(2011年7月10日 夕の礼拝の話)
先ほど読んだ聖書では、ヨシュアという人のいわゆる「任命式」の場面がありました。
ヨシュアとはだれか。簡単に言いますと、モーセの右腕で、そしてモーセが亡くなってからその後継者になった人です。
神がイスラエル人をエジプトから導き出したときから、ヨシュアはずっとモーセと一緒にいました。律法を授かるためにモーセがシナイ山に登ったとき、ヨシュアも途中まで登りました。
そしてついにモーセが亡くなったら、ヨシュアが神の民を約束された土地(カナン地方)に導く人として神に選ばれたのです。
その「任命式」での神がヨシュアに語る言葉は:
強く、雄々しくあれ(ヨシュア1:6)
(この「任命式」で4回出て来る言葉です。)
強く、雄々しくあれ――かっこいい言葉なんですが、わたしたちにとってどう関係しているのでしょうか。わたしたちはそれをどう受け止めればいいでしょうか。
ここで神がヨシュアに超人的な努力を促していると思ったら、大間違いです!
神は、わたしたち人間に自分たちの力だけで強く、しっかり頑張るようなことを求めはなさらないのです。そういう意味での強さは、むしろ、世の中で通用する意味になります。世の中で高く評価される強さです。「勝ち組」の強さ、弱肉強食、「勝てば官軍」の強さです。
自力でしっかり自分を守り、すべての難関を克服しちゃえ!――それは世の中が促すことであって、神が求められることではありません。
違います。神がわたしたちに促されるのは、自分たちの力を発揮するのではなくて、神に信頼をしっかり置くことです。忠実に神の導きに従うこと。それが本当の強さ。
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ヨシュアは神を絶対的に信頼した人です。
モースが偵察隊をカナン地方に送り込んだとき、ヨシュアもその一人でした。その地域に住んでいる人たちはどんなものか、調べて来い!」と。
偵察隊が戻ったら、「絶対無理!敵は強すぎる!だめだ!」と報告しました。
でもヨシュアは違います。ヨシュア(と仲間のカレブ)は:「大丈夫だよ!成功できる!神は、わたしたちに住む場所を約束なさったから、間違えなくその約束を守ってくださる!戦いに行こう!主はわたしたちと共に戦ってくださるんだ!」と言いました。
でも結局ヨシュアたちの話は無視されたのです。ほかのスパイたちの報告を聞いて、イスラエル人は神とその約束を疑ったゆえに、40年間、民全体が砂漠でさまようことになってしまいました。つまり、神を信頼しない者は約束の土地に入らせてもらえなかったのです。
残念な結果として、せっかくエジプトから救い出され、葦の海を歩いて渡ることができた時代のイスラエル人は、一人も約束の土地に住み着くことが許されなかったのです。
ヨシュアとカレブ以外。ヨシュアとカレブだけが神の約束、神の摂理を信じたから、約束の土地に入ることができました。新しい時代(砂漠で生まれたイスラエル人)を指導するにふさわしい者と見なされたのです。
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実はヨシュアは、その名前がモーセによって変えられました。元の名前は「ホシェア」(神が救いたまえ=要求)でした。モーセはそれをヨシュア(神はわが救いなり=宣言)に変えました。
それは、将来、ヨシュアが得られる勝利はすべて、神によるものであることを明らかに示すため。神が変わりに戦ってくださることを。
そして実際に、ヨシュアがイスラエルの民を約束の土地に導くとき、より強い、より数の多い敵と何度も出会いますが、必ずイスラエルは敵をしのぎ、勝利を手に入れるのです。神のお陰で。神が戦ってくだされば、勝ち抜くことはできるのです。
わたしたちも神に戦ってもらえば――戦争とかではなくて、人生の中で巡り合う様々な困難、誘惑、挫折など、そういうときに神の力を頼りにすれば、神の偉大な力にわたしたちの小さな努力、わたしたちの微力を加えれば、素晴らしいことが起こる、ということ。不思議なこと。大きな恵みが与えらるのだ、と。
キリストは聖パウロに仰いました:
「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」
そしてパウロは言います:
「だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう...わたしは弱いときにこそ強いのです。」(Ⅱコリント12:9,10)
また、パウロが:
「わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です。」(フィリピ4:13)
だから、わたしたちが十分強ければとか、自分の力・努力を頼りにするとか、自分の才能、頭のよさ、運のよさを頼りにするのではなくて、神をしっかり信頼することが大事です。神の恵みを頼りにするべきです。
ヨシュアへの約束はわたしたちへの約束でもあります。すなわち、巡り合うどんな苦難でもそれに乗り切れる力が与えられるか、それに耐え忍ぶ力が与えられるか、どちらかということです。
どちらにしても、神は共にいてくださる、ということです。それが約束なのです。
結局は、何があっても神は共にいてくださるのです。わたしたちを見放すことも、見捨てることもない。(ヨシュア1:5)
だからこそ「強く、雄々しく」やっていけるのです。
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最後にもう一つ。神が「共にいる」とヨシュアに仰るけれども、その「共にいる」一つの大きな方法は、律法を通してです。
ヨシュアは、示されたみ言葉をよく読み、み言葉について黙想して、そしてみ言葉で示されたことに聞き従うことによって、神に近寄り、神のみ心を知ることができたのです。
要は、神がその民と共にいる器として、この聖書のみ言葉がある。これを通して、わたしたちと神との触れ合いが実現できるわけです。
わたしたちも、ヨシュアと同じように、聖書をみ言葉として敬い、感謝をもってこれを受け入れるなら、これを読み、これについて黙想し、この中に示されていることに沿って生きるなら、神に近寄ることができるのです。
神がわたしたち一人一人にしてくださっている素晴らしい約束も分かるのです。
さらに、神のみ心、その性格を知ることができます。神は何があっても常に信頼できる方で、約束を必ず守ってくださる方で、わたしたちを見放すことも、見捨てることもない方であること。
独りのみ子――ヘブライ語でヨシュア、ギリシャ語でイエス――神はわが救いなり――と呼ばれるみ子をお与えになったほどに、わたしたちをトコトン愛してくださる方です。
神は、このみ子によって、罪と苦難と死そのものに対する勝利をわたしたちに与えてくださるのです。
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