2011年12月24日土曜日

愛に強いられて(ヨハネ3:15、イザヤ53:4-5)

クリスマス・イブ礼拝
2011年12月24日(土)午後7:00
聖路加国際病院 聖ルカ礼拝堂


クリスマスについて一言お話させていただきたいのですが...その前に、キリスト教を代表して日本の皆さんに向かって、イエス・キリストの誕生日をこんなに盛大にお祝いくださって、心から御礼を申し上げたいと思います!素晴らしいですね。

毎年、日本ではクリスマスがどんどんにぎやかになってきている気がします。イルミネーションだの、クリスマスコンサートだの、パーティーだの、そしてもちろんあっちこっちの店のビッグセールがあります。先週、友人がたこ焼きを買いに行ったら、たこ焼きの「クリスマスパック」なんてあったらしいです!わざわざイエスさまのためにそんなのを...

まあ、正直、何でここまで盛り上がっているかちょっと分からないのですが、教会では、クリスマスという祭りを大事にするのは、キリストの誕生によって、人間は何であるか、神は誰であるか、生きることの意味は何であるかについて大事なことが示されるからです。
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でもまずちょっと違う話をさせていただきます。2-3ヶ月前にある女性と出会ったら、彼女からとても不思議な話を伺いました。(実は、今夜いらっしゃるかもしれません。)ご本人から許可をいただきましたので、少し分かち合いたいと思います。

この女性は脳腫瘍があると診断され、大手術を受けることになりました。手術自体は約10時間かかりました。後で分かった話しですが、手術中、2回も命がとても危なくなったそうです。

でもご本人の経験は全然違いました。ご本人は、麻酔で意識がなくなった後、気づいたら、光に包まれて手術台から浮かび上がっていると言うのです。自分がいる場所は広大な大聖堂のようなところで、壁と天井は真っ白。

そして彼女はどんどん天井に近づいていきます。下を見ると、実は天使に運ばれているのだと分かります。天使は体に触ってはいないけれども、持ち上げているのです。

そして天井が開きました。すると、見よ、上にとても明るい、暖かい空が広がっています。そして彼女は高く上がれば上がるほど、体のすべての痛み、心の辛さ、すべての不安と悩み、すべての苦しみが消えていってしまいます。すべての苦悩から解放されるのです。そして、彼女には分かりました――その明るい空に立ち昇れば、この上ない幸せになるのだ、ということ。

彼女はもう行きたくて仕方がありませんでした。何も怖くなかった、と仰るのです。

ところが、そこでご自分を待っている家族のことを思い出しました。彼女のことを大事にして、手術をとても心配してくれている人。お別れをしたらとても悲しむ人。彼女は、彼らの悲しい顔が見えました。

そこで、もう帰らなくちゃと思ったわけです。心配になって。そして見ていた場面が消えると、気が付いたときには術後室にいました。
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この話を伺ったとき、この人は愛に強いられてこの世に戻ってきたのではないかと思いました。

とても感銘を受けた話です。でも似ているようなことはほかにもあると思います。誰かを愛するとき、自分自身にとても強い「けん引力」がかかってしまうのだと思います。親しい人、特にその人が困っていたり、不安になったり、痛みを覚えたりすると、わたしたちは愛に強いられてその人のところに引っ張られるようなことがあると思います。

小児病棟でも、こういうことがよく見られます。白血病と闘っている子どもの病床から離れることのできない父親、母親がいます。自分たちの健康に気を使わないことが多いので、注意しないといけません。

緩和ケア病棟でも見られます。時折、長い間重い病気と闘ってきた人は、「もう行ってもいい」という思いがあります。でも同時に、未だに大事な人のところに思いが寄せられています。残された人のことばかり心配しています。

日常生活でも、もっと小さなところで同じことがあります。子どもが転んで怪我したときとか、親しい人が悩んでいるとき、苦しんでいるときとか。近寄りたくなるのです。手をつないだり、抱っこしたり、何か言葉を掛けたりしたい。どうにかして慰めてあげたい。良くしてあげたい。

わたしたちもこのように愛に強いらることがあるのです。
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人生の最もつらいことの一つは、良くしてあげたいけれどもどうしようもできないことです。大事な人が慰めを、癒しを必要としているのに、わたしたちはそれを与えられないこと。

それは、単純にこちらには助ける能力がない場合もあります。あるいは、その人から距離的、もしくは精神的に離れていて、相手がわたしたちから助けを受け入れる状況ではない場合もあります。

でも助けてあげたい気持ちは変わりません。こういうときに、人はたまにはすごいことを言います。
「できれば主人の代わりにわたしが上司の怒りの矢面に立ちたい。」
「その人は君ではなくて僕に八つ当たりをすればいいのに...」
「子どもに代わってわたしが癌になりたい。」
「彼女が助かるなら、わたしはもう、死んでもいい...」

