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2011年12月29日木曜日

言えること、言えないこと

病院のブレストセンター年末「まとめの会」における、この一年間で亡くなられた患者さんのために一言祈るように頼まれた。

喜んで引き受けた。が、その祈りの内容でちょっと戸惑うことがあった。すなわち、イエス・キリストを主、また救い主として受け入れていなかった人のために、どう祈ればいいか、ということ。

わたしにとって新しい問題ではないが、いろいろ考えさせられた。祈祷書の殆どの祈りは信徒の逝去を前提に書かれている。一つだけ「洗礼を受ける機会がなかった者のため」というものがある。
万民の主、全能の神よ、洗礼によってみ子イエス・キリストの死とよみがえりにあずかる機会を得ないでこの世を去った人たちを顧みてください。どうか主の深い慈しみのうちに彼らを守り、主の全きみ旨を成し遂げてくださいますように、み子、救い主イエス・キリストによってお願いいたします。 アーメン
いい祈りだと思うけど、病院の会議という設定で、患者さんと同様にその場にいる殆どの人たちもノンクリスチャンだし、わざわざ洗礼を受けたか受けなかったかという話をするのは、ちょっと乱暴すぎるかな、という気がする。

でも内容は適切だと思う。つまり、聖書を大事にする教会では、ノンクリスチャンの最終的な行く先について言えることと言えないことがある、ということ。

まず言えること、そして大きな声で言うべきことは、これである:

「神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます」(1テモテ2:4)
だから、どんな状況でも、神の憐れみに信頼をかけることができる。神のみ心は、すべての人々が救われることだ、ということ。そのために神は、どのタイミングでどの方法でその人その人に働きかけてくださるかは、計り知れないものだと思う。でも、一人一人の人が救われる、真理を知るようになることは、神が望んでおられることだということは確実である。

が、しかし、だからと言って、すべての人は無条件に救われるかというと、それはやはり否定しなければならない。イエスご自身はその可能性を否定なさったのである。
「そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分ける」(マタイ25:32)

さらに...
  • 「わたしのこれらの言葉を聞くだけで行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家に襲いかかると、倒れて、その倒れ方がひどかった。」(マタイ7:26-27)
  • 「イエスは言われた。『わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない』」(ヨハネ14:6)
  • イエス・キリストの「ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」 (使徒言行録4:12)
ほかにもたくさんある。しかも、上記の「すべての人々が救われることを望んでおられる」というみ言葉の引き続きはこれである:
「神は唯一であり、神と人との間の仲介者も、人であるキリスト・イエスただおひとりなのです」(1テモテ2:5)
 
だから?救いはイエス・キリストによるものである、と言わざるを得ない。イエスを主、救い主として受け入れる人は「神の子となる資格が与えられ」(ヨハネ1:12)、「永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている」(ヨハネ5:24)のである。

それなら、ノンクリスチャンには、果たして望みはあるだろうか。

もちろん、ある!イエスはすべての人の罪のために命を捧げられた。そして:
「神は、その独り子をお与えになったほどに、[この]世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神がみ子を[この]世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、み子によって世が救われるためである」(ヨハネ3:16-17)

結局、わたしたちすべての人の望みの根拠になるのは、神の慈愛のほかならない。

自分の正しい生活とか、何かの決まり文句を一度口にしたことがあるとか、誰かが頭の上に水を注いだことがあるとか、そういうことが天国へのフリーパスになり得ない。

神の驚くべきほど大きな大きな愛の恵みによって、そしてイエス・キリストを通して、人は救われ得るのである。

その恵みが過去、現在、また将来存在するすべての人一人一人に明らかに促されるときがある。そのタイミングは、何とも言えない。生きている間だの、死という区切りを迎える瞬間だの、死んでからのどこかだの、人間には分からないことである。

だから、亡くなった患者さんのためにもちろん祈れるし、祈るべきだと思う。神の慈愛を確信して、そのみ手にゆだねるべきである。すべての命を授かってくださった神は、必ずその命の上に全きの愛のみ胸を行いますように!

ちなみに、ブレストセンターの祈りは次のように考えてきた。いかがでしょうか。
ブレストセンター逝去者記念の祈り
全能の神、すべての命の源である主よ、この世においても次の世においても、主の憐れみと慈しみは絶えることはありません。わたしたちがその治療に関わってきた患者さんのために、主は、わたしたちが求めたり、思ったりすることすべてをはるかに超えて世話してくださっていることを知っています。神よ、特にこの一年間で亡くなられたブレストセンターの患者さんを覚えて祈ります(ことに___)。この患者さんを初め、世を去ったすべての人をその創造主、また救い主である神のみ手にゆだねます。主の限りない憐れみと知恵と力をもって、彼らの上に主の全きの愛のみ旨を成し遂げてください。主イエス・キリストによってお願いいたします。 アーメン 

2011年12月6日火曜日

reflections on a girl's funeral

I took the stairs down to the hospital mortuary feeling slightly nauseous. It was probably not so much the dread of seeing Sara (not her real name) as fear of facing the grief of her family.

