what we find in the act of serving those who need our help, is that in some mysterious way we are encountering Jesus himself:
"For I was hungry and you gave me something to eat, I was thirsty and you gave me something to drink, I was a stranger and you invited me in, I needed clothes and you clothed me, I was sick and you looked after me, I was in prison and you came to visit me." (Matt 25:35-36)

When I was in seminary in the States, one of my teachers was a former Benedictine monk and priest. Fr. Dyer served for a short period of time with the Sisters of Charity in Calcutta. He used to talk about that experience in class.

One day, Fr. Dyer was sent out with a Sister who was a former doctor, to take care of people who had fallen by the roadside. They met all sorts of people, but that day a man with advanced leprosy saw Fr. Dyer's collar and began to implore him: "Father, lay hands on me and pray for me!"

The man's disease was pretty advanced. His nose and ears were gone, and his head was covered with boils and scales. Fr. Dyer panicked, worrying about contracting leprosy. He asked the Sister for advice. "Sister, what should I do? Is it okay to touch him?"

The Sister responded calmly: "What would Jesus do?"

"No, Sister," Fr. Dyer said, "I'm asking your medical opinion."

"Out here, I'm not a doctor. I'm a sister. And what do you think Jesus would do?"

Knowing what the answer was, Fr. Dyer swallowed his uneasiness and put his trembling hands on the man's blistered head and began praying.

As soon as he touched the man, Fr. Dyer said he felt an overwhelming warmth. And the face of the man in front of him began to shine. And Fr. Dyer had the strong sense that he was actually touching Jesus Christ.

In that moment, Fr. Dyer said he felt the presence of Jesus more powerfully than anything he had ever felt before or since.

I think that's an amazing story. I also think that not many of us will ever have such a clear experience of grace like that. But I do believe that there is something going on when we reach out in service to those who need help.

I felt that in my trip to Sanya last week. I can't really explain the feeling. I felt happy simply to be there, with the homeless guys, breathing the same air.

I think Christ is somehow present when we serve those who need help. It has nothing to do with whether or not the other person is holy or innocent. It's just that Jesus is somehow present with them. Just as during His ministry in Israel, Jesus is most at home with those who have the most need of God.

So if you want to encounter Jesus, we know at least two places He is sure to be. One is among those who are weak and small. And the other is in the Eucharist, where Jesus becomes weak and small for our sakes.

Let us go to meet Jesus in both places as often as we can. To those that do, Jesus promises that they ARE already blessed now and WILL BE blessed forever, in the kingdom of our heavenly Father.

イエスに出会える場所(マタイ25:31-46)

聖路加チャペル 夕の礼拝 2011年7月24日

今日、モーセの後継者だったヨシュアがわたしたちに挑戦を挑んでいます(ヨシュア記24:15)。
「仕えたいと思うものを、今日、自分で選びなさい」

つまり、まことの生けるの神に仕えるのか、神らしいのだと思ってしまう「その他」のものに仕えるのか、どちらか、ということです。

長い、とてもダイナミックな説教の結論から言うと、まことの生ける神に仕えた方がいい、ということです。なぜかと言うと、神のみがわたしたちを造り、トコトン愛してくださり、豊かな命を与えてくださることがおできになるからです。他のいわゆる「神々」は、最終的には、何も与えてくれないのです。

でも今夜はそういう話をするつもりはありません。神に仕えることが良いことだと、当然の前提として受け止めさせていただきたいです。「良いこと」どころか、人生の中で神に仕えること以上、大事なことはないという風にしておきたいと思います。

とりわけ、クリスチャンとして、わたしたちをトコトン愛してくださる神の顔であるイエス・キリストに仕えることは、最も大事なことだ、としておきたいです。

今日考えたいのは、どうやって?どうやってイエスに仕えることができるのか、という問題です。祭壇の上に処女を生け贄としてささげべきか?ジハードを実行すべきか?イエス像の前に小さいOne Cup酒のビンを置くべきか?賽銭箱に札束を投げ落とすべきか?

イエスはその仕え方を教えてくださいます:
「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」(マタイ25:40)

イエスに仕えるには、わたしたちの助けを必要としている人に仕えるのだ、と。

ちなみに、19世紀ドイツの哲学者フリードリッヒ・ニーチェは、この点で(も)キリスト教が大嫌いでした。つまり、小さな者、社会的に追いやられている者、迷っている者に仕えるというセンチメンタルな思いがある、という点で教会が嫌いでした。

つまり、弱肉強食の世の中ですから、クリスチャンがいわゆる「負け組み」、社会的に小さくされている人に憐れみの目を向けることが不自然なことだと考えていたようです。

そこまで大胆に言える勇気があるのは、ニーチェぐらいだと思います。だが、ニーチェの精神は十分鼓舞されていると思います。例えば、お役所や国の予算を決める政治家の間で。

先週、山谷(南千住当たりの隅田川地区)にある無料クリニックを見学しに行きました。午前中はクリニックを見学し、午後は求職活動に参加させていただきました。隅田川沿いのブルーシーツのテントに回りました。

今、20軒はないと思いますが、前はあの辺で300軒のテントがあったそうです。何でこんなに少なくなってきたかと聞くと、「東京スカイツリーができたから。上から見れるので」と言われました。

見えないからいないって思うのは、幼子と日本のお役所ぐらいですね。

でも局員たちだけをいびるつもりはありません。ニーチェは、実はすべての人の心に潜んでいる思いを言葉にしてくれただけだと思います。それは、隣り人の窮状への根本的な無関心。

たまには、この根本的な無関心が怒りに変わることもあります。それは、隣り人の窮状がわたしの生活にインパクトを与えるときです。

今朝、(日曜求職活動をやっている)浅草聖ヨハネ教会に行ってきました。今日、炊き出しを600食以上が配られました。9:30に開始し、9:50で終わりました。わずか20分前後です。

たくさんたくさんのボランティアが手伝っているので、ゴミを捨てることも、立ち止まることも、ブラブラすることも、立ちしょんすることも、寝込むこともないように徹底的に管理しています。おじさんたち(おばさんもいますが)は大通りから誘導され、また大通りまで誘導されます。近所にいる時間はわずか30分弱。

