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2013年5月29日水曜日

愛のコミュニティ(イザヤ書6:1-8)

三位一体主日・聖霊降臨後第1主日(C年)
聖路加病院 聖ルカ礼拝堂
2013年5月26日年・10時30分 聖餐式

毎年、この「三位一体主日」では不可能なことをしようとする。それは、神の正体を理解しようとすることである。でも限られた人間は無限の神を理解できるはずがない。ただ、イザヤやヨハネに与えられた幻のように、イメージを通してその理解に近づくしかない。

幸いなことに、何も分からないというわけではない。神はご自身を示してくださっているから。そしてまず、神は唯一の神であることを示してくださっている。3,000年にわたって敬虔なユダヤ人は毎日こういう申命記の言葉を唱えてきた(シェマ):シェマ、イスラエル、アト゛ナイエロヘイヌ、アト゛ナイエハト゛。「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である」(申命記6:4)

神は唯一の主であることは理にもかなっていることだ。現実には一つの起点があるはず。宇宙の第一原因は一つ。すべてのものの創造者は一人いらっしゃる。神ご自身は造られざる者である。神は唯一である。

もちろん、「神」と呼ばれるものは他にもある。日本は神だらけ!でも言葉の意味は違う。「唯一の神」と「神々」の「神」を話すとき、同じ「カミ」という言葉を使うことで全く違うものを指し示していることを見失ってしまうかも知れないが、違うのである。

人間は何でも拝んでしまう。岩、木々、川、山、動物、太陽、月、先祖様、セックス、お金、権力、科学、名声。自分自身!いずれも「偉大なるもの」として拝んだりする。

でもこれらのことはみんな唯一の神ではない。これらのことは何もない状態から宇宙を造ったわけでもない。これらのことはビッグバンを引き起こしたわけでもない。「光あれ」のように、自分の言葉だけですべて存在あるものを存在させたわけでもない。
「主よ、わたしたちの神よ、あなたこそ、栄光と誉れと力とを受けるにふさわしい方。あなたは万物を造られ、み心によって万物は存在し、また創造されたからです」(黙示録4:11)

唯一の神以外にわたしたちの命の源があったり、わたしたちの運命を定めたりするものはないのである。

唯一の神はお一人。ちなみに、それは白髪のおじいさんではない!むしろ、命そのもの、絶対的な存在、時空を超越する方。神はモーセにこういうふうに自己紹介をなさった。「わたしは在る」(出エジプト3)。神お一人は現実の根底である。

イザヤの幻で、天使たちは歌っていた。「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主」(イザヤ6;3)。ヘブライ語の「聖なる」(KBD→カホ゛ト゛)という言葉は絶対的な存在というニュアンスを持っている。「聖であること・神聖」の語根の意味は「重み」となる。自立して重み=実在があるのは神だけである。神と比べてわたしたちは極めてはかない者、煙よりも軽いものとなる。神は実質のある、重みがある方。

だから神への憧れは人間の心に刻まれているのだと思う。聖なるものに近づきたいと思う傾向。命が神によるわたしたち人間は、自分の存在のはかなさをどこかで感じてしまう。そうすると、重みのあるもの、頼りになれるものを求めたくなる。本物の命、豊かな命、永遠の命を求める。つまり、神を求めるわけである。

しかし同時に、神に近づくのは恐ろしい。煙、羽根のように軽いわたしたちは、重みのある、実質のある神に近づくと圧倒されるだろうと分かっているから。

しかも神は正しい方だと分かっている。十戒や律法ではこれが明らかになるけれどもそれ以前、人間は生まれながらその心の奥底で唯一の神は正しい方だということが分かっていると思う。

神は聖なる正しい方。それに対してわたしたち人間は、煙のような軽い存在だけではなく、罪に染まっている存在である。(罪は犯罪ではなくて神の道からはずれることを意味する。)わたしたちは、余儀なく世の中の自己中心の態度や貪欲や無関心に染まっているし、わたしたち自身もそれに加担している。神に背を向けて日々の生活を送る。そういうわたしたちは神に近づけるはずがない。

だからこそ、あらゆる時代であらゆる社会や文化では、人間は神なるものに供え物をする。収穫の初穂、酒、さい銭、動物の血、昔の文化では人の血さえ奉納することもあった。

これは全部、聖なる神に接近することを許してもらうため、そして神の恵みをいただくため。神のご利益やご加護にあやかりたいからである。でも裸の自分、ありままの自分では神に近づく値打ちがないことが分かっているから、こういった価値のあるものを捧げる。
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イザヤは紀元前7世紀の預言者。幻の中で彼は天の玉座を見た。イザヤにとって、とても恐ろしい経験だったようである。
「災いだ。わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇の者。汚れた唇の民の中に住む者。しかも、わたしの目は/王なる万軍の主を仰ぎ見た」(イザヤ6:5)

イザヤはもう死ぬかと思っている。罪に染まっている自分は神のみ前に立つ値打ちがないと分かっているから。聖なる正しい神に近づいたら、自分の存在は消えてしまう。朝の霧が昇る日によって晴れていくのと同じように。

でもここで注意していただきたいのは、神がイニシアティブを取ること。イザヤがそこに居続けることができるように、神は備えてくださったのである。主の天使、セラフという火の天使のひとりが、炭火を持ってイザヤのところに飛んで来る。
「彼はわたしの口に火を触れさせて言った。『見よ、これがあなたの唇に触れたので、あなたの咎は取り去られ、罪は赦された』」(イザヤ6:7)
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神ご自身、イザヤがみ前に立ち続けられるようにしてくださったのである。

ここで「三位一体主日」の話の続きへの大きなヒントがある。神は唯一の神である――と同時に、神は単独ではなくてコミュニティである。これは教会の最も貴重な発見:唯一の神は「ただ一位ではなく、三位一体であられます」(「三位一体主日」の特別叙唱より)

三位一体とは何ぞや!要は、「神は愛である」とヨハネが言う(Ⅰヨハネ4:8)。愛は、神がなさることではなくて神の本質そのものである。愛であるならば、愛する相手は当然いるわけ。父から子への愛があり、子から父への愛があり、その相互の愛の実質は聖霊である。

だから、神は本質的に愛の交わりなのである。天地万物を、特にわたしたち人間をお造りになった一番大きな利用は、もっともっと愛を注ぐ先がほしかった、ということである。

そういうわけで、神、トコトン愛し合っている父と子と聖霊なる神は、最初からその愛の交わりにはわたしたちにも参加させようと思われたわけ。それが本来、人間の運命だった。神はご自分のもとに愛しい人間をずっと近寄らせようとしてこられた、ということ。

こういった神の本質への洞察はすべてイエス・キリストとの出会いから生まれたものだ。イエス・キリストにおいて、顔と顔を合わせて神と出会う、と教会は確信している:「父が持っておられるものはすべて、わたしのものである」(ヨハネ16:1)とイエスが仰ったいる。

