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2013年6月9日日曜日

まことのパワースポット、イエス(ルカ7:11-17)

聖霊降臨後第3主日(特定5、C年)
聖路加病院 聖ルカ礼拝堂
2013年6月9日年・10時30分 聖餐式


流行りというものは不思議な現象だと思う。

17世紀のヨーロッパでの「チューリップバブル」はご存知?ヨーロッパ、おもにオランダでチューリップの価格は一気に100倍上がったという有名な話がある。

日本も流行り帝国だと思う。約15年前の「たまごっちバブル」は覚えている?出荷するという噂があるだけで3日前から店の前で並んだりする光景がよく見られた。当時、日本ってどういう国だろうと思っていた。が、後で同じTAMAGOTCHIバブルがアメリカでも起こった話を聞いて何も言えなくなった。

大昔、日本におけるウサギブームはご存知?明治初期に起こった(5年ぐらいから)話である。

特に手に入れにくい、外国種の耳の長いウサギが流行したわけ。珍種のウサギは、実際一匹(一羽が正式だけど何で?!)は400円と値段のついたケースも。400円は大したことじゃないと思うかも知れないけれども、当時400円は米12t分に相当する高額だった。

あまりにも流行りすぎてしまって、ウサギに税金がかかった。ウサギの売買の勢いが止まらないから、高い税金を掛け、ウサギ熱を冷ますという狙いだった。ウサギ一匹につき、税金「1円」という法律ができた。当時の1円は米30kg。また、無許可で飼っている場合は2円の罰金!

日本では最近、パワースポットというものが流行っている。パワースポットとは何だろう。一応、地理的な場所で、そこを訪ねる人は特別な何かを感じる。何らかの力、聖なる存在、神、母なる地球など、目に見えない何かを身近に感じるという人がいる。テレビで見るとだいたい若い女性アナウンサーが「いやされる~©」というつまらないコメントをすることが多い。そういう場所。

「パワースポット」という言葉そのものは和製英語だけど、その概念は日本以外にもある。古代のアイルランド人の間で「薄いところ」という話があった。天と地との境界線が薄くなって、天はこの世にあふれ出るようなところ。

書店に行けばおそらく日本中、世界中のパワースポットを教えてくれるガイドブックがあると思う。さて、こういうパワースポットについてどう考えればいいのだろうか。

聖書によれば、神はこの世と世の中のすべてのものをお造りになった。「主の栄光は天地に満つ」と。だから世界の至るところはその造り主を示し得るわけ。世界中は神の指紋だらけになっている。

つい先週の金曜日、病院の新しい研究センター(医療イノベーション部)の部長、東大の科学者である入村先生が仰った:「地上の生き物を詳しく見れば、大きな意思の存在を感じないわけにはいかない。」

だからもしかしたら、実は全世界がパワースポットであって、普段それを認知しないだけかも知れない。いわゆるパワースポットは、天とかを垣間見れるところではなくて、ありのままの地球に気づいているところだけかも知れない。
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昔のユダヤ人にとって、エルサレムにある神殿は偉大なるパワースポットだった。パワースポットの中のパワースポット。神殿(ユダヤ教の本山)は神の住まいと呼ばれていた――実際に全能で永遠の神がそこに住み得るとは当然思っていなかったけれども、神殿で神と触れ合えると信じていたわけ。

神殿の最も奥にある「至聖所」は、神が身近におられすぎて実は恐ろしかった。至聖所には一般信徒は近寄らない。徹底的に身を清めて、ちゃんとしたいけにえを携えている大祭司一人だけが、年に一回だけ入るところだった。(「いやされる~©」のではなくて「死んじゃう!」というコメントがふさわしい!)

至聖所はパワフルすぎるところだったけれども、神殿そのものでは、神と仲直りができる場所(捧げ物を通して)。神の導きを得られる場所(祭司の指導によって)。神とコミュニケーション取れる場所(祈りを通して)。神と一緒にいることを楽しむ場所(祭りを通して)。

詩編84編はこういうことを語る:
「万軍の主よ、あなたのみ住まいは麗しい。わたしの魂は主の庭を慕い、心を込めてあなたの命を喜び歌う...あなたの庭で過ごす一日は、千日にもまさる」(詩編84:1-2, 10a)
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神殿のことを考えれば、確かに神は特定の場所で人と触れ合うことがある、ということが分かる。しかしクリスチャンにとって、イエス・キリストによって神殿への理解がかなり変わった。

イエスはサマリア地方で、ある井戸のところにサマリア人の女性とのやり取りがあった。その中でイエスは、ある地理的な場所が他の場所より神に出会いやすい考えを否定なさった。ユダヤ人にとってエルサレムの神殿こそ神と出会いやすい場だったが、サマリア人にとってはゲリジム山が聖なる場所だ。

サマリア人の女性がこういうことに触れるとイエスはこう言われた:
「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る...まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」(ヨハネ4:21-24)

霊と真理をもって礼拝しなければならない。ある「場所」ではなくて、心の態度が大事。神との正しい関わりがその条件だ、と。
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後にイエスはご自分が神殿に代わるようなものだという話をなさる:
「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」(ヨハネ2:19)ご自分の十字架の上の死と、三日後の復活のことを話しておられた。この神殿はイエスご自身。

つまり、わたし自身が一番のパワースポットだ、とイエスが主張しておられた。しかも、固定の場所に限られるのではない。イエスが国中を巡り歩きながら、神の身近な存在を痛感させておられたのである。

今日の福音書でも、ナインの人たちはそういうことが良く分かったと思う。イエスがやもめの一人息子を死者の中から生き返すのを目撃したわけである。「いやされる~©」どころか、死んだ人が生き返った!のだ!
「人々は皆恐れを抱き、神を賛美して、『大預言者が我々の間に現れた』と言い、また、『神はその民を心にかけてくださった』と言った。」(ルカ7:16)

神はその民を心にかけてくださった。これはわたしたち人間の心の奥底にある熱望である。すなわち、神に見放されず、神に見捨てられず、この地球という大きな島に置き去りにされていないで、神はわたしたちを心にかけてくださっているのだ、と。これこそパワースポットへのあこがれだと思う。一人ぼっちではない。神に、偉大なる者がわたしたちを心にかけてくださっているのだ。

その日ナインの人たちは神の憐れみと恵みを痛感したのである。彼らにとって、神は漠然の遠い存在ではなくて、すぐそこに、身近な存在であることが分かった。
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イエスは公の働きの最初に宣言された:「時は満ち、神の国は近づいた!悔い改めて福音を信じなさい!」(マルコ1:15)。後に言われる:「実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ」(ルカ17:21)。

イエスのミッション、すべての言葉と行動の目的は、この真実を世の中に示すことだった。

昔の農業電化プロジェクトに似ている。まず発電所から地域に電気を送るための巨大なケーブルを取り付ける。でも、各家はまだそれにつながっていない期間はしばらくあった。

そのとき、電力会社の者は宣教活動をした:「実に、電気の国はあなたがたの間にあるのだ!」。

そして農業の人たちはこの福音(良い知らせ)を信じて、自分の家に電気を入れさせる必要があった。そのとき、生活は永久に変わった。
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神の国はあなたがたの間にある。すでに。イエス・キリストは何よりのパワースポットである。イエスにあって、天と地の境界線が薄くなっているどころか、亡くなっている。ナインの人たちにとって、弟子たちにとって、イエスに触れられていやされ、解放されたすべての人にとって、イエスを通して天国がこの世に突入してきた。