それにも関わらず、近所のある人々は満足しないのですね。要は、野宿生活をしている人がその辺の道に足を踏み入れることそのものに大して大怒りです。近所の人々は、以前の無関心であれる状態に一刻も早く戻りたいわけです。

ニーチェは、その近所を誇りに思うでしょう。イエスは、どうでしょう。

わたしたちはイエスに従う者として、「キリストの思い」(Ⅰコリント2:16)がわたしたちのうちに深まるにつれて、少しずつ貧しい人、弱っている人に自然に目を向けるようになると思います。イエスと同じように。

最初は、イエスの命令に従うことから始まるかも「隣人を自分のように愛しなさい」。しかしそれから、恵みの働き掛けによって、イエスが愛してくださる人々をわたしたちも少しずつ愛せるようになると思います。

そして、わたしたちの助けを必要としている人に仕える中で、不思議なことですが、そこでイエスご自身に出会っていることに気づくこともあります。
「わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれた」(マタイ25:35-36)

わたしがアメリカの神学校の教師の一人は、ベネディクト会神父。ダイヤー神父は、カルカッタにあるマザーテレサの「神の愛の宣教者会」に短期的に派遣されたことがあります。授業でその話をしてくれました。

ある日、元医者だった一人の修道女に同伴して、道端で倒れている人たちの世話をするために町に出かけました。色々な人がいますが、その日あるハンセン病にかかっている男性に出会いました。その人はダイヤー神父を見ると(カラーをしているから司祭だと分かって)「神父さま!手を置いて祈ってください!」としきりに求めます。

その人の病状がかなり進んでいて、鼻も耳もなく、頭が水疱やウロコのようなもので覆われているのです。ダイヤー神父はプチパニックを起こします。「シスター!どうしたらいいのですか。触って大丈夫ですか。」

シスターは冷静に答えます。「イエスさまなら何をなさるかしら」と。

ダイヤー神父「シスター、違います。修道女じゃなくて、医者としての意見を聞いてるのです!」と。

シスターは執念深く「ここでは、わたしは医者ではなくて、修道女です。イエスさまなら何をなさるかと思いますか。」

神父は答えが分かったので、不安を抑えて、震えながらハンセン病患者に両手を置き、祈り出します。

すると、突如手で著しい温もりを感じるのです。そして、目の前の人はあたかも幻のように顔が輝き出します。そして神父は強烈な実感をしました。「わたしが触れているのはイエスさまご自身ではないか!」と。

その瞬間、かつてもそれ以来もないほどに、イエスの身近な存在を全身で感じ取った、とダイヤー神父は夢見るような目つきをしてよく語ってくれました。

不思議で素晴らしい体験だと思いますが、普段そのようなはっきりした恵みの経験はないと思います。でも、わたしたちの助けを必要としている人に仕えるとき、やはり不思議な何かがあると思うのです。

先週、その山谷にいたとき、そう感じました。あまり言葉にできないけれども、単純にその場にいて、野宿生活を送っているおじさんたちと共にいて、同じ空気を吸うだけで、なんか幸せになるのですね。

わたしたちの助けを必要としている人に仕えるとき、不思議な形でイエスもそこに臨んでくださると思います。相手が純粋だとか、いい人だとか、関係なく、ただ単にイエスも付き合ってくださるのだと思います。地上の働きのときと一緒。神の助けを最も必要としている人たちの近くにいるのが、イエスの心地よい場所となっていたのです。

だから、イエスに出会いたかったら、その確かな居場所は二つが分かります。一つは、小さい人、弱い人のうちに。そしてもう一つは、わたしたちのためにイエスご自身が小さく、弱くなってくださる聖餐・ご聖体のうちにです。

両方の「場所」に、たびたびイエスさまに会いに行きましょう。そうする人に、イエスは約束してくださいます。すでに祝福されていること。そして、永遠の祝福を受けること。

satay chicken butter masala kebobs?

Taking a cue from my lovely friend Anne Kennedy, I tried a new dish last night.

Whenever I make anything at home, the towering question is: Will Augustine like it?

It goes without saying that the answer is "no." My middle child HATES all food that isn't already on his Tested and Approved Dishes (Preferrably Made by Mama) List, which contains about four items. So trying to get him to eat anything new always ends up making me feel like the White Witch forcing her reindeer driven sledge onward through deep mud.

Which is why I changed Anne's fish dish to a chicken dish, because, while nothing that ever even so much as glanced at the ocean is on The List, at least a dish using chicken is. Although it's a different recipe, so Augustine doesn't recognize any shared similarities. He is a Nominalist.

But the dish was not too hard to make and kind of fun:

Kebobs:
cheap chicken, preferably Celesium-free, cut into 1-inch or so pieces
an onion, halved and quartered
red pepper, cut into 1-inch or so pieces
cherry tomatoes
new potatoes (cut to size and microwaved on high for 4 min)
Krazy Salt, black pepper, garlic powder, curry powder, as desired

Imagining you're a swashbuckling ship's captain under attack by hoarde of scurvy-dog pirates, run the wooden skewers (which I forgot to soak in water beforehand) through the above foods in whatever combination you like.

But avoid putting the cherry toms at the very tip because they'll slide off when cooked, especially if you're still swordfighting. Although I have to say, the squishy plop of a well-broiled cherry tomato onto the floor does add a touch of grotesque realism to the shipboard battle scenario.

Line up loaded skewers on a baking rack (on top of a foil lined tray for easy cleanup!). Drizzle olive oil over each kebob, and sprinkle with Krazy Salt, black pepper, garlic powder, and curry powder, as desired.

Broil on high heat for about 10 minutes, then remove the tray and cover your fingertips with microburns as you flip each kebob over. Sprinkle again with just a wee bit of Krazy Salt. Broil again on high heat until you see a distressingly large quantity of black smoke pouring out of the cracks around the oven door. (You might wish to disable the smoke detector for a short while.)

Sauce:
one can of cut tomatoes
one can of coconut milk
2 heaping tablespoons of peanut butter (okay, 3. Plus a little more)
"the juice of a juicy lemon," which means about 5-6 seconds of upending a bottle of lemon juice
1-2 tsp curry powder
2-3 tsp sugar, brown or otherwise

While the kebobs are broiling, dump all the above ingredients into a pan and bring to a boil. Then smooth out the mixture with an immersion blender (=hand-held puree thingy). Except that I used kind of a big pan, which meant the sauce was a little on the shallow side, and as soon as I fired up the immersion blender sauce started spewing all over the place. Very Jackson Pollock. Use either a small or a very, very deep pan.