わたしたち小さい人間にとって、全能で無限の神を理解することは無理だったので、み子において神はご自分を分かりやすい形にしてくださった。こういう意味でヨハネの福音書ではイエスが神の「ことば」と呼ばれる。イエスは天の父の自己表現であるのである。

わたしたちは神に近づきたいけれども、弱くて、そんな値打ちがないため恐ろしい。でもイエスにおいて、神がわたしたちに近づいてくださった。罪がわたしたちと神との間の大きな壁となっているけれども、イエスはこの壁を取り除いてくださった。

ヘブライ人への手紙では、次のように書かれている:
「わたしたちは、イエスの血によって聖所に入れると確信しています。イエスは、垂れ幕、つまり、ご自分の肉を通って、新しい生きた道をわたしたちのために開いてくださったのです...信頼しきって、真心から神に近づこうではありませんか」(ヘブライ10:19-22)

ありのままのわたしたちは、弱くて、罪に汚れている。でもイエスはその正しさをもってわたしたちを覆ってくださる。二度と神のみ前にいるのは怖くないはずである。むしろ、今はキリストによって、わたしたちはその子どもとして神に近づくことができるのである。
「時が満ちると、神は、そのみ子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました。それは、律法の支配下にある者を贖い出して、わたしたちを神の子となさるためでした。あなたがたが子であることは、神が、『アッバ、父よ』と叫ぶみ子の霊を、わたしたちの心に送ってくださった事実から分かります」(ガラテヤ4:4-6)

こういうわけで、「三位一体主日」をもって、神は愛の交わりそのものであることを覚える。そして、その交わりにわたしたちも受け入れていただける。イエス・キリストのおかげで、今も、そしていつまでも、神の明るい家に属する人となれることを喜びとして受け止めたいと思う。

2012年12月5日水曜日

我々のアルファとオメガ


(ダニエル書7:9-14,黙示録1:1-8,ヨハネ18:31-37)
聖霊降臨後第26主日(B年)
聖路加国際病院聖ルカ礼拝堂
2012年11月25日・10時30分 聖餐式

来週は降臨節(クリスマス前の4週間)、教会暦で新しい年の始まり(C年)。今日は、「降臨節前主日」、一年の最後の日曜日。伝統では、「王なるキリスト主日」。この日は、イエスがわたしたちの王である、実は全世界の王であることを覚える。

今日の「特祷」から:
「永遠にいます全能の神よ、あなたのみ旨は、王の王、主の主であるみ子にあって、あらゆるものを回復されることにあります。どうかこの世の人びとが、み恵みにより、み子の最も慈しみ深い支配のもとで、解放され、また、ともに集められますように...」

旧約聖書のダニエル書と新約聖書のヨハネの黙示録は数百年で分かれているけれども、両方はapocalypsis(黙示)というジャンルになる。apocalypsisとは、「隠れていたことが打ち明けられる」という意味である。

この両方の書物は人間が置かれている状況の隠れている真相を明るみに出そうとしている。人生の舞台裏を見せる感じ。両方は、まことの神への信仰のために迫害を受けている人(ユダヤ人と初期教会のクリスチャン)に向かった書かれた。ダニエル書もヨハネの黙示録も、希望に満ちているものである。なぜかというと、かの日神が現れて、いろんな苦難や罪悪を引き起こすこの世での権力者を打ち負かせてくださることを待ち望むからである。
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ダニエル書の設定。ギリシャの王アンティオコスがエルサレムの神殿をけがした(その真ん中にゼウスの像を建てて祭壇で豚をいけにえとして捧げた、12月25日に!)など、ユダヤ人を律法から引き離そうとした。抵抗した大勢のユダヤ人は拷問や処刑を受けた。

こういう暗い、大変つらい中、ダニエルは言う:「夜の幻をなお見ていると、見よ、「人の子」のような者が天の雲に乗って」来られた!と(ダニエル7:13)。

イエスは、しばしばご自分のことを「人の子」と呼ばれたが、これは意図的にこのダニエル書の話を連想させようとしておられたようである。まさにイエスは「日の老いたる者」――つまり、天の父――の前に進み、天の父から「権威、威光、王権を受けられた」のである。そして実際にイエスの王国、その支配は、他のどんな国と違って「とこしえに続き、その統治は滅びることがない」(ダニエル7:13)。

イエスを処刑したのは、ローマ帝国だったが、今になってローマ帝国は歴史の教科書にしかないものになってしまったけれども、イエスがお立ち上げになった教会は今でも存続している!

イエスご自身が言われた:「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」(マタイ24:35)。イエスの国は不滅で永遠なものである。
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ヨハネの黙示録も、ダニエル書と非常に似ている状況の中で書かれたものである。初期の教会はローマ帝国の各地で激しい迫害を受けていた。大勢の人が投獄されたり、殉教したりして、クリスチャンはこっそりと集まらなければならない状況だった。

ヨハネの黙示録はこの「地下教会」に送られた書物である。押さえ付けられているクリスチャンを勇気付けるために書かれた。たくさんの旧約聖書への言及や抽象的なイメージを使っているので、クリスチャン同士には分かっていたけど外に人には意味不明。

2千年後、さまざまな研究のおかげでいろんな難しい意味が分かるようになってきたけれども、未だに推測するしかない部分がある。(だから非常に偏った解釈が生じたり、21世紀の事柄の枠の中に無理やり押し込めようとすることがある。)

先ほど読まれた1章の部分はイエスへの賛美歌:「死者の中から最初に復活した方、地上の王たちの支配者!」(黙示録1:5)そしてダニエル書のまねして:
「見よ、その方が雲に乗って来られる」ので「すべての人の目が彼を仰ぎ見る、ことに、彼を突き刺した者どもは」(黙示録1:6)つまり、十字架にはりつけにさせた人たち。

また、「地上の諸民族は皆、彼のために嘆き悲しむ」と書いてある。これは、イエスの苦しみへの憐れみでもあるけれども、自分たち自身がその苦しみに加担したという罪悪感を抱くという意味でもある。イエスはわたしたち全員の罪のために十字架で死なれたのである。誰も「自分とは関係ない」と言える人はいない。

しかしイエスが仰る:「わたしはアルファであり、オメガである」(黙示録1:7)
これはギリシャ語のアルファベットの最初と最後の文字。始まりと終わり。イエス・キリストは、すべてのもの、すべての命の源である。アルファ。神のみ言葉であるみ子を通して、すべてのものが造られたのである(ヨハネ1:3)。

そしてオメガでもある、この世の、人類の歴史の目的である。人間すべての経験、すべての出会い、すべての夢、すべての達成したことは、イエスのもとに置かれている、イエスにあって理解できる。アウグスチヌス:「主よ、わたしたちをご自分のためにお造りになったので、わたしたちの心が主のうちに憩えるまで決して憩うことができない」

