2013年5月29日水曜日

築地風琴会 第3回「平和を願うつどい」 説教

1920年代、ロンドンタイムズ紙はいろいろな有名人にエッセイを依頼した。そのテーマは「世の中の何が間違っているでしょうか」という質問。

当時のイギリスの批評家、GK・チェスタートンが提出したエッセイ(手紙の形になっている)は次の通り。(全部読むが、時間は大丈夫でしょうか):
ロンドンタイムズ新聞 御中 
拝啓 
わたしです。 
       敬具 
GKチェスタートン
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世の中で間違っているのはGKチェスタートン本人だ、ということ。

世の中で間違っているのはわたしたちである。世界平和を願うことはいいんだけど、そういう現実もまず受け止めなければならない...

世の中のすべての苦悩を合わせれば、おそらくその9割ぐらいは、わたしたち人間が原因となっている。人間の欲張り、過剰消費、無知と無関心が。

毎日、予防し得る病気で数千人の子供が亡くなる。薬は十分あるけれども、行けてないだけである。

今現在、地球は世界人口の一人当たり2,700 kcalの食物を作れる。地球に住んでいる人全員のために十分の食べ物がある。にも拘らず、7人の一人は常に空腹状態にいる。昨日も今日もお腹がすいている。その大半はアジア地域に暮らしている。

そういう現実を見て見ぬふりをして日本のテレビで芸能人が一晩中レストランのメニューの全品を食べながら「お腹が痛い!」と文句を言う番組がエンタテインメントとしてあったりする。
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世の中で間違っているのはわたしたちである。

世界平和を願うことはいいんだけど、そういう現実もまず受け止めなければならない...

政府とか、よその国や国民とか、遠く離れたところで紛争を引き起こしている「悪者」をとがめるように見ながら、隣に住んでいる人は「ウザイ」とずっと恨んだり、友人を赦さないでいたり、親戚とお金のもめごとに巻き込まれたりするのであれば、とがめるべき人はだれになるだろうか。

世界平和を願いながらも周りの人との平和を実現できないわたしたちなのではないだろうか。
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世の中で間違っているのはわたしたちである。私たち人間の心が歪んでいるわけである。

人間は本来、平和の中で暮らせるように造られた存在である。

聖書では「平和」を「シャロム」と言う。このシャロムという言葉は「争いのない状態」よりはるかに深い意味を持つ。シャロムは平和、祝福、幸福、麗しさ――みんなが自分らしく仲良く、喜びと感謝をもって共に生きる状態を表す、とても素敵な言葉である。

人間は本来こういったシャロムを味わい、これを増やし、これを周りの人と分かち合うように造られた存在なのである。

でも心は歪んでいる。壊れたたるが水をためておけないと同じように、わたしたちの心はこういうシャロムを保てない。常に漏れている感じ。
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世の中で間違っているのはわたしたちである。

だから、もし平和を願うのであれば、わたしたち自身の心が新たにされるようにも祈らなければならない。壊れた心が癒されるように。

自分のことばかりを考える日々から抜け出して、神のことを思い起こして、命の源である神に感謝することをもう一度学ばなければならない。手にしがみついているものを手放して、あるいは軽くつかむことを学ばなければならない。

そして周りの人に幸せをもたらすことの中に自分の幸せを見出すような人にならなければならない。
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平和というのは、わたしたちの心から始まるものだ。心が新たにされて、神の平和を保てるようなものになるように祈っていきたいと思う。

愛のコミュニティ(イザヤ書6:1-8)

三位一体主日・聖霊降臨後第1主日(C年)
聖路加病院 聖ルカ礼拝堂
2013年5月26日年・10時30分 聖餐式

毎年、この「三位一体主日」では不可能なことをしようとする。それは、神の正体を理解しようとすることである。でも限られた人間は無限の神を理解できるはずがない。ただ、イザヤやヨハネに与えられた幻のように、イメージを通してその理解に近づくしかない。

幸いなことに、何も分からないというわけではない。神はご自身を示してくださっているから。そしてまず、神は唯一の神であることを示してくださっている。3,000年にわたって敬虔なユダヤ人は毎日こういう申命記の言葉を唱えてきた(シェマ):シェマ、イスラエル、アト゛ナイエロヘイヌ、アト゛ナイエハト゛。「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である」(申命記6:4)

神は唯一の主であることは理にもかなっていることだ。現実には一つの起点があるはず。宇宙の第一原因は一つ。すべてのものの創造者は一人いらっしゃる。神ご自身は造られざる者である。神は唯一である。

もちろん、「神」と呼ばれるものは他にもある。日本は神だらけ!でも言葉の意味は違う。「唯一の神」と「神々」の「神」を話すとき、同じ「カミ」という言葉を使うことで全く違うものを指し示していることを見失ってしまうかも知れないが、違うのである。