I served with steamed (okay, microwaved) broccoli (on The List) and rice (also on The List, and, well, because we live in Japan), as well as a big plate of raw cucumber sticks served with a side of mayonnaise and Thai sweet chilli sauce.

The result? Augustine ate the kebobs, never even considered touching the sauce, and went nuts on the cucumber and chilli mayo, even though it's spicy.

Everybody else liked it all. It might even work with fish.

2011年7月19日火曜日

Having Ears to Hear (Matt 13:24-30, 36-43)

[Fifth Sunday after Pentecost, Year A, Proper 11--translated from Japanese
 St. Luke's International Hospital Chapel July 17, 2011– 10:30 a.m. Holy Eucharist
I'm feeling the need to speak more about a Christian worldview, the background against which the Good News can really be seen as good. I also knew there would be first-time visitors at this service, a hospital employee and her daughter.]


"He who has ears, let him hear" (Matt 13:43).

That's an odd thing to say. I mean, who DOESN'T have ears? Well, I know of at least one example: My children. And never more than when the TV's on. "Time for dinner!" You can say it several times, but to no effect. No ears! Might as well be talking to a rock.

"He who has ears, let him hear."

Jesus is so desperate for us to hear and understand what He's saying. In today's reading He talks about sowers, and wheat and false wheat. What we learned last week was that Jesus Himself is the sower of the "good seed," the wheat, and the good seeds He sows are His words, His message about "the Kingdom of God"—or, you could also say, people who have accepted Jesus' message about the Kingdom.

"He who has ears, let him hear." Jesus is pleading with us to grasp the meaning of His message about the Kingdom of God—it's basically all He ever talks about. All His works of healing point to it.

And what is this "Kingdom of God," anyway? It's not a place on a map, not a political organization. I think the Kingdom of God is the heart of God lived out through human lives. The Kingdom of God is what God desires to have happen.

And what does God desire? He desires for us human beings to be happy. Is that surprising? That the Creator of the Universe would want us to be happy?

Well, it's true. God wants us to be happy. That's exactly why He made us. God certainly didn't need to make humankind. He was perfectly happy without us.

But God did create us because He wanted to shower His love on us. And because God loves us, He wants us to be happy. Don't you want the people you love to be happy? Some people say the definition of love is, in fact, to desire the other person's happiness.

And God has shown us the way to be happy. Happiness in the Kingdom is born out of responding to the love of God, offering back to God our praise and thanksgiving. Happiness is born when we serve our neighbors. Happiness comes when we give of ourselves: "It is more blessed to give than to receive," Jesus taught (Acts 20:35).

Our hearts are truly filled when they are open to God, to the abundant life He wants to give us, and open to others.

Jesus says this is what it means to be truly human. And He calls this condition the Kingdom of God. He wants us to hear and understand what He says about it.
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The problem is, there is another kind of message. It's all around us. If Jesus speaking His message about the Kingdom of God is like a sower sowing good seeds, wheat, He also tells us there is an enemy sowing "false wheat" (darnel) in the same field.

False wheat is a kind of plant that bears a close resemblance to wheat. Until the ear appears, that is. When that happens, the wheat ears are heavy, so the wheat bends down, while the false wheat still stands up straight. At that point, separation is easy.

But who is this enemy, and what is the message he is sowing? In the biblical sense, an enemy is someone who works against you, who seeks to undo your achievements and drive you into destruction.

Jesus commands us to love our personal enemies—can you imagine anything harder? To "desire the happiness" of people who seek our harm? No way! Yet that's what Jesus commands!

But Jesus tells us to be aware that there is an enemy who is also sowing seeds, also sowing a message which is different from the message about the Kingdom of God. This is God's enemy, the devil who opposes God's work, who seeks to undo and distort what God has made, that ultimately seek to destroy everything good.

The enemy's power is limited. He can't uproot the wheat. All he can do is sow bad seed right in the middle of the good. All he can do is try to spread another message, an attractive and ultimately dangerous message.

I recently read a news article about a blowhole in Hawaii. A blowhole is where many years of waves have formed a cave underneath the coastal rocks, and there's a hole on the surface. When a big wave comes in, the pressure blows sea water through the hole, high up into the air—sometimes as high as 30 meters.

There was a man who was vacationing in Hawaii with his friends. He went close to the blowhole. Someone told him not to get too close, it was dangerous. But his friends said it would be fun to try to get sprayed by the sea water coming up out of the hole.

Two messages. One negative, like a constraint, "don't." The other seemed to be fun. Exciting. Thrilling.

Unfortunately, the man got too close to the hole. A big wave came in and he lost his footing. He fell into the blow hole. And that was the last anybody ever saw of him.
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There is a kind of message that is sown in the world. Just like the false wheat bears a resemblance to real wheat, this message promises a kind of happiness that looks like real happiness but isn't.

This message goes something like this. The reason you were born into this world is not because God loves you and wanted to create you, you just happened. A coincidence. The natural chain of life.

And so, you need to take care of yourself. You need to think about yourself, look out for your own interests. Nobody else will.

There are "winners" and "losers" in the world. Make sure you're one of the "winners."

And you make your own happiness. Happiness comes from being completely free. Free from constraints, free from the expectations of others, free to choose whatever you want.

Being poor limits your freedom. So you should have as much money as possible. Then you can fill your life with whatever pleases you. The house you want. The things you want. The vacations you want. The relationships you want. Pet. Baby. Career. Spouse.

You can have all these things. Or none of them, if you prefer. You're free to choose. Happiness is born out of this freedom. To "be myself" is the highest good, the way to happiness.
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Sounds good, right? Really appealing.

The problem is, from beginning to end, it's a lie. And it's dangerous. A life of total freedom, a life centered around me and what I want, is a life that inevitably leads--not to happiness--but to emptiness and loneliness and despair.

It may not seem that way right away. I mean, would the TV, magazines, movies really keep telling that lie over and over again?

Plus, there is indeed a kind of sense of satisfaction that comes from living for yourself. But the sense of satisfaction is fleeting. You can never have enough. And one day, you wake up and find your life is false wheat and not wheat. You aren't bearing fruit. You aren't contributing to the world.