こういう意味でイエス・キリストはわたしたちの王である。わたしたち人間の生きる意味はイエスにある。わたしたちのアイデンティティはイエスにある。
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ヨハネの福音書は全く違う設定になる。ヨハネの福音書では、イエスが夜中逮捕され、つるし上げられ、ご自分を神と等しい者だという冒涜という死刑に値する罪において有罪とされた。しかしユダヤ人には死刑を実行する権限が許されていないため、イエスがローマ帝国の当局に引き渡される。

こういう経緯でイエスがパレスチナの総督であるポンティオ・ピラトの前に立たされておられるのである。「お前がユダヤ人の王なのか」とピラトが聞く(ヨハネ18:33)。貧しい服を着て、すでにたたきのめされているイエスをバカにしているように聞こえる。

ところがイエスの答えは静かな威厳を放つ:「あなたは自分の考えで、そう言うのですか。それとも、ほかの者がわたしについて、あなたにそう言ったのですか」(ヨハネ18:34)

つまり、あなたは利用されているのではないか、とイエスが仰っている。しかも、ローマの法律で必要とされる証拠を求める聞き方でもあった。

ピラトは普段、ユダヤ人からこういう話し方をされなかったせいか、ムカッとする。「俺はユダヤ人かよ!お前の同胞や祭司長たちが、お前を俺に引き渡したのだ。いったい何をしたのか。」(ヨハネ18:35)

「いったい何をしたのか。」簡単に答えられない質問だね。

ベツレヘムの家畜小屋で生れたときから始まって、また大人になって数え切れない人を癒したり、慰めたり、励ましたりして、暗闇の力の虜になっている人を解放したりして、神の愛の国を力強く、分かりやすく教えたりして来られたイエス。そしてついに苦しみを受け、これから命をささげ、またよみがえられるイエス。すべて愛のために。

だからイエスはピラトの質問に答えず、ご自分がどのような王であるかを話される:
「わたしの国は、この世には属していない。」全く違う次元のものである。この世的、政治的な国だったら「わたしがユダヤ人に引き渡されないように、部下が戦ったことだろう」(ヨハネ18:36)

でもイエスのために戦っている人は誰もいなくなってしまった。みんな恐怖と混乱に襲われて逃げてしまった。でもこれも神のご計画に入ることでもある。こういう意味でもイエスの国は全く違う次元のものである。ピラトでさえコントロールできない次元である。

イエスの返事にちょっと驚いたピラトはもう一度聞く:「それでは、やはり王なのか」。イエスはの答えはなぞなぞに似ている。「わたしが王だとは、あなたが言っていることです」

そこでイエスにとってその王であることはどういう意味を持つのか:
「わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。」

イエスの支配は、トップダウンではない。法律や軍事力や強制力によるものではない。特祷にあるように「み子の最も慈しみ深い支配」なのである。人々の心の目を開き、生きることの本当の意味に気づいてもらうことによって影響を及ぼされるのである。自分の命の尊厳、他人の命の尊厳、世界全体の尊厳に目覚めさせるのである。

こうやってイエスは人の心を治めるのである。イエスは2千年間、そして今現在世界の3分の一の人の王となっている。「真理に属する人は皆、わたしの声を聞く」(ヨハネ18:37)

イエスを王として認め、従うというのは、イエスの世界観を共有し、神と共に生きる命へのヴィジョンに賛同して、イエスと同じ目的を持つ、ということである。

しかもイエスに従う人は、思いがけない解放感を得る。以前イエスは仰った:
「あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」(ヨハネ8:32)。

キリスト教の信仰は束縛ではない。イエスに従うことは自由を失うのではない。「完全な自由は主に仕えることにある」と朝の礼拝の祈りがある。王の王であるイエスの目を通して真理を見て、その真理を豊かな生き方の基盤として受け入れた人こそ、自由人なのである。「わたしが来たのは、[彼ら]が命を受けるため、しかも豊かな命を受けるためである」(ヨハネ10:10)、そして「真理はあなたたちを自由にする」(ヨハネ8:32)とイエスが教えてくださる。

こういうわけで今日、王なるキリストを覚える日である。イエス・キリストはわたしたちの王だけではなくて、すべての人の王である。真理は一つだからである。イエスはアルファでありオメガである。「王の王、主の主であるみ子にあって、あらゆるものが回復される」。

イエスについて行く人は、真理と愛の神のもとにたどり着き、心の平安を得る。「わたしたちの心が主のうちに憩えるまで決して憩うことができない」

最後まで忍耐強く(ヘブライ10:31-39、マルコ13:14-23)


聖霊降臨後第25主日(B年)
聖路加国際病院聖ルカ礼拝堂
2012年11月18日・10時30分 聖餐式

僕は大学を卒業したら(誰も評価してくれない英米文学専攻で)、なかなか仕事が見つからなかった。就職活動にずいぶん苦労した。やっと、二つの仕事に就いた:昼間は身分の低い校正係で、夜はレストランのウェイターだった。ウェイターの方が遥かに給料がよかった。

こういうわけだったので、将来に対してかなり不安だった。ので、2日ぐらい休みを取り森の中の小屋で隠遁して、散歩したり、読んだり書いたり、じっくりと考えることにした。

2日が終わると、完璧な長期計画を打ち出していた。これからの人生のマップを作れたのである。仕事や大学院も入って、結婚や家族も、小説を書くことも、アメリカ中の旅行も――全部計画にあった。(来日することも司祭になることも全くなかった!)

完璧な長期計画が出来上がったから、将来に対してとても前向きになった。どこに向かっているか、そしてその行き方まで全部分かっていたから。これによってそれまでの不安はすっかり消えた――明るい将来の太陽によって不安の霧が晴れてきた感じだった。

ところが、家に帰ってから2週間と経たないうちに長期計画は台無しになってしまった。友人の結婚式で昔の恋人にばったり出くわして、女性との甘い将来の空想にふけって、遠く離れている町に引っ越すことにしたからである。

こうやって脱線したら、2度とその計画に戻ることはなかった。でも感謝!神は僕の人生に対して遥かにいい計画を立ててくださったのである。

とにかく、今は僕はできるだけ計画性のない人生を送ろうとしている!一日一日着実に生きて、神に導かれるままに、その都度、動きたいと思っている。
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それにしても、時々不安にある。当然だと思う。将来がどうなるか見えないことは大変である。しかも、わたしたちはかなり不安定な時代を過ごしていると思う。そして結構厳しい、余裕の無い日本社会になっている気がする。

不安定といえば、今、日本には政権がないのは、どういうことだろうか!!中国も新しく選出された総書記もいるけれども、それによって日中関係はどう変わるか、予想が付かない。尖閣諸島の関係で威嚇ごっこはかつてよりも激しくなっている気がする。いつでもエスカレートする可能性があると思う。

日本経済も相変わらず不景気。アメリカはもっとひどくて、まだまだどん底に当たっていない。最悪の時はまだ訪れていない。日本の年金制度はいつ破綻してもおかしくない。福島原発問題はまだまだ解決されない――後70年ぐらい掛かるであろう。

教会にしても、不安定な時期である。東京教区は急激に衰退している。聖職者も足りない、しかもニューフェースはなかなか現れて来ない。洗礼より葬儀の数の方が遥かに上回っている。今度の金曜日の教区会では、殆ど話すネタがないぐらい疲れていると思う!

