2012年7月8日日曜日

まだまだこれから(マルコ6:1-6)

聖霊降臨後第6主日(B年)
聖路加国際病院聖ルカ礼拝堂
2012年7月8日・10時30分 聖餐式


今日のマルコの福音書では、「イエスは人々の不信仰に驚かれた」と書いてあります(マルコ6:6)。イエスはわたしたちの信仰をどう思われるのだろう、とちょっと気になります!

この話の流れを把握したいと思います。イエス・キリストは、人類を悪の束縛から救い出すために神によって遣わされました。そこまではいいですか?世の中を見ると、「こうなるはずではなかった!!神様はどうにかしてくれないか、」と言いたいことに対して、神は「どうにか」してくださったのです。その「どうにか」はイエス・キリストです。

イエスがお生まれになる前からも、彼の使命が明らかになっていました。天使ガブリエルはマリアにもヨセフにも言いました:「この子の名前をイエスにしなさい」(ルカ1:31、マタイ1:21)。その名前自体が「神は救いなり」もしくは「神は癒しなり」という意味になっています。両方はあっています:神はわたしたちの魂だけではなくて体をも大切にしてくださるのです。

み子のミッションは神の救い・癒しとなることでした。しかもみ子が人間の世界来られたとき、人間として来られました。100%人間として。み子としての力と地位を全部捨てたのです:「主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた」とパウロ(Ⅱコリント8:9)。

イエスはわたしたちと同じく完全に人間でした。ただ、わたしたちと違ってイエスは天の父とのつながりが途切れていなかったのです。神とのつながりを切ったり、妨げたりするのは罪なので、罪と何の関わりもないイエスは常に神の愛を直感し、神のみ心を行うことを喜びとされたのです。

ほかすべての点では、イエスは普通の人でした。1世紀のパレスチナのユダヤ人として、その義父ヨセフから大工の仕事を覚えられました。イエスの育ちについて殆ど記録がありません。数百人の村落であったナザレに普通に住んで、その地方の工事現場で普通に働かれたわけです。

ところが30歳のころ、イエスはそのいとこヨハネのもとで洗礼を受けに出掛けられます。洗礼のとき、イエスは聖霊に満たされて、「わたしの愛する子」と天からの声が聞こえる、と聖書が教えてくれます(マルコ1:11)。

ここからですね。イエスは子供のときから天の父の愛を感じ、特別なミッションが与えられていることもご存知です。だけどついに、そのミッションを遂行する力を授かるのです。

イエスの力の源泉は聖霊なのです。神の子であることではありません。そういうことを一切捨てられたのです:「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました」(フィリピ2:6-7)。だから家畜小屋で、小さくて弱い赤ちゃんとしてイエスがこの世に来られました。そして30年間にわたり、人とほぼ変わらない生活を送られるわけです。

そしてついに、普通の人として聖霊に満たされて、やっと仕事に取り掛かれるのです。

イエスは洗礼を受けてから故郷のナザレに戻られます。地元の人たちに早く福音を伝えたいでしょう。マルコの福音書はイエスの行動を強調しますが、ルカの福音書ではそのナザレの会堂でイエスが何を話しておられたか、記録しています。彼はイザヤ書を引用なさるのです:
「神の霊がわたしの上におられる。貧しい人に良い知らせを告げるために、主がわたしをお選びになった。主がわたしを遣わされたのは、束縛されている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げるためである。圧迫されている人を自由にして、今年こそ神が動き出す年だということを宣言するためである。」(ルカ4:18-19)

つまり、イエスが地元の人たちに仰っているのは:400年前に預言されたことは今、起こっている。神は動き出しておられる!大規模な救出作戦が始まってる。この世を支配している暗闇の力から虜となっている人間をこれからどんどん自由にしていくのだ、と。神の国が前進して、暗闇の国が追い払われていくのだ、と。

そしてこられのことの中心は、このわたしなのだ、と。

そしてそこで集まっている人は、はっ?と思うわけです。何言ってんの?何様だと思ってんの?あの大工のお兄さんだろう?!親戚みんな知ってるし...

「このように、人々はイエスにつまずいた」(マルコ6:2-3)。

つまり、どうしてド田舎の小さな村であるこのナザレ出身の人が救い主であり得るのか、ということでした。「なれなれしさは軽蔑を生む。」イエスのことをよく知っているので、別に特別な人ではないのだ、と。

しかも、20年以上ナザレに住みながら、一度も人を癒したり、奇跡を行ったりすることはない。自分が「救い主だ」と言ったこともない。
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これまで一度もありませんでした。いつもこんなふうなんです。同じような話は、教会でも耳にすることができます、たまには(笑)。

僕はクリスチャンファミリーに生れましたが高校生の頃、信仰から離れました。キリストに立ち帰ったときに一つ気づかされたのは、神やイエス・キリストのこと、教会のことを全部知ってるつもりだったけれども、実はそうではなかった、ということです。最初からやり直して、素朴な質問を聞き直して、学び直すことは本当に多かったです。今も学んでいる最中です。