When a child dies, nobody "comes to terms" with it. None of the soothing platitudes make a good fit. "It was her time." "She led a full life." "At least she went peacefully." I've never heard somebody try to put a positive spin on things. Nobody's okay with it.
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When I saw her lying there, the breath went out of me like I'd been sucker punched.

She was so small, and still.

Not too long before, we had been exchanging slightly wary nods on the ward. I find it hard to establish a rapport with the girls in the peds ward, at least the older ones. I never know what to say. No more than I did when I was a teenager.

Plus, most of the time the girls stay behind their pink curtains, which might as well be as thick as castle stones. Their own worlds. I can never think up a good excuse to intrude.

So whenever I do get the chance, I make eye contact and nod and smile, and keep waiting for God to create opportunities to be helpful, if I can. Meanwhile I pray, every day, from the sidelines.
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The blown-up picture showed Sara with Luke, her beagle. (Her mother said it was "coincidence" that she happened to choose to give her dog the name of the hospital where she would spend the last years of her life. Yeah, right.)

In the photo she was maybe eleven or twelve. Sitting on grass, a park somewhere. Smiling unself-consciously, just because she was with Luke, and it was a good day.

In the photo, there was not even the hint of a shadow of cancer in her eyes.
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At the wake, I was looking out at all of Sara's schoolfriends who came. Pretty much all of her classmates from middleschool, I learned later. All the way from out in West Tokyo, more than an hour away by train.

Now, except for Sara, they had all gone off to various highschools, as freshmen, so they were wearing different school uniforms. But they all looked pretty much the same. Most of the girls' skirts were too short. Most of the boys' hair was too long and scruffy. Typical high school kids, in other words.

As each one came up to lay a flower in front of Sara's picture, pretty much all the girls were crying. Some were in bad shape. All the boys looked uncomfortable. A few of them had "deer in the headlights" expressions.

As I watched them, I felt a kind of anger welling up inside. Or maybe it was sadness, or frustration. I don't know, really. A tightening in the pit of the stomach.

"These kids' shouldn't have to be here," I thought. "They shouldn't have to be here, and Sara shouldn't have to be in this pine box up here. She should be out there, with them. They should all be hanging out in a park somewhere, or at MacDonald's. Copying each others' homework. Girls talking about boys. Boys talking about sports. Nobody should be here."
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The funeral was quieter. Most of Sara's friends were back in school.

I nearly lost it halfway through the sermon. I was talking about Sara's courage, and the courage of her family. And suddenly I was struck by the sheer unfairness of what each of them had been called to deal with. And for what end? All that sacrifice and determination and and love-in-action--and still she died.

Tears sprang into my eyes. I couldn't see my sermon text. My nose started running. I felt like an idiot. Somehow I pushed on and got through.
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Sara's father and little brother rode in the Hearse to the crematorium. Her mother drove herself. Somehow, that struck me as strange. So quotidien.
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While waiting at the crematorium, the girl's mother told me she found out from the Chapel website that she (the mother) and I were the same age. We both smiled at that. But under the surface of that smile, feelings so shadowy and complex that I couldn't begin to sort through them.

Two forty-somethings, sitting down having tea. Her oldest child in a furnace downstairs.
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As I watched them put Sara's bones into the white ceramic urn, I thought: Well, we finally managed to destroy this particular batch of cancer cells. And all it cost was...
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Blessed Mary, you know the pain of losing a child. Yea, the sword of grief has pierced through thine own soul also. Pray for the family of Sara, and for us all. Pray for your Son to come again, and soon.

なぜいやしの祈りをするのか

2011年12月4日の17:00で初めて試みた「いやしの祈り」夕の礼拝でのトーク...

なぜ、今夜の「いやしの祈り」をするのかというと、おもに3つの理由があると思う。

① イエスご自身がいやしの祈りをものすごく大事にしておられたから...

ペテロがイエスのキャリアをまとめる:
「神は、聖霊と力によって[ナザレのイエス]を油注がれた者となさいました。イエスは、方々を巡り歩いて人々を助け、悪魔に苦しめられている人たちをすべていやされたのですが、それは、神が御一緒だったからです。」(使徒言行録10:38)

イエスの働きの中でいやしが何よりも大事にされていたのである。

② イエスの弟子たちもその働きをそのまま引き継いだから...

今日の聖書箇所=使徒言行録3:1-10。聖霊がくだってきた間もなくの話だが、ペテロとヨハネが生まれながら足の不自由な人のために祈り、その人が治った。

「イエスの名によって」と書いてある。聖書では、人の名によってするというのは、その人の権威・権力を持って、その代わりにする、という意味。

教会はイエスの権威・権力を授かっているので、いやしの祈りに励む。

③ イエスはその教会に命じられたから...

