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2013年1月30日水曜日

"yes" and everything else

The response to God's offer of forgiveness, mercy, and love in Christ is not something we get to make up as we see fit. It's like when someone proposes marriage. There's "Yes" and there's everything else, which is "not Yes". In Christ, God both proposes and promises love--engagement and wedding combined. The "Yes" is clearly defined in Scripture: faith (complete trust in Jesus Christ), repentence, baptism, and the intention, with God's help, to live a life of obedience (or at least try one's level best). That's it. Anything else is "not Yes". That means a "decision for Christ" is, biblically speaking, not yet a "Yes"--find some water somewhere, finish what you started! Much less is something along the lines of "I'm so thankful for the love God has shown me, and I will try never to forget this feeling of gratitude." That's a "not Yes." You're flattered, but your Suitor is still on His knees, waiting.

「はい」と「はいではない」

キリストにあって提案されている神の赦し、憐れみ、慈しみへの応答は、わたしたちが好きなように考えられ得るものではない。結婚のプロポーズに似ている。プロポーズに「はい」か、それ以外「はいではない」か、どちらかである。神はキリストにあって愛を提案し、愛を約束なさる――婚約と結婚が一緒になっている感じ。それに対する「はい」は、聖書によって明らかになっている。すなわち、信仰(キリストへの全きの信頼)、悔い改め、洗礼、そして、神の助けによって、一生神に従う意図(少なくとも、神に従うように励む意図)。それだけである。それ以外のことは「はいではない」ことになる。だから「信仰の決断」は聖書的に言うとまだ「はい」にはなっていない。どこか水があるところに行って、始まったことを最後までやりなさい!まして「神が示してくださった愛に感謝している。このありがたさを忘れないでいこう」というような返事は、「はい」にはならない。あなたはうれしく思うかも知れないけれど、求愛する方はまだあなたの前でひざまずいて、待っておられる。

2012年12月5日水曜日

飲み屋で賛美


『明るい窓』(病院職員ニュースレター)11月号
チャプレンからのメッセージ


先月、出張でニューヨークに行ってきた。ミーティングや見学が全部終わって、日曜日の夕べはフリーになった。今回は、マンハッタンではなくて、あえて庶民的な地域であるブルックリンを拠点にした。

翌朝の飛行機もあるので、一晩だけ独身になるチャプレンはどのように時間を過ごすか。それはもちろん、バーに行ったのだ。

事前に調べてあった「The Trash Bar」というお店だったが、夕方6時ちょっと前に着いたら、想像以上に名前にふさわしく、山ほどのごみ袋はお店の真ん前に置かれ、玄関は落書きだらけで、床には何年分のこぼされたビールの跡が残っている。

薄暗くて狭いお店の中に入ると、「こんばんは。奥の部屋へどうぞ」と女性バーテンに案内される。


奥へと進むと、小さいライブハウスの空間になっている。ステージの前に種類バラバラの椅子が置かれている。バンドメンバーが音響チェックを始めている。

端っこの場所で座って、礼拝が始まるのを待つことにした。

そうだ。このお店は、毎週日曜日の夕方だけ貸切状態になって、教会がここに集うのだ。Church@Trashと名付けられ、自分たちの建物を待たないでこういった形で教会をやるという話を知って、興味を持って足を運んだわけだ。

どんどん人が集まる。僕と同じ年代あるいはもっと若い人がほとんどで、およそ20人ぐらいが集まって来た。とても暖かい雰囲気になり、僕にも何人かが声をかけてくれる。日本から来たと知られると、8年間東京で勤めていた女性に紹介していただき、アメリカ人同士でもしばらく日本語で会話をする。

いよいよ礼拝が始まる。4人のロックバンドの伴奏で聞いたことがない讃美歌(ロック風)を歌ったり、お知らせがあったり、聖書も朗読される。全部パワーポイントで映っているから、ずっと手ぶらでいられる。

そしてメッセージがある。説教者だけが僕より年上。と言っても、50代であろう。牧師と言っていいか分からないが、普通の恰好して、話し方も強いブルックリンなまりながら会話のような話し方をする。飾り気のない牧師。

しかも話はとても印象的で、自らの人生についてぶちあけた内容だった。少年の頃、両親の離婚がきっかけで深い悲しみと自己嫌悪に突き落とされた。高校生の時から始まって20年以上、薬物中毒のとりこになっていた、と言う。

そういういわゆる生き地獄からやっと抜け出せたのは、ある教会のコミュニティとの出会いのおかげだったと言う。その暖かいコミュニティを通して、初めて神の愛に気づかされ、少しずつ深く病んでいた心が癒されていった、と。

このChurch@Trashも、いろんな人を迎え入れることができる、暖かい癒しのコミュニティでありたい、というメッセージだった。

十分そうなっているのではないか、と帰り道に僕は思ったのである。イエスが来られたら、飲み屋で集う教会にはまったく違和感を覚えられないだろうとも思った。「大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ」(ルカによる福音書7:34)と非難されたイエスは、むしろそのようなコミュニティに親近感を覚え、神の慈愛に出会い得る人はこういうところにこそ集まるのだ、ということがお分かりになるだろうと思った。

聖公会とはまったく違う形式の教会でも、同じ兄弟姉妹で、同じ神の癒しの恵みを願っている者であることに感謝しつつ、刺激を受けてチャプレンとしての働きについて、またこの病院が真の癒しのコミュニティになれるように自分が何ができるかについて、いろいろ考えさせられたことにも感謝している次第である。

2012年9月28日金曜日

自分に手術を?

「もし片方の手があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両手がそろったまま地獄の消えない火の中に落ちるよりは、片手になっても命にあずかる方がよい。」(マルコ9:43
イエスがエルサレムとご自分の死に近づくと、緊迫感が高まり話し方がどんどん衝撃的になるようである。ここでは、文字通りに自傷行為を進めておらるわけではなくて、態度、悪い習慣、誤った信念、間違った選択、引きずる罪悪感、罪深い過去などわたしたちの中にあるあらゆるものは、神に近寄り、その与えようとしておられる豊かな命をいただくことを妨げているのだ、ということである。主であり救い主であるイエスは、これらのことからわたしたちを解放してくださる。が、彼を求めなければならないのである。

autosurgery?

"If your hand causes you to stumble, cut it off. It is better for you to enter life maimed than with two hands to go into hell, where the fire never goes out." (Mark 9:43)
As Jesus draws closer to Jerusalem and his own death, he grows more urgent and his language grows more dramatic. His point is not that we should literally attempt surgery on ourselves, but that there are things within us—attitudes, habits, mistaken beliefs, wrong choices, guilty consciences, a sinful past—which keep us from drawing near to God and to the abundant life God wants us to have. As Lord and Savior, Jesus can free us from these things. But only if we invite Him to.

2012年7月22日日曜日

近い者となったのである(エフェソ2:11-21)

聖霊降臨後第8主日(B年)
聖路加国際病院聖ルカ礼拝堂
2012年7月22日・10時30分 聖餐式・洗礼式


今日、これから洗礼式が行われることは、非常に嬉しく思う。さらに、洗礼式が行われる日に、今日のエフェソの信徒への手紙が読まれることになっているのも、心から神に感謝したいことである。神の計画としか思えない「偶然」だと思う。

僕のワイフのお父さんの本家は福島県の相馬市にある。海(松川浦)のすぐそばにある。

今まで、お盆休みに何回も訪問してきた。本家は古い長屋で、すべての障子を全開するとずっと広がる空間になる。真夏の風通しがいい。

来日した外人として初めてこの国の国民に受け入れてもらえていると実感したのは相馬でのこと。訪問すると初日、みんな何を言っているか全く理解できない。福島弁が強くて(ヒラメ→ヒラミ)。だけど、そのうち耳も慣れ、みんなと溶け込んで、楽しく過ごすのである。

夕方になると、親戚大勢が集まって夕食をする。女性たちは台所でせっせと働いて、男性は居間でせっせと焼酎を飲む(CCLemon割で)。そして順番にお風呂に入って、寝る。

本当に家族の一員として認められていると感じたのは、お風呂上りのおばあさんが堂々とズボンだけで僕もいるところに座って髪にブラシをかけ始めたときである。

残念ながら、3・11のときに家はかなりダメージを受けて、海辺も不安なので、本家はもはや存在しない。(グーグルマップで見たら空き地となっている。)
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本家がない。まさにこの世におけるわたしたちの悲しい状態である。キリストなしでは。

これがパウロが言っていることである。この世では、わたしたち人間は本当の本家がない、ということ。さらに正確な表現をすれば、アダムとエバの罪のせいで園にいられなくなってしまったと同じように、わたしたち人間の罪によって神の平安に留まることができない状態にあるのだ、ということ。

パウロはエフェソという町(現在のトルコの西海岸にある)に住んでいるクリスチャンにこの手紙を書いている。イエスをメシアとして受け入れたユダヤ人もいるかも知れないけれど、異邦人(ユダヤ人でない人)の方が多いコミュニティである。