僕の人生も、皆さんの人生も、ものすごく平穏かというとそうでもないであろう。心配は多い!仕事やお金の心配をしている方はここにもいらっしゃるであろう。ご自分の健康あるいは愛する人の健康の心配をしている方も。家族とのあるいは他の人との関係で悩んでいる方もいらっしゃる。独りぼっちにならないか、と心配している方もいらっしゃる。

しかも、信仰生活においてはいかがでしょうか。神との関係は?祈る生活は?やるべきことをちゃんとやっているのか。歩むべき道をしっかり歩んでいるのか。このままでは神に喜んでもらえるだろうか。心配は多い。
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2,000年前も一緒だった。イエスも非常に不安定な時代を過ごされた。当時のパレスチナは貧困問題で苦しんでいた。国のトップの間での腐敗もひどかった。空腹を覚える人は大勢いた。希望を持てない人も。

ローマ帝国に対する暴動もしばしば発生する。毎回、必ずローマ帝国は容赦なく鎮圧する。一万本の十字架からユダヤ人の血が流れている時代だった。

とてつもなく大きな嵐がなりかけていたことは明らかだった。ユダヤ人とローマとのにらみ合いはいつまでも続かない。どこかでエスカレートしてしまうであろう、と。

みんなこの緊張感の中で生活を送っていた。厳しい、余裕の無い社会になっていた。優しさ、思いやりはあまり見えてこない。みんな自分のことで精一杯になるのである。

しかもユダヤ人は、これらの困難や苦難は結局自分たちのせいだと思っていた。自分たちも先祖たちも神に反抗して、神の言うことをずっと聞かなかったからこういうことになったのだと思っていた。神はうんざりではないか。見捨てられているのではないか、と。

とにかく、ユダヤ人の深い心配は間違っていなかったことが明らかになった。イエスが予告なさったとおり、彼らの世界が崩壊したのである。

そのひどい歴史はご存知?紀元66年、パレスチナの中のユダヤ地方でローマ帝国に対する暴動が起こった。これを知った皇帝ネロは大きな鎮圧軍を派遣した。まず、ユダヤ地方の北部の抵抗勢力を取り除いた。それから首都のエルサレムに向かっていく。

ローマ軍はエルサレムを包囲して、70年に城壁を破った。町全体を焼き討ちした。ユダヤ教の本山で、最も聖なる場所となる神殿も焼き討ちされて全滅する。その中の聖なる家具や道具は、ローマに運ばれてローマの勝利を記念するために展示された。

そしてエルサレムは血まみれになってしまった。当時の歴史家ヨセフスによれば、およそ百十万人は虐殺されて、九十万人は捕囚となり、エジプトの鉱山で強制労働させられるか、あちこちの競技場に送られて、剣闘士の試合のハーフタイムで動物とかで殺されるネタになる。

ヨセフスはこう書く:「城壁内の虐殺はとてもひどかった。男女老若も、反乱者も祭司も、戦った人も慈悲を請った人も、無差別に大虐殺で倒された。」
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さて、この中で「良い知らせ」は果たしてどこにあるのか。今日みたいな福音書箇所を読むときの課題はそこである。神の恵みはどこか。わたしたちの希望はどこか。

でもちゃんと見れば、良い知らせが見つかる。聖書は恵みの宝庫である。ちょっと捜せば喜ばしいことが出て来る。

今日の福音書の良い知らせはこのイエスの最後の言葉で示唆されている気がする。
「一切の事を前もって言っておく」(マルコ13:23)

イエスは、困難や苦難のときがあるよ、ということを前もって教えてくださる。愛のゆえに本当のことを仰る:険しいときに見舞われるのだ、と。つまり、大変だということがイエスに分かっている。わたしたちの悩みはキリストの視野に入っているわけ。

キリスト教の本当の信仰は御利益ではない(御利益キリスト教を訴える偽預言者はいれけれども)。献金箱にお金を入れて祈ったらジャジャーン!もはや苦しいことも悲しいこともなく、すべての人間関係がうまくいって、商売繁盛になり、受験も立派に合格する!

――のではない。クリスチャンも他の人と同じように苦しむ。周りの人を傷つけたり周りから傷つけられたりする。挫折する。病気を患う。寂しくなる。大事なこと、大事な人を失ってしまう。クリスチャンも他の人と同じように死という生涯の区切りを迎える。

福音の約束はこれである:神はマジックのようにこられの困難や苦難を取り除いたりはなさらないけれども、何があっても神は共にいてくださり、これらの困難や苦難を最後まで忍耐強く耐える力を与えてくださるのだ、と。

困難や苦難を消すには、神は自分たちの自由、そしておそらく数万人の自由を無視しなければならないのではないかと思う。神はそういうことはなさらない。良し悪しを選ぶ自由、愛する・しない自由は、人間らしさの基盤なのである。神はわたしたちの自由をあくまでも尊重なさる。

要するに、神から与えられている自由の暗黒面は、自分のことしか考えなかったり、人を傷つけたり、苦しみに無関心であったりする人で世の中がいっぱいになっている。わたしたち自身を含めてそういう人が多くいる。そして多くはないけどある人は、大勢の人に大きな害を及ぼしてしまう。そこまでみんなの自由が許されているのである。

ところがこの中で、神は常に見守ってくださる。よく気付かれないうちに常に助けて、励まして、支えてくださるのである。
「主がその期間を縮めてくださらなければ、だれ一人救われない。しかし、主は御自分のものとして選んだ人たちのために、その期間を縮めてくださったのである」(マルコ13:20)

神は必ずしもわたしたちが直面している困難や苦難を取り除いてくださらないかも知れないが、それらの中で必ず助けてくださる。

イエスはその弟子たちに前もって険しいときに見舞われることを教えてくださった。気をつけて、不意打ちされないで、絶望しないで、最後まで耐えるためにそういうことを仰ったのである。でも次のことをも弟子たちに、そしてわたしたちに仰る:
「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」(マタイ28:20)