わたしたちは神に近寄りたかったら、パワースポットのガイドは必要ではない。イエスがいらっしゃる。イエスの霊が与えられている。ある特定の場所だけではなくて、イエスにあって神がわたしたちに近寄ってくださる。
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しかも、イエスはその聖霊を教会に与えてくださっている。聖パウロはコリントに住んでいたクリスチャンに書いて:「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。」(Ⅰコリント3:16)

だから今は、教会そのものもパワースポットになっているはず。建物ではなくて、集まっているわたしたち自身。このに来れば、神に触れ合える(はず)。神の恵みと愛といやし、導きを、集まっているクリスチャンを通して痛感できる(はず)。

ここもパワースポットだし、この後解散して各自自分の生活に戻ってからも、わたしたち一人一人も小さなパワースポットになる。

考えたことはある?自分自身は、職場で同僚とやり取りしているとき、週末家族と一緒に過ごすとき、旦那さん・奥さんや友人と一緒に夕飯を食べるとき、コンビニの店員とたわいない会話をするとき――あなた自身が歩くパワースポットである。

そういうことを常に意識したら、どう変わるのだろうか。今週、イエスさまの「歩くパワースポット」として一週間を過ごしてみませんか。

2012年12月5日水曜日

ナガラ族が損する


『明るい窓』(病院職員ニュースレター)6月号
チャプレンからのメッセージ


チャプレンらしくないと思われるだろうけれど、僕はちょい悪なゲームを考えたことがある。「スマホンビ・ハンター」と名付けたゲームである。「スマホンビ」というのは、「スマホ・ゾンビ」の略――すなわち、スマートフォンや携帯電話などに目をくぎ付けにしながらよたよたと道やホームを歩く人たちのこと。

ゲームのやり方は、ハンターが近寄ることや足音を出すことでスマホンビを驚かせようとする。向こうが何か反応するとポイントを取得する。びびるともっと高いポイントを得る。スマホンビが「おっ!」とか声を出したらさらにボーナスポイントがもらえる。

ただし、ハンターが声を出したり接触したりするのは反則(というか、逮捕されるおそれがあるのであまりよろしくない)。

実際にこのゲームを(あまり)やったことないけれど、たまには頭の中でこういうことを想像している。チャプレンにもイジワルな部分があるってこと。

まあ、懺悔はそこまでにしておこう。僕は最近「ナガラ族」のことを考えている。スマホンビ以外にも「ナガラ族」のメンバーはあちこちに現れる。そわそわと携帯電話をチェックしながら友人とお茶をする人。テレビを見ながら夕飯を食べる家族。週末、ずっとiPadをいじりながら子どもと(一応)一緒にいる父親。などなど。

なんと、コンピュータモニターばかりを見ながら患者さんとのやり取りをする医師もいるらしい。僕は自分の目で見たことがないから、これはただの都市伝説かもしれない(笑)。

他事をしながら何かをするというのは、素晴らしい才能だと思う。そうやって生産性を高めて、総じて仕事量を増やすことができる。僕ももっとできるようになりたい!

でも合理性があまり求められていないときもある。逆に量よりも質の方を大事にすべき場合がある。特に人とのコミュニケーションや交流においてそうだと思う。こういう場合は、ナガラ族の人たちが損すると思う。

相手の話を聴く、相手に自分の思いや気持ちを伝えるとき、何かをやりながらだとあまりうまく行かない。目を合わせて、心を合わせて、「今の瞬間は100%わたしたちのためにある」という態度で向き合うと、本当のコミュニケーションが初めて生まれるのだと思う。

たとえ忙しくてバタバタしている時期でも、今、この瞬間、時間はたっぷりあるかのように相手に向き合えるスキルも素晴らしいものだと思う。このように一心に向き合う1分は、ナガラ族の10分よりずっと意味があると思う。

僕も、こういうふうに同僚、患者さん、家族とよりよいコミュニケーションを目指したいなと思う。

最後に、スマホをやりながら歩く方にひとことを言わせていただく:気を付けて!狙われているかもしれないから...

2012年5月18日金曜日

ワイだよワイ!

2012年5月号「チャプレンからのメッセージ」『明るい窓』病院の職員向けニュースレター

日本のお笑い芸人の中で出川哲朗という大ベテランがいる。「リアクション芸人」に分類されるだろう。世界各地に派遣され、ライオンの口に頭を入れたり、山間のもろい縄の橋を渡ったり、3千メートルからスカイダイビングをしたり、昆虫を食べたりするなど。バカバカしいけどつい見てしまう。

出川は「天然いじめられっ子」としてバラエティ番組にもよく出る。へまばかりして集団いじめを招く。そして袋だたきにされる出川は、いきなり両手のひらを上にして天に目を上げて「ワイだよワイ!」という嘆きを吐く。この一発ギャグで必ず笑いを取る。僕のも。

医師、看護師などの医療関係者は「What」(何)と「How」(どうやって)によく取り組む。患者さんの疾患は何なのか。どうやってそれを治せるのか。

僕はチャプレンとして「Why」(なぜ、どうして)という質問に付き合うことが多い。どうしてわたしがこの病気になったのか。なぜ妻と別れなければならないのか。そしてもっと基本的なレベルで、どうしてわたしが生れたのか。なぜ俺が生きているのか。よくそういう問い掛けに付き合うのだ。

こういう質問には、明快で、100%満足できるような答えがなかなか出ない。しかしそれでも、Whyというのは大切な疑問。人間らしい疑問。投げ掛けがいのある疑問だと思う。

皆さんにも、できればWhyという問いかけをいとわないでほしい。もちろん、患者さんのWhyをはぐらかさない方がいいと思う。医療関係者が解決を追求するのは当然。でも時々専門家としての立場を捨てて、同じ人間としてその嘆きであったり、慰めへの要求であったり、生きる意味への探求であったりする患者さんのWhyに耳を傾けてあげると、すでにその人の中に潜んでいた答えや閃きに気づいてもらえることは意外と多いかもしれない。

そして皆さんには、ぜひ自分自身に対してもWhyをどんどん投げ掛け続けてほしい。なぜ自分がこの世に生を受けたのか。どうして生きているのか。なぜ職場は聖路加になったのか。どうして今までのさまざまな経験をして来たのか。なぜある分野に特別な関心を持っているのか。どうして時間をかけてこのチャプレンメッセージを読んでいるのか(笑)。

などなど。

大切なWhyを探求することなく人生を送るのはもったいない!

Whyを投げ掛け続けると、自分自身の胸の中に潜んでいる、思いがけない答えに出会えるかも知れない。「ワイだよワイ!」

2012年5月12日土曜日

道を迷わないため(知恵の書4:16-5:8)

2012年5月2日「夕の祈り」オルガンコンサート
聖路加国際病院 聖ルカ礼拝堂

最近、久々に本格的に道を迷うことがあった。

ある老人ホームでのミーティングの予定があった。誰かと一緒に前に1回行ったことがあったところなので、大丈夫だと思った。およそ30分早く駅に着いたもので、余裕だと思って歩き出した。

持っていた地図はNGだった(という言い訳を使おう)。インターネットから印刷したアクセス・マップみたいなもので、目印は本当に少なくて、しかもそれだけ見れば、一回だけ曲がればあと直線で行けると思わせるような地図だった。

しかも、見た感じでは徒歩2-3分の距離しかないように見える。「前回来たときにもっと歩いたはずなのになぁ...」と思った。

出発して2-3分どころか7-8分もの歩いて、それでも地図にある目印一つも出て来ない。どんどん不安になってくる。

プライドを捨ててその辺を歩いているお姉さんに聞くことにした。(可愛い女性でもあったのは、話し掛けたことと何の関係もない!)

