2012年7月22日日曜日

近い者となったのである(エフェソ2:11-21)

聖霊降臨後第8主日(B年)
聖路加国際病院聖ルカ礼拝堂
2012年7月22日・10時30分 聖餐式・洗礼式


今日、これから洗礼式が行われることは、非常に嬉しく思う。さらに、洗礼式が行われる日に、今日のエフェソの信徒への手紙が読まれることになっているのも、心から神に感謝したいことである。神の計画としか思えない「偶然」だと思う。

僕のワイフのお父さんの本家は福島県の相馬市にある。海(松川浦)のすぐそばにある。

今まで、お盆休みに何回も訪問してきた。本家は古い長屋で、すべての障子を全開するとずっと広がる空間になる。真夏の風通しがいい。

来日した外人として初めてこの国の国民に受け入れてもらえていると実感したのは相馬でのこと。訪問すると初日、みんな何を言っているか全く理解できない。福島弁が強くて(ヒラメ→ヒラミ)。だけど、そのうち耳も慣れ、みんなと溶け込んで、楽しく過ごすのである。

夕方になると、親戚大勢が集まって夕食をする。女性たちは台所でせっせと働いて、男性は居間でせっせと焼酎を飲む(CCLemon割で)。そして順番にお風呂に入って、寝る。

本当に家族の一員として認められていると感じたのは、お風呂上りのおばあさんが堂々とズボンだけで僕もいるところに座って髪にブラシをかけ始めたときである。

残念ながら、3・11のときに家はかなりダメージを受けて、海辺も不安なので、本家はもはや存在しない。(グーグルマップで見たら空き地となっている。)
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本家がない。まさにこの世におけるわたしたちの悲しい状態である。キリストなしでは。

これがパウロが言っていることである。この世では、わたしたち人間は本当の本家がない、ということ。さらに正確な表現をすれば、アダムとエバの罪のせいで園にいられなくなってしまったと同じように、わたしたち人間の罪によって神の平安に留まることができない状態にあるのだ、ということ。

パウロはエフェソという町(現在のトルコの西海岸にある)に住んでいるクリスチャンにこの手紙を書いている。イエスをメシアとして受け入れたユダヤ人もいるかも知れないけれど、異邦人(ユダヤ人でない人)の方が多いコミュニティである。

(初期教会では、異邦人がクリスチャンに改宗するとき、男性が割礼を受けるべきかどうかという論争があった。モーセのときから、割礼が神の民に属しているというユダヤ人にとって最も重要なしるしなのである。熱心なユダヤ人としてモーセの律法をきちんと守るべきだと強く思っていたパウロは、イエスに出会ってから心ががらっと変わり、割礼ではなくてむしろ洗礼が神の民に属しているしるしとなる立場を取った。)

とにかく、パウロはエフェソの兄弟姉妹にこの手紙を書いているのは、救われている喜びを思い起こしてもらうためである。以前に彼らが置かれていた状態と今の状態を比較したいのである。つまりBeforeとAfterの話をしている。

Beforeは本当に悲惨な状況だった。今日の箇所のちょっと前を読むと:
皆さん、以前は自分の過ちと罪のために死んでいたのです。この世を支配する[悪の力、神に反抗することをそそのかす悪の霊]に従い、過ちと罪を犯して歩んでいました。わたしたちも皆...以前は肉の欲望の赴くままに生活し、肉や心の欲するままに行動していたのであり、ほかの人々と同じように、生まれながら神の怒りを受けるべき者でした。」(エフェソ2:1-3)

生々しい言葉になっているけれど、実はごく日常的なことを話している。神のことや周りの人のことも考えず、自分のことばかりを考える、自己本位的な生活をする人たちの話である。都合のいいうそをついたり、ささいなことへのしっとに満ちた心を持ったりする。つまらないことで怒り出す。また、結果をあまり考えずに、とりあえず欲しいものを手に入れる人。自分が満足すればいいと思う人。

つまり、あなたたちは神がいないかのように生きる、神に対して、神が造ってくださった世界や他人に対して何の責任も持たないメンタリティーを持っていた、とパウロが言っているわけ。しかも、それが当たり前のことだと思っていたわけ。

