「『み心ならば、わたしを清くすることがおできになります』と言った。イエスが深く憐れんで、手を差し伸べてその人に触れ、『よろしい。清くなれ』と言われた。」(マルコ1:40-41)
「罰当たり」という発想は聖書の啓示にまったく相容れない。神の慈愛を暗に否定してしまうからである。神は暴君のように、わたしたちの生活ぶりをじっと監視して、しくじったらただちに懲らしめるような方ではない。確かに神のみ心に背くことには痛ましい結果が伴う。が、神の憐れみはそれよりもはるかに大きい。神はいつでもわたしたちを赦し、癒し、再び立ち上がらせてくださろうとしておられる。「神の顔」であるイエス・キリストが示してくださったのは、まさにそういうことである。
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