(初期教会では、異邦人がクリスチャンに改宗するとき、男性が割礼を受けるべきかどうかという論争があった。モーセのときから、割礼が神の民に属しているというユダヤ人にとって最も重要なしるしなのである。熱心なユダヤ人としてモーセの律法をきちんと守るべきだと強く思っていたパウロは、イエスに出会ってから心ががらっと変わり、割礼ではなくてむしろ洗礼が神の民に属しているしるしとなる立場を取った。)

とにかく、パウロはエフェソの兄弟姉妹にこの手紙を書いているのは、救われている喜びを思い起こしてもらうためである。以前に彼らが置かれていた状態と今の状態を比較したいのである。つまりBeforeとAfterの話をしている。

Beforeは本当に悲惨な状況だった。今日の箇所のちょっと前を読むと:
皆さん、以前は自分の過ちと罪のために死んでいたのです。この世を支配する[悪の力、神に反抗することをそそのかす悪の霊]に従い、過ちと罪を犯して歩んでいました。わたしたちも皆...以前は肉の欲望の赴くままに生活し、肉や心の欲するままに行動していたのであり、ほかの人々と同じように、生まれながら神の怒りを受けるべき者でした。」(エフェソ2:1-3)

生々しい言葉になっているけれど、実はごく日常的なことを話している。神のことや周りの人のことも考えず、自分のことばかりを考える、自己本位的な生活をする人たちの話である。都合のいいうそをついたり、ささいなことへのしっとに満ちた心を持ったりする。つまらないことで怒り出す。また、結果をあまり考えずに、とりあえず欲しいものを手に入れる人。自分が満足すればいいと思う人。

つまり、あなたたちは神がいないかのように生きる、神に対して、神が造ってくださった世界や他人に対して何の責任も持たないメンタリティーを持っていた、とパウロが言っているわけ。しかも、それが当たり前のことだと思っていたわけ。

でもそういう生き方は最終的にむなしいということを悟っただろう、と言っている。自分のために生きる人はすでに死んでいる人。欲を満たしても、時たま満足感を味わっても、あまり中身のない楽しみがあっても、真の喜びも平和もない。天国への望みの持てない。
そのころ[あなたたち]は、キリストとかかわりなく、イスラエルの民に属さず、約束を含む契約と関係なく、この世の中で希望を持たず、神を知らずに生きていました(エフェソ2:12)

しかも、自分のために生きる人は、つまり罪深い人間は、神の愛の中に居場所がない、と言っている。神から「遠く離れている」(17節)状態にある。神の国から見ると外人になっている(19節)。神の存在を怒りの存在として感じ取ることしかできない。
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ところが、そういう悲惨な状態にある人のためにこそ、み子イエス・キリストが遣わされたのである。神はご自分を敵対している人間を友達にしたいのである。一人一人の人間は神にとって愛しい存在なのである。

パウロは2章の5-6節にはこう書いている:
神は、罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かして...キリスト・イエスによって共に復活させてくださいました。(エフェソ2:5-6)

これこそ洗礼の正体。死んでいた人が復活させられるのである。だから:
「あなたがたは、以前は遠く離れていたが、今や、キリスト・イエスにおいて、キリストの血によって近い者となったのです」(エフェソ2:13)
また:
「十字架[の自己犠牲]を通して、キリストはユダヤ人も異邦人も一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました(=無くした)」(エフェソ2:16)

ユダヤ人でも、異邦人でも、日本人でも、アメリカ人でも、中国人でも、男性でも女性でも、金持ちでも貧しい人でも、洗礼を50年前に受けた人でも、今日受ける人でも、十字架の前でひざまずいたらみんな平等である。上下関係はない。イエスのおかげで:
「一つの霊に結ばれて、御父に近づくことができるのです」(エフェソ2:18)

大胆に天の父のもとに近づくことができるのである。イエスのおかげでみんなが「聖なる民に属する者、神の家族である」(エフェソ2:19)
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では、このBeforeの状態からAfterの状態に移るにはどうすればいいだろうか。パウロは2章8-9節に:
「事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。行いによるのではありません」(エフェソ2:8-9)
と書いている。

つまり、キリストご自身がわたしたちのために成し遂げてくださったことをただ受け入れるだけである。すごく頑張れば、悪い癖を直せば、心の疑問をすべて撃ち殺せば――そういう話ではなしに、「恵みにより、信仰によって救われる」のである。

「実に、キリストはわたしたちの平和であります」(エフェソ2:14)
ここに出て来る「平和」はシャロムというヘブライ語に当たる(ギリシャ語はエイレネ)。「争いのない状態」という意味ではない。喜びに満ちた、揺るぎない心の安らぎのある、欠けるところのない、完全の幸福の状態を表すとても奥深い言葉である。

神が望んでいらっしゃるシャロムは、キリストのうちにある。キリスト以外にどこにもない。キリストのうちに差し伸べられている。それをただいただければいいわけ。

さて、わが平和であるキリストをいただいた、洗礼によってキリストと結ばれた人たちはどう生きればいいのか。わたしたちは一つの本家になる、大きな大きな長屋に暮らす神の家族なので、その家族のメンバーとしてどういうふうにやっていけばいいだろう。

まず、その本家の土台は聖書のみ言葉であることを常に心に留めておくべきだろう。
「使徒や預言者という土台の上に建てられています。そのかなめ石はキリスト・イエスご自身である」(エフェソ2:20)。

つまり、新約聖書(=使徒)と旧約聖書(預言者)全体が、神の生きたみ言葉としてわたしたちの生活の道しるべ、生きる基準となるのである。み言葉にに慣れ親しもう。

そして、古い自分、この世の中で希望を持たず、神を知らずに生きていた自分を死なせて、新しい自分、キリストと親しく歩む自分を迎えていくのである。

古い自分を死なせて、新しい自分を迎える。これは洗礼式で決定的に起こることではあるが、その後、日に日に自分で、そして毎週毎週この聖なる食卓を共に囲む人たちとして、仲間として、家族として繰り返して、どんどん深めていくことでもある。

実に、キリストはわたしたちの平和である。神がいないかのように生活をするのではなく、キリストにある平和と祝福と豊かな命を味わいながら共に生きようではないか。

2012年4月15日日曜日

there's a reason why you're here (1 John 4:7-21)

Talk at Evening Prayer
St. Luke's College of Nursing Orientation
New Hall, Seisenryo, Kiyosato, Yamanashi


As a hospital chaplain, I spend lots of time talking with patients. Well, listening, mostly.

Doctors, nurses and other medical professionals usually deal with the questions "what" and "how". They try to diagnose "what is the problem with this patient"? And they consider "how can we provide her with the best care"?

But a lot of what a chaplain does is deal with the question, "Why?" Why did I get sick? Why did this happen to me now? Or, more basically, Why was I born? Why am I living?

So tonight, I want to think briefly about this question: Why are you here? Why have you come to study at St. Luke's College of Nursing?

Well, almost all of you would probably answer "to become a nurse." Still, why did you decide you wanted to be a nurse?

In the group work, you have talked about the occasion for your entering St. Luke's College of Nursing. But I want to make a bold statement. You may not believe me, and that's okay. But I think the idea of becoming a nurse, of coming to study at this school, did not actually originate with you.

I'll probably get in trouble for saying this, but the meaning of life is not something we create, but rather something we discover. The meaning of life is given to us. Likewise, I belive the occasion for your entering this school was also given to you.

No one bestows life upon himself. No one in this room sat around trying to decide when, in what country, to what family they would be born. Life is given to us from outside ourselves.

And along with life, I believe, we are each given a destiny, a mission. It comes from outside ourselves. To each of us is given a call to which we must respond if we are to be truly happy.

This kind of talk is pretty much rank heresy in the modern world. We moderns tend to want to believe everything is relative. I have "my" truth, you have "your" truth, and both are equally valid. I can make it up as I go along.

And we believe we can invent and reinvent ourselves, that it's up to us to determine the path of our lives. We each get to decide what the meaning of life is.

We may wish this all were true, but things simply don't work like that. No matter how much he may wish to be, a man cannot become his own Creator.

Certainly, we can change and grow, and we should try to change and grow. The goal of all study is to change the student. Any study that doesn't change you is meaningless and a waste of time.

But changing and growing, too, is part of the destiny we have been given. It is part of the call to which we are expected to respond.

The path of life is not something we make up. It is something we discover and accept.

Moreover, this is something to be very thankful for. Because to discover and accept the path we are to walk in life is to discover real freedom. To respond to the call placed upon our lives is to discover deep joy. And that is because the One who calls us is Love. "God is love," it says in the Letter of St. John " (4:16).

The Letter also says: "We love, because God first loved us" (4:19).

And that is the real reason each one of you is here. It's the same reason for us all: Our destiny is to respond in love to God's love.

