2011年12月29日木曜日

言えること、言えないこと

病院のブレストセンター年末「まとめの会」における、この一年間で亡くなられた患者さんのために一言祈るように頼まれた。

喜んで引き受けた。が、その祈りの内容でちょっと戸惑うことがあった。すなわち、イエス・キリストを主、また救い主として受け入れていなかった人のために、どう祈ればいいか、ということ。

わたしにとって新しい問題ではないが、いろいろ考えさせられた。祈祷書の殆どの祈りは信徒の逝去を前提に書かれている。一つだけ「洗礼を受ける機会がなかった者のため」というものがある。
万民の主、全能の神よ、洗礼によってみ子イエス・キリストの死とよみがえりにあずかる機会を得ないでこの世を去った人たちを顧みてください。どうか主の深い慈しみのうちに彼らを守り、主の全きみ旨を成し遂げてくださいますように、み子、救い主イエス・キリストによってお願いいたします。 アーメン
いい祈りだと思うけど、病院の会議という設定で、患者さんと同様にその場にいる殆どの人たちもノンクリスチャンだし、わざわざ洗礼を受けたか受けなかったかという話をするのは、ちょっと乱暴すぎるかな、という気がする。

でも内容は適切だと思う。つまり、聖書を大事にする教会では、ノンクリスチャンの最終的な行く先について言えることと言えないことがある、ということ。

まず言えること、そして大きな声で言うべきことは、これである:

「神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます」(1テモテ2:4)
だから、どんな状況でも、神の憐れみに信頼をかけることができる。神のみ心は、すべての人々が救われることだ、ということ。そのために神は、どのタイミングでどの方法でその人その人に働きかけてくださるかは、計り知れないものだと思う。でも、一人一人の人が救われる、真理を知るようになることは、神が望んでおられることだということは確実である。

が、しかし、だからと言って、すべての人は無条件に救われるかというと、それはやはり否定しなければならない。イエスご自身はその可能性を否定なさったのである。
「そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分ける」(マタイ25:32)

さらに...
  • 「わたしのこれらの言葉を聞くだけで行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家に襲いかかると、倒れて、その倒れ方がひどかった。」(マタイ7:26-27)
  • 「イエスは言われた。『わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない』」(ヨハネ14:6)
  • イエス・キリストの「ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」 (使徒言行録4:12)
ほかにもたくさんある。しかも、上記の「すべての人々が救われることを望んでおられる」というみ言葉の引き続きはこれである:
「神は唯一であり、神と人との間の仲介者も、人であるキリスト・イエスただおひとりなのです」(1テモテ2:5)
 
だから?救いはイエス・キリストによるものである、と言わざるを得ない。イエスを主、救い主として受け入れる人は「神の子となる資格が与えられ」(ヨハネ1:12)、「永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている」(ヨハネ5:24)のである。

それなら、ノンクリスチャンには、果たして望みはあるだろうか。

もちろん、ある!イエスはすべての人の罪のために命を捧げられた。そして:
「神は、その独り子をお与えになったほどに、[この]世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神がみ子を[この]世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、み子によって世が救われるためである」(ヨハネ3:16-17)

結局、わたしたちすべての人の望みの根拠になるのは、神の慈愛のほかならない。

自分の正しい生活とか、何かの決まり文句を一度口にしたことがあるとか、誰かが頭の上に水を注いだことがあるとか、そういうことが天国へのフリーパスになり得ない。

神の驚くべきほど大きな大きな愛の恵みによって、そしてイエス・キリストを通して、人は救われ得るのである。

その恵みが過去、現在、また将来存在するすべての人一人一人に明らかに促されるときがある。そのタイミングは、何とも言えない。生きている間だの、死という区切りを迎える瞬間だの、死んでからのどこかだの、人間には分からないことである。

だから、亡くなった患者さんのためにもちろん祈れるし、祈るべきだと思う。神の慈愛を確信して、そのみ手にゆだねるべきである。すべての命を授かってくださった神は、必ずその命の上に全きの愛のみ胸を行いますように!

ちなみに、ブレストセンターの祈りは次のように考えてきた。いかがでしょうか。
ブレストセンター逝去者記念の祈り
全能の神、すべての命の源である主よ、この世においても次の世においても、主の憐れみと慈しみは絶えることはありません。わたしたちがその治療に関わってきた患者さんのために、主は、わたしたちが求めたり、思ったりすることすべてをはるかに超えて世話してくださっていることを知っています。神よ、特にこの一年間で亡くなられたブレストセンターの患者さんを覚えて祈ります(ことに___)。この患者さんを初め、世を去ったすべての人をその創造主、また救い主である神のみ手にゆだねます。主の限りない憐れみと知恵と力をもって、彼らの上に主の全きの愛のみ旨を成し遂げてください。主イエス・キリストによってお願いいたします。 アーメン 

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