2011年8月7日日曜日

祈りから期待できること(ヨナ2:1-10)

聖霊降臨後第8主日(A年・特定14)
聖路加国際病院聖ルカ礼拝堂
2011年8月7日・10時30分 聖餐式


今日は、おぼれそうになった人が助かった話は二つあります!普段、福音書に基づいてお話しますが、今日は旧約聖書のヨナ書について皆さんと一緒に考えたいと思います。

正直に言えば、わたしにとってこのヨナと巨大な魚の話は信じ難いものです。子供の頃、日曜学校でこれを学んだら「本当の話」としてすんなりと受け入れましたが、大人になるとよく考えもしないで「作り話」として見なすようになりました。でも今は、どう捉えればいいか、分からなくなっています。

わたしたちはみんな自然主義的な世界観を教え込まれました。すべての出来事に対して、化学的な常識範囲内の説明を求めるように教わったのです。このような話を否定する傾向が強いのです。

何よりも先に申し上げたいのは、ヨナの物語をどう捉えようと、それは救いに関わることではない、ということです。イエスを救い主として、主として信じるか信じないかとは全然違う次元です。でも、ヨナの話を思い巡らす際、二つ留意点があると思います。

一つは、ヨナが歴史的人物だった、ということです。聖書の他のところにもヨナが出てきます。
「イスラエルの神、主が、ガト・ヘフェル出身のその僕、預言者、アミタイの子ヨナを通して告げられた言葉のとおり、彼はレボ・ハマトからアラバの海までイスラエルの領域を回復した。」(列王記下14:25)

ヨナ書の冒頭にも:「主の言葉がアミタイの子ヨナに臨んだ」(ヨナ書1:1)と。同じ人物です。だから、ヨナは単にたとえ話にだけ出て来る登場人物ではなくて、紀元前8世紀の半ば、北のイスラエル王国に住んだ、父親と同じように預言者として活躍した人でした。

二つ目の留意点は、イエスがヨナについて仰ったことです。マタイの福音書12章に:
「イエスはお答えになった。『よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがるが、預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。つまり、ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、大地の中にいることになる。ニネベの人たちは裁きの時、今の時代の者たちと一緒に立ち上がり、彼らを罪に定めるであろう。ニネベの人々は、ヨナの説教を聞いて悔い改めたからである。ここに、ヨナにまさるものがある。』」(12:39-41)

まとめてみると、ヨナは実在した歴史的人物。そしてイエスはヨナの物語を真剣に受け止められました。

もう一つ言わせていただくと、わたしたちはよく知っているように(知っておいた方がいいように)、神のことを、「完全に理解できる」という狭い枠組みにはめ込もうとすることはふさわしくないのです。そうすると、受肉(み子が人としてお生まれになった出来事)はどうなるのでしょうか。イエスのいやしの「力の業」は?復活は?皆さんご自身の祈りがかなったことを完全に理解できるのでしょうか。

つまり神は、常に完全に理解できる、自然主義的な先入観に沿った形でしか動けないはずはないのではないかと思います。

とにかく、このヨナの話を何らかの歴史的出来事として捉えるのか、神話的な伝説のようなものとして捉えるのか、その中間なのかを別にして、確かに言えることはこれです:神のご計画によってヨナ書がわたしたちの聖書にあるというのは、この話から学ぶべきことがある、ということです。

先ほど読んだように、イエスは「預言者ヨナのしるし」と仰ったのです。ヨナの物語はしるしです。神はどういうお方なのか、とりわけ神はどのようにわたしたちの祈りに答えてくださるかを示すのです。

だから、少し腰低くして、神のなさる業は必ずしも分かりやすいものではないということを認めて、この話について考えましょう。そうすると、きっとこのみ言葉を通して学ぶことが出て来ると思います。

☆これまでの話...☆
ヨナ書のこれまでの話は、覚えているでしょうか。簡単に言いますと、神はヨナを派遣しようとしたらヨナは「嫌だ!」と拒否しました。神は、ヨナをニネベという都に送って、ニネベの人たちに「罪を悔い改めなさい」というメッセージを伝えてもらおうとなさったのです。

ニネベとは、イスラエルの敵国であるアッシリア帝国の首都でした。(韓流ブームのヨン様をピョンヤンに遣わして、金正日に「悔い改めなさい」と言わせると同じようなことです。)

