2011年9月28日水曜日

方向転換をする(エゼキエル書18:1-4, 25-32; マタイ21:28-32)

聖霊降臨後第15主日(A年・特定21)
聖路加国際病院聖ルカ礼拝堂
2011年9月25日・10時30分 聖餐式


今日、旧約聖書も福音書も「方向転換」をテーマにしています。

聖書の中で最も重要なキーワードの一つは「向きを変える」と言えましょう。そのヘブライ語は「シュブ」。これを訳すと、向きを変える、戻る、帰宅する、立ち帰る、考え直す、反省する、悔い改めるなどの言葉が出てきます。方向転換ともなれるのです。

すべての預言者のメッセージの中心にこの「シュブ」があります。主に立ち帰れ!悪の道から離れて主の道に戻れ!そうすれば平和と祝福が得られるのだ、と。

新約聖書の中心にもあります。洗礼者ヨハネもイエス・キリストも、その働きの始まりに「シュブ」への呼び掛けがあります。例えば:「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と(マルコ1:15など)。
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エゼキエルに託された神のメッセージは分かりやすいものです。罪を犯す人は死ぬ、と。

きつい言葉ではありますが、複雑ではないと思います。明らかな因果関係になっています。

なお、聖書が言う「罪」とは、人殺しや強盗、姦通という大罪だけではないことを覚えていただきたいです。むしろ、神に背を向けること、その道から離れることを指しています。

もう一つ注意すべきことは、両親や先祖が罪を犯したからわたしたちは死ぬわけではない、ということです。神はこういう考えを真っ向から否定されます。エゼキエルが活躍していた時期は、ユダヤ人が捕囚としてバビロン王国に強制移住させられた後の話です。よその国で奴隷になっているユダヤ人はぶーぶー言っているようです。先祖の罪のために自分たちが懲らしめられているのだ、と。「先祖が酸いぶどうを食べれば/子孫の歯が浮く」(エゼキエル18:2)

これに対して神は「いいかげんにしろ!」、と仰っています。「すべての命はわたしのものである。父の命も子の命も、同様にわたしのものである。罪を犯した者、その人が死ぬ」(エゼキエル18:2)

神は罪人の子どもを懲らしめる方ではないのです。あなたが罪を犯したら、あなたの子孫が苦しむのではなくて、あなた自身がその結果を受けさせられるのだ、と。

もちろん、両親や先祖の罪から悪影響を受けることはあり得ます。残念ながら、よくあることです。自己中心の父親の不倫とか。ノイローゼの母親の過保護とか。さまざまな虐待や愛情不足とか。これは、世の中の悲劇の一部です。でもかつての罪から悪影響を受けることと、その責任が自分たちに問われていたり、そのために自分たちが懲らしめられていたりするというのとは、全く別の話です。

「罪を犯した者、その人が死ぬ。」しかも、これは神の気まぐれでもありません。ただの因果関係です。聖パウロはこういうふうに言いました「罪が支払う報酬は死です」(ローマ6:23)。労働すれば賃金を受ける、罪を犯せば死ぬ――自然の実りです。

でも先から「死」という言葉を何度も申し上げていますが、果たしてどういう意味でしょう。体が息を引き取る、ということ?まあ、やがてそういうこともありますが、遥かにひどいことは、霊的な死です。霊的な死は生きている間にでも始まるのです。

霊的な死とは何か。皆さんはそれをある程度味わったことがあるかも知れません。その「症状」として次のことを挙げることができると思います。
このような霊的な死は、罪によってもたらされます。神に背を向けたり、その恵み深いみ心から離れるとき、さらに霊的な死に近づくのです。

この死から立ち帰らなければ、かの日、もう引き返せないことになってしまいます。
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クリスチャンになるというのは、方向転換をする話です。霊的な死に至る道から向きを変える。自己中心の生き方から、不正から、神との対立から自分を向け直すことです。

同時に、自分をイエスへと向け直す話です。命へと、正義へと、従順へと、天の父との交わりへと自分を向け直すことです。

教会の洗礼はそういうことです。式の中で志願者に聞きます。あなたは悪魔とすべて悪の力を退けますか。あなたはイエスへと向きを変えて、神のみ心にそった生活を送りますか。

問題は、わたしたちはこのように向きを変えることができない、ということです。氷山に向かっているタイタニックのようです。危ないと分かっていても、方向転換は間に合わなかったのです。

