2012年12月5日水曜日

我々のアルファとオメガ


(ダニエル書7:9-14,黙示録1:1-8,ヨハネ18:31-37
聖霊降臨後第26主日(B年)
聖路加国際病院聖ルカ礼拝堂
2012年11月25日・10時30分 聖餐式

来週は降臨節(クリスマス前の4週間)、教会暦で新しい年の始まり(C年)。今日は、「降臨節前主日」、一年の最後の日曜日。伝統では、「王なるキリスト主日」。この日は、イエスがわたしたちの王である、実は全世界の王であることを覚える。

今日の「特祷」から:
「永遠にいます全能の神よ、あなたのみ旨は、王の王、主の主であるみ子にあって、あらゆるものを回復されることにあります。どうかこの世の人びとが、み恵みにより、み子の最も慈しみ深い支配のもとで、解放され、また、ともに集められますように...」

旧約聖書のダニエル書と新約聖書のヨハネの黙示録は数百年で分かれているけれども、両方はapocalypsis(黙示)というジャンルになる。apocalypsisとは、「隠れていたことが打ち明けられる」という意味である。

この両方の書物は人間が置かれている状況の隠れている真相を明るみに出そうとしている。人生の舞台裏を見せる感じ。両方は、まことの神への信仰のために迫害を受けている人(ユダヤ人と初期教会のクリスチャン)に向かった書かれた。ダニエル書もヨハネの黙示録も、希望に満ちているものである。なぜかというと、かの日神が現れて、いろんな苦難や罪悪を引き起こすこの世での権力者を打ち負かせてくださることを待ち望むからである。
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ダニエル書の設定。ギリシャの王アンティオコスがエルサレムの神殿をけがした(その真ん中にゼウスの像を建てて祭壇で豚をいけにえとして捧げた、12月25日に!)など、ユダヤ人を律法から引き離そうとした。抵抗した大勢のユダヤ人は拷問や処刑を受けた。

こういう暗い、大変つらい中、ダニエルは言う:「夜の幻をなお見ていると、見よ、「人の子」のような者が天の雲に乗って」来られた!と(ダニエル7:13)。

イエスは、しばしばご自分のことを「人の子」と呼ばれたが、これは意図的にこのダニエル書の話を連想させようとしておられたようである。まさにイエスは「日の老いたる者」――つまり、天の父――の前に進み、天の父から「権威、威光、王権を受けられた」のである。そして実際にイエスの王国、その支配は、他のどんな国と違って「とこしえに続き、その統治は滅びることがない」(ダニエル7:13)。

イエスを処刑したのは、ローマ帝国だったが、今になってローマ帝国は歴史の教科書にしかないものになってしまったけれども、イエスがお立ち上げになった教会は今でも存続している!

イエスご自身が言われた:「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」(マタイ24:35)。イエスの国は不滅で永遠なものである。
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ヨハネの黙示録も、ダニエル書と非常に似ている状況の中で書かれたものである。初期の教会はローマ帝国の各地で激しい迫害を受けていた。大勢の人が投獄されたり、殉教したりして、クリスチャンはこっそりと集まらなければならない状況だった。

ヨハネの黙示録はこの「地下教会」に送られた書物である。押さえ付けられているクリスチャンを勇気付けるために書かれた。たくさんの旧約聖書への言及や抽象的なイメージを使っているので、クリスチャン同士には分かっていたけど外に人には意味不明。

2千年後、さまざまな研究のおかげでいろんな難しい意味が分かるようになってきたけれども、未だに推測するしかない部分がある。(だから非常に偏った解釈が生じたり、21世紀の事柄の枠の中に無理やり押し込めようとすることがある。)

先ほど読まれた1章の部分はイエスへの賛美歌:「死者の中から最初に復活した方、地上の王たちの支配者!」(黙示録1:5)そしてダニエル書のまねして:
「見よ、その方が雲に乗って来られる」ので「すべての人の目が彼を仰ぎ見る、ことに、彼を突き刺した者どもは」(黙示録1:6)つまり、十字架にはりつけにさせた人たち。

また、「地上の諸民族は皆、彼のために嘆き悲しむ」と書いてある。これは、イエスの苦しみへの憐れみでもあるけれども、自分たち自身がその苦しみに加担したという罪悪感を抱くという意味でもある。イエスはわたしたち全員の罪のために十字架で死なれたのである。誰も「自分とは関係ない」と言える人はいない。

しかしイエスが仰る:「わたしはアルファであり、オメガである」(黙示録1:7
これはギリシャ語のアルファベットの最初と最後の文字。始まりと終わり。イエス・キリストは、すべてのもの、すべての命の源である。アルファ。神のみ言葉であるみ子を通して、すべてのものが造られたのである(ヨハネ1:3)。

