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2013年6月9日日曜日

まことのパワースポット、イエス(ルカ7:11-17)

聖霊降臨後第3主日(特定5、C年)
聖路加病院 聖ルカ礼拝堂
2013年6月9日年・10時30分 聖餐式


流行りというものは不思議な現象だと思う。

17世紀のヨーロッパでの「チューリップバブル」はご存知?ヨーロッパ、おもにオランダでチューリップの価格は一気に100倍上がったという有名な話がある。

日本も流行り帝国だと思う。約15年前の「たまごっちバブル」は覚えている?出荷するという噂があるだけで3日前から店の前で並んだりする光景がよく見られた。当時、日本ってどういう国だろうと思っていた。が、後で同じTAMAGOTCHIバブルがアメリカでも起こった話を聞いて何も言えなくなった。

大昔、日本におけるウサギブームはご存知?明治初期に起こった(5年ぐらいから)話である。

特に手に入れにくい、外国種の耳の長いウサギが流行したわけ。珍種のウサギは、実際一匹(一羽が正式だけど何で?!)は400円と値段のついたケースも。400円は大したことじゃないと思うかも知れないけれども、当時400円は米12t分に相当する高額だった。

あまりにも流行りすぎてしまって、ウサギに税金がかかった。ウサギの売買の勢いが止まらないから、高い税金を掛け、ウサギ熱を冷ますという狙いだった。ウサギ一匹につき、税金「1円」という法律ができた。当時の1円は米30kg。また、無許可で飼っている場合は2円の罰金!

日本では最近、パワースポットというものが流行っている。パワースポットとは何だろう。一応、地理的な場所で、そこを訪ねる人は特別な何かを感じる。何らかの力、聖なる存在、神、母なる地球など、目に見えない何かを身近に感じるという人がいる。テレビで見るとだいたい若い女性アナウンサーが「いやされる~©」というつまらないコメントをすることが多い。そういう場所。

「パワースポット」という言葉そのものは和製英語だけど、その概念は日本以外にもある。古代のアイルランド人の間で「薄いところ」という話があった。天と地との境界線が薄くなって、天はこの世にあふれ出るようなところ。

書店に行けばおそらく日本中、世界中のパワースポットを教えてくれるガイドブックがあると思う。さて、こういうパワースポットについてどう考えればいいのだろうか。

聖書によれば、神はこの世と世の中のすべてのものをお造りになった。「主の栄光は天地に満つ」と。だから世界の至るところはその造り主を示し得るわけ。世界中は神の指紋だらけになっている。

つい先週の金曜日、病院の新しい研究センター(医療イノベーション部)の部長、東大の科学者である入村先生が仰った:「地上の生き物を詳しく見れば、大きな意思の存在を感じないわけにはいかない。」

だからもしかしたら、実は全世界がパワースポットであって、普段それを認知しないだけかも知れない。いわゆるパワースポットは、天とかを垣間見れるところではなくて、ありのままの地球に気づいているところだけかも知れない。
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昔のユダヤ人にとって、エルサレムにある神殿は偉大なるパワースポットだった。パワースポットの中のパワースポット。神殿(ユダヤ教の本山)は神の住まいと呼ばれていた――実際に全能で永遠の神がそこに住み得るとは当然思っていなかったけれども、神殿で神と触れ合えると信じていたわけ。

神殿の最も奥にある「至聖所」は、神が身近におられすぎて実は恐ろしかった。至聖所には一般信徒は近寄らない。徹底的に身を清めて、ちゃんとしたいけにえを携えている大祭司一人だけが、年に一回だけ入るところだった。(「いやされる~©」のではなくて「死んじゃう!」というコメントがふさわしい!)

至聖所はパワフルすぎるところだったけれども、神殿そのものでは、神と仲直りができる場所(捧げ物を通して)。神の導きを得られる場所(祭司の指導によって)。神とコミュニケーション取れる場所(祈りを通して)。神と一緒にいることを楽しむ場所(祭りを通して)。

詩編84編はこういうことを語る:
「万軍の主よ、あなたのみ住まいは麗しい。わたしの魂は主の庭を慕い、心を込めてあなたの命を喜び歌う...あなたの庭で過ごす一日は、千日にもまさる」(詩編84:1-2, 10a)
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神殿のことを考えれば、確かに神は特定の場所で人と触れ合うことがある、ということが分かる。しかしクリスチャンにとって、イエス・キリストによって神殿への理解がかなり変わった。

イエスはサマリア地方で、ある井戸のところにサマリア人の女性とのやり取りがあった。その中でイエスは、ある地理的な場所が他の場所より神に出会いやすい考えを否定なさった。ユダヤ人にとってエルサレムの神殿こそ神と出会いやすい場だったが、サマリア人にとってはゲリジム山が聖なる場所だ。

サマリア人の女性がこういうことに触れるとイエスはこう言われた:
「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る...まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」(ヨハネ4:21-24)

霊と真理をもって礼拝しなければならない。ある「場所」ではなくて、心の態度が大事。神との正しい関わりがその条件だ、と。
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後にイエスはご自分が神殿に代わるようなものだという話をなさる:
「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」(ヨハネ2:19)ご自分の十字架の上の死と、三日後の復活のことを話しておられた。この神殿はイエスご自身。

つまり、わたし自身が一番のパワースポットだ、とイエスが主張しておられた。しかも、固定の場所に限られるのではない。イエスが国中を巡り歩きながら、神の身近な存在を痛感させておられたのである。

今日の福音書でも、ナインの人たちはそういうことが良く分かったと思う。イエスがやもめの一人息子を死者の中から生き返すのを目撃したわけである。「いやされる~©」どころか、死んだ人が生き返った!のだ!
「人々は皆恐れを抱き、神を賛美して、『大預言者が我々の間に現れた』と言い、また、『神はその民を心にかけてくださった』と言った。」(ルカ7:16)

神はその民を心にかけてくださった。これはわたしたち人間の心の奥底にある熱望である。すなわち、神に見放されず、神に見捨てられず、この地球という大きな島に置き去りにされていないで、神はわたしたちを心にかけてくださっているのだ、と。これこそパワースポットへのあこがれだと思う。一人ぼっちではない。神に、偉大なる者がわたしたちを心にかけてくださっているのだ。

その日ナインの人たちは神の憐れみと恵みを痛感したのである。彼らにとって、神は漠然の遠い存在ではなくて、すぐそこに、身近な存在であることが分かった。
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イエスは公の働きの最初に宣言された:「時は満ち、神の国は近づいた!悔い改めて福音を信じなさい!」(マルコ1:15)。後に言われる:「実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ」(ルカ17:21)。

イエスのミッション、すべての言葉と行動の目的は、この真実を世の中に示すことだった。

昔の農業電化プロジェクトに似ている。まず発電所から地域に電気を送るための巨大なケーブルを取り付ける。でも、各家はまだそれにつながっていない期間はしばらくあった。

そのとき、電力会社の者は宣教活動をした:「実に、電気の国はあなたがたの間にあるのだ!」。

そして農業の人たちはこの福音(良い知らせ)を信じて、自分の家に電気を入れさせる必要があった。そのとき、生活は永久に変わった。
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神の国はあなたがたの間にある。すでに。イエス・キリストは何よりのパワースポットである。イエスにあって、天と地の境界線が薄くなっているどころか、亡くなっている。ナインの人たちにとって、弟子たちにとって、イエスに触れられていやされ、解放されたすべての人にとって、イエスを通して天国がこの世に突入してきた。

