2012年12月5日水曜日

我々のアルファとオメガ


(ダニエル書7:9-14,黙示録1:1-8,ヨハネ18:31-37
聖霊降臨後第26主日(B年)
聖路加国際病院聖ルカ礼拝堂
2012年11月25日・10時30分 聖餐式

来週は降臨節(クリスマス前の4週間)、教会暦で新しい年の始まり(C年)。今日は、「降臨節前主日」、一年の最後の日曜日。伝統では、「王なるキリスト主日」。この日は、イエスがわたしたちの王である、実は全世界の王であることを覚える。

今日の「特祷」から:
「永遠にいます全能の神よ、あなたのみ旨は、王の王、主の主であるみ子にあって、あらゆるものを回復されることにあります。どうかこの世の人びとが、み恵みにより、み子の最も慈しみ深い支配のもとで、解放され、また、ともに集められますように...」

旧約聖書のダニエル書と新約聖書のヨハネの黙示録は数百年で分かれているけれども、両方はapocalypsis(黙示)というジャンルになる。apocalypsisとは、「隠れていたことが打ち明けられる」という意味である。

この両方の書物は人間が置かれている状況の隠れている真相を明るみに出そうとしている。人生の舞台裏を見せる感じ。両方は、まことの神への信仰のために迫害を受けている人(ユダヤ人と初期教会のクリスチャン)に向かった書かれた。ダニエル書もヨハネの黙示録も、希望に満ちているものである。なぜかというと、かの日神が現れて、いろんな苦難や罪悪を引き起こすこの世での権力者を打ち負かせてくださることを待ち望むからである。
+   +   +
ダニエル書の設定。ギリシャの王アンティオコスがエルサレムの神殿をけがした(その真ん中にゼウスの像を建てて祭壇で豚をいけにえとして捧げた、12月25日に!)など、ユダヤ人を律法から引き離そうとした。抵抗した大勢のユダヤ人は拷問や処刑を受けた。

こういう暗い、大変つらい中、ダニエルは言う:「夜の幻をなお見ていると、見よ、「人の子」のような者が天の雲に乗って」来られた!と(ダニエル7:13)。

イエスは、しばしばご自分のことを「人の子」と呼ばれたが、これは意図的にこのダニエル書の話を連想させようとしておられたようである。まさにイエスは「日の老いたる者」――つまり、天の父――の前に進み、天の父から「権威、威光、王権を受けられた」のである。そして実際にイエスの王国、その支配は、他のどんな国と違って「とこしえに続き、その統治は滅びることがない」(ダニエル7:13)。

イエスを処刑したのは、ローマ帝国だったが、今になってローマ帝国は歴史の教科書にしかないものになってしまったけれども、イエスがお立ち上げになった教会は今でも存続している!

イエスご自身が言われた:「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」(マタイ24:35)。イエスの国は不滅で永遠なものである。
+   +   +
ヨハネの黙示録も、ダニエル書と非常に似ている状況の中で書かれたものである。初期の教会はローマ帝国の各地で激しい迫害を受けていた。大勢の人が投獄されたり、殉教したりして、クリスチャンはこっそりと集まらなければならない状況だった。

ヨハネの黙示録はこの「地下教会」に送られた書物である。押さえ付けられているクリスチャンを勇気付けるために書かれた。たくさんの旧約聖書への言及や抽象的なイメージを使っているので、クリスチャン同士には分かっていたけど外に人には意味不明。

2千年後、さまざまな研究のおかげでいろんな難しい意味が分かるようになってきたけれども、未だに推測するしかない部分がある。(だから非常に偏った解釈が生じたり、21世紀の事柄の枠の中に無理やり押し込めようとすることがある。)

先ほど読まれた1章の部分はイエスへの賛美歌:「死者の中から最初に復活した方、地上の王たちの支配者!」(黙示録1:5)そしてダニエル書のまねして:
「見よ、その方が雲に乗って来られる」ので「すべての人の目が彼を仰ぎ見る、ことに、彼を突き刺した者どもは」(黙示録1:6)つまり、十字架にはりつけにさせた人たち。

また、「地上の諸民族は皆、彼のために嘆き悲しむ」と書いてある。これは、イエスの苦しみへの憐れみでもあるけれども、自分たち自身がその苦しみに加担したという罪悪感を抱くという意味でもある。イエスはわたしたち全員の罪のために十字架で死なれたのである。誰も「自分とは関係ない」と言える人はいない。

しかしイエスが仰る:「わたしはアルファであり、オメガである」(黙示録1:7
これはギリシャ語のアルファベットの最初と最後の文字。始まりと終わり。イエス・キリストは、すべてのもの、すべての命の源である。アルファ。神のみ言葉であるみ子を通して、すべてのものが造られたのである(ヨハネ1:3)。

そしてオメガでもある、この世の、人類の歴史の目的である。人間すべての経験、すべての出会い、すべての夢、すべての達成したことは、イエスのもとに置かれている、イエスにあって理解できる。アウグスチヌス:「主よ、わたしたちをご自分のためにお造りになったので、わたしたちの心が主のうちに憩えるまで決して憩うことができない」

こういう意味でイエス・キリストはわたしたちの王である。わたしたち人間の生きる意味はイエスにある。わたしたちのアイデンティティはイエスにある。
+   +   +
ヨハネの福音書は全く違う設定になる。ヨハネの福音書では、イエスが夜中逮捕され、つるし上げられ、ご自分を神と等しい者だという冒涜という死刑に値する罪において有罪とされた。しかしユダヤ人には死刑を実行する権限が許されていないため、イエスがローマ帝国の当局に引き渡される。

こういう経緯でイエスがパレスチナの総督であるポンティオ・ピラトの前に立たされておられるのである。「お前がユダヤ人の王なのか」とピラトが聞く(ヨハネ18:33)。貧しい服を着て、すでにたたきのめされているイエスをバカにしているように聞こえる。

ところがイエスの答えは静かな威厳を放つ:「あなたは自分の考えで、そう言うのですか。それとも、ほかの者がわたしについて、あなたにそう言ったのですか」(ヨハネ18:34

つまり、あなたは利用されているのではないか、とイエスが仰っている。しかも、ローマの法律で必要とされる証拠を求める聞き方でもあった。

ピラトは普段、ユダヤ人からこういう話し方をされなかったせいか、ムカッとする。「俺はユダヤ人かよ!お前の同胞や祭司長たちが、お前を俺に引き渡したのだ。いったい何をしたのか。」(ヨハネ18:35

