司祭 ケビン・シーバー
聖路加国際病院聖ルカ礼拝堂
2011年9月4日・10時30分 聖餐式
今日は、ホスピタリティについて皆さんと考えたいと思います。「もてなし」でなくてホスピタリティという言葉を使っているのは、元々のギリシャ語の単語は客の世話をする、馳走することよりもっと深いニュアンスがあるからです。「フィロクセニア」という単語で、「外の人を愛する」という意味になります。もしかしたら「もてなし」の本来の意味は聖書に意味に近いかも知れませんが。
このチャペルの理念から抜粋させていただきます。
神の恵みにより建てられた聖ルカ礼拝堂は、病院・大学の礼拝堂としての特性を踏まえ、これらの存在基盤である「キリスト教の愛」を、常に示し続ける使命を担う。具体的には、さまざまな人に「祈りと慰めの機会と場を提供していく」。これこそホスピタリティの精神ではないでしょうか。問題は、どうやって祈りと慰めの機会と場を提供できるか、ということです。その前、一つのストーリーがあります。
病院の礼拝堂としては、患者、その家族、医療スタッフ、職員、ボランティアに対して、
看護大学の礼拝堂としては、学生、教職員に対して、
教会としては、地域と社会の人々に対して、
祈りと慰めの機会と場を提供していくとともに、これらの人々と教会員が、神の愛のみ旨を成し遂げていくことができるように支え合い、ともに働き続ける。
ある日曜日の朝、ある男の人がお母さんに起こされました。「早く教会に行く準備をしなさい!」
「教会に行きたくない!」と頭の上に枕を覆いながら息子が言います。
「行かないと」とお母さん。
「だって、あの教会の人たちは冷たくて、あいさつもしてくれない。心地悪い。
説教もつまらないし、お茶の菓子は美味しくない、全然。」
「早く起きなさい。教会に行くのだ。」
「どうして?どうして行かなくちゃいけない?わけが分からない!」
「あなたはその教会の牧師だから、いかげんにしなさい!早く起きなさい!」
初めて教会の礼拝に参加しに行くのに、勇気が必要だと思います。この病院は「敷居が高い」と言われたりしますが、チャペルもそう思われたらちょっともったいない気がします。(祈るために紹介状はいりませんから!)
でも確かに、勇気を出して、初めて礼拝に出る人は、突然いろいろな変わったことに遭遇します。まず、教会で変な単語は山ほど使われています。アッシャー、オルター、チャプレン、聖奠、信施、供え物、降臨節、聖霊降臨節、聖餐式、陪餐、祝福、使徒、信徒、主教、司祭、師父、執事、小羊!などなど。
そして変な行動をします。座ったり、立ったり、ひざまずいたりします。いきなりお辞儀を交わします。いくつかの布袋を回します。全員で礼拝堂の前方に行進します。
これらのことは面白くて、少し慣れて来てその意味が少し分かったら素晴らしいことになり得ると思います。だけど、初めて来られた人に「祈りと慰めの機会と場を提供」しようと思うのなら、この一風変わった環境でどうやって歓迎できるか、「ここにわたしの居場所があるかも」と感じてもらえるためにどういう対応が必要なのか、それが問題だと思います。
ホスピタリティはそういうことに関心を持つのです。ホスピタリティについて3つ話したいこと:
- まず、皆さんは、自分自身ここに居場所があるということを知っていただきたいです
- それから、神はわたしたちに常に人を送ってくださり、そういう人たちを歓迎して欲しい、ということを知っていただきたいです
- そして、わたしたちの責任は、新しいクリスチャンを作るのではなくて、神の愛を示すことだ、ということを知っていただきたいです
聖パウロがエフェソのクリスチャンに:
以前、あなたたちは「キリストと関わりなく、イスラエルの民に属さず、約束を含む契約と関係なく、この世の中で希望を持たず、神を知らずに生きていました。しかしあなたたちは、以前は遠く離れていたが、今や、キリスト・イエスにおいて、キリストの血によって近い者となったのです。」(エフェソ2:12-13)わたしたちは全員、天の父の家にウェルカムされています。元々わたしたちの家ではありません。ホテルでもありません。ゲストとして扱ってもらうと思ったら大間違い。どちらかと言うと、教会は避難所に近いと思います。被災地で、ある大物がその屋敷を被災者のために開いてくれて、わたしたちはここで居候をしているような感じです。
この世に生を受けるというのは、神から遠く離れているという大惨事の状況に生れることになります。罪はそういうことです。だけでイエス・キリストは、わたしたちの罪のために死んでくださいました。イエスはその大惨事からわたしたちを救い出すために死なれたのです。だから、イエスのおかげで、わたしたちは避難所に逃れることができています。心の拠り所が与えられています。他の被災者との交わりが与えられているのです。
ここに皆さんの居場所があります。皆さんはイエス・キリストによってウェルカムされています。
2番目知っていただきたいことは:神が常にわたしたちに人を送ってくださっています。そして、そういう人たちを歓迎して欲しいのだ、ということです。
わたしたちが「神と関わりのない生活」から救い出されて、ここにウェルカムされているので、今度、わたしたちが他の人をウェルカムする番です。
このチャペルでの日曜礼拝(聖餐式)に、毎週平均5名の新来者が参加します。結構な人数です。大勢見える週もありますが、少ないときでも1人、2人の新しく来られた方があいます。とにかく毎週平均5名の方が始めてわたしたちと一緒に礼拝をしています。1年で言いますと...260人になります。
神は絶え間なく人をわたしたちのところに送ってくださっているのです。
それは、わけがあると思います。誰もただ偶然で教会に足を運ぶ人はいないと思います。必ず意味があるのです。もちろん、「わたしの人生で欠けているのはイエス・キリストだと気づいたので、イエスさまに出会うために教会の礼拝に出てみよう」と思って礼拝に参加する人は殆どいないと分かっています。
(皆さんも最初に礼拝に出たとき、そういう意図で出た方はあまりいらっしゃらないと思います。)
礼拝に出る理由は人によって違います。好奇心がある。友だちに連れて来られた。大事な人を亡くして、何かの慰めを求めている。病気や何かの不幸があって不安になっている。人生で道に迷って、何かの方向性や希望を探している。いい音楽を聞きたい、歌いたい。トイレを探していたけど場所を間違えた(笑)。
0.001%の人は説教を聞きに来る。(どうもどうも、ようこそいらっしゃいました!)