わたしたちは神に近寄りたかったら、パワースポットのガイドは必要ではない。イエスがいらっしゃる。イエスの霊が与えられている。ある特定の場所だけではなくて、イエスにあって神がわたしたちに近寄ってくださる。
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しかも、イエスはその聖霊を教会に与えてくださっている。聖パウロはコリントに住んでいたクリスチャンに書いて:「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。」(Ⅰコリント3:16)

だから今は、教会そのものもパワースポットになっているはず。建物ではなくて、集まっているわたしたち自身。このに来れば、神に触れ合える(はず)。神の恵みと愛といやし、導きを、集まっているクリスチャンを通して痛感できる(はず)。

ここもパワースポットだし、この後解散して各自自分の生活に戻ってからも、わたしたち一人一人も小さなパワースポットになる。

考えたことはある?自分自身は、職場で同僚とやり取りしているとき、週末家族と一緒に過ごすとき、旦那さん・奥さんや友人と一緒に夕飯を食べるとき、コンビニの店員とたわいない会話をするとき――あなた自身が歩くパワースポットである。

そういうことを常に意識したら、どう変わるのだろうか。今週、イエスさまの「歩くパワースポット」として一週間を過ごしてみませんか。

2012年6月13日水曜日

出だしが悪かった(創世記 3:1-21)

聖霊降臨後第2主日(B年)・10時30分 聖餐式
聖路加国際病院聖ルカ礼拝堂

今日の創世記の言葉を皆さんと一緒に見たいと思います。なぜかというと、21世紀に住んでいるわたしたち人間の状況を理解するのに不可欠なものだと思うからです。

でも最初に、この創世記の記事の目的について一言。創世記は科学教科書のような資料ではありません。人類の生物学的な起源を説明しようとしていません(創世記と進化論の概念は基本的に相容れないものではないと思います)。

もちろん、論理的に考えると、何千年も前にどこかの時点で、「最初の親」が登場したはずです。つまり、チンパンジーでもネアンデルタール人でもない人間は、いつかどこかでスタートしたわけです。

でも聖書が興味を置いているのは、そういう点ではありません。アダムとエバの話は象徴的な言葉をもって2つのとても大事な質問に答えようとしています:すなわち、1)人間とはなにか、と2)何で人間は今このようになっているのか、と。

誰でもこの2つの質問について考えるべきだと思います。創世記は、神が知ってもらいたい答えを示しています。だから、限られた時間でも、この文章を皆さんと一緒に見たいと思います。
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 主なる神が造られた野の生き物のうちで、最も賢いのは蛇であった。蛇は女に言った。「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか。」(創世記3:1)
教会では、この蛇はサタンあるいはその使いだというふうに理解しています。サタンの動機というのは、洗礼式にあるように「神によって造られたこの世を堕落させ破壊する」のです。

蛇の出だしに注意してください。「[こういうこと]などと神は言われたのか。」これは悪魔の典型的な作戦です:神が示されたことに疑問を投げ掛けること。荒れ野にいたイエスの話を覚えていますか。「あなたは神の子なら...」とサタンが言ったわけです。その前、イエスが洗礼を受けられたとき、「わたしの愛する子、わたしの心に適う者」と天に言われたばかり。なのに悪魔は、それは本当かな?確かか?と疑わせようとします。

わたしたちも毎日同じような誘惑に遭うと思います。すなわち、神が明らかに示してくださったことを疑うように。イエスは隣人を赦しなさいと命じられたのだが、兄嫁もその「隣人」の中に入るかしら。聖書は、本当に結婚外の肉体的関係はだめだと言っているのかな。イエス・キリストは本当にこの世の救い主か。確かか?

でもここで蛇が何に疑問を投げ掛けているのか、注意してほしいです。「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか。」

こういうことを言うのはどういう神でしょうか。イジワルな神に決まっていると思います。人間を美しい園に置き、四方に美味しい食べ物を置きながら「だめだ。食べるな」と言うこととは。

でも実際にこのような神のイメージを持つ人は少なくないと思います。神は厳しい独裁者のような神だと思ったりします。人の楽しみを台無しにしようとしている。長い、難しくてつまらない人生で我慢することを求める。理由もなくこれもあれも禁じる。実は悪魔が持たせたい神のイメージはまさにこのとおりです。

でもこのイメージは果たしてあっているでしょうか。実際に神が仰ったことを聞きましょう。
ちょっと前、2章にはこういうことがありました:
主なる神は人を連れて来て、エデンの園に住まわせ、人がそこを耕し、守るようにされた。主なる神は人に命じて言われた。「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」(創世記2:15-17)

園のすべての木から自由に取って食べなさい、と。どんな木でも!莫大な数の木々からぶら下がっている果物のどれでも食べなさい!いつでも、食べ放題だ!

これは独裁者の声?全然違います。これは子煩悩な父親が言うことです。その子供たちのために何不自由ない環境を整えてくださったのです。サタンはよくこの父の愛を疑わせるものです。

 女は蛇に答えた。「わたしたちは園の木の果実を食べてもよいのです。でも、園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないから、と神様はおっしゃいました。」(創世記3:2-3)

もうやばいです。エバは蛇の策略に引っ掛かりはしないが、すでに危ない方向に向かっています。エバが神の命じられたことを大げさに言っていることに気づきましたか?神:「善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。」エバはそれを曖昧にします:「園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない」

神はまず触れることについて何も仰っていません。しかも、「園の中央に生えている木」ではなくてはっきり一本だけの木を指定なさいました。

どうして神はこの善悪の知識の木だけを禁じられるのか。「食べて欲しくないなら、どうしてそういう木を置いたのか」と考える人がいます。その答えは、人間の自由に関係していると思います。

神はご自分にかたどって人間をお造りになった、と聖書。それはおもに、自ら進んで愛に応える、愛を捧げる特徴を表わしていることです。

神への愛を示す一番大きな方法は、神に聞き従うことです。従うか従わないか、わたしたちの自由何です。神は人をロボットのようなもの造られませんでした。だから、エデンの園で、禁止されるものが何もなかったら、アダムとエバには従う・従わないという自由もなかったわけです。本当の意味で神を愛することもできません。愛は自由に、自ら進んですることでなければいけないのです。

でもそれよりも、神が「善悪の知識の木から食べてはならない」と仰ったのは、僕が娘に「あついストーブに触るな」と言うと同じことです。娘を愛しているからそう言っているのです。

善悪の知識の木が禁止になっていたのは、害を加えるものだったからです。基本的に「神に禁じられているから」ことがいけないのではなくて、害になることは神に禁じられるわけです。