「いったい何をしたのか。」簡単に答えられない質問だね。

ベツレヘムの家畜小屋で生れたときから始まって、また大人になって数え切れない人を癒したり、慰めたり、励ましたりして、暗闇の力の虜になっている人を解放したりして、神の愛の国を力強く、分かりやすく教えたりして来られたイエス。そしてついに苦しみを受け、これから命をささげ、またよみがえられるイエス。すべて愛のために。

だからイエスはピラトの質問に答えず、ご自分がどのような王であるかを話される:
「わたしの国は、この世には属していない。」全く違う次元のものである。この世的、政治的な国だったら「わたしがユダヤ人に引き渡されないように、部下が戦ったことだろう」(ヨハネ18:36

でもイエスのために戦っている人は誰もいなくなってしまった。みんな恐怖と混乱に襲われて逃げてしまった。でもこれも神のご計画に入ることでもある。こういう意味でもイエスの国は全く違う次元のものである。ピラトでさえコントロールできない次元である。

イエスの返事にちょっと驚いたピラトはもう一度聞く:「それでは、やはり王なのか」。イエスはの答えはなぞなぞに似ている。「わたしが王だとは、あなたが言っていることです」

そこでイエスにとってその王であることはどういう意味を持つのか:
「わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。」

イエスの支配は、トップダウンではない。法律や軍事力や強制力によるものではない。特祷にあるように「み子の最も慈しみ深い支配」なのである。人々の心の目を開き、生きることの本当の意味に気づいてもらうことによって影響を及ぼされるのである。自分の命の尊厳、他人の命の尊厳、世界全体の尊厳に目覚めさせるのである。

こうやってイエスは人の心を治めるのである。イエスは2千年間、そして今現在世界の3分の一の人の王となっている。「真理に属する人は皆、わたしの声を聞く」(ヨハネ18:37

イエスを王として認め、従うというのは、イエスの世界観を共有し、神と共に生きる命へのヴィジョンに賛同して、イエスと同じ目的を持つ、ということである。

しかもイエスに従う人は、思いがけない解放感を得る。以前イエスは仰った:
「あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」(ヨハネ8:32)。

キリスト教の信仰は束縛ではない。イエスに従うことは自由を失うのではない。「完全な自由は主に仕えることにある」と朝の礼拝の祈りがある。王の王であるイエスの目を通して真理を見て、その真理を豊かな生き方の基盤として受け入れた人こそ、自由人なのである。「わたしが来たのは、[彼ら]が命を受けるため、しかも豊かな命を受けるためである」(ヨハネ10:10)、そして「真理はあなたたちを自由にする」(ヨハネ8:32)とイエスが教えてくださる。

こういうわけで今日、王なるキリストを覚える日である。イエス・キリストはわたしたちの王だけではなくて、すべての人の王である。真理は一つだからである。イエスはアルファでありオメガである。「王の王、主の主であるみ子にあって、あらゆるものが回復される」

イエスについて行く人は、真理と愛の神のもとにたどり着き、心の平安を得る。「わたしたちの心が主のうちに憩えるまで決して憩うことができない」

Through to the End (Hebrews 10:31-39, Mark 13:14-23)


Twenty-Fifth Sunday After Pentecost (Year B)
St. Luke's International Hospital Chapel
November 18, 2012– 10:30 a.m. Holy Eucharist

When I graduated university with a seriously undervalued degree in English Literature, I couldn't find a job anywhere. After a lot of looking, I eventually found two jobs: By day, I was a lowly proofreader, and by night, a waiter. The waiting job paid A LOT more.

I was anxious about my future. So I eventually took a few days off work and went away to a cabin in the woods. I did a lot of walking and thinking.

At the end, I had formed a perfect Long-Term Plan. It was a detailed map of my life, including work, graduate school, marriage, family, publishing a novel, traveling the country. (I'm sorry to say coming to Japan was not part of the Plan).

With this Plan in hand, I was happy and excited about the future. I knew just where I was going and how to get there. And my anxiety was gone, like clouds burned away by the bright sunshine of my future.

Within two weeks, though, my Plan was completely ruined. I met an old college flame at a friend's wedding, restarted the old romance, and decided to move to another city.

I never did get back to my Plan. But I'm grateful: God had a much better plan for me!

So now, my aim is to live a completely unplanned life! I want to take one day at a time, and go wherever God shows me to go, when He shows me.
+   +   +
But I still feel anxious from time to time. It's hard not knowing what the future holds. What's more, we live in anxious times, in a world which is, frankly, not very hospitable.

Right now, Japan has no government. China has a new General Secretary; who knows how that will change the Japan-China relationship. There's a lot of saber-rattling over the Pinnacle Islands which threatens to escalate into something more.

The Japanese economy is in bad shape, and the American economy has yet to hit bottom. The worst is yet to come. Japan's social security system is headed toward collapse. Fukushima is still a mess, and will be for another 70 years or so.

These are anxious times for our Church, too. The Diocese of Tokyo is running on fumes. There's a shortage of priests and no sign of new vocations. Baptisms are far outpaced by funerals. We have practically no business to discuss at Friday's Synod!

And my life, our lives, are hardly models of tranquility, either. We have plenty to worry about. Many of you are worried about your job or your finances. Many of you are worried about your health or the health of someone close to you. Many of you are worried about relationships with family or friends. Many of you are worried about being alone.

And when it comes to our faith lives? Our relationship with God? Our prayer life? Are we living the lives we ought to? That God wants us to live? Lots to be anxious about.
+   +   +
It was no different 2,000 years ago. Jesus lived in a time of great anxiety. There was widespread poverty in Palestine, and corruption among the country's leadership. Many people went hungry. Many lived without hope.

There were several uprisings among the Jews, which the Roman empire put down with merciless force. The blood of criminals ran red from thousands of crosses.

Everybody could sense that a big storm was brewing. The uneasy stand-off with Rome couldn't go on forever. At some point, it was bound to escalate into something more.

Everybody lived under this constant tension. There seemed to be a shortage of kindness and mercy in society, a general air of hunkering down, fighting just to survive.

What's more, the Jews suspected that their hardships were the result of their own disobedience, and that of their ancestors. Had not God's patience had run out with Israel? Had He not turned his face away from them?

In the event, the deep anxiety of the Jews turned out to be completely justified. Just as Jesus predicted, their whole world eventually came crashing down.