Of course, how you respond, what shape that response takes, will differ from person to person. There are many ways of responding. That, too, is God's desire.

You each have different gifts, backgrounds, passions, different encounters. Your own unique experiences have shaped you and prepared you for this moment.

And what you experience here and whom you encounter at St. Luke's will further shape you and determine how exactly you respond to your call. Your time here will help you explore the contours of the destiny you have been given.

But at heart, all our destinies are the same: Together, and individually, our lives are meant to be a response to the love of God who made us. We are all called into the service of Love.

You are here for a reason. Knowingly or not, you have already begun to respond to the call. My fervent prayer is that you'll be able to taste the joy of knowing that God who is Love has chosen you and called you to share in His work of healing the world.

あなたがここにいるのは、わけあり(Ⅰヨハネ4:7-21)

夕の礼拝 聖路加看護大学オリエンテーションセミナー
清里『清泉寮』新館ホール


病院で働く牧師・司祭として、患者さんと話す機会が多い。話すというよりも、話を聞くことが多い。

医師や看護師などの医療者は、いつも二つの質問に取り組んでいる:
What(何であるか)とHow(どうやって)。

つまり、この患者さんの疾患は何であるか、診断する。そしてどうやってその病気を治せるか、どうやって患者さんのケアができるか。WhatとHow。

でもチャプレンは、よくWhy(何で・なぜ)という質問に付き添っている。何でわたしがこの病気になったのか。なぜ今こんな大変な眼に遭わなくてはならないか。もっと根本的なところで、なぜわたしは生れたのか。何で今生きているのか。Why。

だから、今夜は、皆さんと簡単に一つの質問について考えたい。それは、Why are you here?何であなたがここにいるのか。何で聖路加看護大学で勉強をしに来たのか。

「看護師になるためだ」と答える人は殆どでしょう。ある意味でその通りだと思う。でも、何で看護師になりたいと思ったのか。皆さんは、グループワークで「入学のきっかけ」についてすでに話し合っている(準備が終わっているでしょうか)。

でもわたしは、一つ大胆なことを言いたいと思う。信じてもらえないかもしれないけど、それでも大丈夫。でも、こういうことである看護師になりたいと思うようになったこと、そして聖路加看護大学でそのための勉強をしたいと思うようになったことは、最終的には皆さんに端をしている思いではない、ということである。

言ったら厄介なことになるかもしれないけれども、人生の意味は作り出すことではなくて、見出すことである。与えられていることである。同じように、皆さんの聖路加看護大学入学のきっかけも与えられたことだと思う。

自分にこの世に生を受けさせる人は誰もいない。いつ、どこの国、どういう家族に生れようか、と自分で決めた人はここに一人もいない。命は、自分を越えたところから授かっているものである。

そして命とともに、わたしたち一人一人に、運命、使命が与えられている、とわたしは信じている。一人一人が実は呼びかけられている。そして幸せになるには、その呼びかけに応えらなければならないのである。

現代世界ではこのような話が大それた異説になる。現代人であるわたしたちは、すべてを相対化しようとするから。「わたしにとっての真実」があって、「あなたにとっての真実」もあって、いずれも同じように妥当である、と。

しかもこの「わたしにとっての真実」を好きなだけ変えることができるのだ、と。都合のいい話だね。自分自身を作り変えることもできるのだ、と。人生の道を自分で決めることもできるのだ、と。人生の意味は自分で決めるのだ、と。

そうではありたいけれども、そういうわけには行かないのである。本当は違うのだから。

もちろん、変わって成長していくことができる。むしろ、成長していかなければならない。すべての勉強の目的は、勉強する人を変えることである。自分を変えない勉強は無意味であって、時間の無駄遣いである。

でも変わって成長していくことも、わたしたちの与えられた使命の中に含まれていると思う。わたしたちは成長していくようにも呼びかけられているのである。

人生の道は、自分勝手に決めるのではなくて、それを見出して、受け入れるものである。

でも、結局これはとてもありがたい話である。なぜかというと、自分の歩むべき道を見出して、それを受け入れることには、本当の自由がある、本当の幸せにつながることなのである。

自分自身への呼びかけに応えることには、深い喜びがある。

それは、呼びかけてくださっているのは、愛なのである。「神は愛です」とヨハネの手紙で書かれている(4:16)。

また、この手紙にはこういうことが書いている:
「わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです」と(4:19)。

わたしたちが気づく前から、神にトコトン愛されているというのが、教会の確信しているところです。

ありのままのわたしが愛されているのです。ありのままのわたしです。そして、愛されているわたしが、今度その愛に応えるように呼びかけられているのだ、と。

結局、皆さんが今、ここにいらっしゃる理由はまさにそこにある。わたしたちみんなの運命は、愛をもっと神の愛に応えることなのである。

もちろん、どういうふうに応えるのか、その応えの形は、人によって異なる。さまざまな応え方がある。それも神の望みである。皆さんはそれぞれ違う賜物、違う背景、違うパッションをもって、違う出会いに恵まれてきたのである。

一人一人のユニークな経験によって、今、このときのために、皆さんが整えられてきたのである。そして、聖路加においても、さまざまな経験や出会いによって、さらに養われて、変えられて、成長させられて、これからの応え方が形成されていくのである。聖路加での3年間ないし4年間は、自分ならではの歩むべき道を探検する期間でもあると思う。

でも最終的に、わたしたちの運命は同じである。すなわち、個々人として、そして仲間として、わたしたちの人生は、わたしたちを造ってくださった神の愛に応えるためにある、ということである。

看護師として、その愛に仕えるために皆さんが召されているのである。だから、皆さんは、わけがあってここにいるのだと思う。

それに気づいていらっしゃるかどうか分からないけれども、あるいは漠然としてしか気づいていないかもしれないけれども、皆さんはすでにその呼びかけに実は応え始めていらっしゃる。

わたしが心から祈っているのは、愛である神があなたを選び、深く病んでいる世の中のいやしの働きに呼んでくださっていることに気づく喜びを味わえることである。

2012年3月18日日曜日

天上の生活を地上にするマニュアル(出エジプト記20:1-11、ローマ7:13-25)

大斎節第3主日(B年)
聖路加国際病院聖ルカ礼拝堂
2012年3月11日・10時30分 聖餐式


この出エジプト記20:1-17ほど人類の文明に大きな影響を与えた文献は他にない、と言っても過言にならないと思います。日本をはじめ現代社会では法律、道徳倫理、人権、憲法など、多かれ少なかれこの十戒に由来しないものは殆どないのです。

古代のさまざまな法律を見ると、殆ど条件付のものです。「もしああういうことをしたら、こういうことになる」。イスラエルの律法だけが違います。絶対的原則になっています。「あってはならない。造ってはならない。してはならない。」普遍的な道徳原理を現しているのです。どの結果がもたらされるかではなくて、これが正しいから守るべきだ、ということ。

十戒は、ある意味で神の心の姿を見るための窓です。要は神が、人殺し、不倫、強盗などが正しくないと思っていらっしゃる方です。逆に言いますと、神は人間が尊い存在だと、人間は互いを尊敬して、思いやりをもって関わり合うべきだと思っていらっしゃる方だ、ということです。

ユダヤ人はこの(十戒が中心となっている)律法が神に授けられた宝物だと思って、これに非常に喜んでいました。今日の詩編にもそれが出ています(詩篇19:7-10):
主の教えは完全で、魂を生き返らせ∥主の諭しは変わらず、心に知恵を与える
主の定めは正しく、心を喜ばせ∥ 主のみ旨は清く、目を開く
主の言葉は混じりけなくとこしえに続き∥ 主の審きは真実ですべて正しい
金よりもどんな純金よりもすばらしく∥ 蜜よりも、蜂の巣のしたたりよりも甘い
律法は誇りの源泉だったのです。これほど完全で素晴らしいことはどこにもなかったからです。律法がなかったら何が善、何が悪から分からなくなってしまうのです。(現代もそうだと思います。ハリウッド映画とかテレビドラマとかでけを見れば、暴力や不倫がいけないことだと分からないでしょう。)

このユダヤ人の抱いていた喜びをどう理解すればよいでしょうか。ルールに対してこれほど喜ぶというのは、どういうことでしょうか。

一つの例として、もしサッカーを全く知らない子どもたちがサッカーをやりたくてグラウンドに集まっても、ルールが分からないからただすねを蹴り合ったり、団子になったり、ボールを手で広げて走ったりします。必ずそのうちけが人も出るでしょう。血まみれになるかも知れません。必ず泣く子も出ます。結局つまらないと思います。

でもそこで、コーチが来て、笛を吹いて、子どもたちにルールを説明すれば、初めてゲームができます。ルールが分かっているから楽しいでしょう。

でも違う例の方がいいかも知れません。というのは、罪――つまり、律法から離れた行動は――もっと重要な問題だと思うからです。その被害が重いのです。

だから、アフガニスタンのような地雷の多い国をイメージした方がいいかも知れません。アフガニスタンでは、よく野原の真ん中におかれている標識という風景が見られます。それは、「この中を通ったら安全だ」ということです。外に出たら危険だ、と。