And what's more, you aren't even really happy.

Japan is one of the freest countries in the world. In Japan, you can live as you please, buy what you want, more or less be who you want. As a nation, Japan ranks third in terms of GDP--and 90th in terms of Gross National Happiness.

And Japan boasts one of the highest suicide rates in the world, especially among young people.
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The good news is that Jesus is telling us this parable so that we can stop listening to the enemy's deceiving message, and start responding to the message that leads to real joy.

It's never too late to come to your senses. There is always the possibility of turning our hearts back toward God.

Jesus taught and did all that He taught and did so that we could avoid falling into the blowhole of a self-centered life. Jesus said He came to "seek and save the lost" (Luke 19:10) and so that we could have "life, and have it abudantly" (John 10:10).

"He who has ears, let him hear."

That is why we listen to the words of Jesus, and the words about Jesus, and all the words of God in the Bible. And that's why we even listen to long sermons!

And that is why we stop listening to the enemy.

Let us do all those things. And let us ask God to increase the wheat in our own hearts, and weed out the false wheat. Let us pray to God to show us the way to true happiness.

聞く耳を持つこと(マタイ13:24-30, 36-43)

[聖霊降臨後第5主日(A年・特定11)
 聖路加国際病院聖ルカ礼拝堂・聖餐式]


「耳のある者は聞きなさい」(マタイ13:43)

変な言い方ですね。耳を持っていない人は、果たしているのでしょうか。まあ、一つの事例を思い浮かびます。自分の子供たち。

特にテレビが付いているとき。「もうご飯だよ!」何回も言っても、全然通じないのですね。石に話しかけていると一緒。(笑)

「耳のある者は聞きなさい」

イエス様は伝えようと苦心しておられることを聞いて分かって欲しいのですね。今日の福音書では、先週と同じように、種を蒔く人の話があります。先週わたしたちが学んだのは、イエスご自身が「良い種[つまり麦]を蒔く者」であって、その蒔かれる種はイエス様のお言葉である、「天の国・神の国」に関するメッセージである、ということです。あるいは、神の国に関するイエスのメッセージを受け入れる人たちが麦であるとも言っているような感じです。

「耳のある者は聞きなさい」――どうしてもこの神の国の意味を理解してもらいたいのですね。イエスは殆ど神の国ばかりの話をなさいます。いやしの業などすべての奇跡もこの神の国を示しています。

さあ、この「神の国」とは何なのでしょう。神の国は、地図に載せる場所でも、政治的な組織でもありません。むしろ、人々の人生を通して現される神のみ心だと言ってもいいと思います。神の国は神が望んでいらっしゃること、神の実現して欲しいことです。

さて、神が望んでいらっしゃることは何でしょう?それは、人間が幸せであることです。信じられますか?宇宙の創造主である神は、わたしたちが幸せであって欲しいって。

でも本当にそうなんです。神はわたしたちが幸せであって欲しいのです。

そのためにわたしたちを造ってくださったわけです。別に造る必要は全くなかったのです。人類がなくても神は完全に満足しておられたお方なのです。

でも確かに神は人間をお造りになりました。それは、ご自分の愛をわたしたちに注ぐためでした。そして神がわたしたちを愛してくださるからこそ、幸せであって欲しいのです。皆さんも、愛する人が幸せであって欲しでしょう?ある人によれば、それが愛の定義になると言うのです。愛は「相手の幸せを望むこと」と言います。

しかも、神はわたしたちに幸せへの道をお示しくださっています。神の国での幸せは、神の愛に応えることから、ちょっとしたお返しとして賛美と感謝を捧げることから生れます。隣にいる人たちに仕えることから、持ち物を人と分かち合うことから生れるのです。「受けるよりは与える方が幸いである」とイエスが教えてくださった通りです。

実に満たされる心は、神に開かれた心、神が与えようとしている命に、そして他人に開かれた心である、と。

イエスによれば、これは本当の人間らしさだと仰るのです。この人間らしい状況を神の国と呼ばれるのです。そういう神の国のことについてどうしても聞いて欲しいのです。
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問題は、これとは違うメッセージがある、ということです。四方から耳に入るメッセージなのです。もし良い種を蒔く者は、神の国を語れるイエスだとしたら、同時に毒麦の種を蒔く「敵」もいる、とイエスが警告してくださいます。

毒麦という植物は、本当の麦に非常に似ています。穂になるときまで極めて見分けづらいです。穂になったら、麦の穂が重いから、「実るほど頭を垂れる」ということです。その時点で、本当の麦と毒麦を分けやすくなるのです。

さてこの「敵」は、そしてそのメッセージは何なのでしょうか。聖書がいう「敵」とは、自分に対立する人、自分の成果を台無しにしようとする人、自分を破滅へと追いやろうとする人、という意味になります。

イエスは、その弟子たちに「敵を愛せよ」と命じられました。極めて難しいことだと思います。つまり、わたしの不幸を目指している人の幸せを望むなんて。でもわたしちはそのようにイエスに命じられているのが、間違いないです!

でも、そういう人間の敵ではなくて、違う敵がいる、とイエスが教えてくださっています。違う種を蒔く=神の国と違うメッセージを広めている敵です。「悪魔」とも呼ばれるこの神の敵は、神の働きに対立して、神が造られたことをすべて台無しに、すべての良いことを堕落させたり、滅ぼしたりしようとしている敵だと仰るのです。

ところが、幸いなことに、この敵の力には限りがあります。麦を根こそぎにできません。ただ、麦のただ中に悪い種を蒔くことしかできないのです。別のメッセージを広めます。魅力のある、でも最終的には危険なメッセージをせっせと広めています。
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先週、ハワイの観光スポットの一つである潮吹穴(しおふきあな)についての記事を読みました。潮吹穴とは、海岸で、年月を経て岩の下に洞窟ができる、そしてその洞窟が地上にもつながっている、という自然現象です。大きな波が打ち寄せると、波の圧力に押されて海水が地上に高く吹き出します。30メートルにも高く上るときもあるそうです。

ある男性が友人とハワイで観光していたのですが、その潮吹穴に近づこうとしました。その辺の人何人かに「危ないよ」と言われたようですが、友だちに促された、すぐそばまで近づきました。吹き出してくる海水を浴びるのが目的だったそうです。

