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2013年6月9日日曜日

まことのパワースポット、イエス(ルカ7:11-17)

聖霊降臨後第3主日(特定5、C年)
聖路加病院 聖ルカ礼拝堂
2013年6月9日年・10時30分 聖餐式


流行りというものは不思議な現象だと思う。

17世紀のヨーロッパでの「チューリップバブル」はご存知?ヨーロッパ、おもにオランダでチューリップの価格は一気に100倍上がったという有名な話がある。

日本も流行り帝国だと思う。約15年前の「たまごっちバブル」は覚えている?出荷するという噂があるだけで3日前から店の前で並んだりする光景がよく見られた。当時、日本ってどういう国だろうと思っていた。が、後で同じTAMAGOTCHIバブルがアメリカでも起こった話を聞いて何も言えなくなった。

大昔、日本におけるウサギブームはご存知?明治初期に起こった(5年ぐらいから)話である。

特に手に入れにくい、外国種の耳の長いウサギが流行したわけ。珍種のウサギは、実際一匹(一羽が正式だけど何で?!)は400円と値段のついたケースも。400円は大したことじゃないと思うかも知れないけれども、当時400円は米12t分に相当する高額だった。

あまりにも流行りすぎてしまって、ウサギに税金がかかった。ウサギの売買の勢いが止まらないから、高い税金を掛け、ウサギ熱を冷ますという狙いだった。ウサギ一匹につき、税金「1円」という法律ができた。当時の1円は米30kg。また、無許可で飼っている場合は2円の罰金!

日本では最近、パワースポットというものが流行っている。パワースポットとは何だろう。一応、地理的な場所で、そこを訪ねる人は特別な何かを感じる。何らかの力、聖なる存在、神、母なる地球など、目に見えない何かを身近に感じるという人がいる。テレビで見るとだいたい若い女性アナウンサーが「いやされる~©」というつまらないコメントをすることが多い。そういう場所。

「パワースポット」という言葉そのものは和製英語だけど、その概念は日本以外にもある。古代のアイルランド人の間で「薄いところ」という話があった。天と地との境界線が薄くなって、天はこの世にあふれ出るようなところ。

書店に行けばおそらく日本中、世界中のパワースポットを教えてくれるガイドブックがあると思う。さて、こういうパワースポットについてどう考えればいいのだろうか。

聖書によれば、神はこの世と世の中のすべてのものをお造りになった。「主の栄光は天地に満つ」と。だから世界の至るところはその造り主を示し得るわけ。世界中は神の指紋だらけになっている。

つい先週の金曜日、病院の新しい研究センター(医療イノベーション部)の部長、東大の科学者である入村先生が仰った:「地上の生き物を詳しく見れば、大きな意思の存在を感じないわけにはいかない。」

だからもしかしたら、実は全世界がパワースポットであって、普段それを認知しないだけかも知れない。いわゆるパワースポットは、天とかを垣間見れるところではなくて、ありのままの地球に気づいているところだけかも知れない。
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昔のユダヤ人にとって、エルサレムにある神殿は偉大なるパワースポットだった。パワースポットの中のパワースポット。神殿(ユダヤ教の本山)は神の住まいと呼ばれていた――実際に全能で永遠の神がそこに住み得るとは当然思っていなかったけれども、神殿で神と触れ合えると信じていたわけ。

神殿の最も奥にある「至聖所」は、神が身近におられすぎて実は恐ろしかった。至聖所には一般信徒は近寄らない。徹底的に身を清めて、ちゃんとしたいけにえを携えている大祭司一人だけが、年に一回だけ入るところだった。(「いやされる~©」のではなくて「死んじゃう!」というコメントがふさわしい!)

至聖所はパワフルすぎるところだったけれども、神殿そのものでは、神と仲直りができる場所(捧げ物を通して)。神の導きを得られる場所(祭司の指導によって)。神とコミュニケーション取れる場所(祈りを通して)。神と一緒にいることを楽しむ場所(祭りを通して)。

詩編84編はこういうことを語る:
「万軍の主よ、あなたのみ住まいは麗しい。わたしの魂は主の庭を慕い、心を込めてあなたの命を喜び歌う...あなたの庭で過ごす一日は、千日にもまさる」(詩編84:1-2, 10a)
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神殿のことを考えれば、確かに神は特定の場所で人と触れ合うことがある、ということが分かる。しかしクリスチャンにとって、イエス・キリストによって神殿への理解がかなり変わった。

イエスはサマリア地方で、ある井戸のところにサマリア人の女性とのやり取りがあった。その中でイエスは、ある地理的な場所が他の場所より神に出会いやすい考えを否定なさった。ユダヤ人にとってエルサレムの神殿こそ神と出会いやすい場だったが、サマリア人にとってはゲリジム山が聖なる場所だ。

サマリア人の女性がこういうことに触れるとイエスはこう言われた:
「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る...まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」(ヨハネ4:21-24)

霊と真理をもって礼拝しなければならない。ある「場所」ではなくて、心の態度が大事。神との正しい関わりがその条件だ、と。
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後にイエスはご自分が神殿に代わるようなものだという話をなさる:
「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」(ヨハネ2:19)ご自分の十字架の上の死と、三日後の復活のことを話しておられた。この神殿はイエスご自身。

つまり、わたし自身が一番のパワースポットだ、とイエスが主張しておられた。しかも、固定の場所に限られるのではない。イエスが国中を巡り歩きながら、神の身近な存在を痛感させておられたのである。

今日の福音書でも、ナインの人たちはそういうことが良く分かったと思う。イエスがやもめの一人息子を死者の中から生き返すのを目撃したわけである。「いやされる~©」どころか、死んだ人が生き返った!のだ!
「人々は皆恐れを抱き、神を賛美して、『大預言者が我々の間に現れた』と言い、また、『神はその民を心にかけてくださった』と言った。」(ルカ7:16)

神はその民を心にかけてくださった。これはわたしたち人間の心の奥底にある熱望である。すなわち、神に見放されず、神に見捨てられず、この地球という大きな島に置き去りにされていないで、神はわたしたちを心にかけてくださっているのだ、と。これこそパワースポットへのあこがれだと思う。一人ぼっちではない。神に、偉大なる者がわたしたちを心にかけてくださっているのだ。

その日ナインの人たちは神の憐れみと恵みを痛感したのである。彼らにとって、神は漠然の遠い存在ではなくて、すぐそこに、身近な存在であることが分かった。
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イエスは公の働きの最初に宣言された:「時は満ち、神の国は近づいた!悔い改めて福音を信じなさい!」(マルコ1:15)。後に言われる:「実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ」(ルカ17:21)。

イエスのミッション、すべての言葉と行動の目的は、この真実を世の中に示すことだった。

昔の農業電化プロジェクトに似ている。まず発電所から地域に電気を送るための巨大なケーブルを取り付ける。でも、各家はまだそれにつながっていない期間はしばらくあった。

そのとき、電力会社の者は宣教活動をした:「実に、電気の国はあなたがたの間にあるのだ!」。

そして農業の人たちはこの福音(良い知らせ)を信じて、自分の家に電気を入れさせる必要があった。そのとき、生活は永久に変わった。
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神の国はあなたがたの間にある。すでに。イエス・キリストは何よりのパワースポットである。イエスにあって、天と地の境界線が薄くなっているどころか、亡くなっている。ナインの人たちにとって、弟子たちにとって、イエスに触れられていやされ、解放されたすべての人にとって、イエスを通して天国がこの世に突入してきた。

わたしたちは神に近寄りたかったら、パワースポットのガイドは必要ではない。イエスがいらっしゃる。イエスの霊が与えられている。ある特定の場所だけではなくて、イエスにあって神がわたしたちに近寄ってくださる。
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しかも、イエスはその聖霊を教会に与えてくださっている。聖パウロはコリントに住んでいたクリスチャンに書いて:「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。」(Ⅰコリント3:16)

だから今は、教会そのものもパワースポットになっているはず。建物ではなくて、集まっているわたしたち自身。このに来れば、神に触れ合える(はず)。神の恵みと愛といやし、導きを、集まっているクリスチャンを通して痛感できる(はず)。

ここもパワースポットだし、この後解散して各自自分の生活に戻ってからも、わたしたち一人一人も小さなパワースポットになる。

考えたことはある?自分自身は、職場で同僚とやり取りしているとき、週末家族と一緒に過ごすとき、旦那さん・奥さんや友人と一緒に夕飯を食べるとき、コンビニの店員とたわいない会話をするとき――あなた自身が歩くパワースポットである。

そういうことを常に意識したら、どう変わるのだろうか。今週、イエスさまの「歩くパワースポット」として一週間を過ごしてみませんか。

2012年12月5日水曜日

飲み屋で賛美


『明るい窓』(病院職員ニュースレター)11月号
チャプレンからのメッセージ


先月、出張でニューヨークに行ってきた。ミーティングや見学が全部終わって、日曜日の夕べはフリーになった。今回は、マンハッタンではなくて、あえて庶民的な地域であるブルックリンを拠点にした。