「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい...[そうする人たちには]次のようなしるしが伴う...病人に手を置けば治る。」(マコ16:15a, 17, 18b)

イエスに派遣されているから、わたしたちはいやしのために祈るのである。

でも、何でこんなにいやしを強調されるのか?

イエスは一生懸命に「神の国」を伝えようとしておられた。

「神の国は近づいた!」それは、イエスご自分のメッセージでもあり、弟子たちを派遣したときに彼らに託したメッセージでもある。どこかに行ったら「その町の病人をいやし、また、『神の国はあなたがたに近づいた』と言いなさい」(ルカ10:9)。

神の国とは何なのかというと、神の憐れみと慈しみが現されること。神が望んでいらっしゃることが実現されること。

これを言葉だけでは伝わらない。実感してもらえるためにイエスはいやしに力を注がれたのである。

神の国が近づくと、事柄が変わるのだ。目に見えることである。神の国は、人の人生にインパクトがある

何よりも、人がいやされる!体と心と魂がいやされるのである。
体のいやしとは、病、痛み、人に仕えることを妨げる苦しみが取り除かれる。
心のいやしとは、孤独、絶望、不安が取り除かれる。
魂のいやしとは、神から離れている思い、罪に苦しんでいる思い、人とうまく行かないことがが取り除かれる。

つまり、その人の本来のイキイキとした姿が取り戻されることである。

この病院や看護大学も同じビジョンを持っている。つまり、人間の幸福、平安、喜び、健康(=well-being)

このビジョンはそもも神の国のビジョン、神の憐れみと慈しみを受け入れた人たちの間で生まれたビジョンなのである。

今夜わたしたちが望んでいるのは、神の国が目に見える形になること。それだけである。魔術でも、ただのフィーリングや雰囲気でもない。単純に、神がわたしたちの間で働き、体と心と魂の本来の元気な姿を取り戻してくださるように願い求めたいと思う。

2011年12月1日木曜日

教会の重要な務め:いやしの祈り

2011年11月27日発刊の「チャペルニュース」に出た巻頭メッセージです...

来る12月から、このチャペルでは月一回「いやしの祈り」という新しい礼拝を始めようと計画しています。毎月、第1日曜日午後5時から、トイスラーホールにて行う予定です(第1主日の「夕の礼拝」の代わりになります)。

大体いつもの夕の礼拝と同じ流れの中で、祈りを希望する方一人一人のために司式者が手を置いて祈るという時間を取る、というわりとシンプルな礼拝を予定しています。

いやしのために祈るというのは、極めて重要なことだと思います。イエスご自身がその働きの中でとても大事にされたことです。また、その弟子たちを派遣なさったとき、イエスは人々のいやしのために祈りなさいと命じられました(ルカ九・二、十・九など)。そしてご復活後でも、そのいやしの祈りは弟子たちによって引き続き行われました。このように二千年間にわたり、教会はいつでもこの働きを続けてきたのです。

聖書では、イエスの弟子の一人である聖ヤコブがこう書きました。「あなたがたの中で病気の人は、教会の長老を招いて、主の名によってオリーブ油を塗り、祈ってもらいなさい」(ヤコブ五・十四)。教会に来ていやしの祈りを求めることは、まさにこういうことでしょう。

教会の祈りはあくまでも神の恵みを求めることであって、人はその器に過ぎません。祈ってもらうとき、何か感じる人もいれば、そうでない人もいます。いずれにしても、神が共におられ、わたしたちの祈りを聞き入れてくださること、そしてわたしたち一人一人に最もふさわしい形でのいやしを喜んで与えてくださることを信じています。

本当の祈りは「ご利益」ではなく、ただ単に心の望みを神に言い表すことです。わたしたちは体のいやしを願っても、神はその病を残し、新しいことに気づく機会や心を向け直す機会として用いてくださる場合もあります。つまり、わたしたちが想像していた「いやし」とは違う恵みが与えられることもあります。それを素直に受け止めることは、神に求められる信仰心と言えましょう。

なお、医学分野と同じくいやしの祈りでも、即座に改善が見られる場合もあれば、時間をかけて、繰り返し祈ってもらう中で改善に向かう場合もあります。いずれにしても、神の望みはわたしたちの健康、平安、喜びであり、また赦し合える心、愛し合える心を持つことである――つまり、自らの本来の姿が取り戻されることです。こういった神の慈愛を見詰めて、あきらめずに自分のために、そして他人のために祈り続け、友の祈りを願い続けることが大切です。

当チャペルの新しい働きとなるこの「いやしの祈り」のために祈ってくだされば幸いです。

2011年11月23日水曜日

deck chair, titanic

An American priest once told me about a vision he had. He was a down to earth kind of guy, not really given to visions. But he told me about what he believed was a real vision from God, which happened while he was at a gathering of clergy in his Diocese (which rhymes with Kerjin-ya).