でもこれら全部が、人間の観点から考えられる理由になります。神は神なりの理由で人を礼拝に導かれます。今日、初めて礼拝に参加している方に知っていただきたいのですが、偶然ではない、ということです。わけがあってあなたがここに導かれています。
神が人を教会の礼拝という不思議な世界に導いてくださる第一の理由は、み子イエス・キリストに出会わせることです。
イエスは今朝ここにいらっしゃいます。目に見えないし、おられることを感じ取れないかも知れませんが、間違いなくここにいらっしゃいます。なぜかと言うと、いらっしゃると約束なさっているからです。
「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」(マタイ18:20)
2人、3人どころか、100人以上イエスのみ名によってここに集まっています。今日だけイエスさまがその約束を守らないわけがないと思います。
最後に知っていただきたいことは、わたしたちの責任は、新しいクリスチャンを作るのではなくて、神の愛を示すことだ、ということです。
聖公会の信者が多いこの集いに向かっては話しています。熱狂的に伝道活動をやり過ぎることはあまり心配しなくていいと思います。(むしろもっと積極的に自分の望みを人と分かち合って欲しいのです!)
だけど、このコミュニティ自体が伝道的な存在になるはずです。コミュニティを通して、わたしたちの関わり合いを通してキリストの愛を現すことが求められていることです。お互いに接することから本当のホスピタリティが生れるのです。
聖パウロは、そういうことを今日のローマの信徒への手紙で言っていると思います。イエスも、マタイの福音書でそういうことを仰っているのです。
わたしたちは、兄弟姉妹としてお互いの人生の大事なことを分かち合います。「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。」最近、この礼拝堂で結婚式を挙げたメンバーもいます。お葬式を行ったメンバーもいます。わたしたちは、人生の浮き沈みを共有しています。
また、ここで社会的格差はあまり通用しません。この中で医者も、看護師も、病院の他の職種の人もいます。看護大学の教員も、職員も、卒業生もいます。病院や看護大学と全く関係のない人もいます。さまざまな経済的な状況の人もいます。いくつかの国籍を持つ人もいます。
わたしたちは高ぶらないで、できるだけ互いに思いを一つにしようとしています。喧嘩や摩擦が生じたとき、兄弟愛をもって対応するように努力しています。(まあ、あまりうまくやっていないこともありますが、それは別の説教で!)
とにかく兄弟愛をもって関わり合うように励んでいると思います。そして、その兄弟愛がここから溢れ出て、神が送ってくださる人々を包んでいくことが、神が望んでおられることだと思います。
だから、わたしたちは「人をクリスチャンにする」ことは必要は求められていません。そういうことを神に任せればいいのです。人の心が神に向かうのに何が必要なのか、どのぐらい時間がかかるか、計り知れないことです。このチャペルに一回だけ来て、神の愛に気づくのが数年後になる人はいるかも知れません。でもここで種が蒔かれるかも知れません。
イエス・キリストはわたしたちの間におられます。わたしたちがお互いを愛し合えば、そして来られた人に心を開けば、わたしたちを通して人々がイエスに出会うことができるはずです。
経験者が語ります。僕は、何かを、人生で足りない何かを探していたときにある教会コミュニティに出会いました。何を求めていたのか、自分でも分かりませんでした。神も仏もあるものかと思っていた時期です。まさかイエスに出会いたいと思いませんでした。
出会ったのは、ホスピタリティのコミュニティ。全く見知らぬ、放蕩を尽くしていたこの僕を彼らにウェルカムされました。その共同生活に受け入れられました。最初躊躇していたが、やがて信頼関係を気づくことができたのです。
僕のことに関心をもってくれる人もいたし、自分の信仰を話してくれる人もいました。お互いへの愛情は目に見えました。神のことを大事にしていたことも明らかでした。そしてその音楽は最高でした。
ようやく、悟ったことがありました。すなわち、このコミュニティを通してイエス・キリストに近づいていたのだ、ということに気づいて来ました。それよりも、実はイエスさまが、その普通のクリスチャンの団体を通して僕をご自分のもとに近寄らせてくださっていたのだ、ということに気づきました。
ここでの普通のクリスチャンの団体ととても似ています。
ホスピタリティはこのチャペルの使命です。
0 件のコメント:
コメントを投稿