2011年7月12日火曜日

暇になることの恐ろしさ

(2011年7月6日の聖路加国際病院聖ルカ礼拝堂の「夕の祈り」オルガンコンサートでの話。出席者の大半は教会に通う人ではない。30分のオルガン演奏に次いで、30分弱の祈りの中でチャプレンの「一言」がある。コンサートは無料だけど、チャプレンの話に我慢していただく、ってこと)
聖書日課:マルコ4:35-41
皆さんは地デジ対応テレビは大丈夫ですか?

今までこういうことはあったでしょうか?国が何かを決めると、国民みんなが新しい家電を買わないといけないということ...?!?

わけ分かりませんが、とにかくこのカウントダウンで、もう神経質になってしまっています。今までその警告はテレビの画面の一番下にあったので、無視しようと思えばできたのに、今は、字がでかく左の方に移っています。「後18日!!」

これに強いられて、先週末、やっと地デジ対応テレビを探しに行きました。○○電機でプチパニック状態になりました。どれがいいか、迷っていました。わたしと同じようにぎりぎりまで動き出さなかった人は大勢いるし、あまり集中できないわけです。

やっと「これだ!」と思ったものに落ち着いたら、「在庫がない」と言われました。家に届くのは、早くても8月1日。

げっ!7月24日から8月1日まで---まるまる一週間や!ギョッとしました。

どうしてそこまで困るのか、自分でも分かりません。別に18日後、世の終わりが来るわけでもないけど...ただ、テレビが見れなくなるのです。もっと深刻の問題として、子どもたちにテレビを見せられないのです。

家がシーンと静かになることを想像して...代わりに何をするのか、と不安になるわけです。
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先ほど読ませていただいた聖マルコによる福音書では、イエスさまの弟子たちが舟に乗って、大きな嵐に遭難しそうになっている話がありました。

弟子たちは非常に恐れています。そこでイエスさまは嵐を静めてくださいました。

皆さんは分かりませんが、わたしはしばしば嵐のただなかにあるような気持ちになります。いつも走り回って、辛うじてやることをこなしているような感じです。病院と看護大学での仕事、ファミリーサービス、そしてこのチャペルコミュニティへの責任のバランスをはかりつつ、やっています。

結果として、「器用貧乏」---器用でも言えないから、不器用貧乏?!とにかく、すべてが中途半端になってしまいます。いつも慌てふためいてバタバタしているのです。

そこで文句を言ったりします。「ああ、忙しい!ああ、しんどい!」でも、たぶん、もっといやなのは、忙しくないことだと思います。暇になることを避けている気がします。

いつも何かをしなきゃいけないと思うのは、わたしだけではないと思います。不安に感じる人は少なくないと思います。というのは、電車とかに乗ると、7-8割の人は目が携帯にくぎ付けなんです。何をしているか分かりません。メールをやったり、インターネットを見たり、テレビを見たり、ゲームをしたりして。

電車だけではないのですね。歩きながら、自転車に乗りながらでも、絶えず携帯電話。

(わたしは歩きながら携帯をやってる人の前にわざわざ立ち止まるのが好きです。向こうが背の高いわたしにぶつかる寸前いきなり、ウワッ!と気づくのです。そのビックリした表情はたまらないですね!(笑))

でも携帯はただ新しくできた手段、暇にならないための手段に過ぎません。他にもたくさんあります。携帯に夢中でなければIPodや小説、漫画、雑誌、新聞、テレビに夢中になるわけです。

面白いことに、たまには、車内で座って、手に何も待たないで、ただ周りを見ている人がいたら、ちょっと警戒するのですね。その人は何?ヘンテコリンかも知れない、とゆっくりと離れるのです。

とにかく、暇にならないために、気晴らしにわたしたちはいろんな手段を使います。携帯とかIpodとか新聞そのものは良くも悪くもありません。が、このように常に気晴らしをする傾向は、ある種の中毒になっていると思います。しなきゃ落ち着かない行為になってしまうのです。

(このコンサートが終わったら、礼拝堂を出た途端に携帯をチェックするつもりでいる人は、手を挙げてください!(笑)。今でも携帯をチェックできないのがとても気になる人、手を挙げてください。たった今、こっそりと携帯電話をチェックしている人...(笑))

あるいは、帰ったら、とりあえずテレビを付けます。その内容はどうでもいい。とりあえずインターネットで、1,2,3時間を簡単に過ごします。とりあえず雑誌、小説を眠くなるまで読みます。この「とりあえず」の時間はいつの間にか多くなってしまいます。

このような「気晴らし中毒」の問題は、どんな中毒と同じように、結局不健康なのです。常に忙しくて、暇がない状態は人間らしい状態ではないのです。

健全な精神状態を保つには、時々静かになり、自分を振り返る時間が必要です。日々の生活の出来事や人との出会いから生れる経験を処理しないといけません。想像を巡らせる時間が必要です。また、(メールとかブログではなくて肉体の)人とじっくり関わる時間も必要です。自然の美しさを楽しみ、自然の力を吸収する時間も必要です。

でも魂の健全な状態も心配ですね。古代ギリシャの哲学者ソクラテスの名言があります:「吟味されない人生など、生きるに値しない。」

他の人もそうかも知れないけれども、わたしの場合は、暇になりたくない一つの理由は、自分の人生をあまり吟味したくないからだと思います。問題は、暇になると...なりたい自分に果たしてなっているのか、自分が今なんで生きているのか、本当に大事なことを守っているのか、それとも無駄なことに時間を費やしているのかなど、そういうことを考え出すので、不安です。

だから、自分の人生をあまり吟味したくないのです。でも、逆にそのまま、時の流れに身を任せるままに生きるというのも、何かもったいない気がします...

だから、結局お勧めしたいことは、時々携帯を切って、テレビを消して、読み物を横においてじっくりと自分を見つめ直すという時間を取っておくということです。誰よりも自分自身に言ってる気がしますね。)きっと、そういう時間は有意義なことになると思います。

こういうコンサートの一時は、そういう作業ができるように心を少しでも落ち着かせる効果があればいいなと思います。十分に休息した精神をもって、日々の嵐に戻って、より豊かな毎日を過ごすことにつながるといいな、と思います。

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