In the vision his fellow clergy were sitting around a table, passing around a huge mason jar. Everybody was stuffing the jar with cash. When the jar was full, somebody took it and started squirting lighter fluid into it. Then, they set it on fire. Everybody watched the cash burn.

The priest who told me about it was horrified: You're burning the money! This is a waste! This is sinful!

His interpretation: The clergy gatherings were a complete waste of time and energy. From that day, he stopped going.

I was thinking of his vision at the Tokyo diocesan synod today. Over a hundred clergy and lay people together from 9:00 a.m. to 5:00 p.m. And what did we accomplish that will have any meaningful impact on anyone's life? Hmm...

The highlight of the day for me was the opening prayer, which includes these words:
Increase the numbers of those who believe in Thee, heal those who are troubled in mind or body, bless the children, restore those who have fallen into evil and turn them toward the good, bring back those who have wandered far from Thee, forgive those who repent, and grant that all who live in this land may share in your salvation.
The rest of the day had absolutely nothing to do with any of those things. Instead, we rearranged deck chairs on the Titanic. Hearing reports from a dozen committees. Changing the way the diocesan tax (I mean, assessment) is calculated. Drawing down more funds to cover expenses.

The last order of business was a resolution to send the Government some Statement about getting rid of nuclear power plants. I never speak at these meetings, but I stood up to speak against this resolution--because the drafters didn't manage to craft the actual language we were supposed to send.

I don't know whether the government should abandon nuclear energy. I do know neither the government nor anyone else in Japan will give a flying fig about what the Tokyo Diocese of the Nippon Sei Ko Kai has to say about it.

We represent less than 5,000 people in a country of 120 million. We should be worried about growing in holiness, proclaiming the Gospel, loving our neighbors--you know, living as Christians.

Not sending out meaningless statements on diocesan letterhead. And not wasting a whole day focusing on nothing of substance.

2011年10月14日金曜日

hey, thanks

I was up for three or four hours last night, in pain. First, I thought it was heartburn, which I almost never get. Eventually, it felt like my stomach was being twisted like a washcloth.

I tried to ignore the pain for awhile but couldn't. I tried shifting positions. Sitting up. Drinking water. Walking around. Nothing helped.

After a while, the pain got so intense I started to worry. I'll have to get my fellow chaplain to take morning prayer, to give the talk at the noonday concert. And what about the wedding tomorrow? Can I celebrate while doubling over in agony?

Finally, it hurt so much I thought I might scream.

At that point (why did I wait?), I prayed. Jesus, take away this pain. Jesus, just take away the pain enough so I can rest a little.

After one last agonizing stab, the pain started receding. Like an electric stove when you turn off the burner.

Within five minutes, the pain was completely gone, and I fell asleep.

Hey, thanks, Jesus.

2011年10月13日木曜日

back to india

Mari shows me pictures from last year's school album. She was eight then, and had long, dark hair. She's nine now. Her smile hasn't changed at all. She's smiling all the time, with her eyes and her whole face.

Mari was going to an international school in India before she got sick. She has three best friends. One is Japanese, like Mari, and the other two are Korean.

It turns out that the Japanese girl used to school with a boy who was also treated for leukemia at St. Luke's. "It's a small world!" Mari and I say it at exactly the same time. She giggles, and I am very happy.

"India is a country of wonder," she says in Japanese (fushigi no kuni). She mostly speaks English with me, though. Neither of us has other people to speak English to.

She has an unidentifiable accent, a little British, a little American, and little Indian, a little Japanese. Her English is miles better than her Mama's, but I can tell they enjoying sharing a foreign language. They can both speak a bit of Hindi, too. I am jealous.

Mari waxes poetic as she describes Indian food. She's okay with spicy hot, she says proudly. She's very careful to distinguish North Indian from South Indian cuisine. I wish I were more cosmopolitan so I could understand the difference better. Nan versus rice, is about as much as I could pick up.

Mari has finished all her chemo. It went well, and we're all just waiting for her white blood cell count to return to normal. She doesn't know how to say "white blood cell count" in English. Of course. She never had to give it a thought before. Nine year old children shouldn't have to learn such words.

All this waiting, and praying...it is a river of anxiety, half-born sorrow that flows through our lives, just under the surface. We all silently agree not to acknowledge it very much. It could drown us.

Merciful God, please keep the light of Mari's smile shining in this world. In Japan. In India. In my heart.