アダムとエバはすでに善悪を見分けることができていました。神に従わないで、その木から実を食べることが悪いことだ分かっていました。今までは、彼らは直感的に正しいことが分かり、自然に正しいことを、正しいから、そして神に喜んでもらえるから、ずっとやってきたのです。

でも禁断の果実を食べると、今までにないように善悪を「知る」ことになります。ヘブライ語で「知識」とか「知る」という言葉は、ただ意識する、理解するだけではなくて、知り尽くす、熟知する、その知っていることと密接に関わりを持つ、というニュアンスがあります。善悪の知識の木の実を食べれば、善だけではなくて悪も彼らの心に舞い込むわけです。そうすると、「神のように」なる(と5節に)。つまり、何が善なのか、何が悪なのか、神の仰っていることとは関係なく勝手に決める立場を取ることになるのです。

でも、この蛇とエバのやりとりの一番悲しいところは、エバが言う「神様」という一つの言葉にあると思います。

創世記では今まで神はずっと「主なる神」(Adonai Elohim)と呼ばれていますがここで始めて、ただの「神様」(Elohim)に変わります。「主」(adonai)という言葉には深い関係性の意味合いが含まれています。造り主とその造られた人。主人とその民。導いて守る側と賛美・感謝をもって仕える側。親しく語る主と喜んで耳を傾ける人。愛を注ぐ側と愛を返す側――そういう関係がもう、この時点でも、見失ってしまっているわけです。神はただ「神様」になっています。強い神ではありますが、よそよそしい神でもあります。「木に触れてもいけない!」のように勝手にルールを強要する神。

では恐ろしいシーンを見てみましょう:
 女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆していた。女は実を取って食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も食べた。二人の目は開け、自分たちが裸であることを知り、二人はいちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした。(創世記3:6-7)

禁断の果実を食べると、どうなったでしょうか。

これに続く話を見ますと、まずアダムとエバの関係が崩壊することが分かります。今までは、二人が裸でありながらも別に恥ずかしくない、と書いてありました(創世記2:25)。つまり、ありのままの自分で一緒にいて、相手のありのままを尊敬し、受け入れ合っていたのです。

もはやそうではありません。本当の自分が見られるのは恥ずかしい。しかも、今まで喜びに満ちた、互いに仕え合っていた夫婦関係が変な力関係に変わってしまうのです。

そして、神が恐ろしい存在になってしまいます。今までは神と人は友愛関係をもって、園における協同者でした。もはやそうではありません:
「主なる神はアダムを呼ばれた。『どこにいるのか。』彼は答えた。『あなたの足音が園の中に聞こえたので、恐ろしくなり、隠れております。わたしは裸ですから。』」(創世記3:9-10)

ここにものすごい距離感を感じませんか。ギクシャクして緊張を伴っている場面です。罪は、そういう効果があるのです。わたしたちを神から引き離します。神に見られたくなくなる。神の正しい裁きが恐ろしくなるのです。

続きの言葉を飛ばしますが、注意してほしいです。アダムはエバに責任転嫁して、エバは蛇に責任転嫁するのです。とても情けないことでないなら笑っちゃう場面ですね。このとき以来、人間は責任を回避するようになっています。今の政治化は、特にそれを見事に見せてくれます。

そして最後に、人間は地球そのものから疎遠してしまいます。地球を管理し、守り、耕すように頼まれた人間は、これから苦労して、環境を打ち勝って乱用するようになるのです。
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時々こういう話を耳にします:エデンの園で起こった出来事、いわゆる「堕罪」という出来事は、実は良かった、必要だった、という話です。アダムとエバの反抗は人類の成長の苦しみだったのだ、と。自主独立を得るにはこういう道を通らなければならなかったのだ、と。

しかしこれほど聖書全体が言っていることを強引に読み違えることはないと思います。聖書は一貫して「堕罪」という出来事が純然たる大災害でしかないと主張するのです。神と人間との関係、人間同士の関係、自分との関係、地球との関係はこれで引き裂かれたのだ、と訴えるのです。

神の子供が成長して巣立った話ではありません。もっと妥当なたとえは、少年や少女が町でスカウトされて、離れた都会で薬物と暴力と売春の人生に消えてしまったというような話になります。

アダムとエバの罪は、何から何まで悲惨なことでした。実は、その時点から、人間のストーリーがどんどん暗くなっていくのです。アダムとエバには二人の子供が生れますが、カインは弟のアベルを殺してしまいます。それからもっとひどくなります。人類を最初からやり直そうと神が思われるぐらいひどくなります。大洪水というリセットのときに、ノアとその家族だけ救われます。が、箱舟から降りるノアはすぐ、酔っ払ったあげくの放蕩に落ちってしまいます。

とにかくわたしたちはアダムとエバの罪の跡継ぎです。毎日、堕罪の結果は目に前に現われます。この世は大きな悪と苦しみの泥沼に巻き込まれています。しかもその殆どが直接あるいは間接的に人間の自己中心や欲張りや暴力、あるいは人間の無関心によるものです。

皆さんはドアに鍵を掛けていますか。僕は掛けています。絶えず年寄りの方に「振り込み詐欺」を警告しなければなりません。結婚はどんどん崩壊しています:日本の離婚率は40%弱(アメリカは50%!)。貧富の差は日本でも世界的にも広がっています。今現在、世界のすべての人に、毎日2,720kcalの食べ物が作られていますが、7人の1人は空腹状態にあります(半分以上はアジアに)。毎日、予防し得る病気で数千人の子供が亡くなっています。今、40ぐらいの武力紛争が世界各地に起きています。掛け替えのない熱帯雨林の破壊がどんどん進んでいます。毎日、3つの絶滅危惧種が消えていきます。

聖書は言います:こんなはずではなかった。この状態は当たり前と思ってはならない!!これは、人間が神の慈しみを疑ってしまうこと、神の代わりにだろうとする心の結果である、と。しかも、この泥沼から抜け出す力は、人間にはない、と。わたしたちの望みはどこにあるのでしょうか。

その話は別の機会にしたいと思います。ただ、最後に、今日の創世記の最後の言葉を見たいです。
 主なる神は、アダムと女に皮の衣を作って着せられた。(創世記3:21)

アダムとエバはもはや園にいられません。ところが、これだけひどいことがあっても、2人が唯一定められた掟を破っても、基本的に神の愛と恵みを信頼していない姿勢を見せても、神の立場を取ろうとしても、園の麗しい平安を永遠に損なっても――それでも、神はどうされますか?彼らを滅ぼしてしまう?忘れてしまう?見捨ててしまうのでしょうか?