Do you know the awful history? In 66 A.D. the Jews of Judea rebelled against Roman rule. In response, the Emperor Nero sent an army which first wiped out resistance in the northern part of the province, and then turned its attention to Jerusalem.

The Romans laid siege to Jerusalem, and the walls were breached in the year 70. The city was ransacked. The Temple (the spiritual center of Judaism) was burned and destroyed, and its sacred relics taken to Rome to be put on display.

A bloodbath ensued. The historian Josephus reports that 1,100,000 people were killed, and 97,000 were enslaved and sent to toil in the mines of Egypt, or sent to arenas throughout the Empire to be killed for entertainment.

Josephus writes: "The slaughter within [the city walls] was even more dreadful than the spectacle from without. Men and women, old and young, insurgents and priests, those who fought and those who entreated mercy, were hewn down in indiscriminate carnage."
+   +   +
So, where is the good news in all of this? That's the challenge when we read a passage of Scripture like Mark's Gospel today. Where is grace? Where is our hope?

But if you look carefully, you can find the good news. The Bible is a goldmine of grace. Just dig a little bit, and you will find cause for rejoicing.

I think the good news in our Gospel reading today is hinted at in Jesus' words here:
"I have told you everything ahead of time." (Mark 13:23)

The good news of today's gospel is that Jesus is telling us ahead of time that there will be hardship. He knows this. It's on His radar. Jesus tells us the truth, because He loves us: Times are going to be tough.

Real Christian faith is not vending-machine magic, where you drop your money into the offering plate and pray and—bam! No more suffering, no more heartache, all your relationships go smoothly, business booms, you pass all your exams with flying colors.

No. Christians suffer, just like other people. We hurt those around us and get hurt by them. We experience setbacks. We get sick. We are lonely sometimes. We lose things that are important to us. We die, just like other people.

The promise of the Gospel is this: God does not magically take away our hardships, but He stays with us, and gives us the strength to get through them to the end.

In order for God to make our hardships vanish, He would have to override our freedom and the freedom of probably hundreds of thousands of other people. God is not willing to do that. Being free to do right or wrong, to love or not to love, is what makes us human. God respects our freedom.

The dark side of the freedom we have been given by God is that our world is full of people—including us—who are selfish or hurt others or are indifferent to suffering. And some people who cause great harm to others. And we are all free to act as we do.

In the midst of all this, however, God is always watching over us, always acting—often in secret and very subtle ways—to help us and encourage us and uphold us:
"If the Lord had not cut short those days, no one would survive. But for the sake of the elect, whom he has chosen, he has shortened them." (Mark 13:20)

God doesn't necessarily take away our hardships, but He helps us in the midst of them.

Jesus told His disciples ahead of time that rough days were coming. He wanted them to be on their guard, not blindsided, not losing hope, so that they could persevere to the end. But He also told them this, as He tells us:
"Lo, I am with you always, even to the end of the world." (Matthew 28:20)

Jesus is with you. In whatever you are anxious about, in whatever hardship you are facing, Jesus is with you. And He is with this Church. Jesus will help us see things through to the end.

And, for those who entrust their lives to Christ, the end is a very bright end indeed.

最後まで忍耐強く(ヘブライ10:31-39、マルコ13:14-23)


聖霊降臨後第25主日(B年)
聖路加国際病院聖ルカ礼拝堂
2012年11月18日・10時30分 聖餐式

僕は大学を卒業したら(誰も評価してくれない英米文学専攻で)、なかなか仕事が見つからなかった。就職活動にずいぶん苦労した。やっと、二つの仕事に就いた:昼間は身分の低い校正係で、夜はレストランのウェイターだった。ウェイターの方が遥かに給料がよかった。

こういうわけだったので、将来に対してかなり不安だった。ので、2日ぐらい休みを取り森の中の小屋で隠遁して、散歩したり、読んだり書いたり、じっくりと考えることにした。

2日が終わると、完璧な長期計画を打ち出していた。これからの人生のマップを作れたのである。仕事や大学院も入って、結婚や家族も、小説を書くことも、アメリカ中の旅行も――全部計画にあった。(来日することも司祭になることも全くなかった!)

完璧な長期計画が出来上がったから、将来に対してとても前向きになった。どこに向かっているか、そしてその行き方まで全部分かっていたから。これによってそれまでの不安はすっかり消えた――明るい将来の太陽によって不安の霧が晴れてきた感じだった。

ところが、家に帰ってから2週間と経たないうちに長期計画は台無しになってしまった。友人の結婚式で昔の恋人にばったり出くわして、女性との甘い将来の空想にふけって、遠く離れている町に引っ越すことにしたからである。

こうやって脱線したら、2度とその計画に戻ることはなかった。でも感謝!神は僕の人生に対して遥かにいい計画を立ててくださったのである。

とにかく、今は僕はできるだけ計画性のない人生を送ろうとしている!一日一日着実に生きて、神に導かれるままに、その都度、動きたいと思っている。
+   +   +
それにしても、時々不安にある。当然だと思う。将来がどうなるか見えないことは大変である。しかも、わたしたちはかなり不安定な時代を過ごしていると思う。そして結構厳しい、余裕の無い日本社会になっている気がする。

不安定といえば、今、日本には政権がないのは、どういうことだろうか!!中国も新しく選出された総書記もいるけれども、それによって日中関係はどう変わるか、予想が付かない。尖閣諸島の関係で威嚇ごっこはかつてよりも激しくなっている気がする。いつでもエスカレートする可能性があると思う。

日本経済も相変わらず不景気。アメリカはもっとひどくて、まだまだどん底に当たっていない。最悪の時はまだ訪れていない。日本の年金制度はいつ破綻してもおかしくない。福島原発問題はまだまだ解決されない――後70年ぐらい掛かるであろう。

教会にしても、不安定な時期である。東京教区は急激に衰退している。聖職者も足りない、しかもニューフェースはなかなか現れて来ない。洗礼より葬儀の数の方が遥かに上回っている。今度の金曜日の教区会では、殆ど話すネタがないぐらい疲れていると思う!

