2011年12月1日木曜日

教会の重要な務め:いやしの祈り

2011年11月27日発刊の「チャペルニュース」に出た巻頭メッセージです...

来る12月から、このチャペルでは月一回「いやしの祈り」という新しい礼拝を始めようと計画しています。毎月、第1日曜日午後5時から、トイスラーホールにて行う予定です(第1主日の「夕の礼拝」の代わりになります)。

大体いつもの夕の礼拝と同じ流れの中で、祈りを希望する方一人一人のために司式者が手を置いて祈るという時間を取る、というわりとシンプルな礼拝を予定しています。

いやしのために祈るというのは、極めて重要なことだと思います。イエスご自身がその働きの中でとても大事にされたことです。また、その弟子たちを派遣なさったとき、イエスは人々のいやしのために祈りなさいと命じられました(ルカ九・二、十・九など)。そしてご復活後でも、そのいやしの祈りは弟子たちによって引き続き行われました。このように二千年間にわたり、教会はいつでもこの働きを続けてきたのです。

聖書では、イエスの弟子の一人である聖ヤコブがこう書きました。「あなたがたの中で病気の人は、教会の長老を招いて、主の名によってオリーブ油を塗り、祈ってもらいなさい」(ヤコブ五・十四)。教会に来ていやしの祈りを求めることは、まさにこういうことでしょう。

教会の祈りはあくまでも神の恵みを求めることであって、人はその器に過ぎません。祈ってもらうとき、何か感じる人もいれば、そうでない人もいます。いずれにしても、神が共におられ、わたしたちの祈りを聞き入れてくださること、そしてわたしたち一人一人に最もふさわしい形でのいやしを喜んで与えてくださることを信じています。

本当の祈りは「ご利益」ではなく、ただ単に心の望みを神に言い表すことです。わたしたちは体のいやしを願っても、神はその病を残し、新しいことに気づく機会や心を向け直す機会として用いてくださる場合もあります。つまり、わたしたちが想像していた「いやし」とは違う恵みが与えられることもあります。それを素直に受け止めることは、神に求められる信仰心と言えましょう。

なお、医学分野と同じくいやしの祈りでも、即座に改善が見られる場合もあれば、時間をかけて、繰り返し祈ってもらう中で改善に向かう場合もあります。いずれにしても、神の望みはわたしたちの健康、平安、喜びであり、また赦し合える心、愛し合える心を持つことである――つまり、自らの本来の姿が取り戻されることです。こういった神の慈愛を見詰めて、あきらめずに自分のために、そして他人のために祈り続け、友の祈りを願い続けることが大切です。

当チャペルの新しい働きとなるこの「いやしの祈り」のために祈ってくだされば幸いです。

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