2011年7月19日火曜日

聞く耳を持つこと(マタイ13:24-30, 36-43)

[聖霊降臨後第5主日(A年・特定11)
 聖路加国際病院聖ルカ礼拝堂・聖餐式]


「耳のある者は聞きなさい」(マタイ13:43)

変な言い方ですね。耳を持っていない人は、果たしているのでしょうか。まあ、一つの事例を思い浮かびます。自分の子供たち。

特にテレビが付いているとき。「もうご飯だよ!」何回も言っても、全然通じないのですね。石に話しかけていると一緒。(笑)

「耳のある者は聞きなさい」

イエス様は伝えようと苦心しておられることを聞いて分かって欲しいのですね。今日の福音書では、先週と同じように、種を蒔く人の話があります。先週わたしたちが学んだのは、イエスご自身が「良い種[つまり麦]を蒔く者」であって、その蒔かれる種はイエス様のお言葉である、「天の国・神の国」に関するメッセージである、ということです。あるいは、神の国に関するイエスのメッセージを受け入れる人たちが麦であるとも言っているような感じです。

「耳のある者は聞きなさい」――どうしてもこの神の国の意味を理解してもらいたいのですね。イエスは殆ど神の国ばかりの話をなさいます。いやしの業などすべての奇跡もこの神の国を示しています。

さあ、この「神の国」とは何なのでしょう。神の国は、地図に載せる場所でも、政治的な組織でもありません。むしろ、人々の人生を通して現される神のみ心だと言ってもいいと思います。神の国は神が望んでいらっしゃること、神の実現して欲しいことです。

さて、神が望んでいらっしゃることは何でしょう?それは、人間が幸せであることです。信じられますか?宇宙の創造主である神は、わたしたちが幸せであって欲しいって。

でも本当にそうなんです。神はわたしたちが幸せであって欲しいのです。

そのためにわたしたちを造ってくださったわけです。別に造る必要は全くなかったのです。人類がなくても神は完全に満足しておられたお方なのです。

でも確かに神は人間をお造りになりました。それは、ご自分の愛をわたしたちに注ぐためでした。そして神がわたしたちを愛してくださるからこそ、幸せであって欲しいのです。皆さんも、愛する人が幸せであって欲しでしょう?ある人によれば、それが愛の定義になると言うのです。愛は「相手の幸せを望むこと」と言います。

しかも、神はわたしたちに幸せへの道をお示しくださっています。神の国での幸せは、神の愛に応えることから、ちょっとしたお返しとして賛美と感謝を捧げることから生れます。隣にいる人たちに仕えることから、持ち物を人と分かち合うことから生れるのです。「受けるよりは与える方が幸いである」とイエスが教えてくださった通りです。

実に満たされる心は、神に開かれた心、神が与えようとしている命に、そして他人に開かれた心である、と。

イエスによれば、これは本当の人間らしさだと仰るのです。この人間らしい状況を神の国と呼ばれるのです。そういう神の国のことについてどうしても聞いて欲しいのです。
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問題は、これとは違うメッセージがある、ということです。四方から耳に入るメッセージなのです。もし良い種を蒔く者は、神の国を語れるイエスだとしたら、同時に毒麦の種を蒔く「敵」もいる、とイエスが警告してくださいます。

毒麦という植物は、本当の麦に非常に似ています。穂になるときまで極めて見分けづらいです。穂になったら、麦の穂が重いから、「実るほど頭を垂れる」ということです。その時点で、本当の麦と毒麦を分けやすくなるのです。

さてこの「敵」は、そしてそのメッセージは何なのでしょうか。聖書がいう「敵」とは、自分に対立する人、自分の成果を台無しにしようとする人、自分を破滅へと追いやろうとする人、という意味になります。

イエスは、その弟子たちに「敵を愛せよ」と命じられました。極めて難しいことだと思います。つまり、わたしの不幸を目指している人の幸せを望むなんて。でもわたしちはそのようにイエスに命じられているのが、間違いないです!