いや、違います。神は暖かい服を着せてくださるのです。園の外の気候は厳しくて、いちじくの葉だけでは足りないのです。だから神ご自身が衣を用意して、2人の罪の最もきつい結果から彼らを守ってくださるのです。

どうしてかというと、神は変わっておられないからです。アダムとエバは変わりましたが、神はそうではないのです。神は相変わらず、子煩悩な父親です。その子供たちが愛しい。神はわたしたちの幸福と喜び以外に何も望まれていないのです。わたしたちが神を見捨てても、神はわたしたちを見捨てたりはなさらないのです。

最後の最後に、質問があります:その服は、何でできたのか。動物の皮ですね。つまり、アダムとエバがその罪の結果から守られるために、罪のないものの血が流されたわけです。

お分かりでしょうか。ここストーリーの始まりに、ストーリーの終わりに起こることのヒントがあります。罪の結果からわたしたちを救うのが、やはり罪のない犠牲者の血である、ということ。

わたしたちの主イエス・キリストに感謝しましょう。「わたしたちはその血によって贖われ、罪を赦されました。これは、神の豊かな恵みによるものです」(エフェソ1:7)

2012年6月12日火曜日

starting off on the wrong foot (Genesis 3:1-21)

Second Sunday After Pentecost (Year B)
St. Luke's International Hospital Chapel - 10:30 a.m. Holy Eucharist

I want to look a bit at the text from Genesis we read today, because I think what is revealed here is so essential for understanding what it means to live as a human being in the 21st century.

But first I should say a quick word about what this account in Genesis is aiming to do. Genesis is not like a science textbook: It isn't trying to explain the biological origin of the human race.

Of course, even simple logic dictates that, at some point, however many thousands of years ago, our "first parents" had to come on stage—that is, the human race, as distinct from chimpanzees or Neanderthals, had to start at some point, somewhere.

But that's actually not where the Bible's interest lies. The story of Adam and Eve is trying to answer two very important questions: 1. What is a human being? and 2. Why are human beings the way we are now, today?

Every person ought to try to find answers to these questions. Genesis offers the answers God wanted us to know. With that in mind, and in our limited time, I want to explore the text with you.
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  • Now the serpent was more crafty than any of the wild animals the Lord God had made. He said to the woman, "Did God really say, 'You must not eat from any tree in the garden'?" (Gen 3:1)
The Church has always understood the serpent to be Satan or his servant. His goal, as we say in baptism, is to seek to "corrupt and destroy the world God created."

Notice how the serpent starts out: "Did God really say…?" That's a typical approach for the devil: To cast doubt on what God has revealed. Do you recall what Satan said to Jesus in the wilderness: "If you are the Son of God" (Matt 4:3)? God had just declared at Jesus' baptism: "You are my Son, my Beloved," but the devil says, Is it really true? Are you absolutely sure?

Every day, we face similar temptations to doubt what God has clearly shown us. Jesus commanded us to forgive our neighbor, but did He really mean my sister-in-law? Does the Bible really say no sex outside marriage? Is Jesus Christ really Lord and Savior of the world? Are you absolutely sure?

But notice what the serpent is trying to get Eve to doubt here: "Did God really say, 'You must not eat from any tree in the garden'?"

What kind of God would say such a thing?! A cruel, tyrannical God! To put man in a beautiful garden, surround him with good things to eat, and then to say: Sorry, not for you. Hands off.

Actually, many people have a similar view of God. They assume God is a harsh tyrant. He's out to spoil our enjoyment of life. He asks us stoically to endure life as one long, joyless grind. He forbids this and that for no reason. And that's exactly the image of God the devil wants us to have!

But is it true? Let's listen to what God really did say, a few verses back in Chapter 2:
The Lord God took the man and put him in the Garden of Eden to work it and take care of it. And the Lord God commanded the man, "You are free to eat from any tree in the garden; but you must not eat from the tree of the knowledge of good and evil." (Genesis 2:15-17)

You are free to eat from any tree in the garden! Any tree! Thousands upon thousands of trees bearing wonderful fruit and vegetables--and you can eat whatever you like! Whenever you like! As much as you like!

Does that sound like a tyrant? No, that is a loving Father who has provided for the needs of his children. Nothing is lacking. And yet, getting us to doubt the love of the Father is one of Satan's most successful tactics.

  • The woman said to the serpent, "We may eat fruit from the trees in the garden, but God did say, 'You must not eat fruit from the tree that is in the middle of the garden, and you must not touch it, or you will die.'" (Gen 3:2-3)
Uh oh. Eve doesn't fall for the serpent's trick, but she's already halfway there. Did you notice how she expands on what God commanded? God said: "Don't eat from the tree of the knowledge of good and evil." Eve is much more vague: "We mustn't eat from the tree that is in the middle of the garden, AND we mustn't touch it."

God never said anything about touching the tree. And He was very specific: "the tree of the knowledge of good and evil".

Why did God forbid that tree? Some people ask, "Why did God make the tree in the first place if He didn't want people eating from it?" The answer has to do with freedom. God made man in His image, which means He made us free to respond to Him, and free to offer love. And the primary way we show that we love God is by obeying what God says.

We are free to obey, or not to obey. God did not make people like robots. If nothing were forbidden in Eden, there wouldn't be even the possibility of Adam and Eve choosing to not obey. Which means there would also be no possibility of loving God: Love has to be freely chosen, or else it's not love.

But more importantly, God said "Don't eat from the tree of the knowledge of good and evil" in the same way I say to my daughter, "Don't touch the hot stove." I say that precisely because I love her.

Well, the tree was off limits because it was harmful. Something isn't just wrong because it is forbidden by God; God forbids things that are harmful.

Adam and Eve already knew right from wrong. They knew it was wrong to disobey God and eat from that tree. Up until now, Adam and Eve have had an intuitive knowledge of good. They have naturally done what is good, simply because it is good and because it is pleasing to God.

In eating this fruit, though, Adam and Eve will "know" good and evil in a way they never did before. The Hebrew word for "knowledge" doesn't just mean awareness--it means being enmeshed with the thing known. After eating the forbidden fruit, evil will become part of them. And they will become "like God," it says in verse 5. Which means, they put themselves in the position of deciding what is good and what is evil--regardless of what God says.

But the saddest thing about this interaction between Eve and the serpent is one word spoken by Eve: "God" (kami-sama).

Up until now in Genesis, God has been called "the Lord God" (adonai Elohim in Hebrew). But now Eve says simply, "God" (Elohim).

"Lord" signifies a profound relationship. Creator and created. The Lord and his people. The One who guides and protects and those who serve Him with praise and thanksgiving. The One who speaks intimately and those who listen with joy. The One who pours out love and those who return love.

Already at this point, Eve has lost sight of this relationship. For her, "God" is powerful, but distant. He is Someone who simply imposes rules: Don't even touch the tree!

Let's move ahead to the awful scene itself: 
  • When the woman saw that the fruit of the tree was good for food and pleasing to the eye, and also desirable for gaining wisdom, she took some and ate it. She also gave some to her husband, who was with her, and he ate it. Then the eyes of both of them were opened, and they realized they were naked; so they sewed fig leaves together and made coverings for themselves. (Gen 3:6-7)
So what happens when they eat the fruit?

As we skim over the next verses of Genesis 3, first we see Adam and Eve's relationship breaks down. Until now, the two of them have been naked but not ashamed (Gen 2:25). In other words, they were completely themselves with each other; each completely accepted the other one as they were.

But now they're ashamed to be seen as they really are. What's more, the husband-wife relationship which was one of delight and mutual service becomes an imbalanced power relationship.