僕の人生も、皆さんの人生も、ものすごく平穏かというとそうでもないであろう。心配は多い!仕事やお金の心配をしている方はここにもいらっしゃるであろう。ご自分の健康あるいは愛する人の健康の心配をしている方も。家族とのあるいは他の人との関係で悩んでいる方もいらっしゃる。独りぼっちにならないか、と心配している方もいらっしゃる。

しかも、信仰生活においてはいかがでしょうか。神との関係は?祈る生活は?やるべきことをちゃんとやっているのか。歩むべき道をしっかり歩んでいるのか。このままでは神に喜んでもらえるだろうか。心配は多い。
+   +   +
2,000年前も一緒だった。イエスも非常に不安定な時代を過ごされた。当時のパレスチナは貧困問題で苦しんでいた。国のトップの間での腐敗もひどかった。空腹を覚える人は大勢いた。希望を持てない人も。

ローマ帝国に対する暴動もしばしば発生する。毎回、必ずローマ帝国は容赦なく鎮圧する。一万本の十字架からユダヤ人の血が流れている時代だった。

とてつもなく大きな嵐がなりかけていたことは明らかだった。ユダヤ人とローマとのにらみ合いはいつまでも続かない。どこかでエスカレートしてしまうであろう、と。

みんなこの緊張感の中で生活を送っていた。厳しい、余裕の無い社会になっていた。優しさ、思いやりはあまり見えてこない。みんな自分のことで精一杯になるのである。

しかもユダヤ人は、これらの困難や苦難は結局自分たちのせいだと思っていた。自分たちも先祖たちも神に反抗して、神の言うことをずっと聞かなかったからこういうことになったのだと思っていた。神はうんざりではないか。見捨てられているのではないか、と。

とにかく、ユダヤ人の深い心配は間違っていなかったことが明らかになった。イエスが予告なさったとおり、彼らの世界が崩壊したのである。

そのひどい歴史はご存知?紀元66年、パレスチナの中のユダヤ地方でローマ帝国に対する暴動が起こった。これを知った皇帝ネロは大きな鎮圧軍を派遣した。まず、ユダヤ地方の北部の抵抗勢力を取り除いた。それから首都のエルサレムに向かっていく。

ローマ軍はエルサレムを包囲して、70年に城壁を破った。町全体を焼き討ちした。ユダヤ教の本山で、最も聖なる場所となる神殿も焼き討ちされて全滅する。その中の聖なる家具や道具は、ローマに運ばれてローマの勝利を記念するために展示された。

そしてエルサレムは血まみれになってしまった。当時の歴史家ヨセフスによれば、およそ百十万人は虐殺されて、九十万人は捕囚となり、エジプトの鉱山で強制労働させられるか、あちこちの競技場に送られて、剣闘士の試合のハーフタイムで動物とかで殺されるネタになる。

ヨセフスはこう書く:「城壁内の虐殺はとてもひどかった。男女老若も、反乱者も祭司も、戦った人も慈悲を請った人も、無差別に大虐殺で倒された。」
+   +   +
さて、この中で「良い知らせ」は果たしてどこにあるのか。今日みたいな福音書箇所を読むときの課題はそこである。神の恵みはどこか。わたしたちの希望はどこか。

でもちゃんと見れば、良い知らせが見つかる。聖書は恵みの宝庫である。ちょっと捜せば喜ばしいことが出て来る。

今日の福音書の良い知らせはこのイエスの最後の言葉で示唆されている気がする。
「一切の事を前もって言っておく」(マルコ13:23

イエスは、困難や苦難のときがあるよ、ということを前もって教えてくださる。愛のゆえに本当のことを仰る:険しいときに見舞われるのだ、と。つまり、大変だということがイエスに分かっている。わたしたちの悩みはキリストの視野に入っているわけ。

キリスト教の本当の信仰は御利益ではない(御利益キリスト教を訴える偽預言者はいれけれども)。献金箱にお金を入れて祈ったらジャジャーン!もはや苦しいことも悲しいこともなく、すべての人間関係がうまくいって、商売繁盛になり、受験も立派に合格する!

――のではない。クリスチャンも他の人と同じように苦しむ。周りの人を傷つけたり周りから傷つけられたりする。挫折する。病気を患う。寂しくなる。大事なこと、大事な人を失ってしまう。クリスチャンも他の人と同じように死という生涯の区切りを迎える。

福音の約束はこれである:神はマジックのようにこられの困難や苦難を取り除いたりはなさらないけれども、何があっても神は共にいてくださり、これらの困難や苦難を最後まで忍耐強く耐える力を与えてくださるのだ、と。

困難や苦難を消すには、神は自分たちの自由、そしておそらく数万人の自由を無視しなければならないのではないかと思う。神はそういうことはなさらない。良し悪しを選ぶ自由、愛する・しない自由は、人間らしさの基盤なのである。神はわたしたちの自由をあくまでも尊重なさる。

要するに、神から与えられている自由の暗黒面は、自分のことしか考えなかったり、人を傷つけたり、苦しみに無関心であったりする人で世の中がいっぱいになっている。わたしたち自身を含めてそういう人が多くいる。そして多くはないけどある人は、大勢の人に大きな害を及ぼしてしまう。そこまでみんなの自由が許されているのである。

ところがこの中で、神は常に見守ってくださる。よく気付かれないうちに常に助けて、励まして、支えてくださるのである。
「主がその期間を縮めてくださらなければ、だれ一人救われない。しかし、主は御自分のものとして選んだ人たちのために、その期間を縮めてくださったのである」(マルコ13:20

神は必ずしもわたしたちが直面している困難や苦難を取り除いてくださらないかも知れないが、それらの中で必ず助けてくださる。

イエスはその弟子たちに前もって険しいときに見舞われることを教えてくださった。気をつけて、不意打ちされないで、絶望しないで、最後まで耐えるためにそういうことを仰ったのである。でも次のことをも弟子たちに、そしてわたしたちに仰る:
「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」(マタイ28:20

イエスはあなたと共にいてくださる。何を心配していらっしゃるか、どんな困難や苦難を直面しているか、イエスは共にいてくださる。そしてこの教会と共にいてくださる。

絶望しないで、最後まで耐えれるように助けてくださる。

しかも、イエスにすべてをゆだねる人にとっては、その「最後」は本当に明るいものになる。

飲み屋で賛美


『明るい窓』(病院職員ニュースレター)11月号
チャプレンからのメッセージ


先月、出張でニューヨークに行ってきた。ミーティングや見学が全部終わって、日曜日の夕べはフリーになった。今回は、マンハッタンではなくて、あえて庶民的な地域であるブルックリンを拠点にした。

