聖霊降臨後第12主日(B年)
司祭 ケビン・シーバー
聖路加国際病院聖ルカ礼拝堂
2012年8月19日・10時30分 聖餐式
「愚かな者としてではなく、賢い者として、細かく気を配って歩みなさい。時をよく用いなさい。今は悪い時代なのです。だから、無分別な者とならず、主のみ心が何であるかを悟りなさい。」(エフェソ5:15-17)
聖パウロがこの手紙をエフェソという町に住んでいるクリスチャンのコミュニティ宛てに書いた。つまり、イエス・キリストについての福音に出会い、信じて、洗礼を受けて、救いの恵みをいただいた人たちだった。
だからパウロが目指しているのは、救われる道を案内するのではなくて、救われた者は、どういう生き方をすればいいのか、というのを説明することである。
どういう生活をすべきか。こういうことを定期的に問わなければいけない。なぜかというと、愚かな生活をしている人に四方を囲まれているからである。とんでもないことが当たり前になっている。「今は悪い時代なのです」(エフェソ5:16)
エフェソの社会というのは、人間の「性」について大混乱して、ありとあらゆる形で体の欲を満たそうとする人が大勢いる。不倫も売春も同性愛もはびこっている。
また、ねたみ合う社会になっている。商売が命。貪欲で生きている人が多い。金・物を持つことがその人の価値を定めることである。
全体的にエフェソの社会は下品な社会になっていた。迷っている人が多い。純粋なことが賞賛されないで、嘘付いて、計算して生きる人が大勢いる。
つまり、神がいないかのように日々の生活を送っている人たちの社会である。
こういう環境のただ中に置かれているクリスチャンは、気をつけないと流されて、キリストからどんどん離れていってしまうのである。
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だから、残されている時間をどう用いるか、考えないといけない。明日がある、来月、来年があるかどうか分からない。
さて、世の中の自己本位的な、くだらない、浅い考え方に何となく流されていくのか、それとも神にある命を求めるのか。クリスチャン・人間として、恵みにおいて成長するかどうか。
「だから、無分別な者とならず、主のみ心が何であるかを悟りなさい。」(エフェソ5:17)
「無分別」と訳されているけれども「あほ」というギリシャ語。
賢くなる第一のポイントはこれである:神はわたしたちを応援する方だ。神はわたしたちの味方である、ということを理解することである。
これは言われなければ分からないことである。いくら世の中を見極めても、いくら自分の心を見極めても、こういう結論に至らないであろう。(まれに神秘的な幸福感を覚えることはあるかも知れないけれども、悪い時代では、ということを理解することである。神は存在しないか、関係ないか、むしろ神が人間を敵対しているか、というふうに見なされるがちである。
でも神はわたしたちを応援する味方である。これは示されたことである。聖書の言葉(Ⅱコリント13:11、Ⅰヨハネ4:8など)というよりも、神とその民の関わり全体によってそれが明らかになっている。
何よりもイエス・キリストによってこのことが明確になっていることである。イエスは「神はわたしたちを応援する味方である」ことを身をもって、しかもその正反対のメッセージを常に発信する世の中で明らかに示してくださることである。
悪い時代ではこういうことを常に思い起こさないといけない。神は愛である。わたしたちをトコトン愛してくださる。言い換えると、神はわたしたちの最善を望んでいらっしゃる。
世の中はこうなっているから、わたしたちが最善に至るには、いろいろな犠牲が伴うかもしれない。大変な目に遭ったり、つらい時期を過ごしたりすることもあるかもしれない。銀が精錬されるようにわたしたちも、神の愛にふさわしくない部分が清められなければならないかもしれない。
でもこの長いプロセスの中で神はイエス・キリストはずっとそばにいて、守り導いてくださるのである。
だから、神はわたしたちを応援する味方であり、愛してくださり、わたしたちの最善を望んでいらっしゃる。だからこそ「主のみ心が何であるかを悟る」(エフェソ5:17b)ことが大切である。主のみ心は、わたしたちの本物の喜びの平和につながる道なのである。
主のみ心にそった生活を実践することこそが、恵みにおいて成長する方法である。
主のみ心とは、隠された、謎に包まれたものではない。その基本要綱は、神が啓示なさったこの聖書において概説されているのである。
「聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です。こうして、神に仕える人は、どのような善い業をも行うことができるように、十分に整えられるのです。」(テモテへの手紙二3:16-17)
だから、わたしたちは謙遜になって聖書を拝読すれば、祈りながら「これは神がこのわたしに語りかけているみ言葉だ」という姿勢をとって読めば、「主のみ心が何であるか」ということが見えてくるのである。
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「酒に酔いしれてはなりません。それは身を持ち崩すもとです」(エフェソ5:18a)
お酒を飲みすぎるということは、エフェソ社会では一つ大きな問題になっていたようである。聖公会の信徒の間でも問題になっていたりしている!と、昨日、お店で2本の赤ワインを買った僕が自分自身に言い聞かせている!