翌朝の飛行機もあるので、一晩だけ独身になるチャプレンはどのように時間を過ごすか。それはもちろん、バーに行ったのだ。

事前に調べてあった「The Trash Bar」というお店だったが、夕方6時ちょっと前に着いたら、想像以上に名前にふさわしく、山ほどのごみ袋はお店の真ん前に置かれ、玄関は落書きだらけで、床には何年分のこぼされたビールの跡が残っている。

薄暗くて狭いお店の中に入ると、「こんばんは。奥の部屋へどうぞ」と女性バーテンに案内される。


奥へと進むと、小さいライブハウスの空間になっている。ステージの前に種類バラバラの椅子が置かれている。バンドメンバーが音響チェックを始めている。

端っこの場所で座って、礼拝が始まるのを待つことにした。

そうだ。このお店は、毎週日曜日の夕方だけ貸切状態になって、教会がここに集うのだ。Church@Trashと名付けられ、自分たちの建物を待たないでこういった形で教会をやるという話を知って、興味を持って足を運んだわけだ。

どんどん人が集まる。僕と同じ年代あるいはもっと若い人がほとんどで、およそ20人ぐらいが集まって来た。とても暖かい雰囲気になり、僕にも何人かが声をかけてくれる。日本から来たと知られると、8年間東京で勤めていた女性に紹介していただき、アメリカ人同士でもしばらく日本語で会話をする。

いよいよ礼拝が始まる。4人のロックバンドの伴奏で聞いたことがない讃美歌(ロック風)を歌ったり、お知らせがあったり、聖書も朗読される。全部パワーポイントで映っているから、ずっと手ぶらでいられる。

そしてメッセージがある。説教者だけが僕より年上。と言っても、50代であろう。牧師と言っていいか分からないが、普通の恰好して、話し方も強いブルックリンなまりながら会話のような話し方をする。飾り気のない牧師。

しかも話はとても印象的で、自らの人生についてぶちあけた内容だった。少年の頃、両親の離婚がきっかけで深い悲しみと自己嫌悪に突き落とされた。高校生の時から始まって20年以上、薬物中毒のとりこになっていた、と言う。

そういういわゆる生き地獄からやっと抜け出せたのは、ある教会のコミュニティとの出会いのおかげだったと言う。その暖かいコミュニティを通して、初めて神の愛に気づかされ、少しずつ深く病んでいた心が癒されていった、と。

このChurch@Trashも、いろんな人を迎え入れることができる、暖かい癒しのコミュニティでありたい、というメッセージだった。

十分そうなっているのではないか、と帰り道に僕は思ったのである。イエスが来られたら、飲み屋で集う教会にはまったく違和感を覚えられないだろうとも思った。「大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ」(ルカによる福音書7:34)と非難されたイエスは、むしろそのようなコミュニティに親近感を覚え、神の慈愛に出会い得る人はこういうところにこそ集まるのだ、ということがお分かりになるだろうと思った。

聖公会とはまったく違う形式の教会でも、同じ兄弟姉妹で、同じ神の癒しの恵みを願っている者であることに感謝しつつ、刺激を受けてチャプレンとしての働きについて、またこの病院が真の癒しのコミュニティになれるように自分が何ができるかについて、いろいろ考えさせられたことにも感謝している次第である。

2012年7月8日日曜日

まだまだこれから(マルコ6:1-6)

聖霊降臨後第6主日(B年)
聖路加国際病院聖ルカ礼拝堂
2012年7月8日・10時30分 聖餐式


今日のマルコの福音書では、「イエスは人々の不信仰に驚かれた」と書いてあります(マルコ6:6)。イエスはわたしたちの信仰をどう思われるのだろう、とちょっと気になります!

この話の流れを把握したいと思います。イエス・キリストは、人類を悪の束縛から救い出すために神によって遣わされました。そこまではいいですか?世の中を見ると、「こうなるはずではなかった!!神様はどうにかしてくれないか、」と言いたいことに対して、神は「どうにか」してくださったのです。その「どうにか」はイエス・キリストです。

イエスがお生まれになる前からも、彼の使命が明らかになっていました。天使ガブリエルはマリアにもヨセフにも言いました:「この子の名前をイエスにしなさい」(ルカ1:31、マタイ1:21)。その名前自体が「神は救いなり」もしくは「神は癒しなり」という意味になっています。両方はあっています:神はわたしたちの魂だけではなくて体をも大切にしてくださるのです。

み子のミッションは神の救い・癒しとなることでした。しかもみ子が人間の世界来られたとき、人間として来られました。100%人間として。み子としての力と地位を全部捨てたのです:「主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた」とパウロ(Ⅱコリント8:9)。

イエスはわたしたちと同じく完全に人間でした。ただ、わたしたちと違ってイエスは天の父とのつながりが途切れていなかったのです。神とのつながりを切ったり、妨げたりするのは罪なので、罪と何の関わりもないイエスは常に神の愛を直感し、神のみ心を行うことを喜びとされたのです。

ほかすべての点では、イエスは普通の人でした。1世紀のパレスチナのユダヤ人として、その義父ヨセフから大工の仕事を覚えられました。イエスの育ちについて殆ど記録がありません。数百人の村落であったナザレに普通に住んで、その地方の工事現場で普通に働かれたわけです。

ところが30歳のころ、イエスはそのいとこヨハネのもとで洗礼を受けに出掛けられます。洗礼のとき、イエスは聖霊に満たされて、「わたしの愛する子」と天からの声が聞こえる、と聖書が教えてくれます(マルコ1:11)。

ここからですね。イエスは子供のときから天の父の愛を感じ、特別なミッションが与えられていることもご存知です。だけどついに、そのミッションを遂行する力を授かるのです。

イエスの力の源泉は聖霊なのです。神の子であることではありません。そういうことを一切捨てられたのです:「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました」(フィリピ2:6-7)。だから家畜小屋で、小さくて弱い赤ちゃんとしてイエスがこの世に来られました。そして30年間にわたり、人とほぼ変わらない生活を送られるわけです。

そしてついに、普通の人として聖霊に満たされて、やっと仕事に取り掛かれるのです。

イエスは洗礼を受けてから故郷のナザレに戻られます。地元の人たちに早く福音を伝えたいでしょう。マルコの福音書はイエスの行動を強調しますが、ルカの福音書ではそのナザレの会堂でイエスが何を話しておられたか、記録しています。彼はイザヤ書を引用なさるのです:
「神の霊がわたしの上におられる。貧しい人に良い知らせを告げるために、主がわたしをお選びになった。主がわたしを遣わされたのは、束縛されている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げるためである。圧迫されている人を自由にして、今年こそ神が動き出す年だということを宣言するためである。」(ルカ4:18-19)

つまり、イエスが地元の人たちに仰っているのは:400年前に預言されたことは今、起こっている。神は動き出しておられる!大規模な救出作戦が始まってる。この世を支配している暗闇の力から虜となっている人間をこれからどんどん自由にしていくのだ、と。神の国が前進して、暗闇の国が追い払われていくのだ、と。

そしてこられのことの中心は、このわたしなのだ、と。

そしてそこで集まっている人は、はっ?と思うわけです。何言ってんの?何様だと思ってんの?あの大工のお兄さんだろう?!親戚みんな知ってるし...

「このように、人々はイエスにつまずいた」(マルコ6:2-3)。

つまり、どうしてド田舎の小さな村であるこのナザレ出身の人が救い主であり得るのか、ということでした。「なれなれしさは軽蔑を生む。」イエスのことをよく知っているので、別に特別な人ではないのだ、と。

しかも、20年以上ナザレに住みながら、一度も人を癒したり、奇跡を行ったりすることはない。自分が「救い主だ」と言ったこともない。
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これまで一度もありませんでした。いつもこんなふうなんです。同じような話は、教会でも耳にすることができます、たまには(笑)。

僕はクリスチャンファミリーに生れましたが高校生の頃、信仰から離れました。キリストに立ち帰ったときに一つ気づかされたのは、神やイエス・キリストのこと、教会のことを全部知ってるつもりだったけれども、実はそうではなかった、ということです。最初からやり直して、素朴な質問を聞き直して、学び直すことは本当に多かったです。今も学んでいる最中です。

そしてもう一つ気づかされたのは、神はもしかしたら新しい、予想外のこともなさる可能性がある、ということでした。「これまで一度もない」ことにとらわれてはいけないのです。結局、僕の人生においても、神は予想外のことをなさるかもしれない――実際になさろうとしていらっしゃる――ということを受け入れなければならないことに気づかされたのです。

周りに座っている人をご覧なさい。知っている人はいますか?「だいぶ変わっている人」というわけではないと思います。まあ、何人かへんてこりんがいるかも知れないけれども(笑)。でも、ここにいらっしゃる殆どの人はごく普通の人だと思います。

今日、ここに集まっている人たちを通して、神は新しい、予想外のことをなさる可能性があると思いますか。自分自身を通して、神は新しい、予想外のことをなさる可能性があると思いますか。
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イエスの人生が急に展開したのは、彼が聖霊に満たされて、力づけられたときです。