つまり、二つのメッセージがあってわけです。一つのメッセージはつまらない。束縛に感じる。「しないで。」もう一つのメッセージは楽しそう。スリルがある。魅力的でした。

残念ながら、ちょうどそのときに大きな波が打ち寄せて、その人は足を踏み外して潮吹穴に落ちてしまいました。その後、彼の姿を見た者はいません。
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あるインチキのメッセージがよの中に広まっています。毒麦が本当の麦に似ていると同じように、このインチキのメッセージは幸せに見えるものを約束しますけれども、実は幸せにつながらないのです。

次のようなメッセージです。あなたはこの世に生を受けたのは、神さまに愛され、神さまはわけがあって造ってくださったのではなくて、ただ生命の自然の流れの中で起こったことだ、と。偶然だ、と。

だから、自分のことを守らなければならない。自分の力で自立しなければならない。自分の利益を考えないといけない。他にそうしてくれる人はいないからだ、と。

世の中には「勝ち組」と「負け組み」があります。「勝ち組」に入るように努力しなさい。

そして自分で、自分の幸せを作るのだ、と。幸せは、自由から生れるものである、と。あらゆる束縛から、他者のあらゆる期待から自由になって、好きな人生を選ぶことに幸せを見出すのだ、と。

お金がないと、自由は限られてしまうので、できるだけお金があった方がいい。お金があれば、好きなことで人生を充実させることができる。好きな住まい。好きなもの。好きな旅行。好きな人間関係。ペット。赤ちゃん。キャリア。結婚。

これらすべて手に入れることができる。すべて捨てることもできる。あなた次第である。幸せはこのような自由の中であなたを待ち受けている。このように「自分らしく生きる」ことは、何よりもえらいことであって、幸せにつながる生き方である。
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いいね。魅力を感じません?唯一の問題は、最初から最後まで嘘なのです。しかも危険な嘘です。全くの自由を追い求める人生、自分のことを中心とした人生は、むなしさ、孤独、絶望につながる人生なのです。

最初はそう見えないかもしれません。テレビ、雑誌、映画は延々とそんな嘘をつくなんて、あり得るでしょうか。しかも、自分の都合のいいように生きることから、確かにある種の満足感が得られます。

でもその満足感は、一時的なものに過ぎません。どんなにいっぱいあっても足りません。そしてある日目覚めて、自分の人生は麦ではなくて毒麦だということに気きます。いい実を結んでいないことに。世の中に何を貢献しているのか。しかも、幸せだとは言えない。

日本は、世界の最も自由な国の一つです。この国では、好きな暮らしをしてもいい。好きなものを買ってもいい。ある程度、好きな「自分」を決めてもいい。日本は、国内総生産(GDP)では2位か3位になっています。しかし、国民総幸福量では、90位です。自殺率では世界トップファイブに入る、特に若者の年齢層で。
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イエスがこのたとえ話を語ってくださっている最も重要な意味は、敵が広めているインチキのメッセージに耳を塞いで、本当の幸せにつながるメッセージに耳を澄まして聞くことができる、ということです。まだ間に合います。

目覚めるのにまだ遅くない、ということです。神に心を向け直すチャンスはまだあります。イエスが教えた、なさったすべてのことは、わたしたちが自己本位の生き方という潮吹穴に陥らないためでした。イエスは「失われたものを捜して救うために」(ルカ19:10)、そしてわたしたちが「豊かな命を受けるために」来られた、とご本人が言われたのです。

「耳のある者は聞きなさい」。

だからわたしたちはイエスの言葉に、イエスについての言葉に、そして聖書全体にある神のみ言葉に耳を傾けます。長い説教にも耳を傾けます!敵のメッセージに耳を塞ぎます。そうしましょう。

そして、自分自身の心の中にある麦を増やして、毒麦を根こそぎにしていただけるように求めましょう。本当の幸せへの道を示してくださるように祈りましょう。

2011年7月15日金曜日

bible rofl #112

Running for his life from the deranged King Saul (bipolar disorder?), David tries to go to ground in a Philistine town called Gath--a place which has less than friendly feelings toward David, considering he killed Gath's most famous warrior, Goliath. With a slingshot. When he was, like, 13. And then chopped off Goliath's head and took it home as a trophy. And is, in fact, now carrying Goliath's sword.

Why David thought Gath would be a good place to lie low...the Bible doesn't say. Anyway, right away they recognize him. Duh.

So what does David do? The only natural thing, of course. He pretends to be stark raving mad. Pounding his head on the city gate, foaming at the mouth, singing Lady Gaga songs off-key, etc. Which leads the King of Gath, Achish, to, um, lose it:

"Can't you see this guy is a freaking loon job? Why'd you let him in here? What, you think I don't have enough crazy people around this place? So, what, I need one more, for good measure? Get this psycho out of here!"

(1 Samuel 21:10-15)

2011年7月13日水曜日

強く、雄々しくあれ(ヨシュア1章)

(2011年7月10日 夕の礼拝の話)

先ほど読んだ聖書では、ヨシュアという人のいわゆる「任命式」の場面がありました。

ヨシュアとはだれか。簡単に言いますと、モーセの右腕で、そしてモーセが亡くなってからその後継者になった人です。

神がイスラエル人をエジプトから導き出したときから、ヨシュアはずっとモーセと一緒にいました。律法を授かるためにモーセがシナイ山に登ったとき、ヨシュアも途中まで登りました。

そしてついにモーセが亡くなったら、ヨシュアが神の民を約束された土地(カナン地方)に導く人として神に選ばれたのです。

その「任命式」での神がヨシュアに語る言葉は:
  強く、雄々しくあれ(ヨシュア1:6)

(この「任命式」で4回出て来る言葉です。)

強く、雄々しくあれ――かっこいい言葉なんですが、わたしたちにとってどう関係しているのでしょうか。わたしたちはそれをどう受け止めればいいでしょうか。

ここで神がヨシュアに超人的な努力を促していると思ったら、大間違いです!