2011年9月21日水曜日

この時のためにこそ(エステル記)

夕の礼拝 2011年9月18日

古代文学の中でも、エステルの物語は本当に優れたものとなっています。

この物語に出て来るおもな登場人物を紹介します。次の4人です:
  • ペルシャの王、クセルクセス
  • その妻となる、ユダヤ人の超美人エステル
  • エステルを子供のころから育ててくれたいとこのモルデカイ
  • クセルクセス王の高官ハマン
エステル記の設定は、紀元前4世紀。その前、エルサレムがバビロニア王国に壊滅させられ、多くユダヤ人がとりとしてバビロニア各地へ強制移住させられた(=いわゆる「バビロン捕囚」の時代)。後にバビロニアはペルシャ大王国に征服されてしまいます。ペルシャ(現在のイラン)はインドからエチオピアまでわたる大王国でした。

だから、ユダヤ人がペルシャの支配下になった時代がこのエステル記の設定になります。

ストーリーの中で、ペルシャ王クセルクセスの高官ハマンはユダヤ人の虐殺を図りました。なぜかというと...

王宮で働いている一人のユダヤ人がいました。それは、エステルを育ててくれたモルデカイでした。(エステルは幼子のとき両親を亡くしたようです。)

ちなみに、エステルはものすごい美人でした。聖書は、人の外見を詳しく描くことはあまりしませんが、エステルについて「その姿も顔立ちも美しかった」と書いてあります(2:7)。そうとうの美人だったようです。

実は、エステルは王宮の美人コンテストで優勝して、クセルクセス王の王妃に選ばれた人です。

エステルは、モルデカイの指示を受けて、自分がユダヤ人であることを隠していました。

とにかく、ハマンという人が高官になったときのことです。クセルクセス王の命令で、新しく高官の立場に就いたハマンが前を通ると、必ずひざまずいて敬礼しなければならないことになりました。

しかし敬虔なユダヤ人であるモルデカイはそれ拒否します。ただの人間を神扱いしてはいけないからです。

これに気づくハマンは激怒します。そしてハマンはクセルクセス王に次のように言います:
ユダヤ人という民族は自分の法律(つまり律法)があり、「王の法律には従いません」(3:8)

すごい大げさ!モルデカイという一人のユダヤ人がハマンに敬礼しないことだけで、ユダヤ人全体が破壊的な存在だ、というのか。傷ついたプライドから生まれる怒りは恐ろしいものですね。

とにかくハマンはこういった嘘をついて、クセルクセス王にユダヤ人を滅ぼすようにけしかけます。そして王の名によってユダヤ人民族浄化の勅書を公布させます。

大王国の至るところにユダヤ人の間で大混乱が起こります。モルデカイも、この勅書の話を耳にすると「衣服を裂き、粗布をまとって灰をかぶり、都の中に出て行き、苦悩に満ちた叫び声をあげた」のです(4:1)

そしてモルデカイはいとこのエステルにメッセージを送ります:「王のもとに行って、わが民のために寛大な処置を求め、嘆願するように」(4:8)

しかし、これまでに「隠れユダヤ人」だったエステルは嫌がります。ユダヤ人を代表するつもりはありません。自分なりの生活、立場もあります。しかも、実は危ないことを頼まれています:
「この国の誰もがよく知っているとおり、王宮の内庭におられる王に、召し出されずに近づく者は、男であれ女であれ死刑に処せられる、と法律に定められています。しかもこの一ヶ月わたしにはお召しがなく、王のもとには参っておりません。」(4:11)

話を聞いてもらえる立場ではない、と断ります。

そこでモルデカイは次のような返事を送ります:「他のユダヤ人はどうであれ、自分は王宮にいて無事だと考えてはいけない。」(4:13)いずれお前も危ないぞ、ということです。

そしてモルデカイは言います:「この時のためにこそ、あなたは王妃の位にまで達したのではないか。」(4:14)

エステルはこの言葉に心が大いに打たれます。モルデカイに返事します。「急いで、首都にいるすべてのユダヤ人を集め、わたしのために三日三晩断食し、祈ってください...このようにしてから、定めに反することではありますが、わたしは王のもとに参ります。このために死ななければならないのでしたら、死ぬ覚悟でおります。」(4:14, 16)

エステルは勇気を出して、おののきながら王のもとに参ります。「女性パワー」なのか「神の摂理」なのか(両方なのか)分かりませんが、王は彼女の話に耳を傾けます:「どうしたんだい?願いとあれば国の半分なりとも与えよう。」(5:3)

ストレートではなくて、「もし王のお心に適いますなら、今日わたしは酒宴を準備いたしますから、ハマンと一緒にお出ましください。」(5:4)そして酒宴の場で、みんなが盛り上がっているところ、王はエステルに言います:「何か望みがあるならかなえてあげる」(7:2)

エステル:「もし特別なご配慮をいただき、わたしの望みをかなえ、願いを聞いていただけますならば、わたしの命とわたしの民族の命をお助けいただきとうございます。わたしとわたしの民族は取り引きされ、滅ぼされ、殺され、絶滅させられそうになっているのでございます。」(7:3-4)

突然こう言われたクセルクセス王は憤慨します:「一体、誰がそのようなことをたくらんでいるのか、その者はどこにいるのか?!」と聞きます。

エステル:「その恐ろしい敵とは、この悪者ハマンでございます!」(7:5-6)ジャジャーン!