行きたい施設の名前を言ってもよく分からないようだった。地域ではこの施設が結構知られているはずなのに。

そして、お姉さんとやり取りをしているうちに気づいた:地図では、北が下になっている!

長年日本に住んでも何度も間違ったことである。アメリカではどんな地図でも、必ず北が上で、必ず南が下になっているのである。だから考えないでこのアクセス・マップを見て「北が上だ」と思い込んでしまったわけである。

急いで駅まで引き返して最初からやり直し!まだ時間があるので、間に合う!今度こそ大丈夫...と思いきや、また迷ってしまった。

確かに方向的にこっちだったんだろうなと思いつつ、見ている風景と地図に書いてあるものとあまり一致しない。

今度、完全にプライドを捨てて(相手も選ばず)誰かと擦れ違う度に聞くことにした。あるお母さんと娘さんに聞くと「ずっとまっすぐに行って右に入る」と言われたので、進んでいく。

だが、犬の散歩をしているおじさんに聞くと、向こうは自信満々で「あっち行かないと!しかも遠いよ!」と言われちゃう。

もう一人の人に尋ねたかったけど、その人は僕の顔を見てかなりびびってしまったので「すいません!」と聞くのをやめた。(そんなに怖い顔をしているかな?!)

かなり遠回りしてから、結局、先のお母さんの仰るとおりに行けばよかったことが分かった。

やっと会議の場所に辿り着いた。余裕で着くと思ったところで、20分遅れてしまって。

でももう一人、さらに20分送れて到着する人もいた。彼女に聞いたら、犬の散歩をしているおじさんに「あっち!あっち!しかも遠いよ!」と言われたらしい...(笑)
+   +   +
迷わないためにいい地図が大事だね。あるいはちゃんと案内してくれる人がいないと。

(また最近、歩行者用の携帯ナビも役立つだろうなと思う、アナログ人間であるわたしはそんなテクノロジーに向いていないと思う...)

一番いいのは、道が分かって同行してくれる人。

人生も似ているものだと思う。正しい道が分からなければ迷いやすいものだと思う。

先ほど、「知恵の書」を読んだ。聖書で言う「知恵」(ヘブライ語:ホックマ、ギリシャ語:ソフィア)というのは、ナビゲーションができるための教え、良い道に誘導する教え、というニュアンスがある。

今日の聖書のメッセージは、神さまがお造りになった世界だし、神さまがお造りになったわたしたちだから、一番良い道、一番豊かな道を案内できるのは神さまだ、ということ。

逆に神がいないかのように生きる人は迷子になってもったいない、ということ。

どのような生活をすればいいのか、分からない。だから、ブラブラしながら何とか生きていくけど、いつの間にか時間だけが経って、ひとかどの人生とは言えない自分がいる人は少なくない。

また、ただ周りに流されてしまう。世の中には、犬の散歩をしていたおじさんのように、変なことを言う人は大勢いる。
「大事なことはお金だ!」とか
「大事なことは自分を豊かにすることだ!」とか
「仕事で成功することが生きる意味!」とか
「精一杯楽しまなきゃ!」とか
「まず自分の幸せを考えないと」とか

そしてもちろん商売の舌先三寸はこれである:「モノを手に入れれば幸せになるよ!」というウソ。

このように、自信満々でこういったメッセージばかりが伝わってくる。

日本では、大勢の人が間違ったことを言ったら、それが間違っていても「常識」になってしまう!そして逆にそういう間違った考えに左右されないで、正しいことを大事にしようとする人はいつの間にか「非常識」になってしまう!

でも、それは日本だけではないようである:
「この[人たち]を、かつて我々はあざ笑い、/愚かにも、ののしりを浴びせた。その生き方を狂気のさた[=非常識、おかしい]と考えた...それがどうして神の子らの一人となり、/聖なる人たちの仲間に加わったのか。
我々はまことの道を踏み外した。義の光は我々の上に輝かず、/太陽も我々のためには昇らなかった。
我々は不法と滅びの道をひたすら歩み続け、/道なき荒れ野を突き進んだ。主の道を知ることがなかったのだ。
高慢は我々にとって何の役に立ち、/富とおごりは何をもたらしてくれたか。」

世の中では、人生の地図をさかさまにしている人、迷っている人、間違った案内をしようとしている人は大勢いる。これらの人たちに惑わされないで、本当の良い道を教えてくれる人を見つけるのが、わたしたちの課題だと思う。

一人一人の歩むべき道が分かっている方に尋ねるのが、知恵の始まりではないかと思う。

2012年3月15日木曜日

a startling discovery

A newly unearthed fragment from the end of Matthew's Gospel, dated possibly to the first century.
"Therefore go and instill a general understanding of Christianity in all nations, affirming them in their own spiritual quests and urging them at least to to take under consideration those things I have taught which do not conflict with current public opinion."
This authoritative new text is set to be included in an upcoming Nippon Sei Ko Kai translation of the Bible.

最近発掘されたマタイによる福音書28章の写本の一部(1世紀?)
「だから、あなたがたは行って、すべての民をキリスト教の良き理解者にしなさい。彼らなりの霊的追求を肯定し、あなたがたに教えておいたことの中から、現代社会で広く支持されている考えに相容れるものと少し向き合ってもらえるように勧めなさい。」
近いうちに出版される日本聖公会の聖書にこの新しい文が採用される予定。

2012年3月7日水曜日

何かをやめる

「夕の祈り」オルガンコンサート
聖路加国際病院 聖ルカ礼拝堂

今、教会の暦で大斎節中。大斎節とは、2月の半ば(灰の水曜日)で始まり、イースター(復活祭)前の40日間。

これはより一層自分を振り返ったり、見詰めなおしたり、聖書を読んだり、祈ったりする時期です。

やや地味で、ちょっと緊張感のある時期です。受験前の2ヶ月間に似ているかもしれません。日曜日以外、この時期にお祝いをあまりしません。結婚式も原則として行わないのです。

何で40日間というと、聖書によれば、イエス・キリストがその働きを始める前に、40日間荒れ野で断食された。(40は、聖書暗号では「長い間」という意味)

まあ、そこまでするのは、普通の人にとって難しいと思います。

実は、大学で試として1週間断食した...全く宗教上の理由ではなかった。(大学生にるまでに、教会を卒業したつもりでいた。)ただ、一週間何も食べないでいけるのかな?どういうことが起こるか...好奇心があったのです。

何が起こったかというと...お腹がすいたのです!(笑)

でもそれは最初の2-3日。その後、空腹感がない。しかも、集中しやすくなります。気分がすっきりします。不思議でした。

大学で試したことの中で白状できるのはこれぐらいですけれども...(笑)

とにかく、長い間断食することは、普通は難しい。だから教会ではもっと小さいスケールで、大斎節中「何かをやめる」という習慣が昔からあります。

この「やめる」ことは、もちろん好きなことでないといけないのですね。だから、わたしが「40日間納豆を食べない!」と言ってもあまり意味がないのです。そもそも納豆が嫌いですから。
でも逆にお酒になりますと、相当きつい!(いつか、勇気を出してコーヒーをやめるように頑張りたい...考えるだけで禁断症状が出そうです!)

