2011年7月31日日曜日

わずかなものしかない?さえある?(マタイ14:13-21)

聖霊降臨後第7主日(A年・特定13)
司祭 ケビン・シーバー
聖路加国際病院聖ルカ礼拝堂
2011年7月31日・10時30分 聖餐式 


周りを見れば見るほど、人々の深刻なニーズに直面します。

東北の被災地は、言うまでもないことです。職や住まいを失ったり、大事な人を失ったり、未だに先が全く見えてこない人がたくさんいます。

先週、看護大学のボランティアが書いた記事を読みました。おじいさんとおばあさん二人とも足が不自由で、地震のとき、娘さんと一緒に家にいたのです。津波警報がなったら、娘さんは自分の子供のことを心配して、少しでも高いところと思って、お父さんとお母さんをちゃぶ台に上に乗せて子供を向かいに出掛けました。

津波が家に入り込み、おじいさんとおばあさんは天井まで浮き上がりました。いよいよ水が自分たちを越えるのでは、と思ったらやっと水が引いて、ちゃぶ台が再びゆっくりと床に付く。家の中はめちゃくちゃになっていたけれども、二人は助かったのです。

が、娘さんと孫さんはそのまま戻りませんでした。避難所でおばあさんは「自分が死ぬべきだった」と涙ながら話す。おじいさんは足をこっすりながら黙っています。おじいさんとおばあさんの深い悲しみは、どうすれば和らげられるのか。
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先月、虐待を受けた子供たちの保護施設で働いている人に会いました。心が深く傷ついている子供たちは、大人を信頼するには相当時間がかかるのに、施設に入っている期間はごく短い。どうしたら子供たちが立ち直ることに役に立つことができるか、とのことでした。
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先日、もうこれ以上治療が望ましくないと言われて動揺しているあるお母さんの娘と話していました。お母さんは死ぬことに対する恐怖を抱いています。娘さんはクリスチャンで、お母さんにイエスさまにある慰めと希望を何とかして伝えたいけれどもなかなかうまく伝わらない。どうすればお母さんの負担を軽くできるのか。
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先週の日曜日、浅草聖ヨハネ教会に行ってきました。野宿生活をしている人は(女性も若者も含めて)増えているのに、支援活動をする教会やNPOはどんどんやめているようです。
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旦那さんがうつ病になってしまった奥さんと先日会いました。夫にどう接したらいいか、どうやってサポートできるか、自分も倒れてしまうのではないか、と心配しているのですが、なかなか先が見えないのです。
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などなど。これ以外にもたくさんたくさんのニーズが世の中にあります。考えれば考えるほど圧倒されそうになります。これに対して何ができるでしょうか。無力感を覚えます。

イエスの弟子たちも今日のストーリーで圧倒されそうになっていたと思います。一日中、イエスは神の国について教えるとともに、大勢の病人をいやすことによって神の国を目に見える形にして来られました。ある種の重労働だと思われます。

もう、そろそろいいのではないか。もう、お疲れさま。みんな、お腹がペコペコになってきましたので、早く解散して帰らせた方がいいよ、と弟子たちはイエスに提案します。
「そうすれば、自分で村へ食べ物を買いに行くでしょう」と(マタイ14:15b-16)

ここでイエスは妙なことを仰います。
「行かせることはない。あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい。」(マタイ14:16)

弟子たちは戸惑いながら、イエスの命令に従って、わずか5つのパンと2匹の魚で、女性と子どもを入れておよそ1万人の人に給食をする、という話です。

ここで、19世紀の半ばから一つの面白い解釈が出てきました。すなわち、イエスとその弟子たちが自分たちの持っている少しばかりの食べ物を出して、気前よくそれをみんなと分かち合おうとしているのを見た群衆は、自分たちのわがままを恥ずかしく思って、ポケットとか荷物に隠していた食べ物を持ち出してみんなと分かち合うようになった。こうやって全員が少し食べて、そしてその場で盛り上がった雰囲気でお腹がいっぱいに感じた、と。

確かに心温まる、面白い解釈ですね。

ところが、これほど的外れな解釈はありません。

1800年以上にわたりそういう話が一度も出て来なかったのは当然です。間違っている自己流の解釈ですから。まるでイエスをおとなしくしようとしている話に過ぎません。

この「大勢の人に食べ物を与える」という「力の業」は、珍しく4つの福音書のいずれにも出ています。いわゆる「奇跡」で言えば、これと復活の話ぐらいですね。それほど最初のクリスチャンの先輩たちにとってこの話は非常に大事なものだったと推定できます。