神は人間の喜びを望んでいらっしゃる方です。だから、み心のそって生きるというのは、本当の喜びにつながる道です。逆にみ心から離れるというのは、その本来味わうべき喜びを見失ってしまう道を走ることです。

こういう意味で律法というのは、神の愛のしるしでもあると言えましょう。もしわたしは子どもに「ストーブを触っちゃだめ!」と言ったら、それは子どもを愛しているからです。「好きにして」というのは愛ではないのです。子どもを愛しているのであれば、当然、痛みから守りたい。まして大きな愛をもって神はわたしたちを痛みから守りたいでしょう。

だから律法は、最初から終わりまで、愛に包まれています。
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十戒について黙想することは非常に有意義なことです。なぜかというと、十戒の「してはならない」の裏には、たくさんの「すべき」ことが隠れているからです。例えば:
  • 「殺してはならない」には、すべての命、胎内からお墓まで、大事にすべきであるということが含まれています。
  • 「姦淫してはならない」には、自分の妻、夫を尊敬し、何も惜しまずに仕えるべきである、というのも含まれています。
  • 「隣人のものを欲してはならない」には、自分のすでに持っているもので満足すべき、自分に対する、そして隣人に対する主のみ心を喜んで受け入れるべき、また、隣人の幸せをも願うべきであることが含まれています。
こうやってもっと突っ込んで十戒を考えるみると、一つの大きな問題に気づいてきます。それは、わたしたちにはこの十戒すら守ることができない、ということです。十戒が指し示してくれる神のみ心を知っていても、その中に従わせる力が含まれていないわけです。

律法によって神のみ心を知ることができるけれども、それに沿って生きるための助けは、律法にはないのです。

聖パウロがローマの信徒への手紙で言っていることは、こういうことです。わたしたちの「霊」と「肉」が対立していると言うのです。つまり、神に喜んでもらえるような、天にふさわしい生き方をしたい望みと、その正反対の方向に走ってしまう傾向とがぶつかっている、ということです:
「『内なる人』としては神の律法を喜んでいますが、わたしの五体にはもう一つの法則があって心の法則と戦い、わたしを、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのが分かります」(ローマ7:22-23)。

つまり正しいことは何であるか知っているし、それをしたいけれども、どうしてもそれができない。できたとしても続かない、といことです。結果として、わたしたち人間は互いを蹴り合い続ける。火傷し続ける。地雷原をさまよい続ける。

どうしてそんな危ない、望ましくないことをするかというと、惑わされているからです。罪、律法から離れた行動は魅力的に見えることがよくあるのです。少なくとも最初のころ。また、人間は縛られたくない心が強いからです。

あるいは、わたしたちは神よりも幸せにつながることが分かっていると思い込んでいることもあります。一人一人の人と世界全体をお造りになった神よりも分かっているつもりでいるのです。

だから世の中を見回すと、みんな普通にしていても中身は非常に傷ついている人ばかり。心のあざだらけ。火傷だらけ。

こうやって罪に傷ついていくとようやくシニカルになったり、人を信じられなくなったりします。本当の自分を人に見せなくなります。本当の幸せをつかめず、イライラしたり、退屈したり、前向きに考える元気が消えてきます。

そして一瞬でも止まって自分を振り返ってみると、いろんなことのむなしさに飲み込まれそうになってしまう。それが怖いから、仕事や食べ物、テレビ、スマートフォン、ポルノ、お酒などなど、いろんなことを使ってむなしさを感じないようにするのです。

こういう悪循環に陥った自分が、そこから抜け出すために頑張ってもだめです。どうしても喜びの道を取り戻すことができないのです。

何か、カーナビがあってもガソリンがないような状態です。あっちだと分かっていてもあっちにいけないのです。
「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか」(ローマ7:24)。自分の力・頑張りで抜け出すことのできないこの悪循環から解放してくださるのは誰ですか。

パウロはその答えをも教えてくれます:
「わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします」(ローマ7:25)。わたしたちがまだ迷っているとき、まだ罪に絡み付いているとき、まだ生きる苦痛をただ和らげるだけで精一杯のときに、イエスがおいでくださるのです。

「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である」(出エジプト記20:2)。神は、わたしたちがそのみ心に従っているかどうか、いい子にしているかどうか、見てからではなくて、その前にわたしたちを救ってくださるのです。愛しておられるからです。まず神がわたしたちを救ってくださいます。そしてそれから、よりいい人になるための意思と知恵と力を付けてくださるのです。

「実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、神の道から外れている者のために死んでくださった」(ローマ5:6)

イエス・キリストはその聖霊を通して、律法にそって生きるための意思、知恵、力をわたしたちに付けてくださるのです。それは、救いに値するためではありません。救いはすでに、単なる恵みとしてわたしたちに与えられています。救ってもらえるためではなくて、天の喜びを今でも少しずつ味わえるためです。

そういう天の喜びを味わっている人たちこそ、深く病んでいる世界のただ中で、神の愛の国を築き上げることができるのです。

2012年3月7日水曜日

何かをやめる

「夕の祈り」オルガンコンサート
聖路加国際病院 聖ルカ礼拝堂

今、教会の暦で大斎節中。大斎節とは、2月の半ば(灰の水曜日)で始まり、イースター(復活祭)前の40日間。

これはより一層自分を振り返ったり、見詰めなおしたり、聖書を読んだり、祈ったりする時期です。

やや地味で、ちょっと緊張感のある時期です。受験前の2ヶ月間に似ているかもしれません。日曜日以外、この時期にお祝いをあまりしません。結婚式も原則として行わないのです。

何で40日間というと、聖書によれば、イエス・キリストがその働きを始める前に、40日間荒れ野で断食された。(40は、聖書暗号では「長い間」という意味)

まあ、そこまでするのは、普通の人にとって難しいと思います。

実は、大学で試として1週間断食した...全く宗教上の理由ではなかった。(大学生にるまでに、教会を卒業したつもりでいた。)ただ、一週間何も食べないでいけるのかな?どういうことが起こるか...好奇心があったのです。

何が起こったかというと...お腹がすいたのです!(笑)

でもそれは最初の2-3日。その後、空腹感がない。しかも、集中しやすくなります。気分がすっきりします。不思議でした。

大学で試したことの中で白状できるのはこれぐらいですけれども...(笑)

とにかく、長い間断食することは、普通は難しい。だから教会ではもっと小さいスケールで、大斎節中「何かをやめる」という習慣が昔からあります。

この「やめる」ことは、もちろん好きなことでないといけないのですね。だから、わたしが「40日間納豆を食べない!」と言ってもあまり意味がないのです。そもそも納豆が嫌いですから。
でも逆にお酒になりますと、相当きつい!(いつか、勇気を出してコーヒーをやめるように頑張りたい...考えるだけで禁断症状が出そうです!)

でも、どうして「何かをやめる」という変なことをするのでしょうか。だってそれは、現代社会と全く正反対なことになってしまいます。世の中では、もっと買い物する、もっと消費する、もっとモノを持つ流れになっています。いろんなことを満喫して、いろんなことを経験して、いろんな楽しみを得ることが美徳になっています。

だからこそ、こういう変な習慣は大事だと思います。現代社会の「もっともっと」主義の中で、何かをやめる、より少ないもので間に合わせることによって、すでにあるものへのありがたさをよみがえらせることができるからです。贅沢な暮らしを当然だと思ってもっと欲求するのではなくて、今すでにある恵みにもう少し満足できるような訓練だと思います。

(「そんなに贅沢な暮らしはしていない」と思っている方はいらっしゃいましたら、一週間だけスーダンとかインドとか中央アメリカで生活してみると、間違いなく見る目が変わります。日本に住んでいるわたしたちは、どう考えても贅沢な暮らしをしているからです。)

だから、「何かをやめる」ことによって、すでにあるものへの感謝の気持ちを改めることに役立つのだと思います。そして、わたしたちは世界の大多数の人よりも物質的に恵まれていることを改めて気づくことにもつながります。

でも教会では、「何かをやめる」ことにもう一つの理由があると思っています。それは、自分に対して欲求が持っている力を打ち破る効果があるからです。何かをやめるとき、良く気づくのは、もしかして初めて気づくのは、いかにそのものを頼りにしていることか、ということです。

わたしが断食をすると食べ物ばかりを考えてしまいます。少なくとも最初のころ。甘いものをやめると、オフィスにあるチョコレートの箱を一日20回ぐらい見詰めている自分がいます。

お酒をやめると、毎晩帰り道、肩の上に悪魔がしっかり座ってそそのかします:「今日は大変だっただろう。ビール一杯はどう?リラックスできるよ。当然のご褒美よ!」

要は、何かをやめると、そのものへの欲求が生意気な子どものようになってきます。注目されたい。満足させてもらいたい。ちょうだい!ちょうだい!ちょうだい!

