聖路加国際病院聖ルカ礼拝堂
今日の創世記の言葉を皆さんと一緒に見たいと思います。なぜかというと、21世紀に住んでいるわたしたち人間の状況を理解するのに不可欠なものだと思うからです。
でも最初に、この創世記の記事の目的について一言。創世記は科学教科書のような資料ではありません。人類の生物学的な起源を説明しようとしていません(創世記と進化論の概念は基本的に相容れないものではないと思います)。
もちろん、論理的に考えると、何千年も前にどこかの時点で、「最初の親」が登場したはずです。つまり、チンパンジーでもネアンデルタール人でもない人間は、いつかどこかでスタートしたわけです。
でも聖書が興味を置いているのは、そういう点ではありません。アダムとエバの話は象徴的な言葉をもって2つのとても大事な質問に答えようとしています:すなわち、1)人間とはなにか、と2)何で人間は今このようになっているのか、と。
誰でもこの2つの質問について考えるべきだと思います。創世記は、神が知ってもらいたい答えを示しています。だから、限られた時間でも、この文章を皆さんと一緒に見たいと思います。
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主なる神が造られた野の生き物のうちで、最も賢いのは蛇であった。蛇は女に言った。「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか。」(創世記3:1)教会では、この蛇はサタンあるいはその使いだというふうに理解しています。サタンの動機というのは、洗礼式にあるように「神によって造られたこの世を堕落させ破壊する」のです。
蛇の出だしに注意してください。「[こういうこと]などと神は言われたのか。」これは悪魔の典型的な作戦です:神が示されたことに疑問を投げ掛けること。荒れ野にいたイエスの話を覚えていますか。「あなたは神の子なら...」とサタンが言ったわけです。その前、イエスが洗礼を受けられたとき、「わたしの愛する子、わたしの心に適う者」と天に言われたばかり。なのに悪魔は、それは本当かな?確かか?と疑わせようとします。
わたしたちも毎日同じような誘惑に遭うと思います。すなわち、神が明らかに示してくださったことを疑うように。イエスは隣人を赦しなさいと命じられたのだが、兄嫁もその「隣人」の中に入るかしら。聖書は、本当に結婚外の肉体的関係はだめだと言っているのかな。イエス・キリストは本当にこの世の救い主か。確かか?
でもここで蛇が何に疑問を投げ掛けているのか、注意してほしいです。「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか。」
こういうことを言うのはどういう神でしょうか。イジワルな神に決まっていると思います。人間を美しい園に置き、四方に美味しい食べ物を置きながら「だめだ。食べるな」と言うこととは。
でも実際にこのような神のイメージを持つ人は少なくないと思います。神は厳しい独裁者のような神だと思ったりします。人の楽しみを台無しにしようとしている。長い、難しくてつまらない人生で我慢することを求める。理由もなくこれもあれも禁じる。実は悪魔が持たせたい神のイメージはまさにこのとおりです。
でもこのイメージは果たしてあっているでしょうか。実際に神が仰ったことを聞きましょう。
ちょっと前、2章にはこういうことがありました:
主なる神は人を連れて来て、エデンの園に住まわせ、人がそこを耕し、守るようにされた。主なる神は人に命じて言われた。「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」(創世記2:15-17)
園のすべての木から自由に取って食べなさい、と。どんな木でも!莫大な数の木々からぶら下がっている果物のどれでも食べなさい!いつでも、食べ放題だ!