神は、わたしたち人間に自分たちの力だけで強く、しっかり頑張るようなことを求めはなさらないのです。そういう意味での強さは、むしろ、世の中で通用する意味になります。世の中で高く評価される強さです。「勝ち組」の強さ、弱肉強食、「勝てば官軍」の強さです。

自力でしっかり自分を守り、すべての難関を克服しちゃえ!――それは世の中が促すことであって、神が求められることではありません。

違います。神がわたしたちに促されるのは、自分たちの力を発揮するのではなくて、神に信頼をしっかり置くことです。忠実に神の導きに従うこと。それが本当の強さ。
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ヨシュアは神を絶対的に信頼した人です。

モースが偵察隊をカナン地方に送り込んだとき、ヨシュアもその一人でした。その地域に住んでいる人たちはどんなものか、調べて来い!」と。

偵察隊が戻ったら、「絶対無理!敵は強すぎる!だめだ!」と報告しました。

でもヨシュアは違います。ヨシュア(と仲間のカレブ)は:「大丈夫だよ!成功できる!神は、わたしたちに住む場所を約束なさったから、間違えなくその約束を守ってくださる!戦いに行こう!主はわたしたちと共に戦ってくださるんだ!」と言いました。

でも結局ヨシュアたちの話は無視されたのです。ほかのスパイたちの報告を聞いて、イスラエル人は神とその約束を疑ったゆえに、40年間、民全体が砂漠でさまようことになってしまいました。つまり、神を信頼しない者は約束の土地に入らせてもらえなかったのです。

残念な結果として、せっかくエジプトから救い出され、葦の海を歩いて渡ることができた時代のイスラエル人は、一人も約束の土地に住み着くことが許されなかったのです。

ヨシュアとカレブ以外。ヨシュアとカレブだけが神の約束、神の摂理を信じたから、約束の土地に入ることができました。新しい時代(砂漠で生まれたイスラエル人)を指導するにふさわしい者と見なされたのです。
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実はヨシュアは、その名前がモーセによって変えられました。元の名前は「ホシェア」(神が救いたまえ=要求)でした。モーセはそれをヨシュア(神はわが救いなり=宣言)に変えました。

それは、将来、ヨシュアが得られる勝利はすべて、神によるものであることを明らかに示すため。神が変わりに戦ってくださることを。

そして実際に、ヨシュアがイスラエルの民を約束の土地に導くとき、より強い、より数の多い敵と何度も出会いますが、必ずイスラエルは敵をしのぎ、勝利を手に入れるのです。神のお陰で。神が戦ってくだされば、勝ち抜くことはできるのです。

わたしたちも神に戦ってもらえば――戦争とかではなくて、人生の中で巡り合う様々な困難、誘惑、挫折など、そういうときに神の力を頼りにすれば、神の偉大な力にわたしたちの小さな努力、わたしたちの微力を加えれば、素晴らしいことが起こる、ということ。不思議なこと。大きな恵みが与えらるのだ、と。

キリストは聖パウロに仰いました:
「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」
そしてパウロは言います:
「だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう...わたしは弱いときにこそ強いのです。」(Ⅱコリント12:9,10)
また、パウロが:
「わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です。」(フィリピ4:13)

だから、わたしたちが十分強ければとか、自分の力・努力を頼りにするとか、自分の才能、頭のよさ、運のよさを頼りにするのではなくて、神をしっかり信頼することが大事です。神の恵みを頼りにするべきです。

ヨシュアへの約束はわたしたちへの約束でもあります。すなわち、巡り合うどんな苦難でもそれに乗り切れる力が与えられるか、それに耐え忍ぶ力が与えられるか、どちらかということです。

どちらにしても、神は共にいてくださる、ということです。それが約束なのです。

結局は、何があっても神は共にいてくださるのです。わたしたちを見放すことも、見捨てることもない。(ヨシュア1:5)

だからこそ「強く、雄々しく」やっていけるのです。
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最後にもう一つ。神が「共にいる」とヨシュアに仰るけれども、その「共にいる」一つの大きな方法は、律法を通してです。

ヨシュアは、示されたみ言葉をよく読み、み言葉について黙想して、そしてみ言葉で示されたことに聞き従うことによって、神に近寄り、神のみ心を知ることができたのです。

要は、神がその民と共にいる器として、この聖書のみ言葉がある。これを通して、わたしたちと神との触れ合いが実現できるわけです。

わたしたちも、ヨシュアと同じように、聖書をみ言葉として敬い、感謝をもってこれを受け入れるなら、これを読み、これについて黙想し、この中に示されていることに沿って生きるなら、神に近寄ることができるのです。

神がわたしたち一人一人にしてくださっている素晴らしい約束も分かるのです。

さらに、神のみ心、その性格を知ることができます。神は何があっても常に信頼できる方で、約束を必ず守ってくださる方で、わたしたちを見放すことも、見捨てることもない方であること。

独りのみ子――ヘブライ語でヨシュア、ギリシャ語でイエス――神はわが救いなり――と呼ばれるみ子をお与えになったほどに、わたしたちをトコトン愛してくださる方です。

神は、このみ子によって、罪と苦難と死そのものに対する勝利をわたしたちに与えてくださるのです。

2011年7月12日火曜日

暇になることの恐ろしさ

(2011年7月6日の聖路加国際病院聖ルカ礼拝堂の「夕の祈り」オルガンコンサートでの話。出席者の大半は教会に通う人ではない。30分のオルガン演奏に次いで、30分弱の祈りの中でチャプレンの「一言」がある。コンサートは無料だけど、チャプレンの話に我慢していただく、ってこと)
聖書日課:マルコ4:35-41
皆さんは地デジ対応テレビは大丈夫ですか?

今までこういうことはあったでしょうか?国が何かを決めると、国民みんなが新しい家電を買わないといけないということ...?!?