人間は何でも拝んでしまう。岩、木々、川、山、動物、太陽、月、先祖様、セックス、お金、権力、科学、名声。自分自身!いずれも「偉大なるもの」として拝んだりする。

でもこれらのことはみんな唯一の神ではない。これらのことは何もない状態から宇宙を造ったわけでもない。これらのことはビッグバンを引き起こしたわけでもない。「光あれ」のように、自分の言葉だけですべて存在あるものを存在させたわけでもない。
「主よ、わたしたちの神よ、あなたこそ、栄光と誉れと力とを受けるにふさわしい方。あなたは万物を造られ、み心によって万物は存在し、また創造されたからです」(黙示録4:11)

唯一の神以外にわたしたちの命の源があったり、わたしたちの運命を定めたりするものはないのである。

唯一の神はお一人。ちなみに、それは白髪のおじいさんではない!むしろ、命そのもの、絶対的な存在、時空を超越する方。神はモーセにこういうふうに自己紹介をなさった。「わたしは在る」(出エジプト3)。神お一人は現実の根底である。

イザヤの幻で、天使たちは歌っていた。「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主」(イザヤ6;3)。ヘブライ語の「聖なる」(KBD→カホ゛ト゛)という言葉は絶対的な存在というニュアンスを持っている。「聖であること・神聖」の語根の意味は「重み」となる。自立して重み=実在があるのは神だけである。神と比べてわたしたちは極めてはかない者、煙よりも軽いものとなる。神は実質のある、重みがある方。

だから神への憧れは人間の心に刻まれているのだと思う。聖なるものに近づきたいと思う傾向。命が神によるわたしたち人間は、自分の存在のはかなさをどこかで感じてしまう。そうすると、重みのあるもの、頼りになれるものを求めたくなる。本物の命、豊かな命、永遠の命を求める。つまり、神を求めるわけである。

しかし同時に、神に近づくのは恐ろしい。煙、羽根のように軽いわたしたちは、重みのある、実質のある神に近づくと圧倒されるだろうと分かっているから。

しかも神は正しい方だと分かっている。十戒や律法ではこれが明らかになるけれどもそれ以前、人間は生まれながらその心の奥底で唯一の神は正しい方だということが分かっていると思う。

神は聖なる正しい方。それに対してわたしたち人間は、煙のような軽い存在だけではなく、罪に染まっている存在である。(罪は犯罪ではなくて神の道からはずれることを意味する。)わたしたちは、余儀なく世の中の自己中心の態度や貪欲や無関心に染まっているし、わたしたち自身もそれに加担している。神に背を向けて日々の生活を送る。そういうわたしたちは神に近づけるはずがない。

だからこそ、あらゆる時代であらゆる社会や文化では、人間は神なるものに供え物をする。収穫の初穂、酒、さい銭、動物の血、昔の文化では人の血さえ奉納することもあった。

これは全部、聖なる神に接近することを許してもらうため、そして神の恵みをいただくため。神のご利益やご加護にあやかりたいからである。でも裸の自分、ありままの自分では神に近づく値打ちがないことが分かっているから、こういった価値のあるものを捧げる。
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イザヤは紀元前7世紀の預言者。幻の中で彼は天の玉座を見た。イザヤにとって、とても恐ろしい経験だったようである。
「災いだ。わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇の者。汚れた唇の民の中に住む者。しかも、わたしの目は/王なる万軍の主を仰ぎ見た」(イザヤ6:5)

イザヤはもう死ぬかと思っている。罪に染まっている自分は神のみ前に立つ値打ちがないと分かっているから。聖なる正しい神に近づいたら、自分の存在は消えてしまう。朝の霧が昇る日によって晴れていくのと同じように。

でもここで注意していただきたいのは、神がイニシアティブを取ること。イザヤがそこに居続けることができるように、神は備えてくださったのである。主の天使、セラフという火の天使のひとりが、炭火を持ってイザヤのところに飛んで来る。
「彼はわたしの口に火を触れさせて言った。『見よ、これがあなたの唇に触れたので、あなたの咎は取り去られ、罪は赦された』」(イザヤ6:7)
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神ご自身、イザヤがみ前に立ち続けられるようにしてくださったのである。

ここで「三位一体主日」の話の続きへの大きなヒントがある。神は唯一の神である――と同時に、神は単独ではなくてコミュニティである。これは教会の最も貴重な発見:唯一の神は「ただ一位ではなく、三位一体であられます」(「三位一体主日」の特別叙唱より)

三位一体とは何ぞや!要は、「神は愛である」とヨハネが言う(Ⅰヨハネ4:8)。愛は、神がなさることではなくて神の本質そのものである。愛であるならば、愛する相手は当然いるわけ。父から子への愛があり、子から父への愛があり、その相互の愛の実質は聖霊である。