でも、どうして「何かをやめる」という変なことをするのでしょうか。だってそれは、現代社会と全く正反対なことになってしまいます。世の中では、もっと買い物する、もっと消費する、もっとモノを持つ流れになっています。いろんなことを満喫して、いろんなことを経験して、いろんな楽しみを得ることが美徳になっています。

だからこそ、こういう変な習慣は大事だと思います。現代社会の「もっともっと」主義の中で、何かをやめる、より少ないもので間に合わせることによって、すでにあるものへのありがたさをよみがえらせることができるからです。贅沢な暮らしを当然だと思ってもっと欲求するのではなくて、今すでにある恵みにもう少し満足できるような訓練だと思います。

(「そんなに贅沢な暮らしはしていない」と思っている方はいらっしゃいましたら、一週間だけスーダンとかインドとか中央アメリカで生活してみると、間違いなく見る目が変わります。日本に住んでいるわたしたちは、どう考えても贅沢な暮らしをしているからです。)

だから、「何かをやめる」ことによって、すでにあるものへの感謝の気持ちを改めることに役立つのだと思います。そして、わたしたちは世界の大多数の人よりも物質的に恵まれていることを改めて気づくことにもつながります。

でも教会では、「何かをやめる」ことにもう一つの理由があると思っています。それは、自分に対して欲求が持っている力を打ち破る効果があるからです。何かをやめるとき、良く気づくのは、もしかして初めて気づくのは、いかにそのものを頼りにしていることか、ということです。

わたしが断食をすると食べ物ばかりを考えてしまいます。少なくとも最初のころ。甘いものをやめると、オフィスにあるチョコレートの箱を一日20回ぐらい見詰めている自分がいます。

お酒をやめると、毎晩帰り道、肩の上に悪魔がしっかり座ってそそのかします:「今日は大変だっただろう。ビール一杯はどう?リラックスできるよ。当然のご褒美よ!」

要は、何かをやめると、そのものへの欲求が生意気な子どものようになってきます。注目されたい。満足させてもらいたい。ちょうだい!ちょうだい!ちょうだい!

皆さんは分かりませんが、わたしは自分の欲求に左右されていると思うといやです。何をどうするか、どういう生活をするか、わたしが欲求に強いられるのではなく、自由に決めたいのです。

まあ、そういうわけで、大斎節中、さまざまな欲求の出すぎをたしなめる修行として、「何かをやめる」という習慣が昔からあります。

こういう話をするとどんどんお腹がついてきます。だから、お話はこれで終わりにしたいと思います!

2012年1月31日火曜日

幸せを増やす方法

確実に幸せを増やす方法をご紹介したいと思います。簡単です:
もっと歌う、もっと笑う、もっと感謝する。

それだけです。歌ったり、笑ったり、感謝したりすることは、いずれも幸せのときに自然に出て来ることなんですが、わたしが提案したいことは、特に幸せを感じていないときに、これらのことをあえてすれば、幸せを誘発する効果がある、ということです。

まず、もっと歌うこと。

田舎とかは分かりませんが、東京では外で歌い出すと変てこりんだと思われてしまいます(わたしもそう思うもの!)だからみんなこっそりとカラオケボックスに忍び込んで、わざわざお金を払って歌うのですね...

歌うのはただだよ!と言いたいです。教会に来ればただで歌わせてあげますよ!

僕も歌いまくってます。毎朝の礼拝、日曜日の礼拝、産科クリニックで生まれ立ての赤ちゃんを抱っこしているお母さんたちと、結婚式、お葬式、聖書勉強会が始まる前、病棟で、などなど。

とてもLuckyだと思っています。幸せに感じます。

もっと笑うこと。

この間テレビで、ベットナムのハノイの取材で、公園で笑いの集いをしていた。ただ単に笑っていた、無理やり。心身ともにいい影響を与える、と。日本でもそういう祭りがあります。

残念ながら、日本ではたいていのいわゆる「お笑い芸人」は最近つまらなくて、あまり笑わせてくれないのですが、逆に、あまり笑いを出さないように自分を抑えている人も少なくない気がします。自分もそうだと思います。

(わたしは、帰りの電車できっとスゴイ表情をしています。なぜそう思うかと言うと、家に着くと額に深いしわがいつもできています...)

[この間電車に乗ったらエコバッグを持っている男性がいました。よく見ると、エコバッグから犬のボクサーの顔が出ていました...あのみにくくて可愛いボクサー、頭だけ、ベロを出しっぱなしキョロキョロ見ていたのです...とても可愛かった。

そして気づくと、社内全体の人がそのワンちゃんを見て微笑んでいました。とても気持ちよかった!電車はいつもこんな感じだったいいのにな、と思いました。]

最後に、もっと感謝すること。

いちばん難しいけどいちばん有効な幸せを増やす方法だと思います。

都会の住んでいると緑、日光、土の匂いが少ないせいか、「とりあえず不満病」にかかりやすいと思います。「とりあえず不満病」というのは、大してつらいこと、大変なことがなくても、むしろリッチな生活を送っていても、「とりあえず不満」になりがちのことです。

すでにあるものに満足を見出さない。物足りなさに目を向ける。隣の人をうらやましがる。

情けない病気です!

感謝すべきところがたくさんあるはずです。なかったら探しましょうよ、と言いたいです。

コリー・テン・ブームは、オランダ人の女性で、第二次世界大戦のとき自分の家でユダヤ人をかくまった犯罪でドイツのラーフェンスブルク強制収容所という「生き地獄」に、お姉さんのベッツィーとともに送られました。後でそれについて証を書きました(『わたしの隠れ場』=『隠れ家』という映画にもされました)

収容所で囚人たちが寝る大部屋に案内されると...そこはぎゅうぎゅう詰め、1つのベッドに4,5人が寝ないといけない状態でした。また、汚くて、臭くて、しかもノミだらけ!看守が鬼のように残虐ですし、全く人間が暮らす環境ではなかったのです。

そこで敬虔なクリスチャンであるお姉さんベッツィーは隠し持っていた聖書を開き、読み始めました。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。」

ベッツィーは「神に感謝しよう」と言うと、Corrieは耳を疑います。でもベッツィーは、そういうところでも、そういう状況に置かれても感謝できることだってある、と言うのです。

例えば...今日という日も迎えることができたこと。2人姉妹が一緒にいられること。聖書一冊だけ、奇跡的にこっそり持ち込めたこと。他の人に神の愛を伝え、励まして慰める機会が与えられていること。そして、生きる人と死んだ人の父である神と何があってもつながっていること。

しかも、「ノミにも感謝します」、とベッツィー。さすがにコリーは、この祈りには抵抗しました。「それはやり過ぎ」と。(実は、ノミがあまりにも多すぎているので、大部屋に看守たちは入りたがらないのです。そのおかげ、そこだけがオアシスになっていたのです]

もっと歌う、もっと笑う、もっと感謝する。そうすると、必ず幸せを増やすことができると思います。

皆さんは、この方法を試してみませんか?

2011年9月16日金曜日

prophetic assurance?

I love the drama of First and Second Kings.

I was digging the last chapter of First Kings, which was one of the morning readings this week.