The second thing we see is that Adam and Eve are terrified of God. Up until now, God and man were friends, co-workers in the garden. But no longer: "The Lord God called to the man, 'Where are you?' He answered, 'I heard you in the garden, and I was afraid…'" (Genesis 3:9-10)

Can you feel the incredible distance, the anxiety here? That's what sin does: It pulls us far away from God, and makes us afraid of submitting to His gaze, afraid of His righteous judgments.

I will skip over the next verses. But notice how Adam shifts blame to Eve, and Eve shifts blame to the serpent--people have been denying responsibility ever since. Our politicians are a shining example of this.

Finally, man is alienated from the natural world itself. Man, whose job was to manage and protect and till the soil now has to fight to dominate the natural world.
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Once in awhile you hear someone say what happened in the garden of Eden, what's commonly called "the Fall," was somehow good or necessary. The disobedience of Adam and Eve was sort of humankind's "growing pains," the cost of gaining autonomy.

It's hard to imagine a more outrageous misreading of everything the Bible says about Eden. Scripture speaks with one voice in declaring the Fall an unmitigated catastrophe, a total dislocation of man from right relationship to God, to his fellow man, to himself and the natural world.

It wasn't that God's children grew up and left the nest. A better example would be a teenager being "scouted" and lured into a life of drug abuse, violence, and prostitution, in a city far from home.

Absolutely nothing about the sin of Adam and Eve was good or necessary. In fact, from this point on, the human story just goes from bad to worse. Adam and Eve have two sons, Cain and Abel. Cain ends up killing Abel. It gets even worse after that. So bad, in fact, that God decides to start over, using the Flood as a kind of reset button for the human race. Only Noah and his family are spared--but as soon as they get off the boat, they fall back into drunken perversion.

We are inheritors of the sin of Adam and Eve. Every day we live with the consequences of the Fall. Our world is stuck in the mire of great evil and suffering, the bulk of which is caused directly or indirectly by human selfishness and greed and violence, as well as sheer disinterest.

Do you lock your door? I do. Elder people constantly have to be warned about bank transfer frauds. Marriages are failing left and right: the divorce rate in Japan is just under 40% (50% in America!). The rich-poor gap is growing both in Japan and globally. Even though the earth currently produces enough food for every single person to have 2,720 kcal of food every day, 1 in 7 people goes hungry--mostly in Asia. There are a dozen ongoing major armed conflicts in the world and twice that many minor ones. Irreplaceable rainforests are being progressively destroyed. Every day, three endangered species disappear forever.

The Bible declares: It wasn't supposed to be like this! This is not normal! This is the result of man's lack of trust in the goodness of God, and his desire to put himself in the place of God. What's more, we are powerless to get ourselves out of this mess. What hope do we have?

On that note, I want to end by looking at the last verse in our text today: 
  • The Lord God made garments of skin for Adam and his wife and clothed them. (Genesis 3:21)
Adam and Eve have to leave the Garden. But even after all that has happened, even after they have disobeyed the only commandment they were given, even after they have demonstrated their basic distrust of God's love and gracious provision and tried to put themselves in the place of God, even if they have forever spoiled the beautiful harmony of the garden--even after all this, what does God do? Destroy them? Forget about them? Cut off all ties with them?

No. God gives them warm clothes to wear. The climate outside the garden is harsh, and Adam and Eve's fig leaves just won't cut it. So God himself acts to protect them, to keep them safe from the worst results of their sin.

Why? Because God has not changed. Adam and Eve have changed, but not God. He is the same loving Father he has always been. His children are precious in His sight. He wants nothing more than our well-being and our joy. Even when we reject God, He does not reject us.

I want to leave you with this last thought: What were the clothes made of? Animal skin. In other words, the blood of innocent creatures was shed so that Adam and Eve would be protected from the effects of their own sin.

Do you see, here at the very beginning of the story, a hint of what happens at the end of the story? Do you see that it's the blood of an innocent victim which alone saves us from the consequences of our sin?

As Paul writes: Praise to our Lord Jesus Christ, for "in Him we have redemption through his blood, the forgiveness of our trespasses, according to the riches of his grace, which he lavished upon us." (Eph 1:7-8)

2012年6月8日金曜日

合格点を得るには(使徒言行録2:1-11、ヨハネ20:19-23)

2012年5月27日・10時30分 聖霊降臨日・主教巡回日(B年)
聖路加国際病院聖ルカ礼拝堂 牧師任命式・聖餐式・堅信式


看護大学でもシーバー家でも、中間テストを迎えている雰囲気になっています。看大の学生たち、また自分の子供の勉強している姿を見て、ただ一つの思いしかありません:僕じゃなくて良かった!と。連発試験を受けることは、もう結構です。

僕は去年、看護大学で新しい評価の仕方を知りました:秀、優、良、可。その後は不合格。

今日は、「教会の誕生」とも言われる聖霊降臨の祭りなので、自分たちの評価について皆さんと考えたいと思います。この礼拝堂としての成績は、どう評価しますか?秀?優?良?

洗礼を受けている皆さん自身は、イエス・キリストに従う人としての成績は、どう自己評価します?良?優?秀?

わたしは牧師として――もう任命式が終わったからあえて言いますが――わたしは牧師として、明らかに不合格だと思います。謙遜ではなくてマジで。

「まあ、クリスチャンとして何とか合格かな」と思っている人は、キリストに従う者たちから何が求められているのか、本当に分かっているのかな、と疑問に思います。基準が分かっているかしら。イエスは山上の説教でその弟子たちに仰います:「あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」、と(マタイ5:48)。

イエスに従う者たちは世の中に大きな影響を与えるはずです。特に個人レベルで。クリスチャンに出会ったら「うわ、何この人?!?何か、すごい!」と思われるのが、本来普通の有様です。イエスは「あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである」(マタイ5:16)。周りの人がわたしたちの言葉と行動と生き方を見て、果たして天の父をあがめるようになっているのでしょうか。

イエスに従う者は神の国のために――つまり、神に喜んでもらえるように実を結ぶことが求められています。祈ると病人が治ったり。絶えず祈ったり、しかも大いなる確信を持って祈ったりする。悪に立ち向かう。世の中の偽りに流されない。自分の行動と言葉でイエス・キリストの麗しさを人に見せる。人に仕えることに熱心である。などなど。

つまり言いたいのはわたしたちの考え方は小さ過ぎるのではないか、ということです。日本では、クリスチャンであることは好みのレベルにあると思われます。趣味と同じぐらい。あるいは、教会に関わることは、自分の心の拠りどころとして、結び付きがだいぶ薄れてきた近所の代わりになるものとして考えられがちです。名前が知られて心地よい居場所。

でも聖書が示すのは、だいぶ違うイメージです。もちろん、クリスチャンであることは大いに心の拠りどころになるはず――「聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれている」(ローマ5:5)とパウロ。そしてクリスチャン同士の愛はほかのどんな絆よりも深いはず:「神のみ心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ」(マルコ3:35)。