でもそういう生き方は最終的にむなしいということを悟っただろう、と言っている。自分のために生きる人はすでに死んでいる人。欲を満たしても、時たま満足感を味わっても、あまり中身のない楽しみがあっても、真の喜びも平和もない。天国への望みの持てない。
そのころ[あなたたち]は、キリストとかかわりなく、イスラエルの民に属さず、約束を含む契約と関係なく、この世の中で希望を持たず、神を知らずに生きていました(エフェソ2:12)

しかも、自分のために生きる人は、つまり罪深い人間は、神の愛の中に居場所がない、と言っている。神から「遠く離れている」(17節)状態にある。神の国から見ると外人になっている(19節)。神の存在を怒りの存在として感じ取ることしかできない。
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ところが、そういう悲惨な状態にある人のためにこそ、み子イエス・キリストが遣わされたのである。神はご自分を敵対している人間を友達にしたいのである。一人一人の人間は神にとって愛しい存在なのである。

パウロは2章の5-6節にはこう書いている:
神は、罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かして...キリスト・イエスによって共に復活させてくださいました。(エフェソ2:5-6)

これこそ洗礼の正体。死んでいた人が復活させられるのである。だから:
「あなたがたは、以前は遠く離れていたが、今や、キリスト・イエスにおいて、キリストの血によって近い者となったのです」(エフェソ2:13)
また:
「十字架[の自己犠牲]を通して、キリストはユダヤ人も異邦人も一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました(=無くした)」(エフェソ2:16)

ユダヤ人でも、異邦人でも、日本人でも、アメリカ人でも、中国人でも、男性でも女性でも、金持ちでも貧しい人でも、洗礼を50年前に受けた人でも、今日受ける人でも、十字架の前でひざまずいたらみんな平等である。上下関係はない。イエスのおかげで:
「一つの霊に結ばれて、御父に近づくことができるのです」(エフェソ2:18)

大胆に天の父のもとに近づくことができるのである。イエスのおかげでみんなが「聖なる民に属する者、神の家族である」(エフェソ2:19)
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では、このBeforeの状態からAfterの状態に移るにはどうすればいいだろうか。パウロは2章8-9節に:
「事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。行いによるのではありません」(エフェソ2:8-9)
と書いている。

つまり、キリストご自身がわたしたちのために成し遂げてくださったことをただ受け入れるだけである。すごく頑張れば、悪い癖を直せば、心の疑問をすべて撃ち殺せば――そういう話ではなしに、「恵みにより、信仰によって救われる」のである。

「実に、キリストはわたしたちの平和であります」(エフェソ2:14)
ここに出て来る「平和」はシャロムというヘブライ語に当たる(ギリシャ語はエイレネ)。「争いのない状態」という意味ではない。喜びに満ちた、揺るぎない心の安らぎのある、欠けるところのない、完全の幸福の状態を表すとても奥深い言葉である。

神が望んでいらっしゃるシャロムは、キリストのうちにある。キリスト以外にどこにもない。キリストのうちに差し伸べられている。それをただいただければいいわけ。

さて、わが平和であるキリストをいただいた、洗礼によってキリストと結ばれた人たちはどう生きればいいのか。わたしたちは一つの本家になる、大きな大きな長屋に暮らす神の家族なので、その家族のメンバーとしてどういうふうにやっていけばいいだろう。

まず、その本家の土台は聖書のみ言葉であることを常に心に留めておくべきだろう。
「使徒や預言者という土台の上に建てられています。そのかなめ石はキリスト・イエスご自身である」(エフェソ2:20)。

つまり、新約聖書(=使徒)と旧約聖書(預言者)全体が、神の生きたみ言葉としてわたしたちの生活の道しるべ、生きる基準となるのである。み言葉にに慣れ親しもう。

そして、古い自分、この世の中で希望を持たず、神を知らずに生きていた自分を死なせて、新しい自分、キリストと親しく歩む自分を迎えていくのである。

古い自分を死なせて、新しい自分を迎える。これは洗礼式で決定的に起こることではあるが、その後、日に日に自分で、そして毎週毎週この聖なる食卓を共に囲む人たちとして、仲間として、家族として繰り返して、どんどん深めていくことでもある。

実に、キリストはわたしたちの平和である。神がいないかのように生活をするのではなく、キリストにある平和と祝福と豊かな命を味わいながら共に生きようではないか。

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