三位一体主日・聖霊降臨後第1主日(C年)
聖路加病院 聖ルカ礼拝堂
2013年5月26日年・10時30分 聖餐式
毎年、この「三位一体主日」では不可能なことをしようとする。それは、神の正体を理解しようとすることである。でも限られた人間は無限の神を理解できるはずがない。ただ、イザヤやヨハネに与えられた幻のように、イメージを通してその理解に近づくしかない。
幸いなことに、何も分からないというわけではない。神はご自身を示してくださっているから。そしてまず、神は唯一の神であることを示してくださっている。3,000年にわたって敬虔なユダヤ人は毎日こういう申命記の言葉を唱えてきた(シェマ):シェマ、イスラエル、アト゛ナイエロヘイヌ、アト゛ナイエハト゛。「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である」(申命記6:4)
神は唯一の主であることは理にもかなっていることだ。現実には一つの起点があるはず。宇宙の第一原因は一つ。すべてのものの創造者は一人いらっしゃる。神ご自身は造られざる者である。神は唯一である。
もちろん、「神」と呼ばれるものは他にもある。日本は神だらけ!でも言葉の意味は違う。「唯一の神」と「神々」の「神」を話すとき、同じ「カミ」という言葉を使うことで全く違うものを指し示していることを見失ってしまうかも知れないが、違うのである。
人間は何でも拝んでしまう。岩、木々、川、山、動物、太陽、月、先祖様、セックス、お金、権力、科学、名声。自分自身!いずれも「偉大なるもの」として拝んだりする。
でもこれらのことはみんな唯一の神ではない。これらのことは何もない状態から宇宙を造ったわけでもない。これらのことはビッグバンを引き起こしたわけでもない。「光あれ」のように、自分の言葉だけですべて存在あるものを存在させたわけでもない。
「主よ、わたしたちの神よ、あなたこそ、栄光と誉れと力とを受けるにふさわしい方。あなたは万物を造られ、み心によって万物は存在し、また創造されたからです」(黙示録4:11)
唯一の神以外にわたしたちの命の源があったり、わたしたちの運命を定めたりするものはないのである。
唯一の神はお一人。ちなみに、それは白髪のおじいさんではない!むしろ、命そのもの、絶対的な存在、時空を超越する方。神はモーセにこういうふうに自己紹介をなさった。「わたしは在る」(出エジプト3)。神お一人は現実の根底である。
イザヤの幻で、天使たちは歌っていた。「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主」(イザヤ6;3)。ヘブライ語の「聖なる」(KBD→カホ゛ト゛)という言葉は絶対的な存在というニュアンスを持っている。「聖であること・神聖」の語根の意味は「重み」となる。自立して重み=実在があるのは神だけである。神と比べてわたしたちは極めてはかない者、煙よりも軽いものとなる。神は実質のある、重みがある方。
だから神への憧れは人間の心に刻まれているのだと思う。聖なるものに近づきたいと思う傾向。命が神によるわたしたち人間は、自分の存在のはかなさをどこかで感じてしまう。そうすると、重みのあるもの、頼りになれるものを求めたくなる。本物の命、豊かな命、永遠の命を求める。つまり、神を求めるわけである。
しかし同時に、神に近づくのは恐ろしい。煙、羽根のように軽いわたしたちは、重みのある、実質のある神に近づくと圧倒されるだろうと分かっているから。
しかも神は正しい方だと分かっている。十戒や律法ではこれが明らかになるけれどもそれ以前、人間は生まれながらその心の奥底で唯一の神は正しい方だということが分かっていると思う。
神は聖なる正しい方。それに対してわたしたち人間は、煙のような軽い存在だけではなく、罪に染まっている存在である。(罪は犯罪ではなくて神の道からはずれることを意味する。)わたしたちは、余儀なく世の中の自己中心の態度や貪欲や無関心に染まっているし、わたしたち自身もそれに加担している。神に背を向けて日々の生活を送る。そういうわたしたちは神に近づけるはずがない。
だからこそ、あらゆる時代であらゆる社会や文化では、人間は神なるものに供え物をする。収穫の初穂、酒、さい銭、動物の血、昔の文化では人の血さえ奉納することもあった。
これは全部、聖なる神に接近することを許してもらうため、そして神の恵みをいただくため。神のご利益やご加護にあやかりたいからである。でも裸の自分、ありままの自分では神に近づく値打ちがないことが分かっているから、こういった価値のあるものを捧げる。