皆さんは分かりませんが、わたしは自分の欲求に左右されていると思うといやです。何をどうするか、どういう生活をするか、わたしが欲求に強いられるのではなく、自由に決めたいのです。

まあ、そういうわけで、大斎節中、さまざまな欲求の出すぎをたしなめる修行として、「何かをやめる」という習慣が昔からあります。

こういう話をするとどんどんお腹がついてきます。だから、お話はこれで終わりにしたいと思います!

2012年2月29日水曜日

diocesan news blues

Each week, the fax machine spits out another one-page bulletin called the "Diocesan News."

Copies of the weekly diocesan bulletin used to be mailed out. It was a few pages long, with articles from various contributors around the diocese. But since the Diocese is scraping the bottom of the cash barrel these days, this exciting new low-cost format was adopted. Each church can make its own copies (or even just post one copy in the parish hall, to save on toner cost.)

The one-page bulletin has information on the goings on around the diocese. There are concerts, gatherings to raise awareness about various social issues, study groups about various social issues, peace rallies, committee meetings, and the names of people who died this week.

It's kind of depressing.

I guess what bothers me most about the Diocesan News is what's NOT on it: i.e. means of grace.

Free music concerts are a good thing, sure. And, to be fair, in the midst of all the peace and social justice gatherings that the same fifty people all go to, and the committee meetings that I am extremely grateful not to be part of, there is the occasional offering of a retreat day or prayer gathering. That's a step in the right direction.

But, if I'm an ordinary baptised believer, or mostly a believer, sort of, at least on my good days, what help is there for me to, you know, actually grow in my faith? Not to grow in my awareness of all the ways the world is screwed up by the Evil Establishment (you know, Them). Not to grow in my hopelessness that an already tiny and struggling diocese is shrinking as funerals surpass baptisms week after week after week.

To grow in my faith. To learn how to follow Jesus better than I am now.

Is there any place I can go to encounter the Word of God, living and active? Is there anything that will lead me to an encounter with God? Is there any remedy available for my sin-sick soul? Is there any guide who can help me try to stay faithful in the confusing muddle of work and school and daily life in a pagan world?

In other words, what's out there that will tear down and rebuild my heart? Where can I find training in how to live as a saint?

Because just a handful of saints, just a few hearts that have been deeply grasped by grace and set afire with divine love, will do more to bring justice and healing to Japan than twenty thousand discussion groups.

The problem is not a lack of awareness. The problem is a lack of conversion.

2012年1月31日火曜日

conversion grace #89

One of the things I am most grateful for after my conversion is the recovery of uncynical laughter--one of the many things I had thought lost forever and over which I had grown tired of mourning.

2011年10月18日火曜日

get dressed and come to the party (matt 22:1-14)

(Translated from the Japanese. Translation note: The word "manners" (manaa) in Japanese has a much stronger moral connotation than in contemporary English. To have bad manners is a sin against community, a reflection, not just of poor education but of poor character.)

Seventeenth Sunday after Pentecost (Year A, Proper 23)
St. Luke's International Hospital Chapel
October 9, 2011– 10:30 a.m. Holy Eucharist


I still have a clear memory from when I was a toddler. One night, like usual, my parents put me to sleep in their bedroom, in my baby bed, the kind with fence around it like a jail cell.

I think I must have slept and then woken up, but suddenly I became aware of something that made the blood run cold in my veins. Across the dark room, sitting on my Mom's big chair, was a huge, black gorilla. He must've weighed 300 kg. He was absolutely still, just staring at me.

I thought, "I have to be quiet! If I make a noise, he's gonna get up and come over here…"

I sat in the darkness for what seemed like hours, staring at the gorilla, ready to scream if he moved. I was terrified. Finally, I decided I had to make a break for it…

It took me a while to screw up my courage. Then, I climbed over the fence, jumped to the floor, and ran. I ran like the wind down the hall, turned the corner, dashed into the living room--where I found myself in a brightly lit room full of people, all talking and laughing. A fire was going in the hearth. There was popcorn out. People were drinking wine and egg nog.

It was December 31. My parents were having a New Year's Eve party.

I reported the gorilla to Mom and Dad. They were…skeptical. But I begged them, so we all went back to the bedroom and turned on light. Wouldn't you know it, that clever gorilla had put some shopping bags on the chair and covered it with my father's raincoat to make it LOOK sort of gorilla-like. So, he could make a clean getaway without rousing suspicion.
 (NOTE: The congregation was absolutely silent at this point. No smile or chuckle anywhere. Yikes!)
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So, before, I was in darkness, alone, afraid, paralyzed by fear. I thought I might get hurt or die. I felt trapped, powerless, small.

Then suddenly, I was in the middle of a party. People were happy. I was set free from fear. I even got to eat popcorn and drink root beer!

I suspect that the people who responded to Jesus' call to enter into the Kingdom of God had a similar experience--only a much, much bigger, better experience.

Let us recall that the Kingdom of God is not a place found on a map and it's not somewhere you go after you die. The Kingdom of God is friendship with God, and fellowship with God's friends, here and now. To be in the Kingdom is to be free from the weight of guilt, reconciled to God, and living a common life centered around mutual love and service.

Imagine you're living in Palestine 2,000 years ago. Now imagine you're a hated tax-collector, or a prostitute, or a so-called bad apple, or a loser, or a foreigner.

There are some Jews who seem to have it all together. They obey every last commandment in the Torah, and even all the rules and regulations set up to make sure they never even come close to breaking a commandment. They pray seven times a day, tithe 10% of EVERYTHING, never even so much as carry a fig on the Sabbath, never contaminate themselves with profane things or interact with sinners. They're above all the grime and sin of the world.

But not you. You're right in the thick of it. Maybe it was the family you were born into, or maybe it was bad decisions you made, or maybe somebody wronged you, or maybe you just messed up--but you're a sinner. You know it. Everybody around you knows it.

And one thing seems certain. The Pharisees are in good with God, but sinners can't approach Him. Just as a flaming sword barred Adam and Eve from going back to the garden (Gen 3:24), your sinfulness stands between you and God, blocking your way, keeping you from grace.

As a sinner, you may not even WANT to approach God. After they sinned, Adam and Eve hid from God. Guilt is like a 300 kg gorilla that keeps us cowering in a corner. We know that, as a sinner, to encounter God is to encounter wrath, to encounter judgment.

But then Jesus of Nazareth comes along and says: "Come! Repent and enter the Kingdom. Come and be friends with the Father. His love is a lot bigger than your sinfulness. Repent, receive forgiveness, join the Kingdom party."

Well, would you accept Jesus' invitation?
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In Jesus' day, the ones who refuse the invitation are the ones who seem to have it all together. They think they have a right to enter the Kingdom of God, so they don't need an invitation. I don't need an invitation to sit at my own dining table.

So God's invitation falls on deaf ears. In the parable Jesus tells, the king (=God) even condescends to plead with the invited guests. "Tell those who have been invited that I have prepared my dinner: My oxen and fattened cattle have been butchered, and everything is ready. Come to the wedding banquet" (Matt 22:4).

"But they paid no attention and went off" (Matt 22:5).

But you don't earn your way into the Kingdom. It's strictly by invitation only, and the fastest way to get yourself uninvited is to act like you've got a right to be there. The Pharisees had no time for Jesus--or for John the Baptist either, for that matter--saying "Repent!" They were like: "Repent? Of what?"

"The wedding banquet is ready, but those I invited did not deserve to come," says the Lord.
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So, entering into the Kingdom is by invitation only. But just look at who God invites:
"'Go to the street corners and invite to the banquet anyone you find.' So the servants went out into the streets and gathered all the people they could find, the bad as well as the good, and the wedding hall was filled with guests" (Matt 22:9-10).

The bad as well as the good. Normal people, as well as prostitutes, tax-collectors, sinners, losers, foreigners, and bad apples. "Anyone." Even people like you and me!

There is no minimum requirement for entering the festival of the Kingdom. All you've got to do is accept the invitation.

What that means is: Churches are always going to be full of sinners. A few really good people, a few really awful sorts, and a lot of folks somewhere in between. And if you don't like some of the people sitting here this morning...well, the king is the one who gets to do the inviting.

So, there's no requirement to be saved. And that's what the Kingdom invitation is, isn't it? To come in from the darkness and hopelessness of a life of serving yourself, and to enter friendship with God, and fellowship with God's friends, and a life of serving others in love.

Aside from saying, "Well, okay" to the invitation, there are no other requirements to be saved.

Well, actually, there are requirements, pretty steep ones--and Christ satisfied them all on the cross on our behalf. His blood quenched the fiery sword that barred sinners from grace. His light has conquered the darkness. He has taken away the 300 kg gorilla of guilt.