翌朝の飛行機もあるので、一晩だけ独身になるチャプレンはどのように時間を過ごすか。それはもちろん、バーに行ったのだ。

事前に調べてあった「The Trash Bar」というお店だったが、夕方6時ちょっと前に着いたら、想像以上に名前にふさわしく、山ほどのごみ袋はお店の真ん前に置かれ、玄関は落書きだらけで、床には何年分のこぼされたビールの跡が残っている。

薄暗くて狭いお店の中に入ると、「こんばんは。奥の部屋へどうぞ」と女性バーテンに案内される。


奥へと進むと、小さいライブハウスの空間になっている。ステージの前に種類バラバラの椅子が置かれている。バンドメンバーが音響チェックを始めている。

端っこの場所で座って、礼拝が始まるのを待つことにした。

そうだ。このお店は、毎週日曜日の夕方だけ貸切状態になって、教会がここに集うのだ。Church@Trashと名付けられ、自分たちの建物を待たないでこういった形で教会をやるという話を知って、興味を持って足を運んだわけだ。

どんどん人が集まる。僕と同じ年代あるいはもっと若い人がほとんどで、およそ20人ぐらいが集まって来た。とても暖かい雰囲気になり、僕にも何人かが声をかけてくれる。日本から来たと知られると、8年間東京で勤めていた女性に紹介していただき、アメリカ人同士でもしばらく日本語で会話をする。

いよいよ礼拝が始まる。4人のロックバンドの伴奏で聞いたことがない讃美歌(ロック風)を歌ったり、お知らせがあったり、聖書も朗読される。全部パワーポイントで映っているから、ずっと手ぶらでいられる。

そしてメッセージがある。説教者だけが僕より年上。と言っても、50代であろう。牧師と言っていいか分からないが、普通の恰好して、話し方も強いブルックリンなまりながら会話のような話し方をする。飾り気のない牧師。

しかも話はとても印象的で、自らの人生についてぶちあけた内容だった。少年の頃、両親の離婚がきっかけで深い悲しみと自己嫌悪に突き落とされた。高校生の時から始まって20年以上、薬物中毒のとりこになっていた、と言う。

そういういわゆる生き地獄からやっと抜け出せたのは、ある教会のコミュニティとの出会いのおかげだったと言う。その暖かいコミュニティを通して、初めて神の愛に気づかされ、少しずつ深く病んでいた心が癒されていった、と。

このChurch@Trashも、いろんな人を迎え入れることができる、暖かい癒しのコミュニティでありたい、というメッセージだった。

十分そうなっているのではないか、と帰り道に僕は思ったのである。イエスが来られたら、飲み屋で集う教会にはまったく違和感を覚えられないだろうとも思った。「大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ」(ルカによる福音書7:34)と非難されたイエスは、むしろそのようなコミュニティに親近感を覚え、神の慈愛に出会い得る人はこういうところにこそ集まるのだ、ということがお分かりになるだろうと思った。

聖公会とはまったく違う形式の教会でも、同じ兄弟姉妹で、同じ神の癒しの恵みを願っている者であることに感謝しつつ、刺激を受けてチャプレンとしての働きについて、またこの病院が真の癒しのコミュニティになれるように自分が何ができるかについて、いろいろ考えさせられたことにも感謝している次第である。

旅人との付き合い


『明るい窓』(病院職員ニュースレター)9月号
チャプレンからのメッセージ

「病院」というのはそもそも教会から生れたものである。4世紀から盛んに芽生えていく修道院がその発祥となる。慌ただしくて貪欲に満ちた世間から退き、厳しい修行と絶えない祈りをとおして自らの心を清め神に向け直し、イエスさまの模範に倣っていくのが修道院の本来の目的であった。

しかし、早くから旅人に対するホスピタリティにも心を配るようになったようである。「旅人をもてなすことを忘れてはいけない。そうすることで、気づかずに天使たちをもてなした人たちもいる」(ヘブライ13:2)という聖書のみ言葉をきちんと受け止め、修道院に足を運ぶ人一人一人へのもてなしを神聖な責任として励んでいたのである。

しかも当然、旅人は色々な状況でやってくる。旅路で追いはぎに襲われたり、体調を崩したり、怪我したりする旅人への接遇は、必然としてあらゆる手当ても含まれる。こういうケアも最初から崇高な務めとして見なされた。最古の修道会の創立者である聖ベネディクトが作った戒律に次の文章がある:「病人のケアはどんな仕事よりも優先させるべきである。病人に仕えるのは、キリストご自身に仕えることの如き」(36章)。

こういう流れの中で、修道院はどんどん医学的知識を高めていき、たまたま現われる旅人だけでなく、治療を求めに来る人も増えていく。今日世界中、教会によって病院が建てられているのも、こういう歴史に端を発しているわけである。
+   +   +
数年、乳がん発覚当初からその寛解まで時々会って話を聞かせてくれる患者さんに、先日、またお会いした。最近の定期検診で「またか」と疑われるような要素が出てきてしまって、精密検査の結果待ちで不安でしょうがない、という内容を涙ながら話してくれた。そこで彼女は「祈ってほしい」と僕に頼んだ。

一瞬戸惑う。医療者でない僕は、「再発か」と思うとちょっと動揺する。現状からあまりに離れたような祈りをしたくない。が、しかし、神の助けを頼りにしようとしている患者さんの思いに合わせるのも大事なことだと思う。「どうか、結果がすべて陰性でありますように」、とためらいがちに祈ったら、向こうの表情が若干安堵したように見える。

またその数日後、彼女は僕のオフィスに寄って来た。「再発してない」という一言の吉報をもたらしてくれたのである。

チャプレン室の真ん中に立っている二人の収まらない笑顔と長い、長い無言の握手...
+   +   +
僕にとって、聖路加における仕事の多くの喜びの中の一つは、こういった「人生の旅」をしている人との付き合いができることである。

本来、何のつながりもなかったはずの人と出会い、人生の最も重要な場面にところどころ立ち会えることは、不思議で仕方がない。ずっと旅路に付き添っているわけではなくて、時折会って、不安も望みも、喜びも悲しみも分かち合えるのが大きな恵みに感じる。