すると、ハマンはひどい目に遭います。モルデカイをつるそうとして、ハマンが立てた柱に自分自身がつるされてしまいました。いい気味だ!

ユダヤ教では、この出来事を記念に、大きな祭りが行われます。プーリームという大祭りは、3月あたり、春を間近に迎える時期の祭りです。子供も大人も仮装をしたり、にぎやかな遊びで盛り上がる。悩みが喜びに、嘆きが祭りに変わったときとして、この出来事をお祝いする...
+   +   +
「この時のためにこそ...」

神はその人、その人ならではの使命を与えます。自分が置かれている状況の中で、自分が持っている賜物をもって、自分にある関わりを通して、やることが与えられているのです。

エステルのようにその民を虐殺から救うという大きな仕事ではないかも知れません。でも自分でないとできないこと—困っている友人に元気付ける言葉をかける、患者さんへのさり気ない証をする、PTAでの意義を唱える、仲間はずれされている人への優しい態度を示すなど—自分でないとできないこと、自分が立っている立場でないとできないことはあるのです。

「いつどこでも神に用いられるかも知れない」ということを念頭に入れつつ、少し勇気を出してその日その日を迎えますと、きっとワクワク感のある、生きがいのある人生につながります。

2011年8月7日日曜日

祈りから期待できること(ヨナ2:1-10)

聖霊降臨後第8主日(A年・特定14)
聖路加国際病院聖ルカ礼拝堂
2011年8月7日・10時30分 聖餐式


今日は、おぼれそうになった人が助かった話は二つあります!普段、福音書に基づいてお話しますが、今日は旧約聖書のヨナ書について皆さんと一緒に考えたいと思います。

正直に言えば、わたしにとってこのヨナと巨大な魚の話は信じ難いものです。子供の頃、日曜学校でこれを学んだら「本当の話」としてすんなりと受け入れましたが、大人になるとよく考えもしないで「作り話」として見なすようになりました。でも今は、どう捉えればいいか、分からなくなっています。

わたしたちはみんな自然主義的な世界観を教え込まれました。すべての出来事に対して、化学的な常識範囲内の説明を求めるように教わったのです。このような話を否定する傾向が強いのです。

何よりも先に申し上げたいのは、ヨナの物語をどう捉えようと、それは救いに関わることではない、ということです。イエスを救い主として、主として信じるか信じないかとは全然違う次元です。でも、ヨナの話を思い巡らす際、二つ留意点があると思います。

一つは、ヨナが歴史的人物だった、ということです。聖書の他のところにもヨナが出てきます。
「イスラエルの神、主が、ガト・ヘフェル出身のその僕、預言者、アミタイの子ヨナを通して告げられた言葉のとおり、彼はレボ・ハマトからアラバの海までイスラエルの領域を回復した。」(列王記下14:25)

ヨナ書の冒頭にも:「主の言葉がアミタイの子ヨナに臨んだ」(ヨナ書1:1)と。同じ人物です。だから、ヨナは単にたとえ話にだけ出て来る登場人物ではなくて、紀元前8世紀の半ば、北のイスラエル王国に住んだ、父親と同じように預言者として活躍した人でした。

二つ目の留意点は、イエスがヨナについて仰ったことです。マタイの福音書12章に:
「イエスはお答えになった。『よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがるが、預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。つまり、ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、大地の中にいることになる。ニネベの人たちは裁きの時、今の時代の者たちと一緒に立ち上がり、彼らを罪に定めるであろう。ニネベの人々は、ヨナの説教を聞いて悔い改めたからである。ここに、ヨナにまさるものがある。』」(12:39-41)

まとめてみると、ヨナは実在した歴史的人物。そしてイエスはヨナの物語を真剣に受け止められました。

もう一つ言わせていただくと、わたしたちはよく知っているように(知っておいた方がいいように)、神のことを、「完全に理解できる」という狭い枠組みにはめ込もうとすることはふさわしくないのです。そうすると、受肉(み子が人としてお生まれになった出来事)はどうなるのでしょうか。イエスのいやしの「力の業」は?復活は?皆さんご自身の祈りがかなったことを完全に理解できるのでしょうか。

つまり神は、常に完全に理解できる、自然主義的な先入観に沿った形でしか動けないはずはないのではないかと思います。

とにかく、このヨナの話を何らかの歴史的出来事として捉えるのか、神話的な伝説のようなものとして捉えるのか、その中間なのかを別にして、確かに言えることはこれです:神のご計画によってヨナ書がわたしたちの聖書にあるというのは、この話から学ぶべきことがある、ということです。

先ほど読んだように、イエスは「預言者ヨナのしるし」と仰ったのです。ヨナの物語はしるしです。神はどういうお方なのか、とりわけ神はどのようにわたしたちの祈りに答えてくださるかを示すのです。