Thanks to Christ, our encounter with God is no longer an encounter with wrath and judgment, but an encounter with forgiveness and mercy.
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So the requirement for salvation has been fulfilled. Nothing remains for us to do other than accepting the invitation.

There are, however, manners befitting those who've been saved. I want you to stay with me through this last turn: There's absolutely nothing we can do, no work that can earn salvation, earn a place at the banquet table. But there are manners that are expected of the guests.
"But when the king came in to see the guests, he noticed a man there who was not wearing wedding clothes. He asked, ‘How did you get in here without wedding clothes, friend?’ The man was speechless" (Matt 22:11-12).

What exactly are these wedding clothes? I think St. Paul can help us out here:
Kill off everything connected with the life that leads to death: sexual promiscuity, impurity, lust, doing whatever you feel like whenever you feel like it, and grabbing whatever attracts your fancy…It's because of this kind of thing that God is about to explode in anger. It wasn't long ago that you were doing all that stuff and not knowing any better. But you know better now, so make sure it's all gone for good: bad temper, irritability, meanness, profanity, dirty talk. Don't lie to one another. You're done with that old life. It's like a filthy set of ill-fitting clothes you've stripped off and put in the fire. Now you're dressed in a new wardrobe. Every item of your new way of life is custom-made by the Creator, with his label on it. All the old fashions are now obsolete….
  So [since you have been invited by God,] dress in the wardrobe God picked out for you: compassion, kindness, humility, quiet strength, discipline. Be even-tempered, content with second place, quick to forgive an offense. Forgive as quickly and completely as the Master forgave you. And regardless of what else you put on, wear love. It's your basic, all-purpose garment. Never be without it. (Colossians 3:5-14)
Christ has invited us to the wedding baquet. He has given us new clothes to wear, given us the strength to live as new people. Why would we show up wearing our old, grubby street clothes? Why would we keep on living in all the same ways as before?

Lord, help us to appreciate the feast that you have prepared for us. Help us to understand the joys of life with you.

着替えて、パーティーにおいでよ!(マタイ22:1-14)

聖霊降臨後第17主日(A年・特定23)
司祭 ケビン・シーバー
聖路加国際病院聖ルカ礼拝堂
2011年10月9日・10時30分 聖餐式


一つ、幼子の時のはっきり覚えている記憶があります。ある夜、いつものように、親がわたしを彼らの寝室に置いてあったベビーベッドに寝かしました。このベッドは、牢獄のように、周りに柵が巡らされているタイプでした。

たぶん眠りから目が覚めたと思いますが、突然恐ろしいことに気づいてゾッとしました。それは、暗い部屋に置いてあるお母さんの椅子に、ものすごくデカイ、真っ黒のゴリラが座っているわけ。300キロぐらいの大きさでした。ゴリラが動かず、わたしの方をじっと見据えているわけです。

「ヤバイ!静かにしないと、彼がこっちにやってくる!」と思ってあせりました。

長い間、暗闇の中じっと座り込んで、ゴリラを見据えていました。叫ぶ準備はできていました。でもその状態が長引くと、ようやく「ここから脱走しなきゃ」という結論に至りました。

そのための勇気を搾り出すのにちょっと時間がかかりましたが、「いっせいのせ!」と柵を乗り越え、床に飛び降りて、走り出しました。長い廊下を風のように速く走り、曲がってリビングに入ってしまいます。すると、明るいリビングが人でいっぱい!みんな話したり笑ったりしています。暖炉で火が燃え上がっています。ポップコーンやお菓子があっちこっちに置いてあります。みんな何か飲み物を飲んでいます。

実は、大みそかの晩で、両親がニューイヤーズイブ・パーティーを開いていたのです。

もちろん両親にゴリラのことを報告しましたが、信じてもらえませんでした。でも落ち着かないので、みんなで寝室に戻りました。すると、電気をつけて見ると、なんとずる賢いゴリラがデパートの袋を椅子に置いて、その上に父親の黒いレインコートをかぶせて、ちょっとゴリラっぽくしたのです。そうやってゴリラは無事に逃げることに成功したわけです。
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とにかく、それまでに暗闇の中で、一人ぼっちで、恐怖のあまり動けなかったのは事実です。抜け出せないだろうと思っていました。無力感を覚えていました。

そして突然、パーティーの真っ只中にいました!周りはみんな幸せでいっぱい。もう、恐れることはない。しかも、寝る時間はとっくに過ぎていたにも拘わらず、ポップコーンを食べコーラも飲ましてもらえました!

きっとイエスが神の国に人を呼び掛けられたとき、それに応じた人たちは似ているような経験をしたと思います。ただもっともっと大きい、もっと深い経験をしたと思います。

確認させていただきたいのですが、天の国・神の国というのは、地図に載せるような場所でもないし、死んでからの行く先でもありません。神の国というのは、今ここで、神の友である状態、神のほかの友だちとの交際がある、と言ってもいいと思います。神の国に入るというのは、罪悪感から抜け出して、神との和解を得ること、互いに仕え合うという共同生活を送ることです。

さて、2000年前に、パレスチナに住んでいることを想像してみてください。しかも、あなたはエリーとではなくて忌み嫌われる徴税人、あるいは娼婦、いわゆる「素行の悪い人」、いわゆる「負け組み」の人、それか外人であることを想像してみてください。

神の民の中で、とてもしっかりして、ご立派な体面を保つ人がいます。彼らは律法の掟をきちんと守ります。掟を犯さないために山ほど必要以上の規定をきちんと守ります。毎日7回祈ります。ありとあらゆるものの10分の1を捧げ物にします。安息日になると、一個のイチジクでさえ運びはしません。汚れているものに接触しないし、罪人との交際はしません。世の中の卑しい、罪深いことと全く関わっていません。

でもあなたは違います。あなたはそれらの真っ只中にいます。いかがわしい家に生れたかもしれません。自分自身が間違った選択をしてきたかもしれません。誰かからひどい扱いを受けたかもしれません。ただ大失敗をしただけかもしれません。とにかく、あなたは「罪人」の運命を受け入れざるを得ないのです。それが自分にも分かっているし、周りにも分かっています。

そして一つ確かだと思われることがあります。それは、立派なファリサイ派の人々は神に好意をもたれているけれども、あなたみたいな罪人は神に近寄ることは不可能だ、ということ。アダムとエバがエデンの園に戻れないように「きらめく剣の炎を置かれてた」と同じように、あなたの罪深さがあなたと神との間にあって、ブロックしています。恵みから遠ざけているのです。

罪人はどっち道、神に近寄りたくないでしょう。アダムとエバは罪を犯してしまった後、神から隠れたのです。罪悪感は300キロのゴリラのように、わたしたちを怖がり屋にしてしまうのです。罪人にとって、神との出会いは怒りとの出会い、裁きとの出会いなのです。

ところが、そこでナザレのイエスがあなたに仰います:
 おいでよ!悔い改めてみ国に入りなさい。父の友になりなさい。あなたの罪よりも父の愛の方がはるかに大きい。悔い改めて、赦しをいただきなさい。そしてみ国の祭りに参加しなさい。

さて、あなたは、イエスに招きに応じますか?
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イエスの招きに応じないのは、一番しっかりしてそうな人たち。当然、神の国に入れるだろうと思っている人たちです。招かれる必要なんてない。自分の食卓に座るのに、招待状はいりません。

だからファリサイ派の人々は神の招きを聞き捨てにします。イエスのたとえ話では、神を表す王様は、王様らしくなくお客さんにお願いします。『招いておいた人々にこう言いなさい。「食事の用意が整いました。牛や肥えた家畜を屠って、すっかり用意ができています。さあ、婚宴においでください。」』(マタイ22:4)

「しかし、人々はそれを無視した」(マタイ22:5)

み国に入るのは、自分の功によるものでも、良き働きによるものでもありません。招待客のみが参加できることです。そして招待されない方法は、招待されなくてもいいのだ、と思い込むことです。ファリサイ派の人々は、イエスも、洗礼者ヨハネも相手にしません。2人とも「悔い改めなさい」と訴えていたのです。ファリサイ派の人々は「悔い改める?!何を!?」

『婚宴の用意はできているが、招いておいた人々は、ふさわしくなかった。』(マタイ22:8)
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だから神の国に入るのは、招待客のみのことです。でも信じられない人が招待されるのです。
「『町の大通りに出て、見かけた者はだれでも婚宴に連れて来なさい。』そこで、家来たちは通りに出て行き、見かけた人は善人も悪人も皆集めて来たので、婚宴は客でいっぱいになった。」(マタイ22:9-10)

善人も悪人も。普通の人も、徴税人も、娼婦も、素行の悪い人も、負け組みの人も、外人も。「だれでも」。皆さんも。わたしも。

だから結果として、教会は常に罪人だらけ!2人-3人とてもいい人がいて、2人-3人とても嫌なやつがいて、そして大勢の人はその間に入るはず。なので、何でこの人と共に礼拝しなくてはならないか、と思ったことがあるかもしれません。でも招待ができるのは、王様のみ!