これはイエスに留まることではありませんでした。来週の聖書日課でも、イエスが十二人の弟子たちを派遣する場面が出てきます。ご自分と全く同じことをさせるのです。すなわち、み国の良い知らせを告げ、病人を癒すなど人々を暗闇の力から解放すること。「十二人は出かけて行って、悔い改めさせるために宣教した。そして、多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人をいやした」(マルコ6:12-13)

こうやって神の国が前進して、暗闇の国が追い払われていくのです。

しかも十二人だけでもありません。後に、イエスは72人のごく普通の弟子たちを派遣されます。その名前さえ知られていないのです。そのミッションは?良い知らせを告げて、病人を癒す。

そして聖霊降臨の後も、このミッションが続くわけです。まずペテロとヨハネ、そしてフィリポ、そしてアナニア、そしてパウロなどなど、イエスに従う人たちが地の果てまで広がりながら常に二つのことに励んでいきます。み国の良い知らせ、すなわち、神が暗闇の力の虜になっている人を救い出すために動き出しておられるという良い知らせを告げることと、その言っていることを行動で証明して、人の癒しと解放のために祈っていくこと。これだけです。

3世紀初頭の教会リーダーであるテルトゥリアヌスは、すべてのクリスチャンにイエスの働きを受け継ぎなさいと促しました:最もえらい生き方は「悪の力に立ち向かって、人の癒しを祈り、神のために生きることなのである」と訴えたのです。

(こういう生き方は劇や競技場の試合を見に行くよりも楽しいのだ、とテルトゥリアヌスは言っていました[『見世物について』29章]。僕は、人の癒しのために祈ることは、オリンピックより楽しいよ!と言ったら、信じてもらえるかしら...)
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神の国が前進して、暗闇の国が追い払われていくことを明らかに示すために、イエスは癒しと悪霊払いの働きに専念されたのです。言葉だけではなくて行動で証明されたのです。そしてイエスの働きを通して、多くの人々の人生が変わりました。その弟子たちの働きを通しても、多くの人々の人生が変わりました。

いずれもその力の源泉は同じ聖霊でした。イエスの従っていくために、イエスが聖霊に満たされていたと同じようにわたしたちも聖霊に満たされなければならないわけです。

わたしたちは、2つの意味で聖霊を必要としています。まず聖霊の力によって、わたしたち自身が変えられなければならないのです。「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です」(ガラテヤ5:22-23)聖霊がわたしたちの心に取り掛かり、わたしたちをもっとイエスのような人に変えてくださいます。相当時間がかかりますが、もっと潤いのある心、もっと神の喜びと平和に開かれた心を与えてくださるのです。

でももう一つは、人を助けることができるために聖霊がいります。助けを必要としている人々のために大胆に祈る勇気を聖霊が与えてくださいます。道に迷っている人々を守り導くための知恵を聖霊が与えてくださいます。不安や困難の中にある人々を支えて励ますための愛を聖霊が与えてくださるのです。

聖霊の助けがなくても、人に優しく関わることができます。しかし聖霊の助けがあったら、わたしたちの祈りによって人が癒されたり、その人生が変わったりします。そこが違います。

もしかしたら、最も聖霊を必要としているのは、神のご計画に目と心を開いてもらうためなのかも知れません。このチャペルコミュニティを通して、わたしたちを通して、あなたを通して、僕を通して、神は予想外のこと、全く新しいことをなさることがおできになるのです。

聖霊よおいでください。わたしたちが口で言っていることを心から信じるようにさせてください:
「わたしたちのうちに働く力によって、わたしたちが求めまた思うところの一切を、
はるかに越えてかなえてくださることができる方に、教会により、またキリスト・
イエスによって、栄光が世々に限りなくありますように  アーメン」
(エペソ 3:20-21、聖餐式の「感謝聖別」の終わり)

you ain't seen nothing yet (Mark 6:1-6)


Sixth Sunday After Pentecost (Year B)
St. Luke's International Hospital Chapel
July 8, 2012– 10:30 a.m. Holy Eucharist


We read in Mark's Gospel this morning: "Jesus was amazed at their lack of faith" (Mark 6:6). I wonder what Jesus would think about our faith…

Let's take a minute to get the big picture of what's going on here. Jesus was sent by God to save mankind from the bondage of evil. Are you with me so far? Look around, the world isn't supposed to be like this. Won't God do something about it? He has, and that "something" is Jesus.

Even before Jesus was born, his mission was clear. The angel Gabriel told both Mary and Joseph: "You are to call the child 'Jesus'" (Luke 1:31; Matthew 1:21). His name means "God saves" or "God heals"—the original word has both meanings. And both are true: God is interested in our bodies as much as our souls.

So that's the mission assigned to the Son of God. But when the Son came into the world, He came as a man, 100% human. He gave up all power and privilege as the Son— "though he was rich, yet for your sake he became poor" (2 Corinthians 8:9).

So Jesus was fully human, like you and me. Although unlike us, He enjoyed unbroken communion with the heavenly Father. Sin breaks or blocks the connection between us and God, but Jesus was without sin. So He lived always knowing the love of God, always taking delight in doing the will of God.

In all other respects, though, He was pretty much a normal guy. A 1st century Palestinian Jew who learned carpentry from his step-father, Joseph. That's why we hear almost nothing about Jesus' life growing up. He lived a normal life in Nazareth, a town of maybe a few hundred people, and worked construction in the area.

But then, at around age 30, Jesus goes off to be baptized by his cousin, John the Baptist. At his baptism, we read that Jesus is filled with the Holy Spirit, and hears a voice from heaven saying to him: "You are my Son, my beloved" (Mark 1:11).

This is where things really kick off. Jesus has always known the Father's love, always known He had a mission to do in the world. But at last, He has the POWER to do it.

The Holy Spirit is the source of Jesus' power. NOT his special status as the Son of God. He put all that aside: "Though he was in the form of God, Christ did not count equality with God a thing to be grasped, but emptied himself, by taking the form of a servant, being born in the likeness of men" (Phil 2:6-7). So Jesus came into the world as a tiny baby born in a stable. For the first 30 years of His life, Jesus never performed any healings or other miracles. He was a normal guy.

But now, as a normal guy, He is filled with the Holy Spirit. So now He can get to work.

Jesus goes back to His hometown, Nazareth. He's probably eager to share the good news with the people He grew up with. Mark's Gospel is heavy on the action, but Luke reports what Jesus said in his hometown synagogue. He reads from the Book of Isaiah:
"God's Spirit is on me. He's chosen me to proclaim good news to the poor. He sent me to announce freedom for prisoners and recovery of sight for the blind. He sent me to set the oppressed free. To announce 'This is God's year to act!'" (Luke 4:18-19)

Jesus tells His fellow Nazarenes: What Isaiah said 400 years ago is happening NOW. God is on the move. God has launched His big rescue operation, to free us from our enslavement to the powers that control this world. God's Kingdom is advancing, the kingdom of darkness is receding.

And all of this is starting with Yours Truly.

And they're all like, huh? What is he TALKING about? Where does he get off talking that way? He's just a construction worker! We know his family!

"And they took offense at him" (Mark 6:2-3).

The people of Nazareth can't imagine that someone who grew up in their little hamlet could be the promised Savior. Familiarity breeds contempt. They know Jesus too well; He can't be special.

Besides, for more than 20 years Jesus lived in Nazareth and never did miracles before. He never claimed to be the Savior before.
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It's never happened before. It's always been this way. These are phrases one often hears in church.

I grew up in a Christian family but left the faith in high school. When I came back to Christ, one thing I was forced to realize was that, although I thought I already knew all about God and Jesus and Christianity, in fact, I didn't. I had to start from the beginning and reask the basic questions, relearn so many things. I'm still learning.

And I had to open my mind to the possibility that God could do new and unexpected things. Eventually I had to open my mind to the possibility that God wanted to do new and unexpected things IN MY LIFE.

Look around you. Do you know anybody here? We're a fairly normal lot, don't you think? A few of us are a bit strange, but…all and all, plain vanilla.

Do you think God is capable of doing something new and unexpected through the people gathered here today?

Do you think God is capable of doing something new and unexpected through you?
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What changed in Jesus' life was that He was filled and empowered by the Holy Spirit.

But it was never only about Jesus. Next week, we'll read about Jesus sending out the Twelve Disciples to do exactly the same thing that He's doing: proclaim the good news of the Kingdom, and heal the sick and deliver people from evil powers:
"They went out and preached that people should repent. They drove out many demons and anointed many sick people with oil and healed them" (Mark 6:12-13).

In this way, God's Kingdom advances, and the kingdom of darkness recedes.

And it's not just the Twelve, either. Later, Jesus sends out Seventy Two plain vanilla disciples—we don't even know their names: Proclaim the good news and heal the sick.

And after Pentecost, the mission continues. First Peter and John, then Philip, then Annanias, then Paul—and on and on, Jesus' followers go out to the ends of the earth. Always doing two things: Proclaiming the good news of the Kingdom, the good news that God is acting to rescue mankind from enslavement to evil, and then backing up their proclamation by praying for people to be healed and set free from bondage.