だから、少し腰低くして、神のなさる業は必ずしも分かりやすいものではないということを認めて、この話について考えましょう。そうすると、きっとこのみ言葉を通して学ぶことが出て来ると思います。

☆これまでの話...☆
ヨナ書のこれまでの話は、覚えているでしょうか。簡単に言いますと、神はヨナを派遣しようとしたらヨナは「嫌だ!」と拒否しました。神は、ヨナをニネベという都に送って、ニネベの人たちに「罪を悔い改めなさい」というメッセージを伝えてもらおうとなさったのです。

ニネベとは、イスラエルの敵国であるアッシリア帝国の首都でした。(韓流ブームのヨン様をピョンヤンに遣わして、金正日に「悔い改めなさい」と言わせると同じようなことです。)

ニネベはイスラエルより東の方にありますので、ヨナは西方向に逃げてしまいます。タルシシュ(=スパイン)行きの船に乗ってに逃げ出します。だが、神は船をものすごく大きな嵐に遭遇させます。船乗りたちは誰の責任で嵐が起こったか、くじを引きます。そのくじはヨナに当たってしまいます。ヨナは責任を認めて、「俺を海に投げれば嵐はおさまる」と言います。船乗りたちは結局ヨナの言うとおり彼を海に投げ込みます。ヨナは海底に沈み始めます。溺れそうになります。

さて、そのとき、何が起こったでしょう?ヨナは神に叫びを上げたのです。その瞬間で思い出します。主は「恵みと憐れみの神であり、忍耐深く、慈しみに富み、災いをくだそうとしても思い直される方です。」(ヨナ4:2)

(先週、わたしたちはネヘミヤ書で同じことを読みましたね。旧約聖書一貫して...)

だから、どんどん海底に沈み、海草が頭に絡みつきながらヨナは神の憐れみを切に求めます。そうすると、神は巨大な魚を送り、ヨナを救ってくださいます。今日、わたしたちが呼んだ箇所は、助かったヨナの祈りです。

☆神はその子どもたちの叫びを聞き入れられる☆
ここでの最も重要なメッセージがあります。すなわち:苦難の中で、その子どもたちが叫ぶとき、神は答えてくださる、ということです。今日の説教からこれだけ覚えていただければ嬉しく思います。

ヨナ書2:2-3「ヨナは魚の腹の中から自分の神、主に祈りをささげて、言った。苦難の中で、わたしが叫ぶと/主は答えてくださった。/陰府の底から、助けを求めると/わたしの声を聞いてくださった。」

神は、心の込めていない祈りにはあまり耳を傾けられないと思います。また、自分の力で何とかことを収拾できる人に関して、普段ほっておいてくださいます。でも本当に困っているとき――「陰府の底から」とヨナが言いました。暗闇の中で道に迷うとき、死にそうになっているとき、神の光から遠く、遠く離れているときに、叫びを上げたら、主は答えてくださるのです。詩編145が言うように:
「主はおられる、助けを求める人の近くに∥ 心から祈る人の傍らに
 神を畏れる人の願いを聞き入れ∥ その叫びを聞いて助けられる」
(詩編145:18-19)

☆神はその子どもたちの背きにも拘らず祈りを聞き入れられる☆
次に気づいていただきたいのは、神はわたしたちの背きにも拘らず祈りを聞き入れられる、ということ。

ヨナは神から逃げていた最中、海に投げ込まれました。み心に反抗していました。そこでヨナは、「主よ、ごめんなさい。悪かったです。主の道に立ち帰りました。み心に励んでいます。助けてください」とは言わないのです。違います。それらのことの前に、神はヨナの祈りに応えてくださったのです。

そういう祈りは神に届きます。詩編50編では、主はこう言われます:
「苦悩の日にわたしを呼び求めよ∥ わたしはお前を救う」(詩編50:15)。

つまり、困った時の神頼みは、神の望みでもあるのです!

今日、ここにも、神から逃げていたり、み心に背いていたりして、困っている方はいらっしゃるかも知れません。家でも仕事でも信仰生活でも越えるべきではない一線を踏み越えたかも知れません。

その場合、果たして神の憐れみを望めるかと悩んでいたら、ヨナの話をみて安心してください。ヨナはその背きのせいで困っていました。それにも拘らず、神は祈りを聞き入れ、またチャンスを与えてくださったのです。皆さんは、同じような立場だったら、悔い改めて主に祈ってください。その背きにも拘らず、神は祈りを聞き入れてくださるのです。

☆神はご自分自身の裁きにも拘らず祈りを聞き入れられる☆
 

そして、神はご自分自身の裁きにも拘らず祈りを聞き入れられる、ということが分かります。
ヨナ書2:4「あなたは、わたしを深い海に投げ込まれた」とヨナ。

実際にヨナを投げ込んだのは船乗りたちだったのですが、それは神のご意思だったことは、ヨナに分かります。嵐も、海に投げ込まれることも。ヨナは主に背いたので、主に罰せられたのです。