聖書は「お酒を飲むな」とは言っていない。イエスご自身が「大酒飲み」と非難されたぐらいお酒を楽しんでいた。飲むのは大丈夫。酔っ払うことは良くないと言われている。
アルコールの乱用や大量飲酒はもちろん一つの問題。アメリカでは「飲み過ぎ」とされているのは、男性の場合は一日2杯を超えること、女性の場合は一杯を超えることだそうである。
酔っ払うことは体や人間関係に悪い影響を与える。さまざまな抑制をを弱めてしまう、と大学4年間の経験でこの僕は証言できる。
でも「酒に酔いしれてはならない」という戒めのもっと深い意味は、お酒とかを使って自分の心を麻痺してはいけない。分別して、細かく気を配って歩み、時をよく用いて、主のみ心が何であるかを考えないと流されてしまうから、精神を覚醒しないといけない。
判断しないで、ただ悪い時代の流れにそのまま乗ってしまう人生はもったいない。
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「むしろ、霊に満たされなさい」(エフェソ5:18b)
この短い文章にはクリスチャンライフ全体がかかっている。ギリシャ語を直訳すると「霊に満たされ続けなさい」となる。毎日、一瞬一瞬聖霊に満たされて生きることがイエスに従う人生の秘訣である。
聖霊に満たされるというのは、どいうことか。神は、ご自分の命と力にあずからせてくださる。その結果は、お酒がもたらす幸福感よりはるかに大きな喜びをもたらすのである。神が身近にいらっしゃることをより実感する。そのみ心に寄り添う知恵と力が得られる。そして神に対する愛、周りに対する愛がわたしたちの心に注がれるのである(ローマ5:5)
お酒や携帯メールやフェースブックを求める以上にわたしたちは聖霊を求めるべきである。
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「むしろ、霊に満たされ、詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさい。そして、いつも、あらゆることについて、わたしたちの主イエス・キリストの名により、父である神に感謝しなさい」(エフェソ5:18b-20)
最後にパウロが神への感謝と賛美の大切さを教えている。感謝と賛美はクリスチャンライフの縦糸と横糸になるはずである。
チャプレンとしていろんな人と出会って話を聞くけれども、ネガティブなことにしか目を向けない人が意外と多い。人生をマイナス思考で考えてしまうと、心も体も引きずり降ろされてしまう。
人生では大変なことは山ほどある。つらい目に遭うこともある。自分の思うようにうまくいかないこともしばしばある。
けれども、その中でも神の絶えない恵みがきっとあるはず。まだ生かされている。まだ他人とのつながりがある。まだ違う将来を想像することができる。まだ祈れる。まだせみの声が聞こえる。花の香りがかぐことができる。夕焼けを見ることができる。
わたしたちクリスチャンは、感謝の達人にならなければならない。だれよりも感謝できることを見出して、呼吸すると同じぐらい「ありがとう」を人に対して、神に対して言えるようにならなければならない。これは聖書が命じることである。
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