ニネベはイスラエルより東の方にありますので、ヨナは西方向に逃げてしまいます。タルシシュ(=スパイン)行きの船に乗ってに逃げ出します。だが、神は船をものすごく大きな嵐に遭遇させます。船乗りたちは誰の責任で嵐が起こったか、くじを引きます。そのくじはヨナに当たってしまいます。ヨナは責任を認めて、「俺を海に投げれば嵐はおさまる」と言います。船乗りたちは結局ヨナの言うとおり彼を海に投げ込みます。ヨナは海底に沈み始めます。溺れそうになります。

さて、そのとき、何が起こったでしょう?ヨナは神に叫びを上げたのです。その瞬間で思い出します。主は「恵みと憐れみの神であり、忍耐深く、慈しみに富み、災いをくだそうとしても思い直される方です。」(ヨナ4:2)

(先週、わたしたちはネヘミヤ書で同じことを読みましたね。旧約聖書一貫して...)

だから、どんどん海底に沈み、海草が頭に絡みつきながらヨナは神の憐れみを切に求めます。そうすると、神は巨大な魚を送り、ヨナを救ってくださいます。今日、わたしたちが呼んだ箇所は、助かったヨナの祈りです。

☆神はその子どもたちの叫びを聞き入れられる☆
ここでの最も重要なメッセージがあります。すなわち:苦難の中で、その子どもたちが叫ぶとき、神は答えてくださる、ということです。今日の説教からこれだけ覚えていただければ嬉しく思います。

ヨナ書2:2-3「ヨナは魚の腹の中から自分の神、主に祈りをささげて、言った。苦難の中で、わたしが叫ぶと/主は答えてくださった。/陰府の底から、助けを求めると/わたしの声を聞いてくださった。」

神は、心の込めていない祈りにはあまり耳を傾けられないと思います。また、自分の力で何とかことを収拾できる人に関して、普段ほっておいてくださいます。でも本当に困っているとき――「陰府の底から」とヨナが言いました。暗闇の中で道に迷うとき、死にそうになっているとき、神の光から遠く、遠く離れているときに、叫びを上げたら、主は答えてくださるのです。詩編145が言うように:
「主はおられる、助けを求める人の近くに∥ 心から祈る人の傍らに
 神を畏れる人の願いを聞き入れ∥ その叫びを聞いて助けられる」
(詩編145:18-19)

☆神はその子どもたちの背きにも拘らず祈りを聞き入れられる☆
次に気づいていただきたいのは、神はわたしたちの背きにも拘らず祈りを聞き入れられる、ということ。

ヨナは神から逃げていた最中、海に投げ込まれました。み心に反抗していました。そこでヨナは、「主よ、ごめんなさい。悪かったです。主の道に立ち帰りました。み心に励んでいます。助けてください」とは言わないのです。違います。それらのことの前に、神はヨナの祈りに応えてくださったのです。

そういう祈りは神に届きます。詩編50編では、主はこう言われます:
「苦悩の日にわたしを呼び求めよ∥ わたしはお前を救う」(詩編50:15)。

つまり、困った時の神頼みは、神の望みでもあるのです!

今日、ここにも、神から逃げていたり、み心に背いていたりして、困っている方はいらっしゃるかも知れません。家でも仕事でも信仰生活でも越えるべきではない一線を踏み越えたかも知れません。

その場合、果たして神の憐れみを望めるかと悩んでいたら、ヨナの話をみて安心してください。ヨナはその背きのせいで困っていました。それにも拘らず、神は祈りを聞き入れ、またチャンスを与えてくださったのです。皆さんは、同じような立場だったら、悔い改めて主に祈ってください。その背きにも拘らず、神は祈りを聞き入れてくださるのです。

☆神はご自分自身の裁きにも拘らず祈りを聞き入れられる☆
 

そして、神はご自分自身の裁きにも拘らず祈りを聞き入れられる、ということが分かります。
ヨナ書2:4「あなたは、わたしを深い海に投げ込まれた」とヨナ。

実際にヨナを投げ込んだのは船乗りたちだったのですが、それは神のご意思だったことは、ヨナに分かります。嵐も、海に投げ込まれることも。ヨナは主に背いたので、主に罰せられたのです。

時たま、神はわたしたちに大変な目に遭うことをお許しになります。だからと言って、すべての困難は神から送られたものという話ではありません。でも確かに、神はわたしたちの困難をうまく利用して、わたしたちの目を覚まさせたり、信仰の怠惰から呼び起こしたりなさるのです。