Tertullian, a Church leader of the early 3rd century, urged all Christians to continue in the ministry of Jesus. He said the noblest life is "to exorcise evil spirits—to perform cures—to live to God."

(Tertullian even argued that doing such things was more exciting than going to plays or sports events! (Tertullian, "De Spectaculis," Ch. 29) If I told you that praying for people was more exciting than watching the Olympics, would you believe me?)
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Jesus focused on a ministry of healing and deliverance to clearly show that God's Kingdom was advancing, and the kingdom of darkness was receding. It wasn't just words, it was His words backed up by His actions. Through His ministry, lives were changed. Through the ministry of His followers, lives were changed.

The source of power for Jesus' followers is the same source as for Jesus Himself: the Holy Spirit. If we are to follow Jesus, we need to be filled with the Holy Spirit just as Jesus was.

We need the Holy Spirit for two reasons. First, we need the Holy Spirit to change us. "The fruit of the Spirit is love, joy, peace, forbearance, kindness, goodness, faithfulness, gentleness and self-control" (Galatians 5:22-23). The Holy Spirit works on our hearts to make us more like Jesus, more full of life, more open to God's joy and peace.

But we also need the Holy Spirit so that we can really help people. The Spirit gives us courage to pray boldly for people who are in need, wisdom to give counsel to those who have lost their way, love to encourage those who are anxious or in doubt.

Without the Spirit, we can be kind and supportive. With the Spirit we can see people being healed and lives changed. That's the difference.

But perhaps most of all we need the Spirit to open our eyes and our hearts to the plans God has in store for us. God is capable of doing something new and unexpected through this chapel, through us, through you, through me.

Come, Holy Spirit, and help us to believe in our hearts what we say with our lips:
"Glory to God whose power, working in us, can do infinitely more than we can ask or imagine: Glory to him from generation to generation in the Church, and in Christ Jesus for ever and ever. Amen" (Ephesians 3:20,21, at the end of the Eucharistic Prayer)

2012年7月6日金曜日

two highlights

Highlight 1:
The other day, I met a woman I've known for years, from the time she found out she had breast cancer through to its total remission. There were some signs that the cancer might be back. She was waiting for test results, nervous. "God, may all her results be negative" I prayed with her, even as my mind filled up with all sorts of scenarios. Yesterday, she stopped by my office with great news: "No relapse." We just stood there for a long, long time, grinning like monkeys and shaking hands.

Highlight 2:
For the past six months I've enjoyed getting to know a patient in the palliative care unit, an elder brother in Christ. A Protestant, he loves Mass, and often took part in our Sunday worship, hospital bed and all. He was quietly called to be with the Lord this morning. When I went to say goodbye, the realization that I would no longer regularly be seeing him or his family made me suddenly sad. I went back in the afternoon for the send-off. And, just as if the patient were still alive, the family and nurses and doctors and I all gathered around his bed, laughing and smiling as we took one last photograph. No, not "just as if"--he IS still alive. "Blessed are the dead who die in the Lord from now on.” (Revelation 14:13)

2つの嬉しいこと


数年、乳がん発覚当初からその完全寛解まで時々会って話を聞いている女性に先日またお会いした。またか?と疑われる要素が出てきてしまって、検査結果待ちで不安。「どうか、姉妹の結果がすべて陰性でありますように」と、いろいろな思いが駆け巡っている中で祈ってあげた。そして昨日、僕のオフィスに寄って来て「再発してない」という吉報をもたらしてくれた。二人の収まらない笑顔と長い、長い握手。


半年知り合っている緩和ケア患者さんで、キリストにあって大先輩。教派は違うけどミサが好きで、よくベッドごとで日曜礼拝に参加してくれた。今朝、穏やかに天に召された彼とのお別れに伺うと、ご本人とも、ご家族とも、今までのようには頻繁に会えないな、と思いがけない寂しさを感じる。だが午後、病棟からの見送りに立会うと、亡き患者さんがまだ生きているかのように、ご家族もナースもドクターもチャプレンも病床を囲んで笑いのあふれる記念撮影を。いや、「かのように」ではない。今も生きているのだから。『今から後、主に結ばれて死ぬ人は幸いである』(黙示録14:13)

2012年4月19日木曜日

み名によって(使徒言行録4:5-12)

「あなたがたもイスラエルの民全体も知っていただきたい。この人が良くなって、皆さんの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけて殺し、神が死者の中から復活させられたあのナザレの人、イエス・キリストの名によるものです。」(使徒言行録4:10
聖書では誰かの「名により」行動を取るというのは、その人のように、その人の権限をもって動く---つまり、その場でその人の代理人となる、という意味を持つ。イエスがこの世に遣わされたのは、罪人に赦しを、疲れ果てている人に癒しを、抑え付けられている人に自由をもたらすためであった。十字架によってこの働きに終止符が打たれたわけではない。むしろ、復活のキリストがその権限を教会に委任し、赦しと癒しと解放の働きを継がせてくださったのである。わたしたちの課題は、イエスのみ名によって、イエスのように、み国の力をしっかり行使していくことである。

2012年2月29日水曜日

diocesan news blues

Each week, the fax machine spits out another one-page bulletin called the "Diocesan News."

Copies of the weekly diocesan bulletin used to be mailed out. It was a few pages long, with articles from various contributors around the diocese. But since the Diocese is scraping the bottom of the cash barrel these days, this exciting new low-cost format was adopted. Each church can make its own copies (or even just post one copy in the parish hall, to save on toner cost.)

The one-page bulletin has information on the goings on around the diocese. There are concerts, gatherings to raise awareness about various social issues, study groups about various social issues, peace rallies, committee meetings, and the names of people who died this week.

It's kind of depressing.

I guess what bothers me most about the Diocesan News is what's NOT on it: i.e. means of grace.

Free music concerts are a good thing, sure. And, to be fair, in the midst of all the peace and social justice gatherings that the same fifty people all go to, and the committee meetings that I am extremely grateful not to be part of, there is the occasional offering of a retreat day or prayer gathering. That's a step in the right direction.

But, if I'm an ordinary baptised believer, or mostly a believer, sort of, at least on my good days, what help is there for me to, you know, actually grow in my faith? Not to grow in my awareness of all the ways the world is screwed up by the Evil Establishment (you know, Them). Not to grow in my hopelessness that an already tiny and struggling diocese is shrinking as funerals surpass baptisms week after week after week.

To grow in my faith. To learn how to follow Jesus better than I am now.

Is there any place I can go to encounter the Word of God, living and active? Is there anything that will lead me to an encounter with God? Is there any remedy available for my sin-sick soul? Is there any guide who can help me try to stay faithful in the confusing muddle of work and school and daily life in a pagan world?

In other words, what's out there that will tear down and rebuild my heart? Where can I find training in how to live as a saint?

Because just a handful of saints, just a few hearts that have been deeply grasped by grace and set afire with divine love, will do more to bring justice and healing to Japan than twenty thousand discussion groups.

The problem is not a lack of awareness. The problem is a lack of conversion.

2012年2月12日日曜日

神の「よろしい」(マルコ1: 40-45)

顕現後第6主日(B年)・聖路加国際病院聖ルカ礼拝堂
2012年2月12日・10時30分 聖餐式


人は親になると大きく変わると思います。でもおじいさん、おばあさんになると、もっと大きく変わる気がします。

うちのおやじは、僕が子どものころ、かなり厳しかったです。本人もストイックだったし、子どもたちに対しても結構シビアなときがありました。友人によく言われました:「お前のとうさんは怖うぇぇよ!」
  → 僕は怖いかどうか、ぜひ子どもたちに聞いてみてください!(笑)

ありがたいことは、おやじは気まぐれではなくて、考え方は一貫性があって、明らかだったので、分かりやすかったです。特に嫌いなことは2つありました:
1. 自分の子どもが周りの人に迷惑をかけること
2. 子どもが同じ失敗を繰り返すこと

子どもがこのようなことを起こしたたら、たいていの場合、おやじが怒ります。その反応はかなり怖かったものです。目つきがきつくなり、歯を食いしばるようにして話すわけ。「やめろ!」(ああ、怖っ!)

でも、この同じ人が今度おじいちゃんになったら、いきなり穏やかになりました。とても優しいやつになっています。孫たちにメロメロ。「ジュース、もう一杯ほしい?いいよ。」「あれ?壊したかい?No problem!」とか。なんてこと!?!!ありえない!