でもそれだけではないわけです!クリスチャンであるというのは、何よりも偉大な救出作戦に加わることだ、と聖書が示してくれます。全世界の人々を暗闇の支配から、霊的な死から解放するという膨大な運動に参加するわけです。特祷にあるように「永遠の命の道を開かれる」神の働きにあずかることです。

さて、皆さんの成績はどうしましょう?このチャペルとしてどしましょう?僕自身、どうしましょう?秀?優?良?可?それとも不合格?
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エルサレムで待機していた弟子たちを考えると、なかなか面白い。彼らはいろんな意味で「クリスチャン」と見なしていいと思います。聖書は(一応)知っている。きちんと礼拝に出る。3年間、イエスの教えを学んできた。体の復活の真実を受け入れている!イエスによる赦しを確信している。イエスを救い主として、主として受け入れているのです。

そして共に集まっている。そこに一つのコミュニティができているわけです。

しかし、これでも不十分だそうです。イエスの望みは、彼らがずっとその家に座り込むのではないそうです。いずれ派遣するつもり。でもまだ、何かが足りないのです。

まるで夜のステンドグラスのような状態。すべての部分が整っているけど、光がないから役目を果たせないという感じです。
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ところがある日、何か不思議なことが起こりました。この小さくて弱い、方向性のない弟子たちのグループがいきなり、後にも先にも現れることのないような、世界を変えるような力強い運動の推進役に変身したのです。

何かが起こって、弟子たちはパッと行動に移り、その家を出て、世界の果てまで出掛けて行ったのです。そして3,4百年もの間で、イギリスからインドまで大勢の人々がよみがえりのイエス・キリストによる救いの喜びを経験することになったのです。

この弟子たちは歴史の流れを変えたのです。わたしたちが今日ここにいるのも、このチャペル、病院、看護大学が存在するのも、その数十人の男性、女性のおかげなのです。彼らの働きによって、暗闇に覆われている世の中で「永遠の命の道が開かれた」。

そのおかげで2,000年後、世界3人に一人がキリストのお世話になっているわけです。

いったい何が起こったのかというと、聖霊が与えられたのです。米粒より小さいエネルギーの塊りから宇宙をお造りになった神の力が注がれたのです。その力が弟子たちを「小さなキリスト」の部隊に変えたのです。(「クリスチャン」の本質的な意味)
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日本の多くの聖公会の教会は家の中で座り込んでいるままになっている気がします。「ここは心地がいい」と言って、ずっと家にいるわけです。

でも神は、わたしたちを通して想像を超えるような素晴らしいことをなさりたいのです。しかもその素晴らしい働きを果たすための力を与えようとしておられるのです。

イエスは「わたしを離れては、あなたがたは何もできない」と仰いました(ヨハネ15:5)。夜のステンドグラスのごとき。

でも神のみ前で唯一の合格者であるイエス・キリストはご自分の力をくださろうとしておられます:「聖霊を受けなさい」と弟子たちに仰るように(ヨハネ20:22)。

神はわたしたちを通して素晴らしいことをなさりたいのです。例えばどういうことか?何か新しい委員会を作るとか、施設を建てるとか、署名運動に加わるとか新しい活動をするとか――そういう話ではありません。仕事を捨ててアフリカで宣教師になるとか、そういう話でもありません。まず。

そうではなくて、「小さなキリスト」の部隊になってほしいのです。

だから一人一人のやっていることは全く変わらないかもしれません。やっていることは変わらないけれども、その意図とその質が変わります。キリストにあって、キリストと共に、キリストの力と知恵を得てやっていくと、その意味、そのインパクトは比べ物にならないほど深くなるのではないかと思います。
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キリストの働きに加わるための、キリストの力と知恵を得させる――これこそ聖霊の役目なのだと思います。

では、どうやって聖霊の恵みを受けることができるのでしょうか?洗礼や堅信を受けるとき聖霊の恵みを受けているはずです。でもどうすれば、その聖霊の恵みをイキイキとしたものとして受けることができるのでしょうか。一回だけではなくてずっとこれから。「霊に満たされ続けなさい」とパウロが言っているように(エフェソ5:18)。

まず、祈るべきですね。エルサレムの弟子たちは一緒に家に集まって「心を合わせて熱心に祈っていた」と使徒言行録に書いてあります(1:14)。

祈らなければなりません。そして自分の生活の中で何か聖霊の恵みを妨げることがあれば、それを告白して神の赦しをいただく必要があります。人を赦していないとか。神に喜ばれない何かと関わっているとか。そういうことがあれば、それを退ける必要があります。

そして聖霊の恵みを求めるのです。一人ででも、誰かと一緒にでも、祈って、聖霊の恵みを求める、求め続けるのです。

ただそれだけです。イエスが言われました:「天の父は求める者に喜んで聖霊を与えてくださる」(ルカ11:13)。

正式に牧師に任命された者として、僕はこれまで以上に聖霊を求めて、聖霊の助けを頼りにしなければいけないという事実を痛感しています。

ぜひ、皆さんも共に聖霊の恵みを求めていただければ、嬉しく思います。

2012年5月13日日曜日

キリストの愛を住まいに(ヨハネ15:9-17)

復活節第6主日(B年)
聖路加国際病院聖ルカ礼拝堂 10時30分 聖餐式


最近、同じ家に住むということについて考えています。当たり前のことと思われますが、夫婦や家族同士でも同じ屋根の下で生活をして、同じ空気を吸って、同じ食卓を囲む――やはり大したものだと思います。世の中に家のない人もたくさんいますし。

何でこういうことについて考えているかというと、最近、家庭でうまく行かなくなった話を伺っているからです。やはり同じ家に住むには、たとえ親戚であっても最低限のルールというか条件があると思います。一緒に住んでいる人たちにつらい思いをさせないとか、乱暴なことをしないとか――こういう根本的なルールは多くはないけどあると思います。せめてこういうルールを守れない人は、家から出てもらうしかなくなってしまうのです。

聖書はこの世界自体が人間の「家」として造られたのだと言います。今日のイザヤ書でも:
神は「天を創造し、地を形づくり/造り上げて、固く据えられた...混沌として創造されたのではなく/人の住む所として形づくられた」(イザヤ45:18)

これは、物理化学の分野でも話題にされます。つまり宇宙も、物質も、生命そのものも存在し得るように、すべてがぴったりできている、ということです。

これは実に不思議な話です。まず、何かが在るということ自体は不思議です。何もないという可能性もあったのです。むしろ、何も存在しない確率の方がはなはだしく高かったのに、この世界が存在するようにすべてがぴったりできているわけです。

こういうふうにたとえられます。あなたは南米とかで死刑を宣告された囚人だと想像してみてください。壁の前に立たされる。銃殺隊が出て来る。50人の兵士たちが並び、ライフル銃を構えてあなたの胸を狙う。少佐の命令をスタンバっている。

少佐は「討て!」と叫び、50人の銃声が響く...

ところがどういうわけか、あなたは生き残っている!しかも、かすり傷一つない!そこで何気なく「ああ、危なかった!さあ、帰ろう!」と言うのでしょうか。「どうして?!?」と何か説明を求めるに違いないと思います!