こういう付き合いを神聖な責任として受け止めて、励んでいきたいと思う。

ナガラ族が損する


『明るい窓』(病院職員ニュースレター)6月号
チャプレンからのメッセージ


チャプレンらしくないと思われるだろうけれど、僕はちょい悪なゲームを考えたことがある。「スマホンビ・ハンター」と名付けたゲームである。「スマホンビ」というのは、「スマホ・ゾンビ」の略――すなわち、スマートフォンや携帯電話などに目をくぎ付けにしながらよたよたと道やホームを歩く人たちのこと。

ゲームのやり方は、ハンターが近寄ることや足音を出すことでスマホンビを驚かせようとする。向こうが何か反応するとポイントを取得する。びびるともっと高いポイントを得る。スマホンビが「おっ!」とか声を出したらさらにボーナスポイントがもらえる。

ただし、ハンターが声を出したり接触したりするのは反則(というか、逮捕されるおそれがあるのであまりよろしくない)。

実際にこのゲームを(あまり)やったことないけれど、たまには頭の中でこういうことを想像している。チャプレンにもイジワルな部分があるってこと。

まあ、懺悔はそこまでにしておこう。僕は最近「ナガラ族」のことを考えている。スマホンビ以外にも「ナガラ族」のメンバーはあちこちに現れる。そわそわと携帯電話をチェックしながら友人とお茶をする人。テレビを見ながら夕飯を食べる家族。週末、ずっとiPadをいじりながら子どもと(一応)一緒にいる父親。などなど。

なんと、コンピュータモニターばかりを見ながら患者さんとのやり取りをする医師もいるらしい。僕は自分の目で見たことがないから、これはただの都市伝説かもしれない(笑)。

他事をしながら何かをするというのは、素晴らしい才能だと思う。そうやって生産性を高めて、総じて仕事量を増やすことができる。僕ももっとできるようになりたい!

でも合理性があまり求められていないときもある。逆に量よりも質の方を大事にすべき場合がある。特に人とのコミュニケーションや交流においてそうだと思う。こういう場合は、ナガラ族の人たちが損すると思う。

相手の話を聴く、相手に自分の思いや気持ちを伝えるとき、何かをやりながらだとあまりうまく行かない。目を合わせて、心を合わせて、「今の瞬間は100%わたしたちのためにある」という態度で向き合うと、本当のコミュニケーションが初めて生まれるのだと思う。

たとえ忙しくてバタバタしている時期でも、今、この瞬間、時間はたっぷりあるかのように相手に向き合えるスキルも素晴らしいものだと思う。このように一心に向き合う1分は、ナガラ族の10分よりずっと意味があると思う。

僕も、こういうふうに同僚、患者さん、家族とよりよいコミュニケーションを目指したいなと思う。

最後に、スマホをやりながら歩く方にひとことを言わせていただく:気を付けて!狙われているかもしれないから...

2012年11月14日水曜日

finding grace somehow

I can't remember my last day off. The hospital is like a game of musical chairs on acid sometimes. (Not that I'd ever admit to ever playing such a game...)

I just came off a weekend of three back-to-back three funerals and a wedding, sandwiching the normal Sunday celebration. Pretty wiped out by the whole barrage. But somehow I found something meaningful to say to the grieving families. Somehow I could offer some solace and support. Somehow no one went careening off the rails of healthy grieving.

In my Sunday sermon I suggested that the widow who put her last two dimes into the collection plate was actually a dupe, conned by the self-righteous scribes, like some old biddy signing over her welfare check to a slick televangelist.

But her heart was in the right place. And guess who happened to be observing her every move? Talk about love.

Sometimes I feel like I'm a mite short of two mites. But somehow, God takes the negligible little bits that I have to offer, and adds His limitless grace to it, and it comes out all right. Somehow.
Come to think of it,
there may be a slight
resemblance...

すべてをささげた人(マルコ12:38-44)


聖霊降臨後第24主日(B年)
聖路加国際病院聖ルカ礼拝堂
2012年11月11日・10時30分 聖餐式

「皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである。」(マルコ12:44
イエスが賞賛なさる「信仰」は、神の良さへの完全な、幼子のような信頼である。生活費まで献金するやもめ。イエス先生からの一言で僕を治していただけるのを確信する百人隊長(マタイ8:8)。天の慈愛はユダヤ人にだけ与えられるものではないと信じるカナンの女性(マタイ15:21-28)。十字架の上から、良い父である神にその霊をゆだねるみ子(ルカ23:46)。このような信仰は、好調なときに持てるものではなくて、辛い中でも耐えるものである。このような信仰は、切に求めるべき賜物である。

イエスは、エルサレムの神殿(=ユダヤ教の本山)で座って人々を観察中。そして、賽銭箱に自分の生活費まで入れるやもめ(=未亡人!)のことに気にとらわれる。

このやもめをうまく利用して「献金をちゃんとせよ!」と訴える牧師は少なくないと思う(僕もそのようなことを言ったことがあるかも知れない!)。このやもめは生活費を丸ごと献金できたのなら、皆さんももう少し出せるのではないか、というような話をする。

でもイエスは果たしてこのやもめを献金の模範として挙げておられるのだろうか。むしろ彼女のことを可愛そうに思っておられるのではないだろうか。

というのは、このやもめは律法学者たちにだまされている一人になるではないか。今日の福音書の前半では、イエスは彼らを非難される。「律法学者に気をつけなさい...彼らはやもめの家を食い物にする」(マルコ12:38, 40

どうやってやもめの「家を食い物に」しているかというと、罪悪感を押し付けているのである:
罪深くて、きちんと掟を守れない人は神に受け入れてもらえると思うのか!俺たちと違って律法が殆ど分かっていないやつは、どうして神に愛されていると言えるのかあなたみたいな人は赦してもらいたかったら、相当の寄付が必要だろう!相当の寄付!

