2012年2月12日日曜日

神の「よろしい」(マルコ1: 40-45)

顕現後第6主日(B年)・聖路加国際病院聖ルカ礼拝堂
2012年2月12日・10時30分 聖餐式


人は親になると大きく変わると思います。でもおじいさん、おばあさんになると、もっと大きく変わる気がします。

うちのおやじは、僕が子どものころ、かなり厳しかったです。本人もストイックだったし、子どもたちに対しても結構シビアなときがありました。友人によく言われました:「お前のとうさんは怖うぇぇよ!」
  → 僕は怖いかどうか、ぜひ子どもたちに聞いてみてください!(笑)

ありがたいことは、おやじは気まぐれではなくて、考え方は一貫性があって、明らかだったので、分かりやすかったです。特に嫌いなことは2つありました:
1. 自分の子どもが周りの人に迷惑をかけること
2. 子どもが同じ失敗を繰り返すこと

子どもがこのようなことを起こしたたら、たいていの場合、おやじが怒ります。その反応はかなり怖かったものです。目つきがきつくなり、歯を食いしばるようにして話すわけ。「やめろ!」(ああ、怖っ!)

でも、この同じ人が今度おじいちゃんになったら、いきなり穏やかになりました。とても優しいやつになっています。孫たちにメロメロ。「ジュース、もう一杯ほしい?いいよ。」「あれ?壊したかい?No problem!」とか。なんてこと!?!!ありえない!

とにかく、言いたいことは、子供のころ、自分にとって権力のある人(親、先生、牧師)から、自分の持っている「神像」に大いに影響を受ける、ということです。

そういうわけで僕は、長年、神はどちらかというと怖い存在だとずっと思っていました。歯を食いしばりながら、僕をじっと見詰めて、何か失敗したらすぐに懲らしめるような神ではないかなぁと思っていました。

いい子にすれば、大人しくすれば喜んでもらえるけれども、失敗したら、罪を犯したら、その期待に裏切ったら、雷が落ちるのではないか、と思っていました。

最初は、そういう神が怖かったのですが、結局、そういう神だったらいらない、と思うようになって、とても長い間神から離れて行ってしまったわけです。
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今日の福音書を読んだら、この「重い皮膚病を患っている人」は、そのような神像を抱いていたのではないかなと思いました。

どの種類の病気だったかはっきり分かりません。ハンセン病、乾癬(かんせん)、アトピーなどの皮膚病は、全部「レプロス」という単語でひとまとめにされて、旧約聖書では「汚れ」=人を汚す病気と見なされました(レビ記13-14)。

いずれにしても、ただの病気だけではなくて、その人が、あるいはその人の親とかが、悪いことをしたからこういう病気にかかってしまうという発想もありました。病気は罪が及ぼす結果の一つだという考えです。

当時、これらの病気には治療方法がないし、感染しやすいものと思われたので、患っている人たちは村八分にされました。完全隔離になります。親戚や村から離れて、村外に他の病人とともに極めて貧しい生活に強いられていたのです。

しかも、道を歩くとき、自分から「ケガレ!ケガレ!」と叫びながら進まなければならないことになっていました。

そういうふうにさせれてしまう人たちは、やがて自分の中にそういう偏見を取り込んでしまいます。

だから、福音書に出て来るこの人がイエスのところに来てひざまずく時点では、もう、かなり大胆なことをしているわけです。無断で人に近寄ることは、当時の社会のルール違反だからです。

そこでその人は「み心ならば、わたしを清くすることがおできになります」

要は、イエスには自分を治す力があることは疑わないけれど、自分を治す意思があることを疑っています。

周りの人々から汚れた者、近寄っちゃいけない者、迷惑の存在と見なされてきました。

もしかしたら、神からも同じように見なされているかも知れません。そして神の子であるこのイエスからも、そういうふうに見なされているのではないか、と思っていたでしょう。

治りたい。普通の生活に戻りたい。良くなりたい。だからあえてイエスの足元にひざまずいています。けれども、このイエスに拒まれてしまうかも知れません。

そこでイエスの反応はどうだったでしょうか。
「イエスが深く憐れんで」――この翻訳はちょっと弱いです。直訳すると「イエスのはらわたが動かされた」となります。どちらかというと「怒りを覚えた」に近いニュアンス。
「イエスが深く憐れんで、手を差し伸べてその人に触れ、『よろしい。清くなれ』と言われた」(マルコ1:41)


おそらく翻訳した人たちは「きつ過ぎる」と思っていたかも知れません。助けを求められただけで、どうしてイエスは怒りを覚えるだろう、と。だから「イエスが深く憐れんで」と訳したでしょう。

でも十分理解していなかったではないかと思います。ここは、イエスがこの人に対して怒っているわけではありません。

違います。イエスの怒りは、弱い人、病気の人が社会から完全に隅っこに追いやられていることから生まれたものだと思います。悪いことをしていないのに、極貧生活に強いられている人がいる社会に対する怒りです。

また、律法を守れない人――汚れと見なされる病気にかかったり、罪を犯したりする人を神のところに連れて帰るのではなくて疎外してしまう世の中を見て、イエスが怒りを覚えていらっしゃるのではないかと思います。

この重い皮膚病を患っている人が崩れ落ちるほど打ちのめされて、神の憐れみを求めることでさえ恐れています。エジプトで奴隷生活に苦しんでいた民の嘆き声を聞き、苦悩から救い出してくださった神の憐れみを疑っています。

周りの社会の悪影響を受けて、「神像」が非常に歪んでいるのです。お前が汚れた者だ、ここにいっちゃいけない者だ、としきりに言われてきたこの人は、「もしかしたら、神の手に届かないところにいるかも」と思うようになってしまっているのです。

神の憐れみの手、赦しの手、癒しの手の届かないところにいる人は一人もいません。そういう話は、サタンの口から出る嘘にほかなりません。

人類の大敵であるサタンは告発人で、わたしたちを神の愛から引き離そうとします。あなたみたいな人は、神の恵みにふさわしくない。あなたみたいな罪深い人とは神が無関係だ、と。

ところがイエスは、救い主です。病んでいる人、人生に迷っている人、神の道から離れてしまった人に出会い、神の愛に連れて帰るために来られた方です。

皆さんは、この重い皮膚病を患っている人の気持ちに共感できるでしょうか。神の憐れみの手の届かないところにいるかも知れないと感じたことがありませんか。こんなわたしがきっと赦してもらえない。失敗を繰り返したわたしにきっと神はうんざり。こんなわたしは周りの人に迷惑ばかり。きっと神にも迷惑だろう。

違います。全然違います。

「み心ならば、わたしを清くすることがおできになります」...「よろしい。清くなれ」憐れみをもらいなさい。赦しをもらいなさい。癒しをもらいなさい。

イエスは手を差し伸べてこの人に触れられました。この人、他人に触ってもらえたのは、何年ぶりでしょうか。他人がこの人の悲しみ、痛み、不安、孤独感に向き合ってくれたのは、何年ぶりでしょうか。

イエスは手を差し伸べてその人に触れられました。

イエスは手を差し伸べてわたしたちにも触れてくださいます。神の深い憐れみをわたしたちに注ぎ込んでくださいます。

何よりもそのイエスとの触れ合いができるところは、これからいただく聖餐式にあります。パンとぶどう酒がイエスの体とイエスの血、イエスご自身となるのです。イエスの差し伸べられた手となります。

今日も、どうぞこの聖卓に近づき、その豊かな憐れみをいただきなさい。

神に「よろしい」と言われているのです。

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