だから、救われる資格はありません。結局、み国に入るというのはそういうことです。暗い、むなしい生き方、自分を中心とする生き方から脱出して、神の友達になり、神の友達と仲間になって、他の人に仕える生き方に入ることです。

招かれたら、「いいとも」と応える以外に、救いの要件はありません。

いや、はっきり言いますと、実は要件があります。実は極めて厳しい要件があります。けれども、十字架の上でイエス・キリストがその要件をすべて満たしてくださいました。イエスの流された血が、罪人を神から遠ざけていた剣の炎を消しました。イエスの光は暗闇を打ち勝っています。イエスは300キロのゴリラである罪悪感を追い払ってくださったのです。

キリストのおかげで、神との出会いは、もはや怒りとの出会い、裁きとの出会いではなくて、赦しと憐れみとの出会いに変わっています。
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だから、救いの要件は満たされています。残っているのは、招きを受け入れるだけです。

ところが、救われた者としてのマナーはあると思います。ここは誤解してほしくないところです。救いに値するようなことはありません。自らみ国の宴の席を確保する方法はありません。しかし、み国のお客さんに求められるマナーはあると思います。
「王が客を見ようと入って来ると、婚礼の礼服を着ていない者が一人いた。王は、『友よ、どうして礼服を着ないでここに入って来たのか』と言った。この者が黙っていた。」(マタイ22:11-12)

この「婚礼の礼服」は一体何なのでしょうか。ここで聖パウロは明らかにしてくれると思います(コロサイ3:5-14):
だから、地上的なもの、すなわち、みだらな行い、不潔な行い、情欲、悪い欲望、および貪欲を捨て去りなさい...これらのことのゆえに、神の怒りは不従順な者たちに下ります。あなたがたも、以前このようなことの中にいたときには、それに従って歩んでいました。今は、そのすべてを、すなわち、怒り、憤り、悪意、そしり、口から出る恥ずべき言葉を捨てなさい。互いにうそをついてはなりません。古い人をその行いと共に脱ぎ捨て、造り主の姿に倣う新しい人を身に着け、日々新たにされて、真の知識に達するのです...
 あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい。これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです。
 
わたしたちはキリストによって結婚パーティーに招かれています。しかも、それにふさわしい礼服もキリストが用意してくださっています――つまり、生まれ変わった者として生きる力を与えてくださるのです。どうして、古い、汚れている服を着たまま出席するのでしょうか。どうして、依然としてそのままの生き方をしようとするのでしょうか。

主よ、どうか主が用意してくださったご馳走を、感謝をもって味わうことができますように。どうか、キリストと共に生きる喜びが分かることができますように。アーメン。

2011年9月28日水曜日

changing course (Eze 18:1-4, 25-32; Matt 21:28-32)

Fifteenth Sunday after Pentecost (Year A, Proper 21)
St. Luke's International Hospital Chapel
September 25, 2011– 10:30 a.m. Holy Eucharist


Both the Old Testament reading and the Gospel today talk about changing course.

Arguably one of the most important words in Bible is the word "turn". The Hebrew is shuv. Shuv can be translated turn, go home, return, reconsider, regret, repent. It means to change course, to face in a new direction.

The idea of shuv is at the heart of the message of all the prophets. Return to the Lord! Turn back from evil and return to His ways, and you will find life and peace.

And it's at the heart of the New Testament. Both John the Baptist and Jesus began their work with the same call to shuv: Repent, for the kingdom of God is at hand.
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The message God gave to Ezekiel is very straightforward: You sin? You die.

It's not rocket science. One thing follows the other, cause and effect.

Remember that "sin" in the biblical sense doesn't mean just the Big Stuff like murder, robbery, adultery. It means turning your back on the Lord, straying from His path.

Note also: It's not that we die because our parents or our ancestors sinned. God clearly rejects that line of thinking. In Ezekiel's time, the Jews had been taken captive and forcibly relocated to Babylon. They complained that they were being punished because of what their ancestors did, saying: "The fathers have eaten sour grapes, and the children's teeth are set on edge" (Ezek 18:2).

To that, God says, in effect, "gimme a break":
"Behold, all lives are mine; the life of the father as well as the life of the son is mine. The one who sins, he it is who shall die." (Ezek 18:4)

God isn't in the business of punishing the children of sinners. You sin? You die, not your children or your grandchildren.

We may--and, sadly, quite often do--suffer the fallout from the sins of our parents. A selfish father's adultery. An anxious mother's overprotectiveness. Abuse. A lack of affection. That's part of the tragedy of the world. But to say we suffer the fallout from someone else's sin is different from saying the sin and its punishment are ours.

You sin? You die. And this is not God's capriciousness, either. It's just cause and effect. St. Paul put it like this: "The wages of sin is death" (Rom 6:23). The recompense for working is money. The recompense for sin is death.

What kind of death are we talking about? Physical death, yes, evenutally, but even worse, spiritual death, which can begin even in life and which goes on…for all eternity.

So what is spiritual death? Many of you have probably tasted it already. The "symptoms" include:
A narrowing of the heart. A sense of distance from people around you, the world around you. The inability to make real connections. A loss of yourself, your identity. A loss of meaning and purpose. A sense of emptiness. Boredom even with the pleasures of life. Anxiety. Anger at others, at God, at yourself. Hopelessness. A slowly deepening darkness in your heart.
This spiritual death can begin here, now. It begins whenever we sin--whenever we turn away from God, whenever we pull away from His good will for our lives.

And unless we turn back, it will go on forever and ever.

To become a Christian means to make this turn. To become a Christian involves turning away from darkness, from self-centeredness, from injustice, from emnity with God--away from everything that displeases God.

And it involves turning toward Jesus, toward life, toward justice, toward obedience, toward intimacy with the Father.

That is what Christian baptism is all about. Do you renounce the devil and all his ways? Do you turn toward Jesus and life in harmony with God's will?

The hitch is, we can't make this turn. We're like the Titanic heading toward the iceberg. Even knowing the danger was ahead, the huge ship couldn't turn enough to avoid it.

Human beings are actually worse off than the the Titanic. Because, given enough time, the Titanic was capable of changing course. But we're not. We don't have it in us to change ourselves.

Sure, we can change the clothes we wear, get a new haircut. We can train ourselves to take on new habits. We can learn to control ourselves and put on a presentable face.

But we can't change our hearts.

"Cast away from you all the transgressions you have committed, and make yourselves a new heart and a new spirit!" (Ezek 18:31)

The people to whom Ezekiel relayed this message proved that they couldn't make a new heart and a new spirit for themselves. And neither can we. We are unable to save ourselves. Our wills are weakened, our hearts are bent. And we can't fix that.

But God can. God can make possible what was impossible. What God commands, He enables. God tells us to make new hearts; He gives us the grace to do it.

The Reformer John Calvin said "[God] invites all to repentance and rejects no one." (Calvin, Comm. Ezekiel 18:32). And because God invites all to repentence, He offers all the grace to enable such repentence.

St. Paul is on to this in today's letter to the Philippians: "Work out your own salvation with fear and trembling, for it is God who works in you, both to will and to work for his good pleasure." (Phil 2:12b-13)

It is God who works in us. If we allow Him to, God will work in us, healing our wills so that we WANT to do what pleases Him. Notice the all-important repeated clause in the baptismal vows:
- Do you turn away from all the powers of darkness?
    I do, WITH GOD'S HELP.
- Do you turn toward Christ and toward the light?
    I do, WITH GOD'S HELP.
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The first son in Jesus' parable changed course. He went from not doing the will of his father to doing the will of his father.

Jesus confronts every person with this same question. Jesus' whole mission, today as well as back then, is to summon every one of us to the same obedience: Today, go and work in the vineyard. Today, go and live a God-pleasing life in harmony with the Father's will.

Two thousand years ago, tax-collectors and prostitutes heard this call and they responded to it. Like the older brother, with their lives they had been saying "I will not" to God's will. But, like the older brother, they "changed their mind" and began to follow Jesus. They changed course. They discovered in Jesus the power to change course. The grace to stop living in sin. The grace to enter into fellowship with God.

To be a Christian is to change course. If we are still living pretty much like everybody else in the world--if we are making decisions pretty much on the same basis, if we are using our time and our money and our talents for the same ends, if we are thinking mostly about ourselves, if we are just as comfortable in our sinfulness--then maybe we haven't really become Christians yet. Maybe we're more like the younger brother who says "Yes" to his father but then goes on with business as usual.

Jesus offers us the power to change course. The power both to say "Yes" and to live a life that also says "Yes" to God.

And what happens when we change course?

Life happens.