オレオレ詐欺ではないけどそれに似ている。この弱くて貧しいやもめは、神との和解をはかるために、空腹を覚悟して、賽銭箱に生活費を全部入れているわけである。

これは献金の見習うべき模範ではなくて、訓戒的な話ではないだろうか。

[むしろ、わたしたちにとって献金の模範になるのは「有り余る中から入れた」(マルコ12:44)人たちになるではないだろうか。現代の日本は、不景気とはいえ、史上最高に物質的に恵まれている国の一つである。正直に言えば、わたしたちはこのやもめが味わっていた貧困を想像できないと思う。彼女の生活費全体、レプトン銅貨二枚は、当時の一日分の賃金の百分の一ぐらいになる。つまり彼女の「持っている物すべて」と言っても、麦パン一個を買えるか買えないか、そういうスケールの貧困である。]
+   +   +
イエスはこのやもめを見て、献金どうのこうのではなくて、彼女が一生懸命に神への愛を現していることに心が打たれているのではないかと思う。

先週の福音書にあったように、この前、イエスは神殿で第一の掟を教えてくれた。「イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」(マルコ12:19-30

そして第二の掟:「隣人を自分のように愛しなさい。」(マルコ12:31)。律法全体はこの二つの掟でまとめられる。これだけは、人間と神との関わりの根底になる。

残念ながら、わたしたち弱い人間は、この二つの掟でさえ守れないのである。調子のいいときには全身全霊で神を愛し、隣人への思いやりをしばらく持つことができるかも知れないが、やはりむらがある。わたしたちの愛が十分大きくない。

しかも神から疎遠していて、冷たい世の中に住んでいる者として、わたしたちはいろいろな悲しい思い、さびしい思い、辛い思いがあって、涙を流さずにはいられない。

それに加えてこのやもめは、きっと律法学者が主張するような厳しい掟を必死に守ろうとして、結局守り切れないことを痛感して、遠くから神殿まで足を運んで来たのではないかと思う。どうしても神との仲直りをしたい、どうしても赦してもらいたい、どうしても神に近づきたい!

そのために人が神殿に来る。神殿は、ユダヤ人にとって神と出会える場所だと思われた。天と地の唯一の接点はここである。ここは神との触れ合いがある場所だと思われた。

このやもめは神に出会いたい。神の愛に触れたい。だから賽銭箱に自分が持っているお金、銅貨二枚を入れる。


そして不思議で素晴らしいことに、彼女の小さな捧げ物をご覧になっているのは、神から遣わされたみ子なのである。

エルサレムの神殿に巡礼に来ている人の中で決して彼女は目立たないはず。一人で寄って来ている。その服はボロボロであろう。遠くから来て疲れているであろう。きっと彼女の顔は笑いじわと泣きじわだらけであろう。

しかし大勢の中からこの人に、神から遣わされたみ子が心を留めておられるわけである。一生懸命神への愛を現せようとしている彼女にイエスはどんなに暖かい眼差しを注いでおられるであろうか。

このやもめは確かに律法学者たちにだまされていたかも知れない。でも結局は、律法学者たちよりも彼女の方が神に近づいていたのである。イエスのすぐそばまで。

律法学者たちは、口では神のことをいろいろ言いながら人間の誉れを求めるのである。
このやもめは「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして」神を愛しようとしているわけである。

二つの小さな銀貨には、とても大きな意味があったのである。
+   +   +
このやもめと出会って数日後、イエスはこの神殿からそんなに遠く離れていないところで、違った種類のささげものをなさった。今度は賽銭箱ではなくて、十字架だったのである。

十字架の上で、ヘブライ人への手紙の言葉を借りると、イエスは「人間の手で造られた聖所ではなく、天そのものに入られた」(ヘブライ9:24)のである。

イエスも、やもめのように、持っている物をすべてささげられたのである。その命まで。

十字架の上で、イエスは「わたしたちのために神のみ前に現れてくださって」(ヘブライ9:24「ご自身をいけにえとしてささげて罪を」――やもめの罪、律法学者たちの罪、僕の罪、皆さんの罪を「取り去るために、現れてくださいました」(ヘブライ9:26

これこそ惜しみない愛の業。

イエスのささげものによってやもめが切に望んでいたことが実現されたのである。つまり、神の赦し、神との和解をイエスがわたしたちのために手に入れたくださったのである。
+   +   +
「罪」というものは――わたしたち自身のさまざまな背きやわがまま、そしてわたしたちの両親の罪と彼らの両親の罪、社会の罪、世の中の罪――これらのものは、わたしたちを神から引き離してしまっているのである。

しかもわたしたちがいくらささげものをささげても、いくら献金をしても、いくら律法や掟を守っても、いくら「いいこと」をしようとしても、罪が作る深い溝を越えて神に近づくことができない。

でも神はその溝を越えてくださった。イエス・キリストがささげてくださった尊い命は、その架け橋になる。神の愛を求める人にとって、イエスの十字架を通れば近づける。

さて、どうすればこのことに応えることができるか。

イエスのささげものに便乗するしかない。やもめのように、わたしたちがささげ得るものは、ほんのわずかしか持っていない。銅貨二枚ほどの愛しかない。だけれども、その愛をイエスの十字架のささげものに合わせることができるのである。

そうすれば、大いに神に喜んでもらえるのである。

わたしたちも日々、一生懸命神への愛を現したいと思う。

謙虚な人になる練習を(マルコ9:30-37)


聖霊降臨後第17主日(B年)
聖路加国際病院聖ルカ礼拝堂
2012年9月23日・10時30分 聖餐式

イエスが座り、十二人を呼び寄せて言われた。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」(マルコ9:35
この世による「価値あるもの」の概念を真っ向から否定するのは、キリストの十字架。偉い人はだれか。政治家?軍事的指導者?大金持ち?セレブ?優等生?会社の人気者?違う。天から見れば、これらの「ステータスの高い」人たちは、自分を低くして周りの人に仕える者と比べたら、取るに足りない人物ばかり。永遠の命に至る道は十字架しかない。この道を歩む人は、世の中では重要だと言われていることを無視して、恵みの喜びへと目を向け直すのである。

「途中で何を議論していたのか」32)。これを聞かれた弟子たちの顔を想像しやすい。えっ?ヤベッ!バレタ!「彼らは黙っていた。途中でだれがいちばん偉いかと議論し合っていたからである」33

これは、人間としてどれが素晴らしいかというよりも、もっと政治的な話。つまり、「新内閣」で有利な地位に就こうと画策しているわけ。まだまだ弟子たちはイエスのことを勘違いしている。政治的な指導者としてイエスが国をローマの圧政から解放して、建て直してくれる、と思っていたのである。

イエスはその「マニフェスト」を「神の国」と呼んでいる、と思っている。確かにその内容は理解できない部分もあるし、イエスは何だかわけの分からない「死んでよみがえる」話もしているけれども、結局はローマ帝国やローマに操られているユダヤ人たちなどを一掃して、強いイスラエルを取り戻してくれるに違いない、と弟子たちが期待していたわけである。

そしてイエスが国を建て直してくれたら、その「新内閣」では誰がイエスの右腕になるとか、誰が軍司令官になる、誰が神殿を担当するとか、そういった議論を弟子たちが歩きながらしていたわけである。

