2012年6月8日金曜日

合格点を得るには(使徒言行録2:1-11、ヨハネ20:19-23)

2012年5月27日・10時30分 聖霊降臨日・主教巡回日(B年)
聖路加国際病院聖ルカ礼拝堂 牧師任命式・聖餐式・堅信式


看護大学でもシーバー家でも、中間テストを迎えている雰囲気になっています。看大の学生たち、また自分の子供の勉強している姿を見て、ただ一つの思いしかありません:僕じゃなくて良かった!と。連発試験を受けることは、もう結構です。

僕は去年、看護大学で新しい評価の仕方を知りました:秀、優、良、可。その後は不合格。

今日は、「教会の誕生」とも言われる聖霊降臨の祭りなので、自分たちの評価について皆さんと考えたいと思います。この礼拝堂としての成績は、どう評価しますか?秀?優?良?

洗礼を受けている皆さん自身は、イエス・キリストに従う人としての成績は、どう自己評価します?良?優?秀?

わたしは牧師として――もう任命式が終わったからあえて言いますが――わたしは牧師として、明らかに不合格だと思います。謙遜ではなくてマジで。

「まあ、クリスチャンとして何とか合格かな」と思っている人は、キリストに従う者たちから何が求められているのか、本当に分かっているのかな、と疑問に思います。基準が分かっているかしら。イエスは山上の説教でその弟子たちに仰います:「あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」、と(マタイ5:48)。

イエスに従う者たちは世の中に大きな影響を与えるはずです。特に個人レベルで。クリスチャンに出会ったら「うわ、何この人?!?何か、すごい!」と思われるのが、本来普通の有様です。イエスは「あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである」(マタイ5:16)。周りの人がわたしたちの言葉と行動と生き方を見て、果たして天の父をあがめるようになっているのでしょうか。

イエスに従う者は神の国のために――つまり、神に喜んでもらえるように実を結ぶことが求められています。祈ると病人が治ったり。絶えず祈ったり、しかも大いなる確信を持って祈ったりする。悪に立ち向かう。世の中の偽りに流されない。自分の行動と言葉でイエス・キリストの麗しさを人に見せる。人に仕えることに熱心である。などなど。

つまり言いたいのはわたしたちの考え方は小さ過ぎるのではないか、ということです。日本では、クリスチャンであることは好みのレベルにあると思われます。趣味と同じぐらい。あるいは、教会に関わることは、自分の心の拠りどころとして、結び付きがだいぶ薄れてきた近所の代わりになるものとして考えられがちです。名前が知られて心地よい居場所。

でも聖書が示すのは、だいぶ違うイメージです。もちろん、クリスチャンであることは大いに心の拠りどころになるはず――「聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれている」(ローマ5:5)とパウロ。そしてクリスチャン同士の愛はほかのどんな絆よりも深いはず:「神のみ心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ」(マルコ3:35)。

でもそれだけではないわけです!クリスチャンであるというのは、何よりも偉大な救出作戦に加わることだ、と聖書が示してくれます。全世界の人々を暗闇の支配から、霊的な死から解放するという膨大な運動に参加するわけです。特祷にあるように「永遠の命の道を開かれる」神の働きにあずかることです。

さて、皆さんの成績はどうしましょう?このチャペルとしてどしましょう?僕自身、どうしましょう?秀?優?良?可?それとも不合格?
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エルサレムで待機していた弟子たちを考えると、なかなか面白い。彼らはいろんな意味で「クリスチャン」と見なしていいと思います。聖書は(一応)知っている。きちんと礼拝に出る。3年間、イエスの教えを学んできた。体の復活の真実を受け入れている!イエスによる赦しを確信している。イエスを救い主として、主として受け入れているのです。