イエスはあなたと共にいてくださる。何を心配していらっしゃるか、どんな困難や苦難を直面しているか、イエスは共にいてくださる。そしてこの教会と共にいてくださる。

絶望しないで、最後まで耐えれるように助けてくださる。

しかも、イエスにすべてをゆだねる人にとっては、その「最後」は本当に明るいものになる。

2012年11月14日水曜日

すべてをささげた人(マルコ12:38-44)


聖霊降臨後第24主日(B年)
聖路加国際病院聖ルカ礼拝堂
2012年11月11日・10時30分 聖餐式

「皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである。」(マルコ12:44)
イエスが賞賛なさる「信仰」は、神の良さへの完全な、幼子のような信頼である。生活費まで献金するやもめ。イエス先生からの一言で僕を治していただけるのを確信する百人隊長(マタイ8:8)。天の慈愛はユダヤ人にだけ与えられるものではないと信じるカナンの女性(マタイ15:21-28)。十字架の上から、良い父である神にその霊をゆだねるみ子(ルカ23:46)。このような信仰は、好調なときに持てるものではなくて、辛い中でも耐えるものである。このような信仰は、切に求めるべき賜物である。

イエスは、エルサレムの神殿(=ユダヤ教の本山)で座って人々を観察中。そして、賽銭箱に自分の生活費まで入れるやもめ(=未亡人!)のことに気にとらわれる。

このやもめをうまく利用して「献金をちゃんとせよ!」と訴える牧師は少なくないと思う(僕もそのようなことを言ったことがあるかも知れない!)。このやもめは生活費を丸ごと献金できたのなら、皆さんももう少し出せるのではないか、というような話をする。

でもイエスは果たしてこのやもめを献金の模範として挙げておられるのだろうか。むしろ彼女のことを可愛そうに思っておられるのではないだろうか。

というのは、このやもめは律法学者たちにだまされている一人になるではないか。今日の福音書の前半では、イエスは彼らを非難される。「律法学者に気をつけなさい...彼らはやもめの家を食い物にする」(マルコ12:38, 40)

どうやってやもめの「家を食い物に」しているかというと、罪悪感を押し付けているのである:
罪深くて、きちんと掟を守れない人は神に受け入れてもらえると思うのか!俺たちと違って律法が殆ど分かっていないやつは、どうして神に愛されていると言えるのか!あなたみたいな人は赦してもらいたかったら、相当の寄付が必要だろう!相当の寄付!

オレオレ詐欺ではないけどそれに似ている。この弱くて貧しいやもめは、神との和解をはかるために、空腹を覚悟して、賽銭箱に生活費を全部入れているわけである。

これは献金の見習うべき模範ではなくて、訓戒的な話ではないだろうか。

[むしろ、わたしたちにとって献金の模範になるのは「有り余る中から入れた」(マルコ12:44)人たちになるではないだろうか。現代の日本は、不景気とはいえ、史上最高に物質的に恵まれている国の一つである。正直に言えば、わたしたちはこのやもめが味わっていた貧困を想像できないと思う。彼女の生活費全体、レプトン銅貨二枚は、当時の一日分の賃金の百分の一ぐらいになる。つまり彼女の「持っている物すべて」と言っても、麦パン一個を買えるか買えないか、そういうスケールの貧困である。]
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イエスはこのやもめを見て、献金どうのこうのではなくて、彼女が一生懸命に神への愛を現していることに心が打たれているのではないかと思う。

先週の福音書にあったように、この前、イエスは神殿で第一の掟を教えてくれた。「イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」(マルコ12:19-30)

そして第二の掟:「隣人を自分のように愛しなさい。」(マルコ12:31)。律法全体はこの二つの掟でまとめられる。これだけは、人間と神との関わりの根底になる。

残念ながら、わたしたち弱い人間は、この二つの掟でさえ守れないのである。調子のいいときには全身全霊で神を愛し、隣人への思いやりをしばらく持つことができるかも知れないが、やはりむらがある。わたしたちの愛が十分大きくない。

しかも神から疎遠していて、冷たい世の中に住んでいる者として、わたしたちはいろいろな悲しい思い、さびしい思い、辛い思いがあって、涙を流さずにはいられない。

それに加えてこのやもめは、きっと律法学者が主張するような厳しい掟を必死に守ろうとして、結局守り切れないことを痛感して、遠くから神殿まで足を運んで来たのではないかと思う。どうしても神との仲直りをしたい、どうしても赦してもらいたい、どうしても神に近づきたい!

そのために人が神殿に来る。神殿は、ユダヤ人にとって神と出会える場所だと思われた。天と地の唯一の接点はここである。ここは神との触れ合いがある場所だと思われた。

このやもめは神に出会いたい。神の愛に触れたい。だから賽銭箱に自分が持っているお金、銅貨二枚を入れる。


そして不思議で素晴らしいことに、彼女の小さな捧げ物をご覧になっているのは、神から遣わされたみ子なのである。

エルサレムの神殿に巡礼に来ている人の中で決して彼女は目立たないはず。一人で寄って来ている。その服はボロボロであろう。遠くから来て疲れているであろう。きっと彼女の顔は笑いじわと泣きじわだらけであろう。

しかし大勢の中からこの人に、神から遣わされたみ子が心を留めておられるわけである。一生懸命神への愛を現せようとしている彼女にイエスはどんなに暖かい眼差しを注いでおられるであろうか。

このやもめは確かに律法学者たちにだまされていたかも知れない。でも結局は、律法学者たちよりも彼女の方が神に近づいていたのである。イエスのすぐそばまで。

律法学者たちは、口では神のことをいろいろ言いながら人間の誉れを求めるのである。
このやもめは「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして」神を愛しようとしているわけである。

二つの小さな銀貨には、とても大きな意味があったのである。
+   +   +
このやもめと出会って数日後、イエスはこの神殿からそんなに遠く離れていないところで、違った種類のささげものをなさった。今度は賽銭箱ではなくて、十字架だったのである。

十字架の上で、ヘブライ人への手紙の言葉を借りると、イエスは「人間の手で造られた聖所ではなく、天そのものに入られた」(ヘブライ9:24)のである。

イエスも、やもめのように、持っている物をすべてささげられたのである。その命まで。

十字架の上で、イエスは「わたしたちのために神のみ前に現れてくださって」(ヘブライ9:24)「ご自身をいけにえとしてささげて罪を」――やもめの罪、律法学者たちの罪、僕の罪、皆さんの罪を「取り去るために、現れてくださいました」(ヘブライ9:26)

これこそ惜しみない愛の業。

イエスのささげものによってやもめが切に望んでいたことが実現されたのである。つまり、神の赦し、神との和解をイエスがわたしたちのために手に入れたくださったのである。
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「罪」というものは――わたしたち自身のさまざまな背きやわがまま、そしてわたしたちの両親の罪と彼らの両親の罪、社会の罪、世の中の罪――これらのものは、わたしたちを神から引き離してしまっているのである。