でも、そういう人間の敵ではなくて、違う敵がいる、とイエスが教えてくださっています。違う種を蒔く=神の国と違うメッセージを広めている敵です。「悪魔」とも呼ばれるこの神の敵は、神の働きに対立して、神が造られたことをすべて台無しに、すべての良いことを堕落させたり、滅ぼしたりしようとしている敵だと仰るのです。

ところが、幸いなことに、この敵の力には限りがあります。麦を根こそぎにできません。ただ、麦のただ中に悪い種を蒔くことしかできないのです。別のメッセージを広めます。魅力のある、でも最終的には危険なメッセージをせっせと広めています。
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先週、ハワイの観光スポットの一つである潮吹穴(しおふきあな)についての記事を読みました。潮吹穴とは、海岸で、年月を経て岩の下に洞窟ができる、そしてその洞窟が地上にもつながっている、という自然現象です。大きな波が打ち寄せると、波の圧力に押されて海水が地上に高く吹き出します。30メートルにも高く上るときもあるそうです。

ある男性が友人とハワイで観光していたのですが、その潮吹穴に近づこうとしました。その辺の人何人かに「危ないよ」と言われたようですが、友だちに促された、すぐそばまで近づきました。吹き出してくる海水を浴びるのが目的だったそうです。

つまり、二つのメッセージがあってわけです。一つのメッセージはつまらない。束縛に感じる。「しないで。」もう一つのメッセージは楽しそう。スリルがある。魅力的でした。

残念ながら、ちょうどそのときに大きな波が打ち寄せて、その人は足を踏み外して潮吹穴に落ちてしまいました。その後、彼の姿を見た者はいません。
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あるインチキのメッセージがよの中に広まっています。毒麦が本当の麦に似ていると同じように、このインチキのメッセージは幸せに見えるものを約束しますけれども、実は幸せにつながらないのです。

次のようなメッセージです。あなたはこの世に生を受けたのは、神さまに愛され、神さまはわけがあって造ってくださったのではなくて、ただ生命の自然の流れの中で起こったことだ、と。偶然だ、と。

だから、自分のことを守らなければならない。自分の力で自立しなければならない。自分の利益を考えないといけない。他にそうしてくれる人はいないからだ、と。

世の中には「勝ち組」と「負け組み」があります。「勝ち組」に入るように努力しなさい。

そして自分で、自分の幸せを作るのだ、と。幸せは、自由から生れるものである、と。あらゆる束縛から、他者のあらゆる期待から自由になって、好きな人生を選ぶことに幸せを見出すのだ、と。

お金がないと、自由は限られてしまうので、できるだけお金があった方がいい。お金があれば、好きなことで人生を充実させることができる。好きな住まい。好きなもの。好きな旅行。好きな人間関係。ペット。赤ちゃん。キャリア。結婚。

これらすべて手に入れることができる。すべて捨てることもできる。あなた次第である。幸せはこのような自由の中であなたを待ち受けている。このように「自分らしく生きる」ことは、何よりもえらいことであって、幸せにつながる生き方である。
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いいね。魅力を感じません?唯一の問題は、最初から最後まで嘘なのです。しかも危険な嘘です。全くの自由を追い求める人生、自分のことを中心とした人生は、むなしさ、孤独、絶望につながる人生なのです。

最初はそう見えないかもしれません。テレビ、雑誌、映画は延々とそんな嘘をつくなんて、あり得るでしょうか。しかも、自分の都合のいいように生きることから、確かにある種の満足感が得られます。

でもその満足感は、一時的なものに過ぎません。どんなにいっぱいあっても足りません。そしてある日目覚めて、自分の人生は麦ではなくて毒麦だということに気きます。いい実を結んでいないことに。世の中に何を貢献しているのか。しかも、幸せだとは言えない。

日本は、世界の最も自由な国の一つです。この国では、好きな暮らしをしてもいい。好きなものを買ってもいい。ある程度、好きな「自分」を決めてもいい。日本は、国内総生産(GDP)では2位か3位になっています。しかし、国民総幸福量では、90位です。自殺率では世界トップファイブに入る、特に若者の年齢層で。
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イエスがこのたとえ話を語ってくださっている最も重要な意味は、敵が広めているインチキのメッセージに耳を塞いで、本当の幸せにつながるメッセージに耳を澄まして聞くことができる、ということです。まだ間に合います。

目覚めるのにまだ遅くない、ということです。神に心を向け直すチャンスはまだあります。イエスが教えた、なさったすべてのことは、わたしたちが自己本位の生き方という潮吹穴に陥らないためでした。イエスは「失われたものを捜して救うために」(ルカ19:10)、そしてわたしたちが「豊かな命を受けるために」来られた、とご本人が言われたのです。

「耳のある者は聞きなさい」。

だからわたしたちはイエスの言葉に、イエスについての言葉に、そして聖書全体にある神のみ言葉に耳を傾けます。長い説教にも耳を傾けます!敵のメッセージに耳を塞ぎます。そうしましょう。

そして、自分自身の心の中にある麦を増やして、毒麦を根こそぎにしていただけるように求めましょう。本当の幸せへの道を示してくださるように祈りましょう。

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