「途中で何を議論していたのか」とお尋ねになった。彼らは黙っていた。途中でだれがいちばん偉いかと議論し合っていたからである。イエスが座り、十二人を呼び寄せて言われた。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」33-35
+   +   +
人間は、有利な地位を得ようとする傾向が非常に強いと思う。殆どの戦争は、誰かが有利な地位を得ようとすることから始まります。殆どの政治家も何よりも得意なのは、自分の立場を守ることだと思う。それによって国全体が左右されるわけである。

しかも、戦争を引き起こしたり、国を動かしたりするほどの影響力を持つ人は少ないけれども、この有利な地位を得ようとする傾向はすべての人の心にあると思う。わたしたちは、生まれつきそういうのを持っているのだと思う。

子供を見ると、常に自分が先になろうとしている。先にブランコに乗りたい。先におやつを選びたい。先にママに抱っこされたい。(うちでは、歯磨きの仕上げを先にしてまらうのも毎日のバトル!)

(しっかりした)親は子供に、おもちゃを仲良く一緒に使うように、順番こにやるように教え込むのに、何千時間を費やすだろう。つまり、その有利な地位を得ようとする傾向を抑えられるように一生懸命に教えるのである。

そうしないと社会に適応できない人になってしまうからである。社会が成り立てるのは、全員がある程度その利己心を抑えるコツを身に付けているからである。

でもだからと言って、この傾向を脱却するわけではない。むしろ、傾向がどんどん強まるのではないかと思う。大人はただ目立たないやり方を覚えるだけだと思う。大人の場合も、誰と知り合いになるか、自分にとってのメリットを考えて選ぶことが多いと思う。面倒な人からさりげなく遠ざける。大人も、自分の功績が認められるようにうまく立ち回る。やりたくないことを避ける方法を見つける。

また、文字通りに、そして比喩的にも、人より先に進める道を見つける。(昔は、電車に乗るときのおばさんたちがかなり怖かったけど、先週いつもより早い帰りの電車に乗ったら、車両のドアから席までもうぜんと突進する20代、30代の女性はかなりすさまじかった!)

(と言いつつ、正直に言えば、僕もさりげなく座れるように計略を使うことがある!)

とにかく、人間は皆こういう傾向を持っていると思う。聖書はこの傾向を「利己心」や「高慢」と呼んでいる。わたしたちはその利己心を抑えることができるかもしれないけれども、たまには立ち現れてしまう。わたしたちはそういう世の中にどっぷりつかっているわけである。
+   +   +
わたしたちは、社会に適応するために利己心を抑えることを学ぶけれども、聖書によれば、この利己心の傾向を克服しない限り、神の国に適応できないのだ、と言う。

ヤコブは言う:「神は、高慢な者を敵とし、謙遜な者には恵みをお与えになる。」(ヤコブ4:6=箴言3:34)また、「世の友となることが」(つまり、世の中にまん延する利己心とねたみに流されることが)「神の敵となることだとは知らないのか」(ヤコブ4:4)。

今日の福音書でイエスが子供を見本として置いたのも、そういう意味であった。子供は仲良く遊べないからではなく(!)、当時社会では一番低い地位だったからである。殆ど無視される存在で、自己主張する立場にない者だったのである。当然のことながらみんなに仕える。いちばん嫌な仕事をさせられる。

ある日イエスは、若い金持ちと出会ったら、こういう話をされた:「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」(マルコ10:25)。金持ち――つまり、有利な立場にいる人、高慢な人――そういう人は、そのままで神の国に入れないよ。ふさわしくないよ。

神の国、神のみ心のとおりに治められている世界では、この世のありさまがすべてひっくり返される。高慢な人は低くされる。贅沢に暮らす人は空腹を覚える。権力を振るう人はその座からおろされる。

でも謙遜・謙虚な人は高く上げられる。貧しい人は満腹するまで食べる。柔和な人は全世界を受け継ぐ。平和を実現する人は神の子と呼ばれる(マタイ5章参照)。

「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」35

でもイエスはこの世的に有利な立場を得ようとすることを否定しながら、謙虚に人に仕えることによって「いちばん先になる」というのは、結局有利な立場を得ようとしているのではないだろうか!

ちょっと違う。確かに、謙虚になろうとする人には報いがある。それは、芯まで謙虚になれること。外国語を勉強すると一緒。その報いは、お金とかではなくて、外国語を話せるような人になること。神の国で通じる「言語」は謙虚さである。謙虚になろうとすることのご褒美は、謙虚になることである。

でも謙虚な人は世界中いちばん幸せな人だと思う。結局、高慢であること、利己心を持つことは、唯一神の愛が通過できない壁なのである。謙虚さはこの壁を取り崩す。謙虚な人は、その心が広く開かれている。他の人に。世の中の悲しみに。美しさに。真実に。神の愛に開かれているのである。
+   +   +
「すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい」と仰るイエスは、まさにその見本となってくださった。神のみ子イエスは、すべてを捨てて人間としてわたしたちの間で生きられた。病気の人や困っている人を一生懸命に助けられた。ひざまずいて自ら弟子たちの足を洗われた。最後にその命まで惜しまなかったのである。十字架で死ぬことより低くなることはない。

イエスに従う人は、当然その模範に倣っていく。しかも、倣うための恵みをも、イエスが与えてくださる。「神は...謙遜な者には恵みをお与えになる」(ヤコブ4:6)。イエスの足跡を歩む人には、歩む力と知恵も注がれるのである。

だから、イエスに導かれて、神の助けを得ながら、わたしたちは謙虚な人になるための練習ができる。どういうふうに練習ができるかというと、例えば:
l  すべての通勤電車はその練習の機会を与える。わざと先に乗らない、座らない。
l  人の話を聞く。
l  気づかれないように優しいことをしてあげる。
l  あの辺に見かけたゴミを拾って捨てる。
l  つまらない仕事をあえて引き受ける。
l  他の人と自分を比べることをしない。
l  常に感謝を表す。人に褒められたらお礼を、指摘されてもお礼を言う。成功したら神に感謝する。失敗したら神に感謝する。
l  家で祈るときにたまにはひざまずいてみる。体を持って謙虚な態度を学んでいく。

神の国に入る人はにじり口を通らなければならない。謙虚になるように練習していきましょう。いい先生がいるから:「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい」(マタイ11:29)。