"Why will you die, O house of Israel? Turn, and live!" (Ezek 18:31b, 32b)

The tax-collectors and prostitutes repented and followed Jesus into the Kingdom because they saw that that's where real life was. Real joy. Real community. Fellowship with the living God. The sweetness of heaven, here on earth, and forever.

Turn, and live!

方向転換をする(エゼキエル書18:1-4, 25-32; マタイ21:28-32)

聖霊降臨後第15主日(A年・特定21)
聖路加国際病院聖ルカ礼拝堂
2011年9月25日・10時30分 聖餐式


今日、旧約聖書も福音書も「方向転換」をテーマにしています。

聖書の中で最も重要なキーワードの一つは「向きを変える」と言えましょう。そのヘブライ語は「シュブ」。これを訳すと、向きを変える、戻る、帰宅する、立ち帰る、考え直す、反省する、悔い改めるなどの言葉が出てきます。方向転換ともなれるのです。

すべての預言者のメッセージの中心にこの「シュブ」があります。主に立ち帰れ!悪の道から離れて主の道に戻れ!そうすれば平和と祝福が得られるのだ、と。

新約聖書の中心にもあります。洗礼者ヨハネもイエス・キリストも、その働きの始まりに「シュブ」への呼び掛けがあります。例えば:「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と(マルコ1:15など)。
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エゼキエルに託された神のメッセージは分かりやすいものです。罪を犯す人は死ぬ、と。

きつい言葉ではありますが、複雑ではないと思います。明らかな因果関係になっています。

なお、聖書が言う「罪」とは、人殺しや強盗、姦通という大罪だけではないことを覚えていただきたいです。むしろ、神に背を向けること、その道から離れることを指しています。

もう一つ注意すべきことは、両親や先祖が罪を犯したからわたしたちは死ぬわけではない、ということです。神はこういう考えを真っ向から否定されます。エゼキエルが活躍していた時期は、ユダヤ人が捕囚としてバビロン王国に強制移住させられた後の話です。よその国で奴隷になっているユダヤ人はぶーぶー言っているようです。先祖の罪のために自分たちが懲らしめられているのだ、と。「先祖が酸いぶどうを食べれば/子孫の歯が浮く」(エゼキエル18:2)

これに対して神は「いいかげんにしろ!」、と仰っています。「すべての命はわたしのものである。父の命も子の命も、同様にわたしのものである。罪を犯した者、その人が死ぬ」(エゼキエル18:2)

神は罪人の子どもを懲らしめる方ではないのです。あなたが罪を犯したら、あなたの子孫が苦しむのではなくて、あなた自身がその結果を受けさせられるのだ、と。

もちろん、両親や先祖の罪から悪影響を受けることはあり得ます。残念ながら、よくあることです。自己中心の父親の不倫とか。ノイローゼの母親の過保護とか。さまざまな虐待や愛情不足とか。これは、世の中の悲劇の一部です。でもかつての罪から悪影響を受けることと、その責任が自分たちに問われていたり、そのために自分たちが懲らしめられていたりするというのとは、全く別の話です。

「罪を犯した者、その人が死ぬ。」しかも、これは神の気まぐれでもありません。ただの因果関係です。聖パウロはこういうふうに言いました「罪が支払う報酬は死です」(ローマ6:23)。労働すれば賃金を受ける、罪を犯せば死ぬ――自然の実りです。

でも先から「死」という言葉を何度も申し上げていますが、果たしてどういう意味でしょう。体が息を引き取る、ということ?まあ、やがてそういうこともありますが、遥かにひどいことは、霊的な死です。霊的な死は生きている間にでも始まるのです。

霊的な死とは何か。皆さんはそれをある程度味わったことがあるかも知れません。その「症状」として次のことを挙げることができると思います。
このような霊的な死は、罪によってもたらされます。神に背を向けたり、その恵み深いみ心から離れるとき、さらに霊的な死に近づくのです。

この死から立ち帰らなければ、かの日、もう引き返せないことになってしまいます。
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クリスチャンになるというのは、方向転換をする話です。霊的な死に至る道から向きを変える。自己中心の生き方から、不正から、神との対立から自分を向け直すことです。

同時に、自分をイエスへと向け直す話です。命へと、正義へと、従順へと、天の父との交わりへと自分を向け直すことです。

教会の洗礼はそういうことです。式の中で志願者に聞きます。あなたは悪魔とすべて悪の力を退けますか。あなたはイエスへと向きを変えて、神のみ心にそった生活を送りますか。

問題は、わたしたちはこのように向きを変えることができない、ということです。氷山に向かっているタイタニックのようです。危ないと分かっていても、方向転換は間に合わなかったのです。

でも人間は実はタイタニックよりも悲しい立場にあります。なぜかというと、タイタニックは十分時間をかければ方向転換ができたのですが、人間は違います。わたしたちは、いつまで経っても自分を変える力は持っていないのです。

着る服を変えたり、髪形を変えたりすることはできます。新しい習慣を作ることもできます。また、自分を抑えて、人前に出せる顔を作ることもできます。

でも心を変えるのは無理です。

「お前たちが犯したあらゆる背きを投げ捨てて、新しい心と新しい霊を造り出せ」
このエゼキエルのメッセージ(18:31)を最初に耳にした人たちも、わたしたちも、こう言われても「新しい心と新しい霊を造り出す」ことはできないのです。

わたしたちは、自分を救うことができないのです。意志が弱くて、心が曲がっているのです。それを直すこともわたしたちにはできないのです。

ところが神にはできます。神は不可能なことを可能にすることがおできになります。神が何かをお命じになったら、必ずそれを果たせるようにしてくださいます。だから「新しい心を造り出せ」と仰るのでしたら、そのための恵みをも与えてくださるに違いないのです。

宗教改革者のジョン・カルビンが言いました:「主はすべての人を悔い改めへと誘い、誰をも拒まれない」と(Calvin, Comm. Ezekiel 18:32)。悔い改めへと誘ってくださる神は、悔い改めることができる恵みをも与えてくださるのです。

今日のフィリピの信徒への手紙でも、聖パウロはそういうことを言っていると思います。
「恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい。あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです」(フィリピ2:12b-13)

わたしたちが許せば、神はわたしたちのうちに働いて、弱まった意志を強めて、神に喜んでもらえることを自ら進んでしたいようにならせてくださいます。洗礼式の誓いの言葉でも、こういうことを表す極めて重要な言葉が入っています。
- あらゆる暗闇の力を退けますか? → はい、神の助けによって退けます。
- イエス・キリストへ、光へと向きを変えますか? → はい、神の助けによって...
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イエスのたとえ話では、長男は方向転換をしました。父の言うことを拒否する方向から父の言うことを行う方向に変わったのです。

イエスはこの同じ質問をすべての人にお聞きになります。かつても今もイエスのミッションはわたしたち一人一人を従順へと呼び掛けることです。つまり、今日、ぶどう園へ行って働きなさい、と。今日、天の父のみ心にそった生活を送りなさい、と。

2000年前、徴税人や売春婦はこの呼び掛けを聞き、それに応えました。長男と同じように、以前その生き方によって神に向かって「いやです」と言っていました。しかし長男と同じように、彼らは「考え直して」イエスに従うようになりました。方向転換をしました。要は、イエスとの出会いにおいて、方向転換をするための力を発見したのです。罪深い生活から離れる恵みを発見しました。神との交わりに入る恵みを発見しました。

クリスチャンになるというのは、方向転換をすることです。未だに、わたしたちは周りの人々と殆ど変わらない生活をしているのであれば――同じ根拠に基づいてものを決めたり、同じ目的のために時間、お金、才能を使っていたり、自分のことばかりを考えたり、自分の罪であまり違和感を持たなかったりしているのであれば、ひょっとしたらまだクリスチャンにはなっていないかも知れません。ひょっとしたら次男のように、口では神に「はい」といいながら、今まで通りの生き方をしているかも知れません。

イエスは、方向転換をするための力を与えてくださいます。口で神に「はい」と言い、生活を通しても「はい」と言うことができる恵みを与えてくださるのです。

さて、方向転換したら、何があるのでしょうか。

命があります。
「イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか...お前たちは立ち帰って、生きよ!」(エゼキエル18:31b, 32b)

徴税人や売春婦は悔い改めて、み国に入るまでイエスについて行きました。それは、そこに豊かな命があると見えたからです。本当の喜び、本当のコミュニティ、行ける神との交わりはそこにあると分かったのです。

立ち帰って、生きよ!
心が狭くなる。周りの人との関係に違和感を持っていたり、周りの環境との距離感を覚えたりする。なかなか人とつながることができない。自分を見失ったり、自分のアイデンティティが分からなくなったりする。生きる意味が見えなくなる、人生の目的を見失う。むなしさを覚える。倦怠感がある。人生の楽しみも喜べなくなる。不安がある。人に対して、神に対して、自分自身に対して怒りを覚える。絶望感がある。心がどんどん暗くなっていく。そういうことです。