しかもわたしたちがいくらささげものをささげても、いくら献金をしても、いくら律法や掟を守っても、いくら「いいこと」をしようとしても、罪が作る深い溝を越えて神に近づくことができない。

でも神はその溝を越えてくださった。イエス・キリストがささげてくださった尊い命は、その架け橋になる。神の愛を求める人にとって、イエスの十字架を通れば近づける。

さて、どうすればこのことに応えることができるか。

イエスのささげものに便乗するしかない。やもめのように、わたしたちがささげ得るものは、ほんのわずかしか持っていない。銅貨二枚ほどの愛しかない。だけれども、その愛をイエスの十字架のささげものに合わせることができるのである。

そうすれば、大いに神に喜んでもらえるのである。

わたしたちも日々、一生懸命神への愛を現したいと思う。

謙虚な人になる練習を(マルコ9:30-37)


聖霊降臨後第17主日(B年)
聖路加国際病院聖ルカ礼拝堂
2012年9月23日・10時30分 聖餐式

イエスが座り、十二人を呼び寄せて言われた。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」(マルコ9:35)
この世による「価値あるもの」の概念を真っ向から否定するのは、キリストの十字架。偉い人はだれか。政治家?軍事的指導者?大金持ち?セレブ?優等生?会社の人気者?違う。天から見れば、これらの「ステータスの高い」人たちは、自分を低くして周りの人に仕える者と比べたら、取るに足りない人物ばかり。永遠の命に至る道は十字架しかない。この道を歩む人は、世の中では重要だと言われていることを無視して、恵みの喜びへと目を向け直すのである。

「途中で何を議論していたのか」(32)。これを聞かれた弟子たちの顔を想像しやすい。えっ?ヤベッ!バレタ!「彼らは黙っていた。途中でだれがいちばん偉いかと議論し合っていたからである」(33)

これは、人間としてどれが素晴らしいかというよりも、もっと政治的な話。つまり、「新内閣」で有利な地位に就こうと画策しているわけ。まだまだ弟子たちはイエスのことを勘違いしている。政治的な指導者としてイエスが国をローマの圧政から解放して、建て直してくれる、と思っていたのである。

イエスはその「マニフェスト」を「神の国」と呼んでいる、と思っている。確かにその内容は理解できない部分もあるし、イエスは何だかわけの分からない「死んでよみがえる」話もしているけれども、結局はローマ帝国やローマに操られているユダヤ人たちなどを一掃して、強いイスラエルを取り戻してくれるに違いない、と弟子たちが期待していたわけである。

そしてイエスが国を建て直してくれたら、その「新内閣」では誰がイエスの右腕になるとか、誰が軍司令官になる、誰が神殿を担当するとか、そういった議論を弟子たちが歩きながらしていたわけである。

「途中で何を議論していたのか」とお尋ねになった。彼らは黙っていた。途中でだれがいちばん偉いかと議論し合っていたからである。イエスが座り、十二人を呼び寄せて言われた。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」(33-35)
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人間は、有利な地位を得ようとする傾向が非常に強いと思う。殆どの戦争は、誰かが有利な地位を得ようとすることから始まります。殆どの政治家も何よりも得意なのは、自分の立場を守ることだと思う。それによって国全体が左右されるわけである。

しかも、戦争を引き起こしたり、国を動かしたりするほどの影響力を持つ人は少ないけれども、この有利な地位を得ようとする傾向はすべての人の心にあると思う。わたしたちは、生まれつきそういうのを持っているのだと思う。

子供を見ると、常に自分が先になろうとしている。先にブランコに乗りたい。先におやつを選びたい。先にママに抱っこされたい。(うちでは、歯磨きの仕上げを先にしてまらうのも毎日のバトル!)

(しっかりした)親は子供に、おもちゃを仲良く一緒に使うように、順番こにやるように教え込むのに、何千時間を費やすだろう。つまり、その有利な地位を得ようとする傾向を抑えられるように一生懸命に教えるのである。

そうしないと社会に適応できない人になってしまうからである。社会が成り立てるのは、全員がある程度その利己心を抑えるコツを身に付けているからである。

でもだからと言って、この傾向を脱却するわけではない。むしろ、傾向がどんどん強まるのではないかと思う。大人はただ目立たないやり方を覚えるだけだと思う。大人の場合も、誰と知り合いになるか、自分にとってのメリットを考えて選ぶことが多いと思う。面倒な人からさりげなく遠ざける。大人も、自分の功績が認められるようにうまく立ち回る。やりたくないことを避ける方法を見つける。

また、文字通りに、そして比喩的にも、人より先に進める道を見つける。(昔は、電車に乗るときのおばさんたちがかなり怖かったけど、先週いつもより早い帰りの電車に乗ったら、車両のドアから席までもうぜんと突進する20代、30代の女性はかなりすさまじかった!)

(と言いつつ、正直に言えば、僕もさりげなく座れるように計略を使うことがある!)

とにかく、人間は皆こういう傾向を持っていると思う。聖書はこの傾向を「利己心」や「高慢」と呼んでいる。わたしたちはその利己心を抑えることができるかもしれないけれども、たまには立ち現れてしまう。わたしたちはそういう世の中にどっぷりつかっているわけである。
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わたしたちは、社会に適応するために利己心を抑えることを学ぶけれども、聖書によれば、この利己心の傾向を克服しない限り、神の国に適応できないのだ、と言う。

ヤコブは言う:「神は、高慢な者を敵とし、謙遜な者には恵みをお与えになる。」(ヤコブ4:6=箴言3:34)また、「世の友となることが」(つまり、世の中にまん延する利己心とねたみに流されることが)「神の敵となることだとは知らないのか」(ヤコブ4:4)。

今日の福音書でイエスが子供を見本として置いたのも、そういう意味であった。子供は仲良く遊べないからではなく(!)、当時社会では一番低い地位だったからである。殆ど無視される存在で、自己主張する立場にない者だったのである。当然のことながらみんなに仕える。いちばん嫌な仕事をさせられる。

ある日イエスは、若い金持ちと出会ったら、こういう話をされた:「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」(マルコ10:25)。金持ち――つまり、有利な立場にいる人、高慢な人――そういう人は、そのままで神の国に入れないよ。ふさわしくないよ。

神の国、神のみ心のとおりに治められている世界では、この世のありさまがすべてひっくり返される。高慢な人は低くされる。贅沢に暮らす人は空腹を覚える。権力を振るう人はその座からおろされる。

でも謙遜・謙虚な人は高く上げられる。貧しい人は満腹するまで食べる。柔和な人は全世界を受け継ぐ。平和を実現する人は神の子と呼ばれる(マタイ5章参照)。

「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」(35)

でもイエスはこの世的に有利な立場を得ようとすることを否定しながら、謙虚に人に仕えることによって「いちばん先になる」というのは、結局有利な立場を得ようとしているのではないだろうか!