わけ分かりませんが、とにかくこのカウントダウンで、もう神経質になってしまっています。今までその警告はテレビの画面の一番下にあったので、無視しようと思えばできたのに、今は、字がでかく左の方に移っています。「後18日!!」

これに強いられて、先週末、やっと地デジ対応テレビを探しに行きました。○○電機でプチパニック状態になりました。どれがいいか、迷っていました。わたしと同じようにぎりぎりまで動き出さなかった人は大勢いるし、あまり集中できないわけです。

やっと「これだ!」と思ったものに落ち着いたら、「在庫がない」と言われました。家に届くのは、早くても8月1日。

げっ!7月24日から8月1日まで---まるまる一週間や!ギョッとしました。

どうしてそこまで困るのか、自分でも分かりません。別に18日後、世の終わりが来るわけでもないけど...ただ、テレビが見れなくなるのです。もっと深刻の問題として、子どもたちにテレビを見せられないのです。

家がシーンと静かになることを想像して...代わりに何をするのか、と不安になるわけです。
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先ほど読ませていただいた聖マルコによる福音書では、イエスさまの弟子たちが舟に乗って、大きな嵐に遭難しそうになっている話がありました。

弟子たちは非常に恐れています。そこでイエスさまは嵐を静めてくださいました。

皆さんは分かりませんが、わたしはしばしば嵐のただなかにあるような気持ちになります。いつも走り回って、辛うじてやることをこなしているような感じです。病院と看護大学での仕事、ファミリーサービス、そしてこのチャペルコミュニティへの責任のバランスをはかりつつ、やっています。

結果として、「器用貧乏」---器用でも言えないから、不器用貧乏?!とにかく、すべてが中途半端になってしまいます。いつも慌てふためいてバタバタしているのです。

そこで文句を言ったりします。「ああ、忙しい!ああ、しんどい!」でも、たぶん、もっといやなのは、忙しくないことだと思います。暇になることを避けている気がします。

いつも何かをしなきゃいけないと思うのは、わたしだけではないと思います。不安に感じる人は少なくないと思います。というのは、電車とかに乗ると、7-8割の人は目が携帯にくぎ付けなんです。何をしているか分かりません。メールをやったり、インターネットを見たり、テレビを見たり、ゲームをしたりして。

電車だけではないのですね。歩きながら、自転車に乗りながらでも、絶えず携帯電話。

(わたしは歩きながら携帯をやってる人の前にわざわざ立ち止まるのが好きです。向こうが背の高いわたしにぶつかる寸前いきなり、ウワッ!と気づくのです。そのビックリした表情はたまらないですね!(笑))

でも携帯はただ新しくできた手段、暇にならないための手段に過ぎません。他にもたくさんあります。携帯に夢中でなければIPodや小説、漫画、雑誌、新聞、テレビに夢中になるわけです。

面白いことに、たまには、車内で座って、手に何も待たないで、ただ周りを見ている人がいたら、ちょっと警戒するのですね。その人は何?ヘンテコリンかも知れない、とゆっくりと離れるのです。

とにかく、暇にならないために、気晴らしにわたしたちはいろんな手段を使います。携帯とかIpodとか新聞そのものは良くも悪くもありません。が、このように常に気晴らしをする傾向は、ある種の中毒になっていると思います。しなきゃ落ち着かない行為になってしまうのです。

(このコンサートが終わったら、礼拝堂を出た途端に携帯をチェックするつもりでいる人は、手を挙げてください!(笑)。今でも携帯をチェックできないのがとても気になる人、手を挙げてください。たった今、こっそりと携帯電話をチェックしている人...(笑))

あるいは、帰ったら、とりあえずテレビを付けます。その内容はどうでもいい。とりあえずインターネットで、1,2,3時間を簡単に過ごします。とりあえず雑誌、小説を眠くなるまで読みます。この「とりあえず」の時間はいつの間にか多くなってしまいます。

このような「気晴らし中毒」の問題は、どんな中毒と同じように、結局不健康なのです。常に忙しくて、暇がない状態は人間らしい状態ではないのです。

健全な精神状態を保つには、時々静かになり、自分を振り返る時間が必要です。日々の生活の出来事や人との出会いから生れる経験を処理しないといけません。想像を巡らせる時間が必要です。また、(メールとかブログではなくて肉体の)人とじっくり関わる時間も必要です。自然の美しさを楽しみ、自然の力を吸収する時間も必要です。

でも魂の健全な状態も心配ですね。古代ギリシャの哲学者ソクラテスの名言があります:「吟味されない人生など、生きるに値しない。」

他の人もそうかも知れないけれども、わたしの場合は、暇になりたくない一つの理由は、自分の人生をあまり吟味したくないからだと思います。問題は、暇になると...なりたい自分に果たしてなっているのか、自分が今なんで生きているのか、本当に大事なことを守っているのか、それとも無駄なことに時間を費やしているのかなど、そういうことを考え出すので、不安です。

だから、自分の人生をあまり吟味したくないのです。でも、逆にそのまま、時の流れに身を任せるままに生きるというのも、何かもったいない気がします...

だから、結局お勧めしたいことは、時々携帯を切って、テレビを消して、読み物を横においてじっくりと自分を見つめ直すという時間を取っておくということです。誰よりも自分自身に言ってる気がしますね。)きっと、そういう時間は有意義なことになると思います。

こういうコンサートの一時は、そういう作業ができるように心を少しでも落ち着かせる効果があればいいなと思います。十分に休息した精神をもって、日々の嵐に戻って、より豊かな毎日を過ごすことにつながるといいな、と思います。

2011年7月10日日曜日

we could really use some help down here

OK, so if:
A. There are more saints in Heaven now than, say, 2,000 years ago, and
B. The saints intercede for us here on earth, then

why do things seem to be getting crappier all the time?

2011年7月7日木曜日

Masu smiled

I sometimes pray with a man on the hospice floor, I'll call him Masu, who has some of the saddest eyes I've ever seen. I often suddenly recall his eyes when I'm in the middle of doing something else.

In clinical terms, Masu isn't depressed per se. He's just profoundly uneasy, feels lost in the cosmos. His wife passed on several years back, and, I don't know the details, but his daughter is not a supportive presence in his life now.

Masu has some church background, though probably not so strong. When I pray with him, he often puts his face in his hands and cries quietly.

He's a grown man, but something about him reminds me of a boy who got left behind somewhere by accident. Time has passed, the panic and hysterical wailing have died down, and now he's just tired, and sad, and scared, and wondering if he'll ever get home again. Wondering if things will ever be all right again.

Today, there was a small celebration of Tanabata, the Star Festival, in the ward. Tanabata is a typical Japanese syncretic mishmash of Chinese legend, wish-making, and laid-back summer celebration.

We--me and the music therapist, a female student doctor, some volunteers--sat around the ward Common Room, singing Japanese folk songs and drinking cold green tea. At first, no patients came. Everybody's energy level is pretty low at the moment.