そしてもう一つ気づかされたのは、神はもしかしたら新しい、予想外のこともなさる可能性がある、ということでした。「これまで一度もない」ことにとらわれてはいけないのです。結局、僕の人生においても、神は予想外のことをなさるかもしれない――実際になさろうとしていらっしゃる――ということを受け入れなければならないことに気づかされたのです。

周りに座っている人をご覧なさい。知っている人はいますか?「だいぶ変わっている人」というわけではないと思います。まあ、何人かへんてこりんがいるかも知れないけれども(笑)。でも、ここにいらっしゃる殆どの人はごく普通の人だと思います。

今日、ここに集まっている人たちを通して、神は新しい、予想外のことをなさる可能性があると思いますか。自分自身を通して、神は新しい、予想外のことをなさる可能性があると思いますか。
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イエスの人生が急に展開したのは、彼が聖霊に満たされて、力づけられたときです。

これはイエスに留まることではありませんでした。来週の聖書日課でも、イエスが十二人の弟子たちを派遣する場面が出てきます。ご自分と全く同じことをさせるのです。すなわち、み国の良い知らせを告げ、病人を癒すなど人々を暗闇の力から解放すること。「十二人は出かけて行って、悔い改めさせるために宣教した。そして、多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人をいやした」(マルコ6:12-13)

こうやって神の国が前進して、暗闇の国が追い払われていくのです。

しかも十二人だけでもありません。後に、イエスは72人のごく普通の弟子たちを派遣されます。その名前さえ知られていないのです。そのミッションは?良い知らせを告げて、病人を癒す。

そして聖霊降臨の後も、このミッションが続くわけです。まずペテロとヨハネ、そしてフィリポ、そしてアナニア、そしてパウロなどなど、イエスに従う人たちが地の果てまで広がりながら常に二つのことに励んでいきます。み国の良い知らせ、すなわち、神が暗闇の力の虜になっている人を救い出すために動き出しておられるという良い知らせを告げることと、その言っていることを行動で証明して、人の癒しと解放のために祈っていくこと。これだけです。

3世紀初頭の教会リーダーであるテルトゥリアヌスは、すべてのクリスチャンにイエスの働きを受け継ぎなさいと促しました:最もえらい生き方は「悪の力に立ち向かって、人の癒しを祈り、神のために生きることなのである」と訴えたのです。

(こういう生き方は劇や競技場の試合を見に行くよりも楽しいのだ、とテルトゥリアヌスは言っていました[『見世物について』29章]。僕は、人の癒しのために祈ることは、オリンピックより楽しいよ!と言ったら、信じてもらえるかしら...)
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神の国が前進して、暗闇の国が追い払われていくことを明らかに示すために、イエスは癒しと悪霊払いの働きに専念されたのです。言葉だけではなくて行動で証明されたのです。そしてイエスの働きを通して、多くの人々の人生が変わりました。その弟子たちの働きを通しても、多くの人々の人生が変わりました。

いずれもその力の源泉は同じ聖霊でした。イエスの従っていくために、イエスが聖霊に満たされていたと同じようにわたしたちも聖霊に満たされなければならないわけです。

わたしたちは、2つの意味で聖霊を必要としています。まず聖霊の力によって、わたしたち自身が変えられなければならないのです。「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です」(ガラテヤ5:22-23)聖霊がわたしたちの心に取り掛かり、わたしたちをもっとイエスのような人に変えてくださいます。相当時間がかかりますが、もっと潤いのある心、もっと神の喜びと平和に開かれた心を与えてくださるのです。

でももう一つは、人を助けることができるために聖霊がいります。助けを必要としている人々のために大胆に祈る勇気を聖霊が与えてくださいます。道に迷っている人々を守り導くための知恵を聖霊が与えてくださいます。不安や困難の中にある人々を支えて励ますための愛を聖霊が与えてくださるのです。

聖霊の助けがなくても、人に優しく関わることができます。しかし聖霊の助けがあったら、わたしたちの祈りによって人が癒されたり、その人生が変わったりします。そこが違います。

もしかしたら、最も聖霊を必要としているのは、神のご計画に目と心を開いてもらうためなのかも知れません。このチャペルコミュニティを通して、わたしたちを通して、あなたを通して、僕を通して、神は予想外のこと、全く新しいことをなさることがおできになるのです。

聖霊よおいでください。わたしたちが口で言っていることを心から信じるようにさせてください:
「わたしたちのうちに働く力によって、わたしたちが求めまた思うところの一切を、
はるかに越えてかなえてくださることができる方に、教会により、またキリスト・
イエスによって、栄光が世々に限りなくありますように  アーメン」
(エペソ 3:20-21、聖餐式の「感謝聖別」の終わり)

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