これは独裁者の声?全然違います。これは子煩悩な父親が言うことです。その子供たちのために何不自由ない環境を整えてくださったのです。サタンはよくこの父の愛を疑わせるものです。
女は蛇に答えた。「わたしたちは園の木の果実を食べてもよいのです。でも、園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないから、と神様はおっしゃいました。」(創世記3:2-3)
もうやばいです。エバは蛇の策略に引っ掛かりはしないが、すでに危ない方向に向かっています。エバが神の命じられたことを大げさに言っていることに気づきましたか?神:「善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。」エバはそれを曖昧にします:「園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない」
神はまず触れることについて何も仰っていません。しかも、「園の中央に生えている木」ではなくてはっきり一本だけの木を指定なさいました。
どうして神はこの善悪の知識の木だけを禁じられるのか。「食べて欲しくないなら、どうしてそういう木を置いたのか」と考える人がいます。その答えは、人間の自由に関係していると思います。
神はご自分にかたどって人間をお造りになった、と聖書。それはおもに、自ら進んで愛に応える、愛を捧げる特徴を表わしていることです。
神への愛を示す一番大きな方法は、神に聞き従うことです。従うか従わないか、わたしたちの自由何です。神は人をロボットのようなもの造られませんでした。だから、エデンの園で、禁止されるものが何もなかったら、アダムとエバには従う・従わないという自由もなかったわけです。本当の意味で神を愛することもできません。愛は自由に、自ら進んですることでなければいけないのです。
でもそれよりも、神が「善悪の知識の木から食べてはならない」と仰ったのは、僕が娘に「あついストーブに触るな」と言うと同じことです。娘を愛しているからそう言っているのです。
善悪の知識の木が禁止になっていたのは、害を加えるものだったからです。基本的に「神に禁じられているから」ことがいけないのではなくて、害になることは神に禁じられるわけです。
アダムとエバはすでに善悪を見分けることができていました。神に従わないで、その木から実を食べることが悪いことだ分かっていました。今までは、彼らは直感的に正しいことが分かり、自然に正しいことを、正しいから、そして神に喜んでもらえるから、ずっとやってきたのです。
でも禁断の果実を食べると、今までにないように善悪を「知る」ことになります。ヘブライ語で「知識」とか「知る」という言葉は、ただ意識する、理解するだけではなくて、知り尽くす、熟知する、その知っていることと密接に関わりを持つ、というニュアンスがあります。善悪の知識の木の実を食べれば、善だけではなくて悪も彼らの心に舞い込むわけです。そうすると、「神のように」なる(と5節に)。つまり、何が善なのか、何が悪なのか、神の仰っていることとは関係なく勝手に決める立場を取ることになるのです。
でも、この蛇とエバのやりとりの一番悲しいところは、エバが言う「神様」という一つの言葉にあると思います。
創世記では今まで神はずっと「主なる神」(Adonai Elohim)と呼ばれていますがここで始めて、ただの「神様」(Elohim)に変わります。「主」(adonai)という言葉には深い関係性の意味合いが含まれています。造り主とその造られた人。主人とその民。導いて守る側と賛美・感謝をもって仕える側。親しく語る主と喜んで耳を傾ける人。愛を注ぐ側と愛を返す側――そういう関係がもう、この時点でも、見失ってしまっているわけです。神はただ「神様」になっています。強い神ではありますが、よそよそしい神でもあります。「木に触れてもいけない!」のように勝手にルールを強要する神。
では恐ろしいシーンを見てみましょう:
女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆していた。女は実を取って食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も食べた。二人の目は開け、自分たちが裸であることを知り、二人はいちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした。(創世記3:6-7)
禁断の果実を食べると、どうなったでしょうか。
これに続く話を見ますと、まずアダムとエバの関係が崩壊することが分かります。今までは、二人が裸でありながらも別に恥ずかしくない、と書いてありました(創世記2:25)。つまり、ありのままの自分で一緒にいて、相手のありのままを尊敬し、受け入れ合っていたのです。
もはやそうではありません。本当の自分が見られるのは恥ずかしい。しかも、今まで喜びに満ちた、互いに仕え合っていた夫婦関係が変な力関係に変わってしまうのです。
そして、神が恐ろしい存在になってしまいます。今までは神と人は友愛関係をもって、園における協同者でした。もはやそうではありません:
「主なる神はアダムを呼ばれた。『どこにいるのか。』彼は答えた。『あなたの足音が園の中に聞こえたので、恐ろしくなり、隠れております。わたしは裸ですから。』」(創世記3:9-10)