時たま、神はわたしたちに大変な目に遭うことをお許しになります。だからと言って、すべての困難は神から送られたものという話ではありません。でも確かに、神はわたしたちの困難をうまく利用して、わたしたちの目を覚まさせたり、信仰の怠惰から呼び起こしたりなさるのです。

そこで、この窮地にわたしを立たせたのは神ならば、果たして神の助けを求める意味はあるのか?ヨナはまさにそうしたのです。海底に沈んでいるのは神の裁きによるものだと分かった上で、祈ったのです。

すると、神はその祈りを聞き入れ、ヨナを救ったくださいました。わたしたちがみ心に背くことがあっても、神はただ単に懲らしめることはなさいません。いつも神の狙いは、わたしたちを救うことです。一時的にわたしたちを窮地に立たせても、それはわたしたちを救おうとしておられるからです。

今の困難は神からの試練だと思っていても、助けを求めることをためらわない方がいい。神はご自分自身の裁きにも拘らず祈りを聞き入れられるからです。

☆神は「無理」なときに、しかもちょうど間に合うように祈りを聞き入れられる☆
 

4番目のポイントは、神は「無理」だと思われるときにも、わたしたちを救い出してくださいます。
ヨナ書2:6-7「大水がわたしを襲って喉に達する。/深淵に呑み込まれ、水草が頭に絡みつく。
 わたしは山々の基まで、地の底まで沈み/地はわたしの上に永久に扉を閉ざす」


荒れ狂う嵐のただなかでヨナは海に投げ込められました。海底に飲み込まれました。水面に戻ろうと必死に泳いでいたけど、海草に巻き込まれました。ああ、怖い!無理な状況になるまで、神はヨナを助けてくださらなかったようです。

信仰生活ではそういうことはよくあると思います。いろいろな問題が単独で発生すれば何とか対応できるでしょうけど、重なると圧倒されそうになってしまいます。泣きっ面に蜂!

まるで神はわたしたちの手上げを待っていていらっしゃるのではないかと感じるときがあります。自分には自分を救う力がないことに気づくまで。

しかし、完全に無理だと思ったら、神が登場されます。神の助けを求めたときに、それを得られないが、ぎりぎり間に合うような感じです。

ブラックゴスペル曲があります。「He may not come when you want Him but He's right on time.」(来て欲しいときにおいでにならないかもしれんが、ぎりぎり間に合う)

クリスチャンである限り、どこかでハバククのような思いを胸にすることがあるでしょう:「主よ、わたしが助けを求めて叫んでいるのに/いつまで、あなたは聞いてくださらないのか」(ハバクク1:2)ヨナを見習って、続けて祈り、続けて叫び、最終的には神の助けを得られると信じる勇気を持つのです。

☆神は段階的に祈りに答えてくださる☆

最後は、神は祈りに段階的に答えてくださるときもある、ということです。巨大な魚のお腹の中にいることは、陸地に立つほどのことではなかったのです。でも海のもくずとなるよりはましでしょう。

生ける神への生きている祈りというのは、オール・オア・ナッシングの問題ではありません。神は、わたしたちの祈りの一部分しかかなえてくださらないこともやはりあります。そして時間が経つとまたさらにかなえてくださることもあります。それまでには、どのような複雑な手配が必要だったか、分かったものではないのです。

部分的な奇跡をないがしろにしてはいけません。神は段階的ににわたしたちを癒してくださったり、階段的にわたしたちの状況を良くしてくださったりすることもありがたい話です。続けて祈りましょう。

☆どういう返事をすればよいか☆
 

こうやってヨナの話から、祈りから何が期待できる、示唆されることがあります。そして神に差し上げるべき返事も示されています。すなわち、感謝です。そしてみ心に応答することです。
ヨナ書2:10「わたしは感謝の声をあげ/いけにえをささげて、誓ったことを果たそう。
 救いは、主にこそある。」


困ったときに神頼みする2人がます。2人とも自分には自分を救う力がないことに気づかされて、神に叫びを上げます。そして神は2人に助けを与えてくださいます。

一人は、困難から救われたので、たちまち神のことを忘れ去って、自己中心の生活に戻ります。自分の力でやっていき、神のご都合を伺わずに自分の道を決めていくのです。

もう一人は、困難から救われたので、感謝の気持ちでいっぱい。救ってくださった神を賛美します。これから、自分のできる限り、主に仕えて生きて行きたいと決心します。

この二人の間に、御利益主義とまことの信仰の違いがある気がします。

わたしたちは、困難のとき、確信を持って神に叫びを上げましょう。神は慈悲深い神ですから。そして神に示された一つ一つの恵みに感謝の気持ちを覚えましょう。

まさに「救いは、主にこそある」のです。