このすごさが分かります?つまりそういう人は、愛する人のためなら困難を選ぶ。自ら進んで苦しみを受け入れる。命でさえ惜しまない姿勢を取ろうとしています。できることなら立場を交換したいのです。

人間の愛って、本当にすごいものだと思います。そこまで愛に強いられることがあるのです。

もちろん、残念ながら人と立場を交換することはあまりできません。殆どの場合は、人を救う力がわたしたちにはないのです。

ただ一緒にいて、共にいることで慰めて支えることしかできないのです。
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聖書によれば、人間は神にかたどって造られた。神の姿に似せて造られているのだと言うのです。

逆に考えれば、人間の性質・本性は神の性質・本性の影に過ぎないわけです。意思の自由とか、自分自身を意識していることとか。何よりも愛し得ること。これらの「人間らしい」性質は神の性格を示唆しているものだという話です。

それなら、もし小さくて不完全な人間は、時折このような偉大な愛を示すことができるのであれば、神の完全な愛は遥かに偉大なものだと考えざるを得ないと思います。

わたしたちは、親しい人が怖くなったり、悲しんだり、苦しみ悩んだりするとき、近寄らなければならないと強く感じます。まして神は、不安、悲しみ、苦悩に暮れているこの世の人たちをご覧になるとき、どういう思いがあるのでしょうか。

聖書は言います:「神は、その独り子をお与えになったほどに、[この]世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神がみ子を[この]世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、み子によって世が救われるためである」(ヨハネ3:16-17)
  
神のみ子がこの世に来られたのは、苦しみ悩んでいる人たちと共にいるためでした。つまり、わたしたちすべての人間です。わたしたちみんな、ある程度この世の悲しみ、悲劇に巻き込まれているのです。争い、暴力、欲張り、病気、貧困問題がはびこっている世界、しかも大勢の人々の苦痛に無関心でいられる人の心のむなしさに満たされている世界に生きている限り、これらのことにある程度巻き込まれてしまうことです。

神は、愛を込めてお造りになった人たちがこういった困難、困惑に打ちひしがれているのを見ていられなかったのです。神も愛に強いられて、わたしたちに近寄り、共にいることによって慰めることを決められたのです。

イエス・キリストは近寄ってくださる神の愛そのものです。実は、イエスの一つの呼び方は「インマヌエル」となっています。その意味は、「我々と共にいてくださる神」なのです。

でもクリスマスはそれだけの意味ではありません。神のみ子は、わたしたちと共にいるだけではなくて、わたしたちの苦しみを共有するために来られたのです。

キリストは天の計り知れない喜びを脇において、わたしたちの苦悩をご自分のものにして、同じ人間として、人類の一員として同じ生涯を送るために来られたのです。

クリスマスはキリストの誕生を記念する日ですが、やがて十字架の上でそれは重大な局面に達しました。その最期の日、イエスは苦しむ人間と完全に一体化されたのです。腐敗した当局から迫害を受け、仲間に見捨てられ、拷問を受けて十字架にはりつけにされました。生まれたときよりも全く頼りない。体を動かすことすらできない。自分を助けることもできないのです。

しかもこれこそ、イエスがお選びになった運命でした。避けようとしたら十分避けられました。でもそうなさらなかったのです。どうして?愛に強いられていたからです。イエスは困難を選び、自ら進んで苦しみを受け入れ、命でさえ惜しまれなかったのです。それは、わたしたち人間を救うためでした。

そうなんです。つまり、わたしたちがしてあげたいと思ってもできないことは、イエスにはできました。それは、わたしたちと立場を交換することです。ヘンデルの「メサイア」に出て来る預言者イザヤの言葉(53:4-5)は次の通りです:
彼が(=神がお遣わしになった救い主が)
担ったのはわたしたちの病
 彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに
 わたしたちは思っていた
 神の手にかかり、打たれたから
 彼は苦しんでいるのだ、と。 
彼が刺し貫かれたのは
 わたしたちの背きのためであり
 彼が打ち砕かれたのは
 わたしたちの[迷っている心]のためであった。
彼の受けた懲らしめによって
 わたしたちに平和が与えられ
 彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。 
クリスマスは、神のみ子、この世に派遣された救い主の誕生日をお祝いする祭りです。イエスは「我々と共にいてくださる神」なのです。苦しむとき、怖いとき、つらいときなど、いつどこでもイエスは共にいてくださるのです。

でも、クリスマスのもっと深い意味は、キリストがわたしたちを解放することができる救い主だということです。罪や罪悪感の重荷から解放できます。むなしい世の中に生きる不安と悩みから解放できます。そして大きな慰めと平安を、今、部分的に、そしてやがて完全にもたらしてくださるのです。

今夜わたしたちは天から降って来た愛、わたしたちから離れていられなかった愛をお祝いしています。わたしたち一人一人に近寄り、いやしてくださる愛を感謝し、お祝いしているのです。

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