今日の福音書の設定は、カファルナウムというガリラヤ湖岸沿いの町の周辺となっている。群衆は大勢でイエスのところに来ている。食べさせてもらいに、癒してもらいに。彼らがやっていることは妥当。しかしやっている理由は、間違ってはいないが、不完全である。
人々がイエスに求めているのは、今の問題への解決。しかしもっと大事なものを求めるべきだったのである。
前の日、イエスがわずかな食べ物をもっておよそ1万人の給食ができたことを、みんなが自分の目で見たあるいはその噂を耳にした。不思議で仕方がない話である。聞いたことがないような話である。
そもそもイエスは癒しの力の持ち主であることが知られている。ガリラヤ地方全体にわたり、多くの人がイエスに手を置かれ病気を治してもらってきている。イエスご本人は「奇跡を行う人」として知られたくなかったらしいけれども、そういうふうに見なされてきた。病気を癒す力、悪霊を追い出す力があることは広く知られているのである。
そういうわけで人がどんどんイエスのところに来ている。しかもイエスはそういう人たちを決して拒んだりはなさらない。
「父がわたしにお与えになる人は皆、わたしのところに来る。わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さない」(ヨハネ6:32)
イエスはその働きを通して、天の父は人々の日常の必要に関心を寄せてくださる方であることを示して来られた。「日ごとの糧を今日もお与えください」(マタイ6:11)という祈り方を弟子たちに教えられた。そしてイエスご自身が必ず困っている人に憐れみの手を差し伸べて来られた。
イエスのところにお腹がすいている人が来たら、食べさせてやったのである。病気の人が来たら、治してやったのである。人類を支配する暗闇の力に悩まされている人が来たら、イエスはそういう人を自由にしてやったのである。決して拒みはなさらない。
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同時にイエスはこれらのことだけで満足してほしくなかったそうである。カファルナウムの人々がイエスに求めているのは、今の問題への解決。しかしもっと大事なものを――つまり、イエスご自身を求めるべきだったのである。
「わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。」(ヨハネ6:51)
天から降って来たパン。生きたパン。命のパン。
聖書は命に当たる言葉は二つある。「ビオス」というギリシャ語は、生物学的機能など、「命・生命」を指し示す。寝る、食べる、呼吸する、動き回るなど。
しかしイエスが話される「命」はまったく違うものである。イエスは「ゾエ」という言葉を使われる。
「ゾエ」とは、豊かな命、充実した人生の質を意味する。愛と喜びと平和に燃え立つ生活のことを意味する。ゾエ=命を持つ人は精いっぱい生きる、人間らしく、自分らしく生きるのである。与えられた賜物を大いに生かす喜びを知っている人になる。他の人との豊かな関わりにある喜びを味わう人になる。
神はお造りになったものの中で、こういうゾエ=命を人間にだけお与えになった。創世記で書いてある:
「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」(創世記2:7)
ゾエ=命は、神から来るものであって、神との交わりの中で支えられているものである。わたしたちの先祖であるアダムとエバはこの命を持っていた。神からいただいて、神との親しい交わりの中で生かされていたからである。
ところが、罪というものはこのゾエ=命を奪い取ってしまう。なぜかというと、罪は人を神から引き離すから。神に背を向けると、豊かな命にも背を向けることになってしまう。
だから、アダムとエバは罪を犯したことによって、ゾエ=命を失ってしまったのである。身体的にはすぐに死ななかったけれども、神から来る豊かな命を、神との親しい交わりを失ってしまった。まだ生命があっても、内ではすでに死んでしまっていたのである。
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わたしたち人間はこういう状態に置かれている。2千年前の人たちもわたしたちもアダムとエバの受け継ぐ者である。ゾエ=命、豊かな命を慕うけれども、それを持てない。
しかも神から来る命がなければ、わたしたちは内面的に死んでいる。心拍があって、呼吸していて、生きているように見えても、内なる自分には豊かな命がないのである。