とにかく、言いたいことは、子供のころ、自分にとって権力のある人(親、先生、牧師)から、自分の持っている「神像」に大いに影響を受ける、ということです。

そういうわけで僕は、長年、神はどちらかというと怖い存在だとずっと思っていました。歯を食いしばりながら、僕をじっと見詰めて、何か失敗したらすぐに懲らしめるような神ではないかなぁと思っていました。

いい子にすれば、大人しくすれば喜んでもらえるけれども、失敗したら、罪を犯したら、その期待に裏切ったら、雷が落ちるのではないか、と思っていました。

最初は、そういう神が怖かったのですが、結局、そういう神だったらいらない、と思うようになって、とても長い間神から離れて行ってしまったわけです。
+   +   +
今日の福音書を読んだら、この「重い皮膚病を患っている人」は、そのような神像を抱いていたのではないかなと思いました。

どの種類の病気だったかはっきり分かりません。ハンセン病、乾癬(かんせん)、アトピーなどの皮膚病は、全部「レプロス」という単語でひとまとめにされて、旧約聖書では「汚れ」=人を汚す病気と見なされました(レビ記13-14)。

いずれにしても、ただの病気だけではなくて、その人が、あるいはその人の親とかが、悪いことをしたからこういう病気にかかってしまうという発想もありました。病気は罪が及ぼす結果の一つだという考えです。

当時、これらの病気には治療方法がないし、感染しやすいものと思われたので、患っている人たちは村八分にされました。完全隔離になります。親戚や村から離れて、村外に他の病人とともに極めて貧しい生活に強いられていたのです。

しかも、道を歩くとき、自分から「ケガレ!ケガレ!」と叫びながら進まなければならないことになっていました。

そういうふうにさせれてしまう人たちは、やがて自分の中にそういう偏見を取り込んでしまいます。

だから、福音書に出て来るこの人がイエスのところに来てひざまずく時点では、もう、かなり大胆なことをしているわけです。無断で人に近寄ることは、当時の社会のルール違反だからです。

そこでその人は「み心ならば、わたしを清くすることがおできになります」

要は、イエスには自分を治す力があることは疑わないけれど、自分を治す意思があることを疑っています。

周りの人々から汚れた者、近寄っちゃいけない者、迷惑の存在と見なされてきました。

もしかしたら、神からも同じように見なされているかも知れません。そして神の子であるこのイエスからも、そういうふうに見なされているのではないか、と思っていたでしょう。

治りたい。普通の生活に戻りたい。良くなりたい。だからあえてイエスの足元にひざまずいています。けれども、このイエスに拒まれてしまうかも知れません。

そこでイエスの反応はどうだったでしょうか。
「イエスが深く憐れんで」――この翻訳はちょっと弱いです。直訳すると「イエスのはらわたが動かされた」となります。どちらかというと「怒りを覚えた」に近いニュアンス。
「イエスが深く憐れんで、手を差し伸べてその人に触れ、『よろしい。清くなれ』と言われた」(マルコ1:41)


おそらく翻訳した人たちは「きつ過ぎる」と思っていたかも知れません。助けを求められただけで、どうしてイエスは怒りを覚えるだろう、と。だから「イエスが深く憐れんで」と訳したでしょう。

でも十分理解していなかったではないかと思います。ここは、イエスがこの人に対して怒っているわけではありません。

違います。イエスの怒りは、弱い人、病気の人が社会から完全に隅っこに追いやられていることから生まれたものだと思います。悪いことをしていないのに、極貧生活に強いられている人がいる社会に対する怒りです。

また、律法を守れない人――汚れと見なされる病気にかかったり、罪を犯したりする人を神のところに連れて帰るのではなくて疎外してしまう世の中を見て、イエスが怒りを覚えていらっしゃるのではないかと思います。

この重い皮膚病を患っている人が崩れ落ちるほど打ちのめされて、神の憐れみを求めることでさえ恐れています。エジプトで奴隷生活に苦しんでいた民の嘆き声を聞き、苦悩から救い出してくださった神の憐れみを疑っています。

周りの社会の悪影響を受けて、「神像」が非常に歪んでいるのです。お前が汚れた者だ、ここにいっちゃいけない者だ、としきりに言われてきたこの人は、「もしかしたら、神の手に届かないところにいるかも」と思うようになってしまっているのです。

神の憐れみの手、赦しの手、癒しの手の届かないところにいる人は一人もいません。そういう話は、サタンの口から出る嘘にほかなりません。

人類の大敵であるサタンは告発人で、わたしたちを神の愛から引き離そうとします。あなたみたいな人は、神の恵みにふさわしくない。あなたみたいな罪深い人とは神が無関係だ、と。

ところがイエスは、救い主です。病んでいる人、人生に迷っている人、神の道から離れてしまった人に出会い、神の愛に連れて帰るために来られた方です。

皆さんは、この重い皮膚病を患っている人の気持ちに共感できるでしょうか。神の憐れみの手の届かないところにいるかも知れないと感じたことがありませんか。こんなわたしがきっと赦してもらえない。失敗を繰り返したわたしにきっと神はうんざり。こんなわたしは周りの人に迷惑ばかり。きっと神にも迷惑だろう。

違います。全然違います。

「み心ならば、わたしを清くすることがおできになります」...「よろしい。清くなれ」憐れみをもらいなさい。赦しをもらいなさい。癒しをもらいなさい。

イエスは手を差し伸べてこの人に触れられました。この人、他人に触ってもらえたのは、何年ぶりでしょうか。他人がこの人の悲しみ、痛み、不安、孤独感に向き合ってくれたのは、何年ぶりでしょうか。

イエスは手を差し伸べてその人に触れられました。

イエスは手を差し伸べてわたしたちにも触れてくださいます。神の深い憐れみをわたしたちに注ぎ込んでくださいます。

何よりもそのイエスとの触れ合いができるところは、これからいただく聖餐式にあります。パンとぶどう酒がイエスの体とイエスの血、イエスご自身となるのです。イエスの差し伸べられた手となります。

今日も、どうぞこの聖卓に近づき、その豊かな憐れみをいただきなさい。

神に「よろしい」と言われているのです。

2012年2月10日金曜日

sermon preview: the "I am willing" of God

"If you are willing, you can make me clean." Jesus was filled with compassion. He reached out his hand and touched the man. “I am willing,” he said. “Be clean!” (Mark 1:40-41)

The idea of "bad karma" is completely antithetical to scriptural revelation. It implicitly denies the mercy and loving-kindness of God. God is not some tyrant, watching over our shoulders to punish us as soon as we mess up. To be sure, turning our backs on the will of God carries grievous consequences. But the mercy of God is far bigger than that. God is always willing to forgive us, and heal us, and stand us back on our feet. This is precisely what Jesus Christ, who is "the face of God," shows us.

説教プレビュー:神の「よろしい」

「『み心ならば、わたしを清くすることがおできになります』と言った。イエスが深く憐れんで、手を差し伸べてその人に触れ、『よろしい。清くなれ』と言われた。」(マルコ1:40-41)

「罰当たり」という発想は聖書の啓示にまったく相容れない。神の慈愛を暗に否定してしまうからである。神は暴君のように、わたしたちの生活ぶりをじっと監視して、しくじったらただちに懲らしめるような方ではない。確かに神のみ心に背くことには痛ましい結果が伴う。が、神の憐れみはそれよりもはるかに大きい。神はいつでもわたしたちを赦し、癒し、再び立ち上がらせてくださろうとしておられる。「神の顔」であるイエス・キリストが示してくださったのは、まさにそういうことである。

2012年2月4日土曜日

sermon preview: Jesus gives evil a beat down

"And he came and took her by the hand and lifted her up, and the fever left her, and she began to serve them." (Mark 1:31)

Last week, in the synagogue in Capernaum, Jesus confronted and drove out the evil spirit that was harassing a man (Mark 1:21-26). Compared with that, the "miracle" He now performs, healing the fever of Peter's mother-in-law, somehow seems a bit trifling. But God doesn't only deal with the massive evils in the world. God hates evil, it's true, but at the same time He loves us passionately. So, He is concerned about whatever troubles us and prevents us from living abundantly. Jesus came not only to drive out evil, but also to bring in joy.

説教プレビュー:悪をやっつけるイエス

「イエスがそばに行き、手を取って起こされると、熱は去り、彼女は一同をもてなした。」(マルコ1:31)

先週、カファルナウムの会堂でイエスはある男性を虐げている悪霊に立ち向かい、それを追い払われた(マルコ1:21-26)。それと比べると、今度の「奇跡」――イエスがペテロのしゅうとめの高熱を癒される出来事は、何かしら取るに足りないものに感じる。でも神は世の中の強大な悪に対処なさるだけではない。確かに神は悪を憎まれるが、同時にわたしたちを熱烈に愛しておられる。だから、わたしたちを悩ませていること、豊かな命を妨害することにまで、関心を寄せてくださる。イエスは、悪を追い出すだけではなくて、喜びをもたらすためにも来られたのである。

2012年1月31日火曜日

conversion grace #89

One of the things I am most grateful for after my conversion is the recovery of uncynical laughter--one of the many things I had thought lost forever and over which I had grown tired of mourning.

2011年12月24日土曜日

愛に強いられて(ヨハネ3:15、イザヤ53:4-5)

クリスマス・イブ礼拝
2011年12月24日(土)午後7:00
聖路加国際病院 聖ルカ礼拝堂


クリスマスについて一言お話させていただきたいのですが...その前に、キリスト教を代表して日本の皆さんに向かって、イエス・キリストの誕生日をこんなに盛大にお祝いくださって、心から御礼を申し上げたいと思います!素晴らしいですね。

毎年、日本ではクリスマスがどんどんにぎやかになってきている気がします。イルミネーションだの、クリスマスコンサートだの、パーティーだの、そしてもちろんあっちこっちの店のビッグセールがあります。先週、友人がたこ焼きを買いに行ったら、たこ焼きの「クリスマスパック」なんてあったらしいです!わざわざイエスさまのためにそんなのを...