50人の兵士たちが一斉にあなたから外れたのは偶然と思えるのでしょうか。もう一つの可能性があります:自分が知らないだけで、兵士たちは実はあなたの味方であって、あなたを応援していて、わざと外した、ということです。

わたしたち人間が在ることは、殆どあり得なかったのです。存在しない確率が非常に高い。宇宙は絶好なバランスが取れているから、存在し得るようになっています。例えば:
 重力と電磁気力の比率がちょうどいい(相対的強弱度)
 宇宙の膨張速度(早く広がっているスピード)もちょうどいい
 原子核の結合エネルギーもちょうどいい(核子の結合の強さの度合い)などなど

原子核の結合エネルギーというのは、Post-Itと同じ話です。Post-Itの接着力が強過ぎると、紙にくっ付いてしまって、取るとき紙をやぶいてしまいます。接着力が弱過ぎると、紙にちゃんとくっ付かないで、落ちてしまいます。

原子核の結合エネルギーも、ちょっとだけ強過ぎると回っている粒子が回れなくなって、核に衝突してしまいます。ちょっとだけ弱過ぎると粒子がどっかに飛んでしまいます。

宇宙のすべてがちょうどぴったりできています。ちょうどいいと言うと、いろんな値はあるけれども、例えば10の40乗分の1ぐらい変わったら、宇宙が存在し得なくなったり、物質そのものができなくなったり、まして生命を維持できなくなるのです。さまざまな値は無限小に近い偏差より少しずれたら...すべてがパッ!になる、という話です。

この非常に良くバランスの取れている宇宙ならでは人間の生命が可能となるわけです。「偶然の積み重ね」だけでは理にかなわない話です。人間が存在し得るように造った方がいるとしか説明のしようがないのです。しかも、物理科学の視点から見ても、この方がわたしたち人間の味方であり、わたしたちを応援して、わざとこの世を「人の住む所として形づくられた」ように思われるのです。
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聖書では、アダムとエバという最初の人は人類を代表する立場にあります。彼らの住まいとして、神はこの世界をお造りになったと言われます。

神は人のために絶好な環境を用意してくださいました。「園のすべての木から取って食べなさい!」(創世記2:16)と神は仰います。何不自由ない世界になっていたのです。

でも、そのエデンの園という「住まい」に住むには、一つだけの条件がありました。善悪の知識の木からは食べてはならない、というこれだけのルールがありました。

(こういう話は、人間の自由を表わしている話です。つまり人間はロボットではないから、神の愛に応える=神の言うことを聞くかどうか、選択できるはずです。強制ではありません。善悪の知識の木は、神が示してくださることとは関係なく、自分で身勝手に良し悪しを決める態度を表わしていると思います。)

とにかく神により絶好な環境が備えられて平和と幸福の道が開かれたところに、アダムとエバはそのたった一つのルールを破ったのです。唯一の禁断の果実を食べてしまいました。

人の心の中には、反抗したがる何かが存在しているということだと思います。安全で、幸せいっぱいの暮らしが用意されても、あえてそれを拒んで、勝手に進む道を選んでしまう傾向が人の心にあるということだと思います...
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イエスはその弟子たちに:「わたしの愛にとどまりなさい」(ヨハネ15:10)。この「とどまる」に当たる単語(meno)は「住む」という意味です。「わたしの愛の中に住みなさい・居候しなさい」とイエスが仰っています。

つまり、イエスとの親しい交わりの中には、わたしたちの居場所がある、ということです。心のよりどころ。生きているキリストと一緒に日々の生活を送ることができるのです。イエスの友人として生きることができるのです。それこそ、「喜びが満たされる」人の生き方になる、とイエスが仰っているのだと思います。

でも、イエスとの交わりを保つには、イエスの愛の中に居候するには、やはり条件があります:「わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。」(ヨハネ15:10)

注意:イエスの愛・憐れみをいただく、イエスとの交わりに迎え入れていただくためにその掟を守らなければならないという話ではない――それだけ分かっていただきたいです。
 「わたしはあなたがたを愛してきた」(ヨハネ15:9)
 「わたしはあなたがたを友と[呼んである]」(15:15b)
 「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ」(15:16)
イエスの愛が必ず先です。わたしたちに先立って、イエスが愛してくださっているのです。

神は愛をもって、愛のゆえにこの世界を人の住む所として形づくられたと同じように、イエスは愛のゆえにわたしたちをその交わりに迎え入れてくださるのです。

ただし、わたしたちはそこに住み続けるためには、イエスに倣って生きるように励むことが求められているわけです。それはこの「家」の決まりなのです。「わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる」(15:10)

イエスの掟とは?簡単であって簡単でない気がします:「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である」(15:12)

この掟は実は幼稚園児にも分かる話です。仲良く遊ぶこと。おもちゃを一緒に使うこと。頭ぶつかったり、泣かせたりしたら「ごめんね」と誤ること。「ごめんね」と言われたら「いいよ」と赦してあげること。

「互いに愛し合いなさい。」家族関係や近所付き合い、教会の付き合いだけではなくて、国際情勢や国家の経済レベルでこういう掟が守られたら、世の中はいきなり天国のようになります。

だけでそう簡単にはいかないのです。人間の心の中には、反抗したがる何かが存在しているからです。でも幸いなことに「わたしの愛にとどまりなさい」と仰るイエスは、とどまるための恵みをもわたしたちに与えてくださいます。

「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」(15:13)。これはわたしたちへの模範である以前に、イエスのしてくださったことを表わしている言葉です。わたしたちを「友」と呼んでくださったイエスは、わたしたちのためにご自分の尊い命を十字架の上で捨ててくださったのです。

その「十字架の愛」という大きな力をいただく人は、少しずつ愛することを学んでいけるのです。学んで、また失敗して、また学び直していけるのです。そしてイエスはそういう人の味方になり、応援してくださるのです。

イエス・キリストは、わたしたちをご自分の交わりに招いてくださっています。ご自分の愛にとどまってほしいのです。そのために、わたしたちに呼び掛けて、ご自分の跡に従っていく恵みを日に日に注いでくださるのです。

キリストの愛の家に居候していいのです。今日、これからその愛の家の食卓を囲み、イエスとの交わりにいられることへの感謝を分かち合いたいと思います。

2012年4月3日火曜日

a totally unexpected morning

"Trembling and bewildered, the women went out and fled from the tomb. They said nothing to anyone, because they were afraid." (Mark 16:8)

The resurrection of Christ, before it is a source of joy, is a source of astonishment and terror. We may not think of it simply as a story of a man brought back from the dead. Nor is it that a great tragedy has somehow been erased, and things reset to "the way they were." No. The resurrection of Christ is a new act of creation. It bristles with the mighty power of God who made heaven and earth. It is the firstfruits of a completely new kind of life, a manifestation not of "the way things were" but of "the way things will be". It is our clearest glimpse into that new world of freedom and peace that is waiting to be born when the curtain falls on the heart-rending drama of our present world.