そしてオメガでもある、この世の、人類の歴史の目的である。人間すべての経験、すべての出会い、すべての夢、すべての達成したことは、イエスのもとに置かれている、イエスにあって理解できる。アウグスチヌス:「主よ、わたしたちをご自分のためにお造りになったので、わたしたちの心が主のうちに憩えるまで決して憩うことができない」

こういう意味でイエス・キリストはわたしたちの王である。わたしたち人間の生きる意味はイエスにある。わたしたちのアイデンティティはイエスにある。
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ヨハネの福音書は全く違う設定になる。ヨハネの福音書では、イエスが夜中逮捕され、つるし上げられ、ご自分を神と等しい者だという冒涜という死刑に値する罪において有罪とされた。しかしユダヤ人には死刑を実行する権限が許されていないため、イエスがローマ帝国の当局に引き渡される。

こういう経緯でイエスがパレスチナの総督であるポンティオ・ピラトの前に立たされておられるのである。「お前がユダヤ人の王なのか」とピラトが聞く(ヨハネ18:33)。貧しい服を着て、すでにたたきのめされているイエスをバカにしているように聞こえる。

ところがイエスの答えは静かな威厳を放つ:「あなたは自分の考えで、そう言うのですか。それとも、ほかの者がわたしについて、あなたにそう言ったのですか」(ヨハネ18:34

つまり、あなたは利用されているのではないか、とイエスが仰っている。しかも、ローマの法律で必要とされる証拠を求める聞き方でもあった。

ピラトは普段、ユダヤ人からこういう話し方をされなかったせいか、ムカッとする。「俺はユダヤ人かよ!お前の同胞や祭司長たちが、お前を俺に引き渡したのだ。いったい何をしたのか。」(ヨハネ18:35

「いったい何をしたのか。」簡単に答えられない質問だね。

ベツレヘムの家畜小屋で生れたときから始まって、また大人になって数え切れない人を癒したり、慰めたり、励ましたりして、暗闇の力の虜になっている人を解放したりして、神の愛の国を力強く、分かりやすく教えたりして来られたイエス。そしてついに苦しみを受け、これから命をささげ、またよみがえられるイエス。すべて愛のために。

だからイエスはピラトの質問に答えず、ご自分がどのような王であるかを話される:
「わたしの国は、この世には属していない。」全く違う次元のものである。この世的、政治的な国だったら「わたしがユダヤ人に引き渡されないように、部下が戦ったことだろう」(ヨハネ18:36

でもイエスのために戦っている人は誰もいなくなってしまった。みんな恐怖と混乱に襲われて逃げてしまった。でもこれも神のご計画に入ることでもある。こういう意味でもイエスの国は全く違う次元のものである。ピラトでさえコントロールできない次元である。

イエスの返事にちょっと驚いたピラトはもう一度聞く:「それでは、やはり王なのか」。イエスはの答えはなぞなぞに似ている。「わたしが王だとは、あなたが言っていることです」

そこでイエスにとってその王であることはどういう意味を持つのか:
「わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。」

イエスの支配は、トップダウンではない。法律や軍事力や強制力によるものではない。特祷にあるように「み子の最も慈しみ深い支配」なのである。人々の心の目を開き、生きることの本当の意味に気づいてもらうことによって影響を及ぼされるのである。自分の命の尊厳、他人の命の尊厳、世界全体の尊厳に目覚めさせるのである。

こうやってイエスは人の心を治めるのである。イエスは2千年間、そして今現在世界の3分の一の人の王となっている。「真理に属する人は皆、わたしの声を聞く」(ヨハネ18:37

イエスを王として認め、従うというのは、イエスの世界観を共有し、神と共に生きる命へのヴィジョンに賛同して、イエスと同じ目的を持つ、ということである。

しかもイエスに従う人は、思いがけない解放感を得る。以前イエスは仰った:
「あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」(ヨハネ8:32)。

キリスト教の信仰は束縛ではない。イエスに従うことは自由を失うのではない。「完全な自由は主に仕えることにある」と朝の礼拝の祈りがある。王の王であるイエスの目を通して真理を見て、その真理を豊かな生き方の基盤として受け入れた人こそ、自由人なのである。「わたしが来たのは、[彼ら]が命を受けるため、しかも豊かな命を受けるためである」(ヨハネ10:10)、そして「真理はあなたたちを自由にする」(ヨハネ8:32)とイエスが教えてくださる。

こういうわけで今日、王なるキリストを覚える日である。イエス・キリストはわたしたちの王だけではなくて、すべての人の王である。真理は一つだからである。イエスはアルファでありオメガである。「王の王、主の主であるみ子にあって、あらゆるものが回復される」

イエスについて行く人は、真理と愛の神のもとにたどり着き、心の平安を得る。「わたしたちの心が主のうちに憩えるまで決して憩うことができない」

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