2011年7月26日火曜日

イエスに出会える場所(マタイ25:31-46)

聖路加チャペル 夕の礼拝 2011年7月24日

今日、モーセの後継者だったヨシュアがわたしたちに挑戦を挑んでいます(ヨシュア記24:15)。
「仕えたいと思うものを、今日、自分で選びなさい」

つまり、まことの生けるの神に仕えるのか、神らしいのだと思ってしまう「その他」のものに仕えるのか、どちらか、ということです。

長い、とてもダイナミックな説教の結論から言うと、まことの生ける神に仕えた方がいい、ということです。なぜかと言うと、神のみがわたしたちを造り、トコトン愛してくださり、豊かな命を与えてくださることがおできになるからです。他のいわゆる「神々」は、最終的には、何も与えてくれないのです。

でも今夜はそういう話をするつもりはありません。神に仕えることが良いことだと、当然の前提として受け止めさせていただきたいです。「良いこと」どころか、人生の中で神に仕えること以上、大事なことはないという風にしておきたいと思います。

とりわけ、クリスチャンとして、わたしたちをトコトン愛してくださる神の顔であるイエス・キリストに仕えることは、最も大事なことだ、としておきたいです。

今日考えたいのは、どうやって?どうやってイエスに仕えることができるのか、という問題です。祭壇の上に処女を生け贄としてささげべきか?ジハードを実行すべきか?イエス像の前に小さいOne Cup酒のビンを置くべきか?賽銭箱に札束を投げ落とすべきか?

イエスはその仕え方を教えてくださいます:
「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」(マタイ25:40)

イエスに仕えるには、わたしたちの助けを必要としている人に仕えるのだ、と。

ちなみに、19世紀ドイツの哲学者フリードリッヒ・ニーチェは、この点で(も)キリスト教が大嫌いでした。つまり、小さな者、社会的に追いやられている者、迷っている者に仕えるというセンチメンタルな思いがある、という点で教会が嫌いでした。

つまり、弱肉強食の世の中ですから、クリスチャンがいわゆる「負け組み」、社会的に小さくされている人に憐れみの目を向けることが不自然なことだと考えていたようです。

そこまで大胆に言える勇気があるのは、ニーチェぐらいだと思います。だが、ニーチェの精神は十分鼓舞されていると思います。例えば、お役所や国の予算を決める政治家の間で。

先週、山谷(南千住当たりの隅田川地区)にある無料クリニックを見学しに行きました。午前中はクリニックを見学し、午後は求職活動に参加させていただきました。隅田川沿いのブルーシーツのテントに回りました。

今、20軒はないと思いますが、前はあの辺で300軒のテントがあったそうです。何でこんなに少なくなってきたかと聞くと、「東京スカイツリーができたから。上から見れるので」と言われました。

見えないからいないって思うのは、幼子と日本のお役所ぐらいですね。

でも局員たちだけをいびるつもりはありません。ニーチェは、実はすべての人の心に潜んでいる思いを言葉にしてくれただけだと思います。それは、隣り人の窮状への根本的な無関心。

たまには、この根本的な無関心が怒りに変わることもあります。それは、隣り人の窮状がわたしの生活にインパクトを与えるときです。

今朝、(日曜求職活動をやっている)浅草聖ヨハネ教会に行ってきました。今日、炊き出しを600食以上が配られました。9:30に開始し、9:50で終わりました。わずか20分前後です。

たくさんたくさんのボランティアが手伝っているので、ゴミを捨てることも、立ち止まることも、ブラブラすることも、立ちしょんすることも、寝込むこともないように徹底的に管理しています。おじさんたち(おばさんもいますが)は大通りから誘導され、また大通りまで誘導されます。近所にいる時間はわずか30分弱。

それにも関わらず、近所のある人々は満足しないのですね。要は、野宿生活をしている人がその辺の道に足を踏み入れることそのものに大して大怒りです。近所の人々は、以前の無関心であれる状態に一刻も早く戻りたいわけです。

ニーチェは、その近所を誇りに思うでしょう。イエスは、どうでしょう。

わたしたちはイエスに従う者として、「キリストの思い」(Ⅰコリント2:16)がわたしたちのうちに深まるにつれて、少しずつ貧しい人、弱っている人に自然に目を向けるようになると思います。イエスと同じように。

最初は、イエスの命令に従うことから始まるかも「隣人を自分のように愛しなさい」。しかしそれから、恵みの働き掛けによって、イエスが愛してくださる人々をわたしたちも少しずつ愛せるようになると思います。

そして、わたしたちの助けを必要としている人に仕える中で、不思議なことですが、そこでイエスご自身に出会っていることに気づくこともあります。
「わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれた」(マタイ25:35-36)

わたしがアメリカの神学校の教師の一人は、ベネディクト会神父。ダイヤー神父は、カルカッタにあるマザーテレサの「神の愛の宣教者会」に短期的に派遣されたことがあります。授業でその話をしてくれました。

ある日、元医者だった一人の修道女に同伴して、道端で倒れている人たちの世話をするために町に出かけました。色々な人がいますが、その日あるハンセン病にかかっている男性に出会いました。その人はダイヤー神父を見ると(カラーをしているから司祭だと分かって)「神父さま!手を置いて祈ってください!」としきりに求めます。

その人の病状がかなり進んでいて、鼻も耳もなく、頭が水疱やウロコのようなもので覆われているのです。ダイヤー神父はプチパニックを起こします。「シスター!どうしたらいいのですか。触って大丈夫ですか。」

シスターは冷静に答えます。「イエスさまなら何をなさるかしら」と。

ダイヤー神父「シスター、違います。修道女じゃなくて、医者としての意見を聞いてるのです!」と。

シスターは執念深く「ここでは、わたしは医者ではなくて、修道女です。イエスさまなら何をなさるかと思いますか。」

神父は答えが分かったので、不安を抑えて、震えながらハンセン病患者に両手を置き、祈り出します。

すると、突如手で著しい温もりを感じるのです。そして、目の前の人はあたかも幻のように顔が輝き出します。そして神父は強烈な実感をしました。「わたしが触れているのはイエスさまご自身ではないか!」と。

その瞬間、かつてもそれ以来もないほどに、イエスの身近な存在を全身で感じ取った、とダイヤー神父は夢見るような目つきをしてよく語ってくれました。

不思議で素晴らしい体験だと思いますが、普段そのようなはっきりした恵みの経験はないと思います。でも、わたしたちの助けを必要としている人に仕えるとき、やはり不思議な何かがあると思うのです。

先週、その山谷にいたとき、そう感じました。あまり言葉にできないけれども、単純にその場にいて、野宿生活を送っているおじさんたちと共にいて、同じ空気を吸うだけで、なんか幸せになるのですね。

わたしたちの助けを必要としている人に仕えるとき、不思議な形でイエスもそこに臨んでくださると思います。相手が純粋だとか、いい人だとか、関係なく、ただ単にイエスも付き合ってくださるのだと思います。地上の働きのときと一緒。神の助けを最も必要としている人たちの近くにいるのが、イエスの心地よい場所となっていたのです。

だから、イエスに出会いたかったら、その確かな居場所は二つが分かります。一つは、小さい人、弱い人のうちに。そしてもう一つは、わたしたちのためにイエスご自身が小さく、弱くなってくださる聖餐・ご聖体のうちにです。

両方の「場所」に、たびたびイエスさまに会いに行きましょう。そうする人に、イエスは約束してくださいます。すでに祝福されていること。そして、永遠の祝福を受けること。

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