そこで、この窮地にわたしを立たせたのは神ならば、果たして神の助けを求める意味はあるのか?ヨナはまさにそうしたのです。海底に沈んでいるのは神の裁きによるものだと分かった上で、祈ったのです。

すると、神はその祈りを聞き入れ、ヨナを救ったくださいました。わたしたちがみ心に背くことがあっても、神はただ単に懲らしめることはなさいません。いつも神の狙いは、わたしたちを救うことです。一時的にわたしたちを窮地に立たせても、それはわたしたちを救おうとしておられるからです。

今の困難は神からの試練だと思っていても、助けを求めることをためらわない方がいい。神はご自分自身の裁きにも拘らず祈りを聞き入れられるからです。

☆神は「無理」なときに、しかもちょうど間に合うように祈りを聞き入れられる☆
 

4番目のポイントは、神は「無理」だと思われるときにも、わたしたちを救い出してくださいます。
ヨナ書2:6-7「大水がわたしを襲って喉に達する。/深淵に呑み込まれ、水草が頭に絡みつく。
 わたしは山々の基まで、地の底まで沈み/地はわたしの上に永久に扉を閉ざす」


荒れ狂う嵐のただなかでヨナは海に投げ込められました。海底に飲み込まれました。水面に戻ろうと必死に泳いでいたけど、海草に巻き込まれました。ああ、怖い!無理な状況になるまで、神はヨナを助けてくださらなかったようです。

信仰生活ではそういうことはよくあると思います。いろいろな問題が単独で発生すれば何とか対応できるでしょうけど、重なると圧倒されそうになってしまいます。泣きっ面に蜂!

まるで神はわたしたちの手上げを待っていていらっしゃるのではないかと感じるときがあります。自分には自分を救う力がないことに気づくまで。

しかし、完全に無理だと思ったら、神が登場されます。神の助けを求めたときに、それを得られないが、ぎりぎり間に合うような感じです。

ブラックゴスペル曲があります。「He may not come when you want Him but He's right on time.」(来て欲しいときにおいでにならないかもしれんが、ぎりぎり間に合う)

クリスチャンである限り、どこかでハバククのような思いを胸にすることがあるでしょう:「主よ、わたしが助けを求めて叫んでいるのに/いつまで、あなたは聞いてくださらないのか」(ハバクク1:2)ヨナを見習って、続けて祈り、続けて叫び、最終的には神の助けを得られると信じる勇気を持つのです。

☆神は段階的に祈りに答えてくださる☆

最後は、神は祈りに段階的に答えてくださるときもある、ということです。巨大な魚のお腹の中にいることは、陸地に立つほどのことではなかったのです。でも海のもくずとなるよりはましでしょう。

生ける神への生きている祈りというのは、オール・オア・ナッシングの問題ではありません。神は、わたしたちの祈りの一部分しかかなえてくださらないこともやはりあります。そして時間が経つとまたさらにかなえてくださることもあります。それまでには、どのような複雑な手配が必要だったか、分かったものではないのです。

部分的な奇跡をないがしろにしてはいけません。神は段階的ににわたしたちを癒してくださったり、階段的にわたしたちの状況を良くしてくださったりすることもありがたい話です。続けて祈りましょう。

☆どういう返事をすればよいか☆
 

こうやってヨナの話から、祈りから何が期待できる、示唆されることがあります。そして神に差し上げるべき返事も示されています。すなわち、感謝です。そしてみ心に応答することです。
ヨナ書2:10「わたしは感謝の声をあげ/いけにえをささげて、誓ったことを果たそう。
 救いは、主にこそある。」


困ったときに神頼みする2人がます。2人とも自分には自分を救う力がないことに気づかされて、神に叫びを上げます。そして神は2人に助けを与えてくださいます。

一人は、困難から救われたので、たちまち神のことを忘れ去って、自己中心の生活に戻ります。自分の力でやっていき、神のご都合を伺わずに自分の道を決めていくのです。

もう一人は、困難から救われたので、感謝の気持ちでいっぱい。救ってくださった神を賛美します。これから、自分のできる限り、主に仕えて生きて行きたいと決心します。

この二人の間に、御利益主義とまことの信仰の違いがある気がします。

わたしたちは、困難のとき、確信を持って神に叫びを上げましょう。神は慈悲深い神ですから。そして神に示された一つ一つの恵みに感謝の気持ちを覚えましょう。

まさに「救いは、主にこそある」のです。

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