そして共に集まっている。そこに一つのコミュニティができているわけです。

しかし、これでも不十分だそうです。イエスの望みは、彼らがずっとその家に座り込むのではないそうです。いずれ派遣するつもり。でもまだ、何かが足りないのです。

まるで夜のステンドグラスのような状態。すべての部分が整っているけど、光がないから役目を果たせないという感じです。
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ところがある日、何か不思議なことが起こりました。この小さくて弱い、方向性のない弟子たちのグループがいきなり、後にも先にも現れることのないような、世界を変えるような力強い運動の推進役に変身したのです。

何かが起こって、弟子たちはパッと行動に移り、その家を出て、世界の果てまで出掛けて行ったのです。そして3,4百年もの間で、イギリスからインドまで大勢の人々がよみがえりのイエス・キリストによる救いの喜びを経験することになったのです。

この弟子たちは歴史の流れを変えたのです。わたしたちが今日ここにいるのも、このチャペル、病院、看護大学が存在するのも、その数十人の男性、女性のおかげなのです。彼らの働きによって、暗闇に覆われている世の中で「永遠の命の道が開かれた」。

そのおかげで2,000年後、世界3人に一人がキリストのお世話になっているわけです。

いったい何が起こったのかというと、聖霊が与えられたのです。米粒より小さいエネルギーの塊りから宇宙をお造りになった神の力が注がれたのです。その力が弟子たちを「小さなキリスト」の部隊に変えたのです。(「クリスチャン」の本質的な意味)
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日本の多くの聖公会の教会は家の中で座り込んでいるままになっている気がします。「ここは心地がいい」と言って、ずっと家にいるわけです。

でも神は、わたしたちを通して想像を超えるような素晴らしいことをなさりたいのです。しかもその素晴らしい働きを果たすための力を与えようとしておられるのです。

イエスは「わたしを離れては、あなたがたは何もできない」と仰いました(ヨハネ15:5)。夜のステンドグラスのごとき。

でも神のみ前で唯一の合格者であるイエス・キリストはご自分の力をくださろうとしておられます:「聖霊を受けなさい」と弟子たちに仰るように(ヨハネ20:22)。

神はわたしたちを通して素晴らしいことをなさりたいのです。例えばどういうことか?何か新しい委員会を作るとか、施設を建てるとか、署名運動に加わるとか新しい活動をするとか――そういう話ではありません。仕事を捨ててアフリカで宣教師になるとか、そういう話でもありません。まず。

そうではなくて、「小さなキリスト」の部隊になってほしいのです。

だから一人一人のやっていることは全く変わらないかもしれません。やっていることは変わらないけれども、その意図とその質が変わります。キリストにあって、キリストと共に、キリストの力と知恵を得てやっていくと、その意味、そのインパクトは比べ物にならないほど深くなるのではないかと思います。
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キリストの働きに加わるための、キリストの力と知恵を得させる――これこそ聖霊の役目なのだと思います。

では、どうやって聖霊の恵みを受けることができるのでしょうか?洗礼や堅信を受けるとき聖霊の恵みを受けているはずです。でもどうすれば、その聖霊の恵みをイキイキとしたものとして受けることができるのでしょうか。一回だけではなくてずっとこれから。「霊に満たされ続けなさい」とパウロが言っているように(エフェソ5:18)。

まず、祈るべきですね。エルサレムの弟子たちは一緒に家に集まって「心を合わせて熱心に祈っていた」と使徒言行録に書いてあります(1:14)。

祈らなければなりません。そして自分の生活の中で何か聖霊の恵みを妨げることがあれば、それを告白して神の赦しをいただく必要があります。人を赦していないとか。神に喜ばれない何かと関わっているとか。そういうことがあれば、それを退ける必要があります。

そして聖霊の恵みを求めるのです。一人ででも、誰かと一緒にでも、祈って、聖霊の恵みを求める、求め続けるのです。

ただそれだけです。イエスが言われました:「天の父は求める者に喜んで聖霊を与えてくださる」(ルカ11:13)。

正式に牧師に任命された者として、僕はこれまで以上に聖霊を求めて、聖霊の助けを頼りにしなければいけないという事実を痛感しています。

ぜひ、皆さんも共に聖霊の恵みを求めていただければ、嬉しく思います。

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