彼らにとって大事なのは、大勢の人が感動していきなり優しくなったことではありません。マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネはそういうことにあまり関心がありません。

むしろ、初代教会にとって大事なのはこの「力の業」によってナザレのイエスがどういうお方なのか、垣間見ることができるのだ、ということです。

イエスが病人をいやされたとき、その人たちの本来の元気な姿を取り戻しておられました。そういうことができる人は他にもいました。しかしこの業によっては、イエスは以前存在していなかったものを与えてくださっているのです。

この話の設定によって本当の意味が示唆されているようです。日本語で「人里離れた所」という言葉がありますが、これは「荒れ野」に当たるギリシャ語です(=ヘルモス)。

つまり、40年間神の民がさまよっていた荒れ野と一緒です。そのとき、今日のネヘミヤ書や詩編にあるように、神はずっと彼らに「口からマナを取り上げることなく/渇けば水を与えられた」(ネヘミヤ9:20)

旧約聖書で一貫して言われているのは、神は「罪を赦す神。恵みに満ち、憐れみ深く/忍耐強く、慈しみに溢れる」(ネヘミヤ9:17)。全く同じように「イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て深く憐れみ、その中の病人をいやされた」(マタイ14:14)

つまり神は、その大きな大きな慈しみに強いられて、荒れ野・人里離れた所で困っていた民にマナ・天のパンを与えずにはいられませんでした。ただ単にそういう神なのですから。

神のみ子であるイエス・キリストも、荒れ野・人里離れた所で困っている人々に食べ物を与えられたわけです。

み子においては、天の父の慈愛が現れるのです。スピリチュアルなこと、信仰に関係することだけではなくて、イエスはわたしたちの食べ物まで、健やかな体まで、日常生活に必要なことまで、関心を寄せてくださるのです。

「わたしたちの糧を、今日もお与えください」とイエスが教えてくださった通りです。
そしてそれらのことを与える力も、み子において現れるのです。これがこの話のポイントです。イエスは励みの存在だけではなくて、必要なことを与え得る力をお持ちの方でもあります。

しかも、イエスは弟子たちを通して与えることをお選びになるのです。弟子たちは、わずかな食べ物しか持っていないけれども、君たちがそれを分け与えなさい、とイエスが命じられるのです。そうすると、イエスの言うことに従って実際に動き出す弟子たちを通して、イエスが必要なものを与えられるのです。
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わたしたちは無力感で立ち止まるとき、もう疲れて、余裕がない、わたしには何ができるかと叫びたいときに、イエスは「君たちが彼らに食べる物を与えなさい」とわたしたちにも仰るのです。
  • 少しでも、あなたが被災者への支援に協力しなさい。
  • わずかの間でも、あなたがこの子供たちをトコトン可愛がってあげなさい。
  • 死を怖がっているおかあさんに、あなたは自分が抱いている望みを語ってあげなさい。
  • ホームレスの問題を知ったあなたが、それを心に留めておきなさい。
  • 落ち込んでいる旦那さんのそばに、あなたが黙っていてでも、居続けなさい、と
などなど。

「でもこれしかできない!」と言うのをやめましょう。それは、自分の目で物事を見ているからそう思っているだけです。イエスの目で物事を見れば、「ほら、これさえあれば!」

あるものから、持っているものから、できることからやりなさい、とイエスは仰います。わずかなものでも、それをイエスに捧げれば、その豊かな恵みが付け加えられて世の中に流れ出るのです。

神の国でことを評価する基準は、大きい小さいとか、多い少ないとかではありません。神を信じて、神が求めておられることにできるだけ応えようとするかどうか、とうことで評価されるのです。

そしてイエスは、弟子たちを通して食べ物を与えられたのを忘れないでいただきたいです。
「五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて弟子たちにお渡しになった。弟子たちはそのパンを群衆に与えた。」(マタイ14:19)

イエスの慈しみ深い働きに加わるようにと、わたしたちも召されています。とりあえず、この聖餐式でイエスが与えてくださるパンを食べ、少し元気出して、協力してみませんか。

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