この豊かな命は人の心の最も深い望みである。多くの人はこういうことをはっきり意識しないかもしれないけれど、豊かな命を慕う。
みんなが充実の人生を送りたい。愛と喜びと平和に燃え立つ生活をしたい。精いっぱい、自分らしく生きたい。自分にしかない賜物を生かし、世の中をより素晴らしいものにする喜びを感じたい。他の人との豊かな友愛関係を持ちたい。
ところがこういう望みは満たされていない。豊かな命をなかなか手に入れられない。
だから色々他のものを追求してしまう。豊かな命の代わりとして、物質的なものや仕事やセックスや快楽やエンターテインメント、などなど。
でもこれらのことはどれもうまくいかない。続かない。心の飢え渇きを癒せない。
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イエスは、この世に来られたのは、ゾエ=命を人に取り戻すためだ、とご自分が仰った。
「わたしが来たのは、[人々]が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。」
(ヨハネ10:10)
これは、最初から天の父のみ心だったのである。
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命[ゾエ]を得るためである」(ヨハネ3:16)
今朝もあったように:
「わたしの父のみ心は、子を見て信じる者が皆永遠の命[ゾエ]を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである」(ヨハネ6:40)
もしゾエ=命が神から来るのであれば、神との交わりの中で支えられるのであれば、どんなことによっても断ち切られることはない。死そのものもそうである。だからイエスはこの命を「永遠の命」と呼ばれるのである。死んでからの命ではなくて、死によって妨げ得ない命だからである。
イエスは、人間が失ってしまったこのゾエ=命を取り戻すために来られた。そして、それを取り戻すためには、ご自分の命を捧げてくださったのである。
「わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである」(ヨハネ6:51)
イエスは、ご自分の内にある命をこの世の人々に与えてくださるわけ。十字架の上から、その命をいただく者だれにでも与えてくださるのである。このパンを食べる者、つまり、信仰を持ってイエスを受け入れる者だれにでも。
だれにでも!今までどこに行ったとしても、何を知っていたとしても。
だれにでも!わりと平穏な人生を送って来た人でも、大失敗して来た人でも。だれにでも!ずっと何かを探してきた人も、何かを探すべきことさえ意識していなかった人でも。
だれにでも。皆さんも。僕も。「子を見て信じる者が*皆*永遠の命を得る」(ヨハネ6:40)。
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わたしたちは日曜日教会に来て、イエスのところに集まって、養ってもらったり、癒してもらったり、今、目の前にある問題を乗り切るための助けを求めたりすることは、とてもいいことである。神さまはそうしてほしい。神の助けを求めるのを望んでおられる、わたしたちを愛してくださる天の父だから。
でももっと大事なものをも求めるべきである。豊かな命。永遠の命。つまり、イエスご自身を求めるべきだと思う。
み子を見つめましょう。イエスが自分の命であることを信じて、すべてをキリストに委ねましょう。イエスを信じ、イエスに自分の命を委ねることはどういうことか、もっと知りたい方がいらっしゃったら、後で声を掛けてください。難しい話ではない。
イエスを見て、信じれば、永遠の命が与えられる、という約束が今日の福音書にあった。豊かな命。神と共に生きる命。今日からはじまって終わることのない命。
イエス・キリストは、一番最初にその弟子たちのコミュニティの中心にこの食事、聖餐式を定められた。これによって、イエスがご自分の「からだ」と呼ばれたパンを、そしてご自分の「血」と呼ばれたぶどう酒をいただける。今日も、この恵みにあずかりましょう。
祈りましょう。
主よ、わたしたちは豊かな命がほしい。それをいただけるようにわたしたちの心を開いてください。天から降って来た生きたパンをより一層求めさせてください。わたしたちの飢え渇きをさらに増大させて、わたしたちをご自分のもとへ引き寄せてください。アーメン
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