In this chapter, both kings of the Divided Kingdom team up to retake a prime piece of real estate east of the Jordan called Ramoth Gilead, currently under the control of the Arameans. But they want assurances that things will go their way.
    The king of the southern kingdom of Judah is Jehoshaphat ("Joe" to his friends, "Phat" to his detractors). Joe is a faithful Jew, unlike the crapbag king of Israel, Ahab. Joe says, "We should really find out what the Lord thinks about all this. Know any prophets?"
    Ahab calls together four hundred yes-men who say in unison: "You betcha! The 'Lord' says go for it." (This 'Lord' is 'adonai' whereas elsewhere in the chapter it's YHWH--the Hebrew is telling us subliminally that these "prophets" don't have a clue as to who God is or what He might be saying.)
    Joe is naturally suspicious. "Um...don't you have any real prophets? You know, who actually get their content from YHWH?"
    What Ahab says next is priceless: "Yeah, there's this one guy. But I hate his guts. He's always saying negative stuff about me."
    Blanching, Joe says, "Um, I don't think saying you hate God's prophet is such a good idea..."
    "All right, all right." Ahab turns to one of his men: "Go and get Mike and bring him here."
    So the messenger, a barrel-chested, mean-looking guy with uneven eyes (okay, I made that up), goes off to summon Micaiah. When they meet he offers some "friendly" advice. Speaking Hebrew with a Cockney accent, he says, "Look here, mate. Everybody else's telling the king it's awright to go ahead wi'dis fight, innit. How's about you play nice and sing the same tune, right? If you know what's good for you."
    Micaiah says, "Look, I don't make this stuff up. I can only say what God tells me to say."
    The prophet is brought before the two kings. Ahab, rolling his eyes, poses the question. "Very well then, Mike: Should we go to war against Ramoth Gilead? Yes or no?”
    Micaiah answers right away. "Sure. Attack. Be victorious. It's pretty much a done deal. "
    "Really?" Ahab asks, eyes narrowing.
    "Nah," Micaiah says. "Actually, you should tell everybody to go home."
    Ahab turns to Joe. "You see? I told you he's always disrespecting me."
    "Disrespecting you?" says Micaiah. "Hardly. The fact is, God was looking for a way to take you out. He was in heaven with all the angels, saying 'How can we get Ahab to get himself killed by attacking the Arameans?'
    "There was a bit of brainstorming, and then one of the angels raised his hand: 'Ooh! Ooh! I know! I'll go and dupe all of Ahab's so-called prophets"--all the other angels snickered when he said that--"and get them beating the war drums.'
    "And God said, 'Hmm, sounds like it could work. Give it a shot.'"
    For this, Ahab throws Micaiah into jail "until I return," he says. But the prophet retorts: "If you come back in one piece, then I guess God hasn't spoken through me after all. Ya'll all better remember what I said."
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The drama continues. Ahab makes Joe dress up in all his fancy robes so that he will draw all the enemy fire, while he himself dresses like a grunt. But a random Aramean arrow "happens" to find a crack in his armor, and Ahab spends the rest of the day bleeding to death on the floor of a chariot.

But what I found fascinating was the interaction between Ahab and Micaiah. The prophet tells it like it is, straight from God's mouth, clear and unambiguous, but Ahab doesn't want to listen and thinks Micaiah is being mean and unfair. Ahab never once considers that he might be wrong, out of bounds, in need of changing course.

Instead, Ahab prefers to muster a whole group of "prophetic voices" to assure him that God wants him to do what he was already set on doing.

But note: God actually enacted His judgment by giving Ahab the "prophetic assurance" he was looking for before flying headlong into destruction and death.

Can anyone say General Convention? Or General Synod, perhaps? (But how could hundreds of people be wrong?)

If you read these words: "The church is bleeding to death"--what church(es) come to mind?

And how many times did I hear at seminary something along the lines of "I hate Paul's guts. He's always saying negative things about [whatever I like to engage in/whatever is considered groovy in my groovy circle of friends]."

But even more painfully: How many times have I "sought the Lord's guidance" only to ignore it and set about rationalizing my own predetermined course? And how often has that worked out?

And still more painfully: Am I doing it now?

2011年9月9日金曜日

random thoughts while flying to the far side of the planet

1. Some very fine colors at both sunset and sunrise.

Sunset had a kind of rich, persimmon liqueur color going on--I don't know if there even is such a thing as persimmon liqueur or if it would anything other than nasty (can anybody say "Jaegermeister"?)--but if there were, it would surely look like the sunset I saw. Liquid, deep orange with just a hint of rosy peachskin.

To stick with the cocktail theme, sunrise offered much more of a grenadine--a long, thin layer of intense clear red bordered top and bottom with cake-frosting cloud strips, quickly dropping off to darkness.

Nicely done, God!

2. Delta weren't no Singapore Air, but it wasn't awful. I was relieved not to learn too much about the flight attendents' personal lives or level of job dissatisfaction.

One steward, who might have even been heterosexual, did "confide" to his colleague: "I'm not feelin' it today." Well, I wasn't feeling it either. But there you have it.

But, boy, once you experience individual seat monitors, anything else seems so shabby.

Also, at the risk of sounding elitist: I admit a moment's disappointment upon seeing that the wine came from a paper carton...

3. I was able to confirm that I'm not a big Julia Roberts fan. The last film on the flight was, if I'm not mistaken, "Eat, Pray, Love." I seem to recall a DVD cover with that title starring Ms. Roberts, and had heard of the book it's based on.

I saw this quote from a review of another movie: "If a volcano erupts in the city you're in and the only safe place to be is a theatre showing Apollo 16, go jump in the lava."

Well, sitting in a middle seat on a Boeing 747 with big-screen monitors, I was basically at the mercy of this movie during the last stretch of the flight. I didn't put in the headphone tabs, which probably helped...

It was a very religious movie--if your religion happens to be Spiritual-ish Hedonism.

Having not read the book or listened to the dialogue, I gather it was about Julia Roberts Career Woman going off in search of Herself and, indeed, finding Herself in several modes: Julia Robert Repeatedly Enjoying Italian Cuisine. Julia Roberts Getting All Conflicted in a series of more or less casual romantic involvements. Julia Roberts Experiencing a Stream of Moments of Enlightenment involving indigenous people in various foreign countries. All interspersed with a smattering of Julia Roberts Doing Meditation.

But, you know? I'm always just happy when Robert Downy Jr. can find work.

4. There are two elements in novels or movies that I find so deeply uncomfortable emotionally that I will often stop reading or watching works that contain them: marital infidelity, and a fall back into addiction.

One of the other movies on the flight, The Dilemma, incorporated both of those themes! To be fair, some close calls notwithstanding, the main character was able to stay clear of his gambling addiction.

But the whole cheating on your spouse thing? It drives me nuts. It's equally excruciating to watch whether the guilty party is the husband or the wife. But I guess I tend to expect female characters to act with a little more selfless maturity, so am more disappointed when they choose What's Good for Me Now over faithfulness.

I enjoyed the male friends' relationship at the heart of this film. Who knew it was possible for two men to be vulnerable and committed to one another without having sex? It's so Nineties! 1890s, that is.

The "dilemma" of title was the main character wrestling with whether to to tell his best friend about his wife's affair. It raised interesting questions about painful honesty and loyalty and the demands of love between friends.

I was saddened but not surprised with the film's conclusion. After all beans get spilled at the climax, we find out that the cuckolded friend's marriage has ended, offscreen. No anguishing, not the slightest sense that reconciliation was even a possibility.

But Hollywood has pretty much just assumed the easy disposability of marriages that "don't work" at least since Kramer vs. Kramer.

On the other hand, the cheating wife's attempt to go with the "you're partly to blame for the fact that I couldn't keep my pants on with another man" was rejected for the lame infantile ploy that it is. Even she didn't buy it, finally.

All in all a good film.

5. America is definitively a nation of a Generously Sized People. The two male leads in The Dilemma were both...big and fat. There, I said it. There was some TV show, too (Molly & Mike? Mike & Molly?) where the two main characters were QUITE girthful. And their obesity didn't seem to be a recurring source of humor (I think--I had the sound off).

And then, sitting in the hotel sports bar last night, I realized how shrewd it is for popular entertainment to reflect the thunderous reality on the ground.