ここにものすごい距離感を感じませんか。ギクシャクして緊張を伴っている場面です。罪は、そういう効果があるのです。わたしたちを神から引き離します。神に見られたくなくなる。神の正しい裁きが恐ろしくなるのです。
続きの言葉を飛ばしますが、注意してほしいです。アダムはエバに責任転嫁して、エバは蛇に責任転嫁するのです。とても情けないことでないなら笑っちゃう場面ですね。このとき以来、人間は責任を回避するようになっています。今の政治化は、特にそれを見事に見せてくれます。
そして最後に、人間は地球そのものから疎遠してしまいます。地球を管理し、守り、耕すように頼まれた人間は、これから苦労して、環境を打ち勝って乱用するようになるのです。
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時々こういう話を耳にします:エデンの園で起こった出来事、いわゆる「堕罪」という出来事は、実は良かった、必要だった、という話です。アダムとエバの反抗は人類の成長の苦しみだったのだ、と。自主独立を得るにはこういう道を通らなければならなかったのだ、と。
しかしこれほど聖書全体が言っていることを強引に読み違えることはないと思います。聖書は一貫して「堕罪」という出来事が純然たる大災害でしかないと主張するのです。神と人間との関係、人間同士の関係、自分との関係、地球との関係はこれで引き裂かれたのだ、と訴えるのです。
神の子供が成長して巣立った話ではありません。もっと妥当なたとえは、少年や少女が町でスカウトされて、離れた都会で薬物と暴力と売春の人生に消えてしまったというような話になります。
アダムとエバの罪は、何から何まで悲惨なことでした。実は、その時点から、人間のストーリーがどんどん暗くなっていくのです。アダムとエバには二人の子供が生れますが、カインは弟のアベルを殺してしまいます。それからもっとひどくなります。人類を最初からやり直そうと神が思われるぐらいひどくなります。大洪水というリセットのときに、ノアとその家族だけ救われます。が、箱舟から降りるノアはすぐ、酔っ払ったあげくの放蕩に落ちってしまいます。
とにかくわたしたちはアダムとエバの罪の跡継ぎです。毎日、堕罪の結果は目に前に現われます。この世は大きな悪と苦しみの泥沼に巻き込まれています。しかもその殆どが直接あるいは間接的に人間の自己中心や欲張りや暴力、あるいは人間の無関心によるものです。
皆さんはドアに鍵を掛けていますか。僕は掛けています。絶えず年寄りの方に「振り込み詐欺」を警告しなければなりません。結婚はどんどん崩壊しています:日本の離婚率は40%弱(アメリカは50%!)。貧富の差は日本でも世界的にも広がっています。今現在、世界のすべての人に、毎日2,720kcalの食べ物が作られていますが、7人の1人は空腹状態にあります(半分以上はアジアに)。毎日、予防し得る病気で数千人の子供が亡くなっています。今、40ぐらいの武力紛争が世界各地に起きています。掛け替えのない熱帯雨林の破壊がどんどん進んでいます。毎日、3つの絶滅危惧種が消えていきます。
聖書は言います:こんなはずではなかった。この状態は当たり前と思ってはならない!!これは、人間が神の慈しみを疑ってしまうこと、神の代わりにだろうとする心の結果である、と。しかも、この泥沼から抜け出す力は、人間にはない、と。わたしたちの望みはどこにあるのでしょうか。
その話は別の機会にしたいと思います。ただ、最後に、今日の創世記の最後の言葉を見たいです。
主なる神は、アダムと女に皮の衣を作って着せられた。(創世記3:21)
アダムとエバはもはや園にいられません。ところが、これだけひどいことがあっても、2人が唯一定められた掟を破っても、基本的に神の愛と恵みを信頼していない姿勢を見せても、神の立場を取ろうとしても、園の麗しい平安を永遠に損なっても――それでも、神はどうされますか?彼らを滅ぼしてしまう?忘れてしまう?見捨ててしまうのでしょうか?
いや、違います。神は暖かい服を着せてくださるのです。園の外の気候は厳しくて、いちじくの葉だけでは足りないのです。だから神ご自身が衣を用意して、2人の罪の最もきつい結果から彼らを守ってくださるのです。
どうしてかというと、神は変わっておられないからです。アダムとエバは変わりましたが、神はそうではないのです。神は相変わらず、子煩悩な父親です。その子供たちが愛しい。神はわたしたちの幸福と喜び以外に何も望まれていないのです。わたしたちが神を見捨てても、神はわたしたちを見捨てたりはなさらないのです。
最後の最後に、質問があります:その服は、何でできたのか。動物の皮ですね。つまり、アダムとエバがその罪の結果から守られるために、罪のないものの血が流されたわけです。
お分かりでしょうか。ここストーリーの始まりに、ストーリーの終わりに起こることのヒントがあります。罪の結果からわたしたちを救うのが、やはり罪のない犠牲者の血である、ということ。
わたしたちの主イエス・キリストに感謝しましょう。「わたしたちはその血によって贖われ、罪を赦されました。これは、神の豊かな恵みによるものです」(エフェソ1:7)
O felix culpa, quae talem ac tantum meruit habere Redemptorem!
返信削除Ansgerus