奇想天外な朝

「婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。」(マルコ16:8)

キリストの復活は、喜び以前に驚きと恐怖をもたらす出来事だった。単に、ある人が死者の中から生き返らせられた話だと思ってはならない。また、ある大惨事がどうにか帳消しされて、物事が「元通り」に取り戻された話でもない。違う。キリストの復活は新しい創造のわざである。天地を造られた神の強大な力に満ち溢れる出来事である。全く新しい類の命の初穂として、「元通り」ではなくて「やがて」のことを現しているのである。キリストの復活にあって、切ないドラマであるこの世に幕が下りてからやがて生れて来る、自由と平和の世界を垣間見ることができるのである。

2011年10月14日金曜日

ある思考実験

あるホテルを取り壊して新しい建物を建てることが計画されていた。

そのために解体作業の業者たちはホテル中、完全に崩されるように爆発物を仕掛けてきた。

いよいよ取り壊す日が来た。遠く離れたところで監督が爆発スイッチを入れる1分前、部下の一人が走って寄ってくる。「監督!スイッチを入れないで!だれかホテルの中にいるかもしれません!」

「かもしれない?何それ?いるかいないか、どっち?」

「今の時点で確実ではないけれども、いる可能性はあります。」

「なんてこった!スケジュールより遅れると大変なことになっちゃうよ。遅延罰金が生じるし。ああ、面倒くさい!こんなことに時間を無駄にする暇はないよ。あと30秒しかない。はっきり言え。ホテルに人がいるか、いないか?」

「確かにいるとははっきり言えません。でもその可能性は間違いなくあります。しかも人がいったら、監督がスイッチを入れることは人殺しになってしまうので、止めてください。お願いします!」

6...5...4...3...2...1

さあ、あなただったら、どうする?スイッチを入れる?入れない?

+   +   +
母の胎内にできた赤ちゃんは、人間としての命をいつから持つようになるのか。

確実に言えなければ、それでもあえておろすことは、人殺しである可能性はあるのではないだろうか。

「あなたはわたしの内臓を造り∥母の胎内でわたしを組み立てられた」(詩編139:13)

胎内の赤ちゃんは人間としての命をもっているかどうか、神はご存知である。その命が大事にされていることは、神の望み。

最も弱くて頼りない命を含めて、すべての命を大事にしましょう。

2011年9月9日金曜日

random thoughts while flying to the far side of the planet

1. Some very fine colors at both sunset and sunrise.

Sunset had a kind of rich, persimmon liqueur color going on--I don't know if there even is such a thing as persimmon liqueur or if it would anything other than nasty (can anybody say "Jaegermeister"?)--but if there were, it would surely look like the sunset I saw. Liquid, deep orange with just a hint of rosy peachskin.

To stick with the cocktail theme, sunrise offered much more of a grenadine--a long, thin layer of intense clear red bordered top and bottom with cake-frosting cloud strips, quickly dropping off to darkness.

Nicely done, God!

2. Delta weren't no Singapore Air, but it wasn't awful. I was relieved not to learn too much about the flight attendents' personal lives or level of job dissatisfaction.

One steward, who might have even been heterosexual, did "confide" to his colleague: "I'm not feelin' it today." Well, I wasn't feeling it either. But there you have it.

But, boy, once you experience individual seat monitors, anything else seems so shabby.

Also, at the risk of sounding elitist: I admit a moment's disappointment upon seeing that the wine came from a paper carton...

3. I was able to confirm that I'm not a big Julia Roberts fan. The last film on the flight was, if I'm not mistaken, "Eat, Pray, Love." I seem to recall a DVD cover with that title starring Ms. Roberts, and had heard of the book it's based on.

I saw this quote from a review of another movie: "If a volcano erupts in the city you're in and the only safe place to be is a theatre showing Apollo 16, go jump in the lava."

Well, sitting in a middle seat on a Boeing 747 with big-screen monitors, I was basically at the mercy of this movie during the last stretch of the flight. I didn't put in the headphone tabs, which probably helped...

It was a very religious movie--if your religion happens to be Spiritual-ish Hedonism.

Having not read the book or listened to the dialogue, I gather it was about Julia Roberts Career Woman going off in search of Herself and, indeed, finding Herself in several modes: Julia Robert Repeatedly Enjoying Italian Cuisine. Julia Roberts Getting All Conflicted in a series of more or less casual romantic involvements. Julia Roberts Experiencing a Stream of Moments of Enlightenment involving indigenous people in various foreign countries. All interspersed with a smattering of Julia Roberts Doing Meditation.

But, you know? I'm always just happy when Robert Downy Jr. can find work.

4. There are two elements in novels or movies that I find so deeply uncomfortable emotionally that I will often stop reading or watching works that contain them: marital infidelity, and a fall back into addiction.

One of the other movies on the flight, The Dilemma, incorporated both of those themes! To be fair, some close calls notwithstanding, the main character was able to stay clear of his gambling addiction.

But the whole cheating on your spouse thing? It drives me nuts. It's equally excruciating to watch whether the guilty party is the husband or the wife. But I guess I tend to expect female characters to act with a little more selfless maturity, so am more disappointed when they choose What's Good for Me Now over faithfulness.

I enjoyed the male friends' relationship at the heart of this film. Who knew it was possible for two men to be vulnerable and committed to one another without having sex? It's so Nineties! 1890s, that is.

The "dilemma" of title was the main character wrestling with whether to to tell his best friend about his wife's affair. It raised interesting questions about painful honesty and loyalty and the demands of love between friends.

I was saddened but not surprised with the film's conclusion. After all beans get spilled at the climax, we find out that the cuckolded friend's marriage has ended, offscreen. No anguishing, not the slightest sense that reconciliation was even a possibility.

But Hollywood has pretty much just assumed the easy disposability of marriages that "don't work" at least since Kramer vs. Kramer.

On the other hand, the cheating wife's attempt to go with the "you're partly to blame for the fact that I couldn't keep my pants on with another man" was rejected for the lame infantile ploy that it is. Even she didn't buy it, finally.

All in all a good film.

5. America is definitively a nation of a Generously Sized People. The two male leads in The Dilemma were both...big and fat. There, I said it. There was some TV show, too (Molly & Mike? Mike & Molly?) where the two main characters were QUITE girthful. And their obesity didn't seem to be a recurring source of humor (I think--I had the sound off).

And then, sitting in the hotel sports bar last night, I realized how shrewd it is for popular entertainment to reflect the thunderous reality on the ground.

I guess I just wonder why it took so long.

2011年9月7日水曜日

suspicious

"So one elephant having a trunk was odd; but all elephants having trunks looked like a plot."
--GK Chesterton, Orthodoxy, p. 51

「一頭の像に長い鼻がついているのは、おかしな話である。でもすべての像に長い鼻がついているというのは、意図的なことに見えてしまう。」
―GKチェスタートン『正統とは何か』

宇宙を見て「すべて偶然だ」と言える人は、僕より遥かに信心深い。偶然主義者ほど分別のない信仰を持つ人はいない。ただ、その信仰とは「神も仏もいない」という信条に基づいているだけである。