I guess I just wonder why it took so long.

2011年9月4日日曜日

ホスピタリティはこのチャペルの使命です(ローマ12: 9-21)

聖霊降臨後第12主日(A年・特定18)
司祭 ケビン・シーバー
聖路加国際病院聖ルカ礼拝堂
2011年9月4日・10時30分 聖餐式

今日は、ホスピタリティについて皆さんと考えたいと思います。「もてなし」でなくてホスピタリティという言葉を使っているのは、元々のギリシャ語の単語は客の世話をする、馳走することよりもっと深いニュアンスがあるからです。「フィロクセニア」という単語で、「外の人を愛する」という意味になります。もしかしたら「もてなし」の本来の意味は聖書に意味に近いかも知れませんが。

このチャペルの理念から抜粋させていただきます。
神の恵みにより建てられた聖ルカ礼拝堂は、病院・大学の礼拝堂としての特性を踏まえ、これらの存在基盤である「キリスト教の愛」を、常に示し続ける使命を担う。具体的には、
 病院の礼拝堂としては、患者、その家族、医療スタッフ、職員、ボランティアに対して、
 看護大学の礼拝堂としては、学生、教職員に対して、
 教会としては、地域と社会の人々に対して、
 祈りと慰めの機会と場を提供していくとともに、これらの人々と教会員が、神の愛のみ旨を成し遂げていくことができるように支え合い、ともに働き続ける。
さまざまな人に「祈りと慰めの機会と場を提供していく」。これこそホスピタリティの精神ではないでしょうか。問題は、どうやって祈りと慰めの機会と場を提供できるか、ということです。その前、一つのストーリーがあります。

ある日曜日の朝、ある男の人がお母さんに起こされました。「早く教会に行く準備をしなさい!」
「教会に行きたくない!」と頭の上に枕を覆いながら息子が言います。
「行かないと」とお母さん。
「だって、あの教会の人たちは冷たくて、あいさつもしてくれない。心地悪い。
  説教もつまらないし、お茶の菓子は美味しくない、全然。」
「早く起きなさい。教会に行くのだ。」
「どうして?どうして行かなくちゃいけない?わけが分からない!」
「あなたはその教会の牧師だから、いかげんにしなさい!早く起きなさい!」


初めて教会の礼拝に参加しに行くのに、勇気が必要だと思います。この病院は「敷居が高い」と言われたりしますが、チャペルもそう思われたらちょっともったいない気がします。(祈るために紹介状はいりませんから!)

でも確かに、勇気を出して、初めて礼拝に出る人は、突然いろいろな変わったことに遭遇します。まず、教会で変な単語は山ほど使われています。アッシャー、オルター、チャプレン、聖奠、信施、供え物、降臨節、聖霊降臨節、聖餐式、陪餐、祝福、使徒、信徒、主教、司祭、師父、執事、小羊!などなど。

そして変な行動をします。座ったり、立ったり、ひざまずいたりします。いきなりお辞儀を交わします。いくつかの布袋を回します。全員で礼拝堂の前方に行進します。
これらのことは面白くて、少し慣れて来てその意味が少し分かったら素晴らしいことになり得ると思います。だけど、初めて来られた人に「祈りと慰めの機会と場を提供」しようと思うのなら、この一風変わった環境でどうやって歓迎できるか、「ここにわたしの居場所があるかも」と感じてもらえるためにどういう対応が必要なのか、それが問題だと思います。

ホスピタリティはそういうことに関心を持つのです。ホスピタリティについて3つ話したいこと:
  • まず、皆さんは、自分自身ここに居場所があるということを知っていただきたいです
  • それから、神はわたしたちに常に人を送ってくださり、そういう人たちを歓迎して欲しい、ということを知っていただきたいです
  • そして、わたしたちの責任は、新しいクリスチャンを作るのではなくて、神の愛を示すことだ、ということを知っていただきたいです
まず、皆さんは、自分自身ここに居場所があります。

聖パウロがエフェソのクリスチャンに:
以前、あなたたちは「キリストと関わりなく、イスラエルの民に属さず、約束を含む契約と関係なく、この世の中で希望を持たず、神を知らずに生きていました。しかしあなたたちは、以前は遠く離れていたが、今や、キリスト・イエスにおいて、キリストの血によって近い者となったのです。」(エフェソ2:12-13)
わたしたちは全員、天の父の家にウェルカムされています。元々わたしたちの家ではありません。ホテルでもありません。ゲストとして扱ってもらうと思ったら大間違い。どちらかと言うと、教会は避難所に近いと思います。被災地で、ある大物がその屋敷を被災者のために開いてくれて、わたしたちはここで居候をしているような感じです。

この世に生を受けるというのは、神から遠く離れているという大惨事の状況に生れることになります。罪はそういうことです。だけでイエス・キリストは、わたしたちの罪のために死んでくださいました。イエスはその大惨事からわたしたちを救い出すために死なれたのです。だから、イエスのおかげで、わたしたちは避難所に逃れることができています。心の拠り所が与えられています。他の被災者との交わりが与えられているのです。

ここに皆さんの居場所があります。皆さんはイエス・キリストによってウェルカムされています。

2番目知っていただきたいことは:神が常にわたしたちに人を送ってくださっています。そして、そういう人たちを歓迎して欲しいのだ、ということです。
わたしたちが「神と関わりのない生活」から救い出されて、ここにウェルカムされているので、今度、わたしたちが他の人をウェルカムする番です。

このチャペルでの日曜礼拝(聖餐式)に、毎週平均5名の新来者が参加します。結構な人数です。大勢見える週もありますが、少ないときでも1人、2人の新しく来られた方があいます。とにかく毎週平均5名の方が始めてわたしたちと一緒に礼拝をしています。1年で言いますと...260人になります。

神は絶え間なく人をわたしたちのところに送ってくださっているのです。

それは、わけがあると思います。誰もただ偶然で教会に足を運ぶ人はいないと思います。必ず意味があるのです。もちろん、「わたしの人生で欠けているのはイエス・キリストだと気づいたので、イエスさまに出会うために教会の礼拝に出てみよう」と思って礼拝に参加する人は殆どいないと分かっています。

(皆さんも最初に礼拝に出たとき、そういう意図で出た方はあまりいらっしゃらないと思います。)

礼拝に出る理由は人によって違います。好奇心がある。友だちに連れて来られた。大事な人を亡くして、何かの慰めを求めている。病気や何かの不幸があって不安になっている。人生で道に迷って、何かの方向性や希望を探している。いい音楽を聞きたい、歌いたい。トイレを探していたけど場所を間違えた(笑)。

0.001%の人は説教を聞きに来る。(どうもどうも、ようこそいらっしゃいました!)

でもこれら全部が、人間の観点から考えられる理由になります。神は神なりの理由で人を礼拝に導かれます。今日、初めて礼拝に参加している方に知っていただきたいのですが、偶然ではない、ということです。わけがあってあなたがここに導かれています。

神が人を教会の礼拝という不思議な世界に導いてくださる第一の理由は、み子イエス・キリストに出会わせることです。

イエスは今朝ここにいらっしゃいます。目に見えないし、おられることを感じ取れないかも知れませんが、間違いなくここにいらっしゃいます。なぜかと言うと、いらっしゃると約束なさっているからです。
「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」(マタイ18:20)

2人、3人どころか、100人以上イエスのみ名によってここに集まっています。今日だけイエスさまがその約束を守らないわけがないと思います。

最後に知っていただきたいことは、わたしたちの責任は、新しいクリスチャンを作るのではなくて、神の愛を示すことだ、ということです。

聖公会の信者が多いこの集いに向かっては話しています。熱狂的に伝道活動をやり過ぎることはあまり心配しなくていいと思います。(むしろもっと積極的に自分の望みを人と分かち合って欲しいのです!)