まあ、正直、何でここまで盛り上がっているかちょっと分からないのですが、教会では、クリスマスという祭りを大事にするのは、キリストの誕生によって、人間は何であるか、神は誰であるか、生きることの意味は何であるかについて大事なことが示されるからです。
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でもまずちょっと違う話をさせていただきます。2-3ヶ月前にある女性と出会ったら、彼女からとても不思議な話を伺いました。(実は、今夜いらっしゃるかもしれません。)ご本人から許可をいただきましたので、少し分かち合いたいと思います。

この女性は脳腫瘍があると診断され、大手術を受けることになりました。手術自体は約10時間かかりました。後で分かった話しですが、手術中、2回も命がとても危なくなったそうです。

でもご本人の経験は全然違いました。ご本人は、麻酔で意識がなくなった後、気づいたら、光に包まれて手術台から浮かび上がっていると言うのです。自分がいる場所は広大な大聖堂のようなところで、壁と天井は真っ白。

そして彼女はどんどん天井に近づいていきます。下を見ると、実は天使に運ばれているのだと分かります。天使は体に触ってはいないけれども、持ち上げているのです。

そして天井が開きました。すると、見よ、上にとても明るい、暖かい空が広がっています。そして彼女は高く上がれば上がるほど、体のすべての痛み、心の辛さ、すべての不安と悩み、すべての苦しみが消えていってしまいます。すべての苦悩から解放されるのです。そして、彼女には分かりました――その明るい空に立ち昇れば、この上ない幸せになるのだ、ということ。

彼女はもう行きたくて仕方がありませんでした。何も怖くなかった、と仰るのです。

ところが、そこでご自分を待っている家族のことを思い出しました。彼女のことを大事にして、手術をとても心配してくれている人。お別れをしたらとても悲しむ人。彼女は、彼らの悲しい顔が見えました。

そこで、もう帰らなくちゃと思ったわけです。心配になって。そして見ていた場面が消えると、気が付いたときには術後室にいました。
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この話を伺ったとき、この人は愛に強いられてこの世に戻ってきたのではないかと思いました。

とても感銘を受けた話です。でも似ているようなことはほかにもあると思います。誰かを愛するとき、自分自身にとても強い「けん引力」がかかってしまうのだと思います。親しい人、特にその人が困っていたり、不安になったり、痛みを覚えたりすると、わたしたちは愛に強いられてその人のところに引っ張られるようなことがあると思います。

小児病棟でも、こういうことがよく見られます。白血病と闘っている子どもの病床から離れることのできない父親、母親がいます。自分たちの健康に気を使わないことが多いので、注意しないといけません。

緩和ケア病棟でも見られます。時折、長い間重い病気と闘ってきた人は、「もう行ってもいい」という思いがあります。でも同時に、未だに大事な人のところに思いが寄せられています。残された人のことばかり心配しています。

日常生活でも、もっと小さなところで同じことがあります。子どもが転んで怪我したときとか、親しい人が悩んでいるとき、苦しんでいるときとか。近寄りたくなるのです。手をつないだり、抱っこしたり、何か言葉を掛けたりしたい。どうにかして慰めてあげたい。良くしてあげたい。

わたしたちもこのように愛に強いらることがあるのです。
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人生の最もつらいことの一つは、良くしてあげたいけれどもどうしようもできないことです。大事な人が慰めを、癒しを必要としているのに、わたしたちはそれを与えられないこと。

それは、単純にこちらには助ける能力がない場合もあります。あるいは、その人から距離的、もしくは精神的に離れていて、相手がわたしたちから助けを受け入れる状況ではない場合もあります。

でも助けてあげたい気持ちは変わりません。こういうときに、人はたまにはすごいことを言います。
「できれば主人の代わりにわたしが上司の怒りの矢面に立ちたい。」
「その人は君ではなくて僕に八つ当たりをすればいいのに...」
「子どもに代わってわたしが癌になりたい。」
「彼女が助かるなら、わたしはもう、死んでもいい...」

このすごさが分かります?つまりそういう人は、愛する人のためなら困難を選ぶ。自ら進んで苦しみを受け入れる。命でさえ惜しまない姿勢を取ろうとしています。できることなら立場を交換したいのです。

人間の愛って、本当にすごいものだと思います。そこまで愛に強いられることがあるのです。

もちろん、残念ながら人と立場を交換することはあまりできません。殆どの場合は、人を救う力がわたしたちにはないのです。

ただ一緒にいて、共にいることで慰めて支えることしかできないのです。
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聖書によれば、人間は神にかたどって造られた。神の姿に似せて造られているのだと言うのです。

逆に考えれば、人間の性質・本性は神の性質・本性の影に過ぎないわけです。意思の自由とか、自分自身を意識していることとか。何よりも愛し得ること。これらの「人間らしい」性質は神の性格を示唆しているものだという話です。

それなら、もし小さくて不完全な人間は、時折このような偉大な愛を示すことができるのであれば、神の完全な愛は遥かに偉大なものだと考えざるを得ないと思います。

わたしたちは、親しい人が怖くなったり、悲しんだり、苦しみ悩んだりするとき、近寄らなければならないと強く感じます。まして神は、不安、悲しみ、苦悩に暮れているこの世の人たちをご覧になるとき、どういう思いがあるのでしょうか。

聖書は言います:「神は、その独り子をお与えになったほどに、[この]世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神がみ子を[この]世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、み子によって世が救われるためである」(ヨハネ3:16-17)
  
神のみ子がこの世に来られたのは、苦しみ悩んでいる人たちと共にいるためでした。つまり、わたしたちすべての人間です。わたしたちみんな、ある程度この世の悲しみ、悲劇に巻き込まれているのです。争い、暴力、欲張り、病気、貧困問題がはびこっている世界、しかも大勢の人々の苦痛に無関心でいられる人の心のむなしさに満たされている世界に生きている限り、これらのことにある程度巻き込まれてしまうことです。

神は、愛を込めてお造りになった人たちがこういった困難、困惑に打ちひしがれているのを見ていられなかったのです。神も愛に強いられて、わたしたちに近寄り、共にいることによって慰めることを決められたのです。

イエス・キリストは近寄ってくださる神の愛そのものです。実は、イエスの一つの呼び方は「インマヌエル」となっています。その意味は、「我々と共にいてくださる神」なのです。

でもクリスマスはそれだけの意味ではありません。神のみ子は、わたしたちと共にいるだけではなくて、わたしたちの苦しみを共有するために来られたのです。

キリストは天の計り知れない喜びを脇において、わたしたちの苦悩をご自分のものにして、同じ人間として、人類の一員として同じ生涯を送るために来られたのです。

クリスマスはキリストの誕生を記念する日ですが、やがて十字架の上でそれは重大な局面に達しました。その最期の日、イエスは苦しむ人間と完全に一体化されたのです。腐敗した当局から迫害を受け、仲間に見捨てられ、拷問を受けて十字架にはりつけにされました。生まれたときよりも全く頼りない。体を動かすことすらできない。自分を助けることもできないのです。

しかもこれこそ、イエスがお選びになった運命でした。避けようとしたら十分避けられました。でもそうなさらなかったのです。どうして?愛に強いられていたからです。イエスは困難を選び、自ら進んで苦しみを受け入れ、命でさえ惜しまれなかったのです。それは、わたしたち人間を救うためでした。

そうなんです。つまり、わたしたちがしてあげたいと思ってもできないことは、イエスにはできました。それは、わたしたちと立場を交換することです。ヘンデルの「メサイア」に出て来る預言者イザヤの言葉(53:4-5)は次の通りです:
彼が(=神がお遣わしになった救い主が)
担ったのはわたしたちの病
 彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに
 わたしたちは思っていた
 神の手にかかり、打たれたから
 彼は苦しんでいるのだ、と。 
彼が刺し貫かれたのは
 わたしたちの背きのためであり
 彼が打ち砕かれたのは
 わたしたちの[迷っている心]のためであった。
彼の受けた懲らしめによって
 わたしたちに平和が与えられ
 彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。 
クリスマスは、神のみ子、この世に派遣された救い主の誕生日をお祝いする祭りです。イエスは「我々と共にいてくださる神」なのです。苦しむとき、怖いとき、つらいときなど、いつどこでもイエスは共にいてくださるのです。

でも、クリスマスのもっと深い意味は、キリストがわたしたちを解放することができる救い主だということです。罪や罪悪感の重荷から解放できます。むなしい世の中に生きる不安と悩みから解放できます。そして大きな慰めと平安を、今、部分的に、そしてやがて完全にもたらしてくださるのです。