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イザヤは紀元前7世紀の預言者。幻の中で彼は天の玉座を見た。イザヤにとって、とても恐ろしい経験だったようである。
「災いだ。わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇の者。汚れた唇の民の中に住む者。しかも、わたしの目は/王なる万軍の主を仰ぎ見た」(イザヤ6:5)
イザヤはもう死ぬかと思っている。罪に染まっている自分は神のみ前に立つ値打ちがないと分かっているから。聖なる正しい神に近づいたら、自分の存在は消えてしまう。朝の霧が昇る日によって晴れていくのと同じように。
でもここで注意していただきたいのは、神がイニシアティブを取ること。イザヤがそこに居続けることができるように、神は備えてくださったのである。主の天使、セラフという火の天使のひとりが、炭火を持ってイザヤのところに飛んで来る。
「彼はわたしの口に火を触れさせて言った。『見よ、これがあなたの唇に触れたので、あなたの咎は取り去られ、罪は赦された』」(イザヤ6:7)
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神ご自身、イザヤがみ前に立ち続けられるようにしてくださったのである。
ここで「三位一体主日」の話の続きへの大きなヒントがある。神は唯一の神である――と同時に、神は単独ではなくてコミュニティである。これは教会の最も貴重な発見:唯一の神は「ただ一位ではなく、三位一体であられます」(「三位一体主日」の特別叙唱より)
三位一体とは何ぞや!要は、「神は愛である」とヨハネが言う(Ⅰヨハネ4:8)。愛は、神がなさることではなくて神の本質そのものである。愛であるならば、愛する相手は当然いるわけ。父から子への愛があり、子から父への愛があり、その相互の愛の実質は聖霊である。
だから、神は本質的に愛の交わりなのである。天地万物を、特にわたしたち人間をお造りになった一番大きな利用は、もっともっと愛を注ぐ先がほしかった、ということである。
そういうわけで、神、トコトン愛し合っている父と子と聖霊なる神は、最初からその愛の交わりにはわたしたちにも参加させようと思われたわけ。それが本来、人間の運命だった。神はご自分のもとに愛しい人間をずっと近寄らせようとしてこられた、ということ。
こういった神の本質への洞察はすべてイエス・キリストとの出会いから生まれたものだ。イエス・キリストにおいて、顔と顔を合わせて神と出会う、と教会は確信している:「父が持っておられるものはすべて、わたしのものである」(ヨハネ16:1)とイエスが仰ったいる。
わたしたち小さい人間にとって、全能で無限の神を理解することは無理だったので、み子において神はご自分を分かりやすい形にしてくださった。こういう意味でヨハネの福音書ではイエスが神の「ことば」と呼ばれる。イエスは天の父の自己表現であるのである。
わたしたちは神に近づきたいけれども、弱くて、そんな値打ちがないため恐ろしい。でもイエスにおいて、神がわたしたちに近づいてくださった。罪がわたしたちと神との間の大きな壁となっているけれども、イエスはこの壁を取り除いてくださった。
ヘブライ人への手紙では、次のように書かれている:
「わたしたちは、イエスの血によって聖所に入れると確信しています。イエスは、垂れ幕、つまり、ご自分の肉を通って、新しい生きた道をわたしたちのために開いてくださったのです...信頼しきって、真心から神に近づこうではありませんか」(ヘブライ10:19-22)
ありのままのわたしたちは、弱くて、罪に汚れている。でもイエスはその正しさをもってわたしたちを覆ってくださる。二度と神のみ前にいるのは怖くないはずである。むしろ、今はキリストによって、わたしたちはその子どもとして神に近づくことができるのである。
「時が満ちると、神は、そのみ子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました。それは、律法の支配下にある者を贖い出して、わたしたちを神の子となさるためでした。あなたがたが子であることは、神が、『アッバ、父よ』と叫ぶみ子の霊を、わたしたちの心に送ってくださった事実から分かります」(ガラテヤ4:4-6)
こういうわけで、「三位一体主日」をもって、神は愛の交わりそのものであることを覚える。そして、その交わりにわたしたちも受け入れていただける。イエス・キリストのおかげで、今も、そしていつまでも、神の明るい家に属する人となれることを喜びとして受け止めたいと思う。
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