だけど、このコミュニティ自体が伝道的な存在になるはずです。コミュニティを通して、わたしたちの関わり合いを通してキリストの愛を現すことが求められていることです。お互いに接することから本当のホスピタリティが生れるのです。

聖パウロは、そういうことを今日のローマの信徒への手紙で言っていると思います。イエスも、マタイの福音書でそういうことを仰っているのです。

わたしたちは、兄弟姉妹としてお互いの人生の大事なことを分かち合います。「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。」最近、この礼拝堂で結婚式を挙げたメンバーもいます。お葬式を行ったメンバーもいます。わたしたちは、人生の浮き沈みを共有しています。

また、ここで社会的格差はあまり通用しません。この中で医者も、看護師も、病院の他の職種の人もいます。看護大学の教員も、職員も、卒業生もいます。病院や看護大学と全く関係のない人もいます。さまざまな経済的な状況の人もいます。いくつかの国籍を持つ人もいます。

わたしたちは高ぶらないで、できるだけ互いに思いを一つにしようとしています。喧嘩や摩擦が生じたとき、兄弟愛をもって対応するように努力しています。(まあ、あまりうまくやっていないこともありますが、それは別の説教で!)

とにかく兄弟愛をもって関わり合うように励んでいると思います。そして、その兄弟愛がここから溢れ出て、神が送ってくださる人々を包んでいくことが、神が望んでおられることだと思います。

だから、わたしたちは「人をクリスチャンにする」ことは必要は求められていません。そういうことを神に任せればいいのです。人の心が神に向かうのに何が必要なのか、どのぐらい時間がかかるか、計り知れないことです。このチャペルに一回だけ来て、神の愛に気づくのが数年後になる人はいるかも知れません。でもここで種が蒔かれるかも知れません。

イエス・キリストはわたしたちの間におられます。わたしたちがお互いを愛し合えば、そして来られた人に心を開けば、わたしたちを通して人々がイエスに出会うことができるはずです。

経験者が語ります。僕は、何かを、人生で足りない何かを探していたときにある教会コミュニティに出会いました。何を求めていたのか、自分でも分かりませんでした。神も仏もあるものかと思っていた時期です。まさかイエスに出会いたいと思いませんでした。

出会ったのは、ホスピタリティのコミュニティ。全く見知らぬ、放蕩を尽くしていたこの僕を彼らにウェルカムされました。その共同生活に受け入れられました。最初躊躇していたが、やがて信頼関係を気づくことができたのです。

僕のことに関心をもってくれる人もいたし、自分の信仰を話してくれる人もいました。お互いへの愛情は目に見えました。神のことを大事にしていたことも明らかでした。そしてその音楽は最高でした。

ようやく、悟ったことがありました。すなわち、このコミュニティを通してイエス・キリストに近づいていたのだ、ということに気づいて来ました。それよりも、実はイエスさまが、その普通のクリスチャンの団体を通して僕をご自分のもとに近寄らせてくださっていたのだ、ということに気づきました。

ここでの普通のクリスチャンの団体ととても似ています。

ホスピタリティはこのチャペルの使命です。

2011年9月1日木曜日

見舞いの場で言っちゃいけないこと

だれか知人が病気にかかったときや入院したとき、見舞いに行ってあげることはとてもいいことである。なお、病人の見舞いはクリスチャンとしての義務でもある。

ただ、病床の場で何をどう話せばいいか、迷う人は少なくない。病院のチャプレンとしても、迷うことはよくある。

何を話せばいいかというよりは、まずふさわしくない話について考えたい。下記の発言は病室でやめた方がいいと思う(と言いつつ僕はいずれもどこかでしたことがある):
1.「元気?」
思わず言ってしまうバカな発言だね。元気だったら入院していないはず。でもこのように挨拶されたら、いくら大変なことになっていてもたいていの日本人は「ああ、元気」と返すのが、実に不思議なことである。
2.「元気に見える」
外見についてのコメントはやめよう。あまり意味がないし、入院中の患者さんはルックスを気になっても管理する余裕はない。しかも、見た感じと心の状況は懸け離れている可能性は十分ある。
3.「良かった!もっとひどいことにならないで済んで...」「まあ、少なくとも足もう一本が残っているさ」
患者さんはそういう見方ができたらいいけど、病気をどう受け止めているかは人それぞれ違うのだから、ほかと比べるのは一切しない方がいい。病そのもの以外の目に見えない苦痛があるかも知れない(例えば、この病気で将来の夢が台無しになった、子供のときに同じ病気でお父さんが死んだ、今までぎりぎり間に合っていた仕事での立場はどうなるか、などなど)。明らかに快方に向かってきたときに「助かってよかった」とはOKだと思う。
4.「実はうちのおじいさんも同じ病気だったのだ...」
家族や知り合いの中で同じ疾患にかかったり、同じ治療を受けたりしても、あまりそういう話を病室でやめよう。(特にその結果は良好ではなかった場合!)患者さんとあなたの知っているケースは、似ていても全く一緒だとは限らない。自分自身の経験なら、ちょっとだけ触れてもいいかも知れないが、たった今、その状況の最中にいる患者さんのことを中心にすべきであろう。
5.「わたしが知っているすごいキノコのお茶をぜひ飲んで欲しい」
治療に関することは、医者に任せよう。実際に病院で、患者さんの病状を中途半端しか分かっていないにも拘らず、いろんなアドバイスをする素人は驚くほど出て来る。気持ちは分かるが、余計の世話に過ぎない。
6.「何か手伝えることがあったら言ってね」
殆ど無意味な表現になる(僕はしばしば言ってしまうけど)。患者さんはすでに自分の無力さを痛感している。特に日本人は、プライドからか恥ずかしいからか、なかなか人に頼みはしない。だから「何かあったら教えてね」と言わず、自分からできることを積極的にしてあげる。こっそりとするか、「○○するからね」と報告するような形で援助を申し出る。ご飯を家に届く。庭の水遣りをする。放課後の子供を家で面倒を見る。猫の世話をする。
7.「きっと大丈夫」
分からないことを口にしない。自分に言い聞かせて、自分を慰めようとしているとしか思えない。患者さんは医者の診断を聞いているから、見舞い客の根拠のない診断はいらない。

逆にかけてあげたい言葉
1.「顔を見たくて来ただけで、すぐ帰る」
みたいな表現。訪問時間を短くしよう(長くても10-15分。患者さんが特に疲れたり、苦しんでいたりするときはもっと短め)。お客さんが来て嬉しくても、エネルギーがかかる。治るために使いたい。
2.「会社・学校・近所・教会の最新情報を聞きたい?」
患者さんはやむを得ず疾患や治療の話ばかりしている。一時的でも病を忘れさせてくれるような「外の世界」の話を聞けるとありがたいかも。ただし、長々と話すのは気をつけよう。
3.「何を言ったらいいか、分からない」
状態が重ければ重いほど、言葉が出て来ない。正直に迷っていることを言うべき。相手もどう関わればいいか迷っているだろう。それを一言で明らかに認めてから、たわいない話や沈黙に入っても、その雰囲気はだいぶ違う。
4.「大変だね」「気の毒だね」「あなたのことを心配しているよ」
本音で一言でも話してあげることは非常に有意義なことになり得る。日本人はあまり心の深い思いを口にしない傾向があるが、やや不器用でも何らかの形で思いを伝えてあげると心強い。

