2011年11月4日金曜日

赤ちゃんの英知

2011年11月、病院の職員向けの月報「明るい窓」に搭載される「チャプレンからのメッセージ」

父親になる前は、あまり赤ちゃんに注意を払わなかった。男性はそんなに触れ合う機会がない、実は。可愛らしいものだと思っていた。子犬や小人図鑑のフィギュアみたい。でもそれほど興味がない。

しかも、臭いオムツとか、泣き叫ぶこととか、親が寝不足になるとかを聞くと、その可愛らしさがなくてもいいのかな、とも思っていたのである。

ところが一人目の赤ちゃんが生まれて、初めて新生児との付き合いが始まった。抱っこして寝かせたり、その小さな呼吸音を聞いたり、ミルクを飲ませたり、胸に乗せて二人で昼寝したり、肩に乗せて散歩したりするなど、いろんな新しい経験ができた。

確かに山ほどの臭いオムツを替え、泣き叫ぶ声に耐え忍び、慢性寝不足を我慢しなければならなかったが、あまり気にならない。

赤ちゃんはすごく面白いから。謎のかたまり。いつ見ても飽きない。

しかし、やがて赤ちゃんは成長して小さな人になる。それでも一緒にいるのが楽しいけど、不思議さは確かに少なくなる。

最近、教会の祭りで、友人の7ヶ月の娘を抱っこして歩き回らせてもらった。その子は全く人見知りせず、抱かれるがままになってくれた。

(思い切りアジア人の顔をしている女の子をいろんな人に見せて「ほら、次女だよ。似てるでしょう?」と紹介して、その一瞬戸惑う表情を見るのも一つの楽しみだった...)

赤ん坊というのは、どんな状況に置かれても、その現実を素直に受け入れることは、実に不思議。そして親への完全な信頼も不思議。

成長していくとこどもは周りの環境を変えようとするようになる。自分に力がないから、周りの人を動かそうとする。うるさく願い続けるとか。脅してみる。罪悪感を抱かせてみる。論理的に主張してみる。「いいもの交換」の取り引きをしてみる。大人と変わらない。大人はただもっと上手になるだけ。

また、こどもはその親を疑うことを学んでいく。なぜかというと、してほしいことをしてくれるときもあれば、してほしいことよりも「すべきこと」をしてくれるときもあるから。

とにかく、いつの間にか、置かれている環境は変え得るものとして見るようになる。そして周りの人は、完全には信頼できない者として見るようになる。

ところが、この成長過程をたどっていく中で何か大事なことを見失ってしまうのではないか、と考えるときがある。

赤ちゃんは生まれながら、ある意味で悟りを開いていると思う。知識でも、情報でも、理屈にかなった推論でもなく、ある種の直感を持って生まれるのだと思う。

例えば、自分を越えた存在があり、その存在によって自分が生かされていることが分かる。その存在を知る前から、知られていた、自分に名前が付いていることに気づく前から、名前が呼ばれていたのだ、ということが分かる。

また、助けや慰めを求めて叫びをあげたら、必ず誰かがそれを聞き入れてくれる、と。

そして、何があっても最終的には大丈夫だ、ということが分かる。痛み、空腹、恐怖、悲しみ、孤独を一時の間味わうかもしれない。が、やがてすべてが大丈夫だ。見捨てられることはないのだ、ということが分かるのである。

たまに、赤ちゃんを抱っこさせてもらうことがあると、大人である自分が何か大事なことを見失っているのではないのかな、と思わされる。

そして、その大事なことを取り戻す方法はないだろうか、といろいろ考える。

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