今夜わたしたちは天から降って来た愛、わたしたちから離れていられなかった愛をお祝いしています。わたしたち一人一人に近寄り、いやしてくださる愛を感謝し、お祝いしているのです。

2011年12月22日木曜日

神の積極的な治療法

聖路加国際病院クリスマス礼拝
2011年12月20日(火)午後6時
ベンジャミンホール(スターバックス前)


クリスマスは楽しいですね。こうやってパーティーをするし、街角にイルミネーションがあり、サンタさんもプレゼントもあります。

でもそもそも何を祝っているのかというとやはりイエス・キリストの誕生です。

でも、だから何?と問わなければならないと思います。それで...?
今年は、先ほど読まれたイザヤの「彼の受けた傷によってわたしたちはいやされた」という言葉に非常に感銘を受けました。

クリスマス、イエスの誕生は、この世に対する神の積極的な治療法だった、というふうに考えてもいいのではないかと思いました。

病んでいるこの世をただ見ていられない神が、クリスマスという形で対応なさった、ということです。

病んでいる世の中の病状としては、2千年前も今もあまり変わらないと思いますが、各地の争い、暴力、虐待、欲望、貧困問題などなど。またこれらの人の苦しみへの無関心。そして、病気、深い不安、死そのものと死に対する恐怖。

これらのことは、神にとって耐えられないほど悲しいことです。

これは深刻な問題だ、と神は診断して、そこでわたしたちの苦しみ、悩み、悲しみに対して神は思い切った治療法を決められたのだということです。

その介入は、イエス・キリストと呼ばれる方の誕生...

これは、外科的な介入よりも内科的な介入と言った方がいいと思います。つまり、神のみ子が「わたしたちの間に宿られた」(ヨハネ1:14)のです。中から働きかける治療だったのです。み子を派遣することによって、神は問題の核心を突こうとされたのです。
それは、世の中のさまざまな困難、苦難、困惑のおもな原因となる人々の病んでいる心に直接取り組む方法でした。だからイエスの働きは:
  • 人々を自己本位的な思いから解放すること
  • 神から離れている心を立ち帰らせること
  • 日々の感謝を妨げる体や心の病気を治すこと
  • 社会から仲間はずれされている人の友達になること
こうやってイエス・キリストは、またその弟子たち、またその弟子たちの弟子たちは、少しずつ、一人一人の心、一つ一つのコミュニティの本来の姿を取り戻していったわけです。

これは病んでいるこの世に対する神の積極的な治療法だと思います。

わたしたちも、この治療法に参与する恵みが与えられています。この病院はイエス・キリストの働きを果たすために存在しているわけです。この病院に関わっている一人一人の人として、病んでいる世の中を少しずつ良くしていくように呼び集められているのです。

この大事な働きを果たしていこうとするときに、最もうまくいく方法は、今日、わたしたちがその誕生日をお祝いしているイエス・キリストの助けを頼りにしながら、祈りながら頑張っていくことだと思います。

そういう思いを込めて皆さんに心からMerry Christmasを申し上げます。

2011年12月6日火曜日

なぜいやしの祈りをするのか

2011年12月4日の17:00で初めて試みた「いやしの祈り」夕の礼拝でのトーク...

なぜ、今夜の「いやしの祈り」をするのかというと、おもに3つの理由があると思う。

① イエスご自身がいやしの祈りをものすごく大事にしておられたから...

ペテロがイエスのキャリアをまとめる:
「神は、聖霊と力によって[ナザレのイエス]を油注がれた者となさいました。イエスは、方々を巡り歩いて人々を助け、悪魔に苦しめられている人たちをすべていやされたのですが、それは、神が御一緒だったからです。」(使徒言行録10:38)

イエスの働きの中でいやしが何よりも大事にされていたのである。

② イエスの弟子たちもその働きをそのまま引き継いだから...

今日の聖書箇所=使徒言行録3:1-10。聖霊がくだってきた間もなくの話だが、ペテロとヨハネが生まれながら足の不自由な人のために祈り、その人が治った。

「イエスの名によって」と書いてある。聖書では、人の名によってするというのは、その人の権威・権力を持って、その代わりにする、という意味。

教会はイエスの権威・権力を授かっているので、いやしの祈りに励む。

③ イエスはその教会に命じられたから...

「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい...[そうする人たちには]次のようなしるしが伴う...病人に手を置けば治る。」(マコ16:15a, 17, 18b)

イエスに派遣されているから、わたしたちはいやしのために祈るのである。

でも、何でこんなにいやしを強調されるのか?

イエスは一生懸命に「神の国」を伝えようとしておられた。

「神の国は近づいた!」それは、イエスご自分のメッセージでもあり、弟子たちを派遣したときに彼らに託したメッセージでもある。どこかに行ったら「その町の病人をいやし、また、『神の国はあなたがたに近づいた』と言いなさい」(ルカ10:9)。

神の国とは何なのかというと、神の憐れみと慈しみが現されること。神が望んでいらっしゃることが実現されること。

これを言葉だけでは伝わらない。実感してもらえるためにイエスはいやしに力を注がれたのである。

神の国が近づくと、事柄が変わるのだ。目に見えることである。神の国は、人の人生にインパクトがある

何よりも、人がいやされる!体と心と魂がいやされるのである。
体のいやしとは、病、痛み、人に仕えることを妨げる苦しみが取り除かれる。
心のいやしとは、孤独、絶望、不安が取り除かれる。
魂のいやしとは、神から離れている思い、罪に苦しんでいる思い、人とうまく行かないことがが取り除かれる。

つまり、その人の本来のイキイキとした姿が取り戻されることである。

この病院や看護大学も同じビジョンを持っている。つまり、人間の幸福、平安、喜び、健康(=well-being)

このビジョンはそもも神の国のビジョン、神の憐れみと慈しみを受け入れた人たちの間で生まれたビジョンなのである。

今夜わたしたちが望んでいるのは、神の国が目に見える形になること。それだけである。魔術でも、ただのフィーリングや雰囲気でもない。単純に、神がわたしたちの間で働き、体と心と魂の本来の元気な姿を取り戻してくださるように願い求めたいと思う。

2011年12月1日木曜日

教会の重要な務め:いやしの祈り

2011年11月27日発刊の「チャペルニュース」に出た巻頭メッセージです...

来る12月から、このチャペルでは月一回「いやしの祈り」という新しい礼拝を始めようと計画しています。毎月、第1日曜日午後5時から、トイスラーホールにて行う予定です(第1主日の「夕の礼拝」の代わりになります)。

大体いつもの夕の礼拝と同じ流れの中で、祈りを希望する方一人一人のために司式者が手を置いて祈るという時間を取る、というわりとシンプルな礼拝を予定しています。

いやしのために祈るというのは、極めて重要なことだと思います。イエスご自身がその働きの中でとても大事にされたことです。また、その弟子たちを派遣なさったとき、イエスは人々のいやしのために祈りなさいと命じられました(ルカ九・二、十・九など)。そしてご復活後でも、そのいやしの祈りは弟子たちによって引き続き行われました。このように二千年間にわたり、教会はいつでもこの働きを続けてきたのです。

聖書では、イエスの弟子の一人である聖ヤコブがこう書きました。「あなたがたの中で病気の人は、教会の長老を招いて、主の名によってオリーブ油を塗り、祈ってもらいなさい」(ヤコブ五・十四)。教会に来ていやしの祈りを求めることは、まさにこういうことでしょう。

教会の祈りはあくまでも神の恵みを求めることであって、人はその器に過ぎません。祈ってもらうとき、何か感じる人もいれば、そうでない人もいます。いずれにしても、神が共におられ、わたしたちの祈りを聞き入れてくださること、そしてわたしたち一人一人に最もふさわしい形でのいやしを喜んで与えてくださることを信じています。

本当の祈りは「ご利益」ではなく、ただ単に心の望みを神に言い表すことです。わたしたちは体のいやしを願っても、神はその病を残し、新しいことに気づく機会や心を向け直す機会として用いてくださる場合もあります。つまり、わたしたちが想像していた「いやし」とは違う恵みが与えられることもあります。それを素直に受け止めることは、神に求められる信仰心と言えましょう。

なお、医学分野と同じくいやしの祈りでも、即座に改善が見られる場合もあれば、時間をかけて、繰り返し祈ってもらう中で改善に向かう場合もあります。いずれにしても、神の望みはわたしたちの健康、平安、喜びであり、また赦し合える心、愛し合える心を持つことである――つまり、自らの本来の姿が取り戻されることです。こういった神の慈愛を見詰めて、あきらめずに自分のために、そして他人のために祈り続け、友の祈りを願い続けることが大切です。

当チャペルの新しい働きとなるこの「いやしの祈り」のために祈ってくだされば幸いです。

2011年10月27日木曜日

a call to arms (luke 4:14-21)

St. Luke's Hospital Anniversary Service
October 26, 2011 3:00 p.m.

(Note: This address was given at the worship service celebrating the anniversary of St. Luke's International Hospital. On this occasion, employees who have worked 10, 20, and 30 years were recognized, as were volunteers who have served from 100 hours to 22,000 hours. In attendance were the chairman of the board, the president and vice-presidents, and various department heads, as well the long-term employees recognized and many of the 380 volunteers who serve the hospital.)