だから、神は本質的に愛の交わりなのである。天地万物を、特にわたしたち人間をお造りになった一番大きな利用は、もっともっと愛を注ぐ先がほしかった、ということである。

そういうわけで、神、トコトン愛し合っている父と子と聖霊なる神は、最初からその愛の交わりにはわたしたちにも参加させようと思われたわけ。それが本来、人間の運命だった。神はご自分のもとに愛しい人間をずっと近寄らせようとしてこられた、ということ。

こういった神の本質への洞察はすべてイエス・キリストとの出会いから生まれたものだ。イエス・キリストにおいて、顔と顔を合わせて神と出会う、と教会は確信している:「父が持っておられるものはすべて、わたしのものである」(ヨハネ16:1)とイエスが仰ったいる。

わたしたち小さい人間にとって、全能で無限の神を理解することは無理だったので、み子において神はご自分を分かりやすい形にしてくださった。こういう意味でヨハネの福音書ではイエスが神の「ことば」と呼ばれる。イエスは天の父の自己表現であるのである。

わたしたちは神に近づきたいけれども、弱くて、そんな値打ちがないため恐ろしい。でもイエスにおいて、神がわたしたちに近づいてくださった。罪がわたしたちと神との間の大きな壁となっているけれども、イエスはこの壁を取り除いてくださった。

ヘブライ人への手紙では、次のように書かれている:
「わたしたちは、イエスの血によって聖所に入れると確信しています。イエスは、垂れ幕、つまり、ご自分の肉を通って、新しい生きた道をわたしたちのために開いてくださったのです...信頼しきって、真心から神に近づこうではありませんか」(ヘブライ10:19-22)

ありのままのわたしたちは、弱くて、罪に汚れている。でもイエスはその正しさをもってわたしたちを覆ってくださる。二度と神のみ前にいるのは怖くないはずである。むしろ、今はキリストによって、わたしたちはその子どもとして神に近づくことができるのである。
「時が満ちると、神は、そのみ子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました。それは、律法の支配下にある者を贖い出して、わたしたちを神の子となさるためでした。あなたがたが子であることは、神が、『アッバ、父よ』と叫ぶみ子の霊を、わたしたちの心に送ってくださった事実から分かります」(ガラテヤ4:4-6)

こういうわけで、「三位一体主日」をもって、神は愛の交わりそのものであることを覚える。そして、その交わりにわたしたちも受け入れていただける。イエス・キリストのおかげで、今も、そしていつまでも、神の明るい家に属する人となれることを喜びとして受け止めたいと思う。

カーナビと聖霊(ヨハネ14:21-29)

夕の礼拝 聖霊降臨日 2013年5月19日

今朝、使徒言行録の話があった。聖霊降臨の出来事。聖霊降臨日(ヘ゜ンテコステ)とは?家に集まっていた弟子たちの上に「聖霊」が降り、全員その聖霊に満たされた、と。

先ほど、ヨハネの福音書では、聖霊を送ることを予告するイエス。

聖書とは何?「霊」(フ゜ニューマ、ルアハ)=息、息吹、風。神の息が吹き込められること(=ちょっと口移しの人工呼吸に聞こえる!)

「イキ」=「息」、「生き」、「意気揚々」の「意気」=生命体の命ではなくて、豊かな命、イキイキとした命。つまり、聖書が言う「永遠の命」をもたらのが聖霊。

このような息が吹き込められた弟子たちは180度変わった。変えられた。脆弱で、引っ込み思案で、方向性のない集まりから、出かけて大胆にイエスの良い知らせを宣べ伝えるように変わったのである。

しかも、一時的なことではなくてずっとその後も、神の聖なる霊が内にあって、力と知恵を貸してくれることを体験する。神と共に働いてくださっている、という親近感があった。

聖霊は、ある意味でナビに似ていると思う。カーナビ・携帯ナビに目的地を入れると道を案内してくれる。間違って道からそれたら、戻るように案内してくれる。

わたしたちの目的地は天国、神のもと。顔と顔を合わせて神に会えるところ。そこまで辿り着く道を聖霊が案内してくれる。祈りの中とか、聖書を通して、また直感を通して。

でも車とかと違って、目的地ばかりが大切ではない。それに向かって進みながらやることはたくさんある。進みながら成長していく。人に仕えていく。イエスに似てくる:
「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」(ガラテヤ5:22-23)

そうなるには、イエスの掟・教えてことを守る。「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る」(ヨハネ14:21)。

聖霊はその守り方を教えてくれる。「弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる」(ヨハネ14:26)。

わたしたちはそれに協力するだけ。こうやって神は、わたしたち一人一人の周りにその国・その理想を実現していく。

難しいこと!でも例えには限界がある。聖霊はカーナビだけではなくて、力でもある。聖霊の助けを得て、周りの人たちに恵みをもたらす。自分にしか与えられていないあなたを通して、神は祝福をもたらす。

新しい教皇は言った:「心を聖霊に開き、神によって清められ照らされなければ、形だけのクリスチャンになってしまう」

聖霊に心を大きく開きましょう。