でも人間は実はタイタニックよりも悲しい立場にあります。なぜかというと、タイタニックは十分時間をかければ方向転換ができたのですが、人間は違います。わたしたちは、いつまで経っても自分を変える力は持っていないのです。

着る服を変えたり、髪形を変えたりすることはできます。新しい習慣を作ることもできます。また、自分を抑えて、人前に出せる顔を作ることもできます。

でも心を変えるのは無理です。

「お前たちが犯したあらゆる背きを投げ捨てて、新しい心と新しい霊を造り出せ」
このエゼキエルのメッセージ(18:31)を最初に耳にした人たちも、わたしたちも、こう言われても「新しい心と新しい霊を造り出す」ことはできないのです。

わたしたちは、自分を救うことができないのです。意志が弱くて、心が曲がっているのです。それを直すこともわたしたちにはできないのです。

ところが神にはできます。神は不可能なことを可能にすることがおできになります。神が何かをお命じになったら、必ずそれを果たせるようにしてくださいます。だから「新しい心を造り出せ」と仰るのでしたら、そのための恵みをも与えてくださるに違いないのです。

宗教改革者のジョン・カルビンが言いました:「主はすべての人を悔い改めへと誘い、誰をも拒まれない」と(Calvin, Comm. Ezekiel 18:32)。悔い改めへと誘ってくださる神は、悔い改めることができる恵みをも与えてくださるのです。

今日のフィリピの信徒への手紙でも、聖パウロはそういうことを言っていると思います。
「恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい。あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです」(フィリピ2:12b-13)

わたしたちが許せば、神はわたしたちのうちに働いて、弱まった意志を強めて、神に喜んでもらえることを自ら進んでしたいようにならせてくださいます。洗礼式の誓いの言葉でも、こういうことを表す極めて重要な言葉が入っています。
- あらゆる暗闇の力を退けますか? → はい、神の助けによって退けます。
- イエス・キリストへ、光へと向きを変えますか? → はい、神の助けによって...
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イエスのたとえ話では、長男は方向転換をしました。父の言うことを拒否する方向から父の言うことを行う方向に変わったのです。

イエスはこの同じ質問をすべての人にお聞きになります。かつても今もイエスのミッションはわたしたち一人一人を従順へと呼び掛けることです。つまり、今日、ぶどう園へ行って働きなさい、と。今日、天の父のみ心にそった生活を送りなさい、と。

2000年前、徴税人や売春婦はこの呼び掛けを聞き、それに応えました。長男と同じように、以前その生き方によって神に向かって「いやです」と言っていました。しかし長男と同じように、彼らは「考え直して」イエスに従うようになりました。方向転換をしました。要は、イエスとの出会いにおいて、方向転換をするための力を発見したのです。罪深い生活から離れる恵みを発見しました。神との交わりに入る恵みを発見しました。

クリスチャンになるというのは、方向転換をすることです。未だに、わたしたちは周りの人々と殆ど変わらない生活をしているのであれば――同じ根拠に基づいてものを決めたり、同じ目的のために時間、お金、才能を使っていたり、自分のことばかりを考えたり、自分の罪であまり違和感を持たなかったりしているのであれば、ひょっとしたらまだクリスチャンにはなっていないかも知れません。ひょっとしたら次男のように、口では神に「はい」といいながら、今まで通りの生き方をしているかも知れません。

イエスは、方向転換をするための力を与えてくださいます。口で神に「はい」と言い、生活を通しても「はい」と言うことができる恵みを与えてくださるのです。

さて、方向転換したら、何があるのでしょうか。

命があります。
「イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか...お前たちは立ち帰って、生きよ!」(エゼキエル18:31b, 32b)

徴税人や売春婦は悔い改めて、み国に入るまでイエスについて行きました。それは、そこに豊かな命があると見えたからです。本当の喜び、本当のコミュニティ、行ける神との交わりはそこにあると分かったのです。

立ち帰って、生きよ!
心が狭くなる。周りの人との関係に違和感を持っていたり、周りの環境との距離感を覚えたりする。なかなか人とつながることができない。自分を見失ったり、自分のアイデンティティが分からなくなったりする。生きる意味が見えなくなる、人生の目的を見失う。むなしさを覚える。倦怠感がある。人生の楽しみも喜べなくなる。不安がある。人に対して、神に対して、自分自身に対して怒りを覚える。絶望感がある。心がどんどん暗くなっていく。そういうことです。

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