We just read about Jesus declaring war.

Like many a politician, at the start of his public career Jesus returns to his hometown, to Nazareth, the place where he might expect his strongest support base. There, he gives his inaugural speech. He goes public with his agenda, lays out his vision for the road ahead.

And the vision he lays out is one of war.

But what kind of war? Not the kind of war his fellow countrymen were hoping for, one that would liberate them from the yoke of Roman imperial oppression. Not the kind of war that involves airstrikes, or guerilla attacks, or indeed any shedding of enemy blood. Not the kind of war that involves the toppling of governments or the seizing of territory.

Not that kind of war. But if not that kind of war, then what kind? Look at what Jesus says:
"The Spirit of the Lord is on me, because he has anointed me to proclaim good news to the poor. He has sent me to proclaim freedom for the prisoners and recovery of sight for the blind, to set the oppressed free, to proclaim the year of the Lord’s favor" (Luke 4:18-19)
So, he's talking about fighting a war against grinding poverty; against debilitating sickness; against physical, emotional, and spiritual bondage; against social oppression and injustice. In other words, it is a war against the powers of darkness that rule the human race with an iron hand.

What do all these things have in common? They distort the human person. They make it impossible to live humanly, in freedom. Jesus is going to war to restore the human person, a being with dignity and value and purpose. A being, in short, made in the image of God.

This is the fundamental understanding revealed to us by God in the Bible: Every human person is a being of great wonder and irreplaceable value, beloved by his Creator, made with care and intent.

At the same time the Bible reveals that every human person, and humanity as a whole, is set upon by powers of darkness, powers that work against God's purposes and seek to deface and destroy God's creation. And, precisely because human beings are created in God's image and endowed by God with dignity and value, these powers of darkness strive hard to rob us of our humanness.

This is the understanding revealed to us by the light of Holy Scripture.

These powers of darkness wage battle on many fronts. They work through individual sin and moral weakness and greed, through self-interest and a disinterest in the suffering of others. They work through injustice, and social evils such as strife, hunger, poverty. They work through so-called tragedies such as sickness and natural disasters.

Jesus at the beginning of his career stands up against all these forms of evil and declares: No more!

And every thing Jesus did from this point on in his life was a full-scale assault on these forces of darkness. He healed the sick. He set free those who were in bondage to evil spirits. He befriended the friendless. He comforted the grieving and those who were afraid. He hung out with people society considered worthless, the losers. He taught generosity in the sharing of material blessings. He condemned leaders who failed in their duty to protect the weak.

This was Jesus' lifework, his mission, his war.

It is our war, too. This hospital was founded to be a stronghold, an outpost in the war against the powers of darkness that threaten the human person. So, as a hospital we are also called to fight, taking our cue from Jesus Christ: 
  • We are called to carry out medical approaches that foster health, cure disease, and aid long life. 
  • We are called to alleviate pain and improve the quality of life of those who suffer. 
  • We are called to help patients and their families face the end of life with courage and dignity. 
  • We are called to help realize the physical, emotional, and spiritual flourishing of each patient, in their particular family and social contexts.
All of us have roles to play in this mission. All of us are part of the fight for the dignity of the human person. Medical teams, the support staff that make it possible to provide care, the volunteers who bring such warmth and humanity into the clinical environment.

So this hospital is called to engage in the war. But so is each one of us. We fight back against the powers of darkness whenever we, as individuals, take hold of the life we have been given, and respond with gratitude in service to others. Each of us can become an outpost of light in the darkness when we use our God-given talents and time in the service of human flourishing.

God gives wisdom and courage to those who are willing to join in the fight against the darkness. Once again, let us pray together for that wisdom and courage, and ask God's blessing on our work in the year to come.

参戦せよ!(ルカ4:14-21)

聖路加国際病院記念・福音記者聖ルカ日礼拝
2011年10月26日(水)15:00

今、読ませていただいた聖書は、イエスが戦争を宣言なさるところでした。

多くの政治家と同じように、イエスはその公の活動の始まりに当たって、その故郷、一番支持率が高いと思われる故郷であるナザレに戻り、そこで立ち上げの演説をされます。そのアジェンダを明かされます。将来的なビジョンを打ち出されます。

そして、その打ち出された将来的なビジョンは戦争だ、ということです。

しかし、どのような戦いを話しておられるのでしょうか。その同胞のユダヤ人が待ち望んでいたような、ローマ帝国の圧政からの解放につながるような戦争ではありません。また、空襲とかゲリラ攻撃など、敵の血を流すような戦争でもありません。また、政権を打倒したり、領土を奪回したりするような戦争でもありません。

そういう戦争でもないなら、では、どういう話なのでしょうか。イエスの言葉を見てみます:
「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、/主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、/捕らわれている人に解放を、/目の見えない人に視力の回復を告げ、/圧迫されている人を自由にし、/主の恵みの年を告げるためである。」(ルカ4:18-19)
要は、苛酷な貧困に対する戦い。重い病気に対する戦い。身体的、精神的、スピリチュアルな束縛に対する戦い。社会的抑圧や不正に対する戦い。つまり、人類を厳しく支配している暗闇の力に対する戦争の話なのだ、ということです。

イエスが話しておられるこれらのことの共通点は何なのでしょうか。いずれも人間を歪めることだ、ということです。これらのことによって人間らしく生きることが殆ど不可能になるのです。だからイエスは、人間の本来の姿を取り戻すために戦争を始められるのです。尊厳を持って、生きがいを持って生きる人間、つまり神にかたどって造られた人間の回復のための戦いなのです。

聖書において神が啓示してくださっている根本的な人間理解はこれです:一人一人の人は不思議で掛け替えのない存在である。その造り主にトコトン愛されて、訳があって、たんせいを込めて造られた神の作品である、と。

同時に聖書が教えてくれるのは、一人一人の人間、そして人類全体は、暗闇の力に襲われているのだ、ということです。神に執念深く反対して、神によって造られたすべてのものを堕落させ、破壊しようとする力に。そして人間は神にかたどって造られ、神からその尊厳と価値が与えられているからこそ狙われているのだ、と。暗闇の力はその人間らしさを奪い取ろうとせっせと働くのだ、と。

聖書に照らされて得られる人間理解はそういうものです。

こういった暗闇の力はさまざまな戦線で攻撃をかけます。個々人の罪や弱さや欲張りを通して、あるいは利己心や他人の痛みに対する無関心を通して働きます。構造的な不正や抑圧、または争いや飢饉や貧困という社会的問題を通して働きます。また、病気や天災などいわゆる自然な悲劇を通して働くのです。

イエスは公の活動の始まりに当たって、これらの悪に立ち向かって:もう十分だ!と宣言なさるのです。

そして、この時点からイエスのあらゆる行動は、こういった暗闇の力への全面攻撃でした。病気の人を癒されました。悪霊に取り付かれていた人を解放されました。友のない人の友となられました。社会から疎外されている人、いわゆる「負け組み」の人々と付き合っておられました。悲しんでいる人、苦しみ悩んでいる人を慰められました。物質的に恵まれている人に物惜しみしない喜びを教えられました。弱き者を守らないリーダーたちを激しく非難されました。

これはイエスのライフワーク、その使命、その戦いでした。

わたしたちの戦いでもあります。この病院は、人間の尊厳をおびやかす暗闇の力に対して、確固たる要塞として、前哨地(ぜんしょうち)として設立されているのです。したがって、この病院に関わっているわたしたちは、イエス・キリストに倣って、いろいろな形で戦うよう求められているのです。 
  • 人々の健康を促進し、病を治して、長寿の助けとなる医療を行うよう求められています。
  • 痛み・苦しみを緩和して、病気にかかっている人のQOLを上げるよう求められています。
  • 患者さんやその家族が、勇気と尊厳を持って人生の最期を迎えることを支えるよう求められています。
  • 一人一人の患者さんの置かれている家族環境、社会環境で、その身体的、精神的、スピリチュアルな幸福(well-being)を支えるよう求められています。
このミッションにおいて果たす役割がわたしたち一人一人に与えられています。人間の尊厳のための戦いはわたしたちの戦いです。医療チームも、その質の高い医療を可能にする職員も、臨床の環境に人間らしいぬくもりをもたらしてくれるボランティアも。

だから、この病院は参戦するよう求められているわけです。しかも、わたしたち一人一人もそうです。わたしたち個々人が授かっている命をきちんと受け止めて、感謝をもってそれに応答するとき、他人に仕える形でその恵みに応えるときは、暗闇の力に反撃するときです。わたしたち一人一人も、神からいただいている賜物、才能を人々の幸福のために生かすとき、暗闇の中の光の要塞になり得るのです。

暗闇への応戦に加わろうとする人に、神は知恵と勇気を与えてくださいます。わたしたちは、これからの一年間に向かって、その知恵と勇気を求めて、わたしたち一人一人の働きの上に神の豊かな祝福をお祈りしたいと思います。