ちょっと違う。確かに、謙虚になろうとする人には報いがある。それは、芯まで謙虚になれること。外国語を勉強すると一緒。その報いは、お金とかではなくて、外国語を話せるような人になること。神の国で通じる「言語」は謙虚さである。謙虚になろうとすることのご褒美は、謙虚になることである。

でも謙虚な人は世界中いちばん幸せな人だと思う。結局、高慢であること、利己心を持つことは、唯一神の愛が通過できない壁なのである。謙虚さはこの壁を取り崩す。謙虚な人は、その心が広く開かれている。他の人に。世の中の悲しみに。美しさに。真実に。神の愛に開かれているのである。
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「すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい」と仰るイエスは、まさにその見本となってくださった。神のみ子イエスは、すべてを捨てて人間としてわたしたちの間で生きられた。病気の人や困っている人を一生懸命に助けられた。ひざまずいて自ら弟子たちの足を洗われた。最後にその命まで惜しまなかったのである。十字架で死ぬことより低くなることはない。

イエスに従う人は、当然その模範に倣っていく。しかも、倣うための恵みをも、イエスが与えてくださる。「神は...謙遜な者には恵みをお与えになる」(ヤコブ4:6)。イエスの足跡を歩む人には、歩む力と知恵も注がれるのである。

だから、イエスに導かれて、神の助けを得ながら、わたしたちは謙虚な人になるための練習ができる。どういうふうに練習ができるかというと、例えば:
l  すべての通勤電車はその練習の機会を与える。わざと先に乗らない、座らない。
l  人の話を聞く。
l  気づかれないように優しいことをしてあげる。
l  あの辺に見かけたゴミを拾って捨てる。
l  つまらない仕事をあえて引き受ける。
l  他の人と自分を比べることをしない。
l  常に感謝を表す。人に褒められたらお礼を、指摘されてもお礼を言う。成功したら神に感謝する。失敗したら神に感謝する。
l  家で祈るときにたまにはひざまずいてみる。体を持って謙虚な態度を学んでいく。

神の国に入る人はにじり口を通らなければならない。謙虚になるように練習していきましょう。いい先生がいるから:「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい」(マタイ11:29)。

2012年9月28日金曜日

自分に手術を?

「もし片方の手があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両手がそろったまま地獄の消えない火の中に落ちるよりは、片手になっても命にあずかる方がよい。」(マルコ9:43)
イエスがエルサレムとご自分の死に近づくと、緊迫感が高まり話し方がどんどん衝撃的になるようである。ここでは、文字通りに自傷行為を進めておらるわけではなくて、態度、悪い習慣、誤った信念、間違った選択、引きずる罪悪感、罪深い過去などわたしたちの中にあるあらゆるものは、神に近寄り、その与えようとしておられる豊かな命をいただくことを妨げているのだ、ということである。主であり救い主であるイエスは、これらのことからわたしたちを解放してくださる。が、彼を求めなければならないのである。

autosurgery?

"If your hand causes you to stumble, cut it off. It is better for you to enter life maimed than with two hands to go into hell, where the fire never goes out." (Mark 9:43)
As Jesus draws closer to Jerusalem and his own death, he grows more urgent and his language grows more dramatic. His point is not that we should literally attempt surgery on ourselves, but that there are things within us—attitudes, habits, mistaken beliefs, wrong choices, guilty consciences, a sinful past—which keep us from drawing near to God and to the abundant life God wants us to have. As Lord and Savior, Jesus can free us from these things. But only if we invite Him to.

2012年9月20日木曜日

the little way


Sitting down, Jesus called the Twelve and said, “Anyone who wants to be first must be the very last, and the servant of all.” (Mark 9:35)
The cross of Christ utterly contradicts the world's notion of what has value. Who is great? Tycoons? Celebrities? Politicians? Military leaders? The popular kid in school? No. Seen from heaven, all these holders of worldly status are puny compared to the one who chooses to humble himself and serve his neighbor. The Cross is the only road that leads to eternal life. The one who travels that road turns away from what the world says is important, and turns toward the joy of grace.

小さな道


イエスが座り、十二人を呼び寄せて言われた。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」(マルコ9:35)

この世による「価値あるもの」の概念を真っ向から否定するのは、キリストの十字架。偉い人はだれか。政治家?軍事的指導者?大金持ち?セレブ?優等生?オフィスの人気者?違う。天から見れば、これらの「ステータスの高い」人たちは、自分を低くして周りの人に仕える者と比べたら、取るに足りない人物ばかり。永遠の命に至る道は十字架しかない。この道を歩む人は、世の中では重要だと言われていることを無視して、恵みの喜びへと目を向け直すのである。

2012年8月24日金曜日

Human beings are hard-wired to worship, even if they don't worship God.

That's why you can find imitation worship all over the place. Crowds of people straining to get a glimpse, maybe even touch the clothes, of a movie star. A room packed full of sweaty young "otaku" geeks doing para-para dancing with anime voice-actresses in Akihabara. Live shows and rock concerts. Three-month booked up tours of the Sky Tree. The Electric Parade at Disneyland.

These things are human approximations of real worship. They try to satisfy man's longing to worship something greater than himself, something from which he derives his existence and the meaning of his existence.

But in all these cases, the object of the worship is not God. And so there is no genuine encounter with Life involved. The glow of worship fades, the emotional high dies away, and no heart is changed.

The object of real worship is God. And to encounter God is to be changed forever.

2012年8月19日日曜日

賢い者として(エフェソ5:15-20)

聖霊降臨後第12主日(B年)
司祭 ケビン・シーバー
聖路加国際病院聖ルカ礼拝堂
2012年8月19日・10時30分 聖餐式

「愚かな者としてではなく、賢い者として、細かく気を配って歩みなさい。時をよく用いなさい。今は悪い時代なのです。だから、無分別な者とならず、主のみ心が何であるかを悟りなさい。」(エフェソ5:15-17)

聖パウロがこの手紙をエフェソという町に住んでいるクリスチャンのコミュニティ宛てに書いた。つまり、イエス・キリストについての福音に出会い、信じて、洗礼を受けて、救いの恵みをいただいた人たちだった。

だからパウロが目指しているのは、救われる道を案内するのではなくて、救われた者は、どういう生き方をすればいいのか、というのを説明することである。

どういう生活をすべきか。こういうことを定期的に問わなければいけない。なぜかというと、愚かな生活をしている人に四方を囲まれているからである。とんでもないことが当たり前になっている。「今は悪い時代なのです」(エフェソ5:16)