上記の4.と関連するけど、患者さんにとってスキンシップは大きな効果がある。普段、握手する習慣がなくても、病院以外の状況ではそういうことは一切しなくても、例えば帰りに握手してあいさつするとか、軽く肩に手をおいて笑顔で話すとか。手を握って短い祈りをするとか。傷やさまざまな措置に注意しながら温もりのある触れ合いには非常な、言葉にまさる力がある。

まとめてみると、何よりも自分らしくいることがキーだと思う。「あなたのことを大事に思っている」とわざわざ病院に寄って、言葉と笑顔とスキンシップをもって患者さんに伝えることは、病の孤独を乗り越えるのにとても役に立つ。

「効く言葉」や「正しい言葉」はない。その場で元気付けることのできない状況はある。空っぽの慰めは逆に虚無感につながる。

その場にいることがポイントである。病の暗闇の最中でも、患者さんは一人ぼっちではない。それさえ伝われば、見舞いに深い恵みがあると思う。

2011年8月26日金曜日

friday afternoon at the crematorium

I had the privilege of accompanying a family to the crematorium this afternoon, after the funeral of their 82 year old mother/grandmother at the chapel. She was a Christian, who died last Tuesday in the hospital.

I always say a final prayer over the body at the entrance to the oven. Then the men with white gloves and limousine driver hats shove the coffin in and close the golden doors and push a button. Then...we wait.

It takes about an hour to thoroughly burn the body of a non-obese adult. There are waiting rooms upstairs at the crematorium. As the priest, I'm always expected to lead the group, which includes maybe 10-20 relatives and close friends. A close family member carries the blown up photograph of the deceased.

The staff always tells us to watch our step on the escalator. Why is that? Does any sighted person actually stumble when getting on to an escalator?

As we enter the waiting room, we are handed a paper o-shibori, I guess because even being around a dead body is icky. Various cakes, chips, rice crackers, as well as bottles of drinks are on small tables around the room. Oolong tea, orange juice, beer. They come around later with pots of hot green tea.

This hour of waiting with the family is different every time. Sometimes, the family is shaken and subdued. Sometimes there's a lot of tears and sniffles. Sometimes they want to tell me about the person who has died. Sometimes they want to talk about anything else. I've had some really fun and interesting conversations at such times. Occasionally, it can be quite jovial and raucous, almost a party.

Once, I even got an acupressure treatment right there at the table.

The worst, though, is when a child has died. Bleak, raw pain, more or less well masked by the formalities of conversation. Once in a while, I get the big questions. Is my baby in heaven? Is he lonely? Why did she die? Will I ever feel all right again?

Today was a little...businesslike. The woman who died was a dedicated wife and mother and then grandmother, who spent her life supporting and caring for her dentist husband and all those around her. Her best friends were her classmates at the girl's high school she attended. They went through the War together, working and sleeping at a factory more often than studying. Three of the ladies were there.

I enjoyed talking with her granddaughter, a first year high-school student and cellist. We swapped orchestra stories. They are practicing every day during the summer, from 10:30 a.m. to 6:30 p.m.

The girl's father and mother were moving around most of the time, making arrangements for the post-cremation dinner and taking care of other business, I guess.

Finally, an announcement tells us it's time to go back down. I'm in the lead again.

We return to the oven, and the men with white gloves pull out the fireproof slab. I'm always surprised at how little volume of bone there is. They transfer it all to a stainless steel box, and take it to another table where there is a ceramic urn with the person's name on it.

Family members pair up and use oversize chopsticks to pick up a bone fragment and put it in the urn. Two people, two pairs of chopsticks, one piece of bone. That's the reason why you can never use chopsticks to pass food directly to another person in Japan. You invite the spectre of death if you do that.

Finally, after using a powerful magnet to suck out all the coffin nails, the main bone packer guy goes through a practiced shpiel about what bones are what. He arranges the skull parts to go on top. He always points out the top spinal vertebrae, which is supposed to look like Buddha sitting lotus position. (Today, he stopped himself and said, "Oh, but you guys are Christian" which was actually a wrong assumption. Besides me and the one going into the urn, I don't think there were any Christians present.)

Sometimes they even put the person's eyeglasses in the urn. If I go to heaven, or the Pure Land, or get reincarnated or what have you, do I really have to keep my physical defects? I want to come back with an Adonis body, serious abs and 20-20 vision.

Then they close up the urn and bow for about the 18th time. And, with urn and photograph in hand, everybody loads up the microbus to go have dinner.

May the souls of the faithful departed, by the mercy of God, rest in peace.

2011年7月26日火曜日

surely a day will come...

...when at first a relatively small group of people, and then a society, and then the human race will wake up and realize with horror the true worth of all our money. Which is, virtually zero.

I saw an ad on the train for "the power of banking inside your mobile phone." It seems your phone will become both your debit card and your online account management hardware.

The idea isn't entirely new in Japan, but for some reason it made me uneasy. I mean, soon, nobody will carry cash (and Japan has never had personal checques), and we will no longer even have credit cards. We'll just have our regular old mobile phones = portable multimedia centers, connected to some server somewhere which records that we have X number of points, which happen to be called "yen."

It made sense when we exchanged cows and turnips and daughters. Things that had intrinsic value which you could touch (although touch my daughter and see how long you keep breathing).

It still made sense when we bartered "services rendered"--I help you dig a well, you help me invade the hamlet across the valley.

But then somewhere along the line, we made this huge leap from Things Which Are Obviously Useful For Living over to shells and pretty stones.

(And how did that happen, anyway? I mean, at some point, some guy must have taken, say, a dozen eggs from his neighbor's barn and said, "Right, here's your baubles" and yet DIDN'T get his face pounded into the mud. Instead, the neighbor must've said, "Baubles? Great! I think I'll just pop out and get that new pair of snowshoes for the Missus!" And, voila! Economy was born?!?)

But with the shift from real goods and services to symbolic CURRENCY, it seems to me that human civilization basically ran off the edge of the cliff, and as soon as we look down and realize there's no ground under our feet, we're going to start dropping. Fast.

Shiney metal disks engraved with intricate designs. Rectangular sheets of specialty paper with--oh! a watermark! A plastic card with your name embossed on it in, check it out, gold letters... If you squint real hard you can still sort of pretend that these contain value or represent something, I don't know, real.

All modern societies literally depend on your continued gullibility.

But points stored on your mobile phone? Just like points stored from your last Donkey Kong game. And the difference is...?

How long before that light bulb goes off?

2011年7月15日金曜日

bible rofl #112

Running for his life from the deranged King Saul (bipolar disorder?), David tries to go to ground in a Philistine town called Gath--a place which has less than friendly feelings toward David, considering he killed Gath's most famous warrior, Goliath. With a slingshot. When he was, like, 13. And then chopped off Goliath's head and took it home as a trophy. And is, in fact, now carrying Goliath's sword.

Why David thought Gath would be a good place to lie low...the Bible doesn't say. Anyway, right away they recognize him. Duh.

So what does David do? The only natural thing, of course. He pretends to be stark raving mad. Pounding his head on the city gate, foaming at the mouth, singing Lady Gaga songs off-key, etc. Which leads the King of Gath, Achish, to, um, lose it:

"Can't you see this guy is a freaking loon job? Why'd you let him in here? What, you think I don't have enough crazy people around this place? So, what, I need one more, for good measure? Get this psycho out of here!"

(1 Samuel 21:10-15)