But the music slowly drew them. First, Kubota-san and his rheumatism-ridden wife, both in wheelchairs. Then the taciturn Kawai-san and her middle-aged daughter. Then Masuda-san, looking bewildered as usual, accompanied by his wife and four thirty-something people whom I guess are his children.

And then Masu came in, pulling his IV pole. He's really tall! He's always sitting in bed when I see him, so I didn't know. He was looking quietly sad today, too.

There's a whole culinary category in Japan of "sweets that go well with bitter green tea". So there was a small spread of 'mizu-yohkan' (sweet redbean paste jelly), and dried apricots. There were also these cute little pastel colored cubes of sugary powder wrapped in tissue paper called 'o-higashi'. They melt in your mouth.

At first, Masu just sat, listening. I asked him if he had any song requests, but he didn't. He didn't want tea, either, but the volunteer brought him a glass anyway. He didn't touch it.

And then the student doctor offered him one of the o-higashi cubes. At first, Masu just let it sit in front of him.

As I listened to the next song, I watched out of the corner of my eye as Masu carefully unwrapped the tissue paper and put the sugar cube tentatively in his mouth. He seemed to stop moving for a moment. Then he took a sip of the tea he had refused earlier.

And then, he started to reach for another cube. The student doctor noticed, and said, "Tasty, aren't they?"

And Masu smiled. Like a golden glow that suddenly broke out all over his face. The sheer delight of the sweet delicacy, a perfect complement to the cool green tea. "Yes, it is," he said, and he looked pleased and even slightly naughty as he quickly put a second cube into his mouth to melt.

Amid all the sorrows of hospice, there are clear moments of joy, small happinesses that would probably pass unremarked in normal circumstances. I hope that today held such a moment for Masu.

I know that seeing him smile was a joy to me.

And I am grateful for the power of delicious food, which can sometimes reach even the saddest heart.

2011年7月6日水曜日

宗教かインテリアか

[いわゆるニューエイジ世界では、]全く努力のいらない、癒やし系の「個人的スピリチュアリティ」の環境を思う存分整えることができる。ただドリームキャッチャーや結晶、女神崇拝の書物、チベットのマニ車、ジョーゼフ・キャンベルやカール・ユングなど神話学のノンフィクション作品、踊り狂うナタラジャ像、ルーン文字を彫り込んだ牌の袋、ケルト風にぼんやりとした光に満ちているラファエロ前派のプリント数枚、アンデス山脈のパンパイプなどなど、こういうものを買って来ればいい。こうやって紐や価値のない石英結晶、安い線香、焼成粘土、低俗な装飾品、借り物の図像、不正な研究の山がどんどん積み重なって、宗教とインテリアデザインとの区別がつかない、という不思議な飽和点に到達するまで。
ー デービッド・ベントリー・ハート博士 (『無神論は妄想である』、24ページ)

[In the world of so-called New Age,] one may cultivate a private atmosphere of "spirituality" as undemanding and therapeutically comforting as one likes simply by purchasing a dream catcher, a few pretty crystals, some books on the goddess, a Tibetan prayer wheel, a volume of Joseph Campbell or Carl Jung or Robert Graves, a Nataraja figurine, a purse of tiles engraved with runes, a scattering of Pre-Raphaelite prints drenched in Celtic twilight, an Andean flute, and so forth, until this mounting congeries of string, worthless quartz, cheap joss sticks, baked clay, kitsch, borrowed iconography, and fraudulent scholarship reaches that mysterious point of saturation at which religion has become indistinguishable from interior decorating.
--David Bentley Hart, Atheist Delusions, p. 24

2011年7月5日火曜日

let's talk about it

Oh God. The "bishops" in England say there needs to be "discussion" "around" the "issue" of human sexuality.

And we all know what that means. Along with a steady programme ('cuz, you know, it's the UK) of establishing facts on the ground (a vociferous gay-rights dean here and there, a nudge-nudge-wink-wink "celibate" bishop or three), England will be bored stiff with 3-5 years of commissions and position papers and "study groups" and "reflections" and "theological" rationales (read: -izations) and meetings programmed to reach preordained conclusions using the Indaba-Delphi technique, culminating in a majority-voted policy change, followed by half-hearted calls for "living into the differences" in our "common life" so that we can continue to "honor" our "diversity" and "witness" to our "unity" in "the Christ" (or "Christa," depending).

Oh, crap. Now I'm almost out of scare quotes. I think I'll use my last two sets thusly:

First, to say that, you know, some things just don't need "discussing," especially when calling for discussion is itself an act of disobedience ("Did God really say...?" ←regular ol' quotes--still got plenty of those!).

It's like the husband who says there needs to be a discussion around the issue of monogamy in the marriage.

"Um, no, actually, my dear husband, we do NOT 'need to talk about this' and if you ever bring it up again you'll be staying in a motel eating frozen dinners for the rest of your life. For now, I think the sofa is the perfect place for you to reflect more deeply on how the psychologically unhealthy constraints of an outdated and repressive morality, as you put it, might actually be a good thing for you in the long run. Consider it your own, personal listening process."

And, second, I'm just going to put scare quotes around "Anglican Communion" and call it a day. Because daily, this creature I onced loved grows more and more into a parody of itself...

2011年7月1日金曜日

how's that working out for ya?

"At the end of the twentieth century--the century when secularization became an explicit political and cultural project throughout the world--the forces of progressive ideology could boast an unprecedentedly vast collection of corpses, but not much in the way of new moral concepts. At least, not any we should be especially proud of. The best ideals to which we moderns continue to cling long antedate modernity; for the most part, all we can claim as truly, distinctively our own are our atrocities."
--David Bentley Hart, Atheist Delusions, p. 222

「政治的、社会的「世俗化」という運動があからさまに浮上した20世紀を振り返ってみると、進歩的イデオロギーの勢力が「自慢」できるのは史上空前のスケールの死者数ぐらいであって、新しい道徳思想はあまり出て来なかった。少なくとも、特に誇りに思える思想は。わたしたち現代人が今でも大事に抱いている理想は、「現代」に遥かに先行するものばかり。わたしたち自身が「できた」と言えるのは、残虐行為以外に殆どないのである。」
ー デービッド・ベントリー・ハート博士 (『無神論は妄想である』、222ページ)