エフェソの社会というのは、人間の「性」について大混乱して、ありとあらゆる形で体の欲を満たそうとする人が大勢いる。不倫も売春も同性愛もはびこっている。

また、ねたみ合う社会になっている。商売が命。貪欲で生きている人が多い。金・物を持つことがその人の価値を定めることである。

全体的にエフェソの社会は下品な社会になっていた。迷っている人が多い。純粋なことが賞賛されないで、嘘付いて、計算して生きる人が大勢いる。

つまり、神がいないかのように日々の生活を送っている人たちの社会である。

こういう環境のただ中に置かれているクリスチャンは、気をつけないと流されて、キリストからどんどん離れていってしまうのである。
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だから、残されている時間をどう用いるか、考えないといけない。明日がある、来月、来年があるかどうか分からない。

さて、世の中の自己本位的な、くだらない、浅い考え方に何となく流されていくのか、それとも神にある命を求めるのか。クリスチャン・人間として、恵みにおいて成長するかどうか。

「だから、無分別な者とならず、主のみ心が何であるかを悟りなさい。」(エフェソ5:17)

「無分別」と訳されているけれども「あほ」というギリシャ語。

賢くなる第一のポイントはこれである:神はわたしたちを応援する方だ。神はわたしたちの味方である、ということを理解することである。

これは言われなければ分からないことである。いくら世の中を見極めても、いくら自分の心を見極めても、こういう結論に至らないであろう。(まれに神秘的な幸福感を覚えることはあるかも知れないけれども、悪い時代では、ということを理解することである。神は存在しないか、関係ないか、むしろ神が人間を敵対しているか、というふうに見なされるがちである。

でも神はわたしたちを応援する味方である。これは示されたことである。聖書の言葉(Ⅱコリント13:11、Ⅰヨハネ4:8など)というよりも、神とその民の関わり全体によってそれが明らかになっている。

何よりもイエス・キリストによってこのことが明確になっていることである。イエスは「神はわたしたちを応援する味方である」ことを身をもって、しかもその正反対のメッセージを常に発信する世の中で明らかに示してくださることである。

悪い時代ではこういうことを常に思い起こさないといけない。神は愛である。わたしたちをトコトン愛してくださる。言い換えると、神はわたしたちの最善を望んでいらっしゃる。

世の中はこうなっているから、わたしたちが最善に至るには、いろいろな犠牲が伴うかもしれない。大変な目に遭ったり、つらい時期を過ごしたりすることもあるかもしれない。銀が精錬されるようにわたしたちも、神の愛にふさわしくない部分が清められなければならないかもしれない。

でもこの長いプロセスの中で神はイエス・キリストはずっとそばにいて、守り導いてくださるのである。

だから、神はわたしたちを応援する味方であり、愛してくださり、わたしたちの最善を望んでいらっしゃる。だからこそ「主のみ心が何であるかを悟る」(エフェソ5:17b)ことが大切である。主のみ心は、わたしたちの本物の喜びの平和につながる道なのである。

主のみ心にそった生活を実践することこそが、恵みにおいて成長する方法である。

主のみ心とは、隠された、謎に包まれたものではない。その基本要綱は、神が啓示なさったこの聖書において概説されているのである。
「聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です。こうして、神に仕える人は、どのような善い業をも行うことができるように、十分に整えられるのです。」(テモテへの手紙二3:16-17)

だから、わたしたちは謙遜になって聖書を拝読すれば、祈りながら「これは神がこのわたしに語りかけているみ言葉だ」という姿勢をとって読めば、「主のみ心が何であるか」ということが見えてくるのである。
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「酒に酔いしれてはなりません。それは身を持ち崩すもとです」(エフェソ5:18a)

お酒を飲みすぎるということは、エフェソ社会では一つ大きな問題になっていたようである。聖公会の信徒の間でも問題になっていたりしている!と、昨日、お店で2本の赤ワインを買った僕が自分自身に言い聞かせている!

聖書は「お酒を飲むな」とは言っていない。イエスご自身が「大酒飲み」と非難されたぐらいお酒を楽しんでいた。飲むのは大丈夫。酔っ払うことは良くないと言われている。

アルコールの乱用や大量飲酒はもちろん一つの問題。アメリカでは「飲み過ぎ」とされているのは、男性の場合は一日2杯を超えること、女性の場合は一杯を超えることだそうである。

酔っ払うことは体や人間関係に悪い影響を与える。さまざまな抑制をを弱めてしまう、と大学4年間の経験でこの僕は証言できる。

でも「酒に酔いしれてはならない」という戒めのもっと深い意味は、お酒とかを使って自分の心を麻痺してはいけない。分別して、細かく気を配って歩み、時をよく用いて、主のみ心が何であるかを考えないと流されてしまうから、精神を覚醒しないといけない。

判断しないで、ただ悪い時代の流れにそのまま乗ってしまう人生はもったいない。
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「むしろ、霊に満たされなさい」(エフェソ5:18b)
この短い文章にはクリスチャンライフ全体がかかっている。ギリシャ語を直訳すると「霊に満たされ続けなさい」となる。毎日、一瞬一瞬聖霊に満たされて生きることがイエスに従う人生の秘訣である。

聖霊に満たされるというのは、どいうことか。神は、ご自分の命と力にあずからせてくださる。その結果は、お酒がもたらす幸福感よりはるかに大きな喜びをもたらすのである。神が身近にいらっしゃることをより実感する。そのみ心に寄り添う知恵と力が得られる。そして神に対する愛、周りに対する愛がわたしたちの心に注がれるのである(ローマ5:5)

お酒や携帯メールやフェースブックを求める以上にわたしたちは聖霊を求めるべきである。
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「むしろ、霊に満たされ、詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさい。そして、いつも、あらゆることについて、わたしたちの主イエス・キリストの名により、父である神に感謝しなさい」(エフェソ5:18b-20)

最後にパウロが神への感謝と賛美の大切さを教えている。感謝と賛美はクリスチャンライフの縦糸と横糸になるはずである。

チャプレンとしていろんな人と出会って話を聞くけれども、ネガティブなことにしか目を向けない人が意外と多い。人生をマイナス思考で考えてしまうと、心も体も引きずり降ろされてしまう。

人生では大変なことは山ほどある。つらい目に遭うこともある。自分の思うようにうまくいかないこともしばしばある。

けれども、その中でも神の絶えない恵みがきっとあるはず。まだ生かされている。まだ他人とのつながりがある。まだ違う将来を想像することができる。まだ祈れる。まだせみの声が聞こえる。花の香りがかぐことができる。夕焼けを見ることができる。

わたしたちクリスチャンは、感謝の達人にならなければならない。だれよりも感謝できることを見出して、呼吸すると同じぐらい「ありがとう」を人に対して、神に対して言えるようにならなければならない。これは聖書が命じることである。

この聖餐式は、感謝と賛美の祭りである。今日も、わたしたちを応援する味方である神に心から感謝と賛美を捧げたいと思う。