2011年12月6日火曜日

なぜいやしの祈りをするのか

2011年12月4日の17:00で初めて試みた「いやしの祈り」夕の礼拝でのトーク...

なぜ、今夜の「いやしの祈り」をするのかというと、おもに3つの理由があると思う。

① イエスご自身がいやしの祈りをものすごく大事にしておられたから...

ペテロがイエスのキャリアをまとめる:
「神は、聖霊と力によって[ナザレのイエス]を油注がれた者となさいました。イエスは、方々を巡り歩いて人々を助け、悪魔に苦しめられている人たちをすべていやされたのですが、それは、神が御一緒だったからです。」(使徒言行録10:38)

イエスの働きの中でいやしが何よりも大事にされていたのである。

② イエスの弟子たちもその働きをそのまま引き継いだから...

今日の聖書箇所=使徒言行録3:1-10。聖霊がくだってきた間もなくの話だが、ペテロとヨハネが生まれながら足の不自由な人のために祈り、その人が治った。

「イエスの名によって」と書いてある。聖書では、人の名によってするというのは、その人の権威・権力を持って、その代わりにする、という意味。

教会はイエスの権威・権力を授かっているので、いやしの祈りに励む。

③ イエスはその教会に命じられたから...

「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい...[そうする人たちには]次のようなしるしが伴う...病人に手を置けば治る。」(マコ16:15a, 17, 18b)

イエスに派遣されているから、わたしたちはいやしのために祈るのである。

でも、何でこんなにいやしを強調されるのか?

イエスは一生懸命に「神の国」を伝えようとしておられた。

「神の国は近づいた!」それは、イエスご自分のメッセージでもあり、弟子たちを派遣したときに彼らに託したメッセージでもある。どこかに行ったら「その町の病人をいやし、また、『神の国はあなたがたに近づいた』と言いなさい」(ルカ10:9)。

神の国とは何なのかというと、神の憐れみと慈しみが現されること。神が望んでいらっしゃることが実現されること。

これを言葉だけでは伝わらない。実感してもらえるためにイエスはいやしに力を注がれたのである。

神の国が近づくと、事柄が変わるのだ。目に見えることである。神の国は、人の人生にインパクトがある

何よりも、人がいやされる!体と心と魂がいやされるのである。
体のいやしとは、病、痛み、人に仕えることを妨げる苦しみが取り除かれる。
心のいやしとは、孤独、絶望、不安が取り除かれる。
魂のいやしとは、神から離れている思い、罪に苦しんでいる思い、人とうまく行かないことがが取り除かれる。

つまり、その人の本来のイキイキとした姿が取り戻されることである。

この病院や看護大学も同じビジョンを持っている。つまり、人間の幸福、平安、喜び、健康(=well-being)

このビジョンはそもも神の国のビジョン、神の憐れみと慈しみを受け入れた人たちの間で生まれたビジョンなのである。

今夜わたしたちが望んでいるのは、神の国が目に見える形になること。それだけである。魔術でも、ただのフィーリングや雰囲気でもない。単純に、神がわたしたちの間で働き、体と心と魂の本来の元気な姿を取り戻してくださるように願い求めたいと思う。

0 件のコメント:

コメントを投稿