聖霊降臨後第11主日(A年・特定17)
聖路加国際病院聖ルカ礼拝堂
2011年8月28日・10時30分 聖餐式
そろそろ秋。学校は、始まっているところがあります。教会も(神さまは夏休みはなさらないけれど)8月はわりと静かですが、そろそろ信仰生活を改めて見詰める時期。個々人として、及びコミュニティとして。(来週、チャペルの求められているホスピタリティについて考えます)。
聖パウロは信仰生活のビジョンを描いてくれています。
「こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます」(ローマ12:1 )
まず、この「こういうわけで」とは、どういうことでしょう。今までパウロが話していたのは、遠ざかっていた人たちは、神の憐れみによって神に近寄ることができている、ということです。11章の最後:
「あなたがたは、かつては神に不従順でしたが、
今は...憐れみを受けています。
今は...憐れみを受けています。
ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。
だれが、神の定めを究め尽くし、
だれが、神の定めを究め尽くし、
神の道を理解し尽くせよう。
すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、
神に向かっているのです。
神に向かっているのです。
栄光が神に永遠にありますように、アーメン。」(ローマ11:30, 33, 36)
さて、こういった「神の憐れみによって」わたしたちはどう生きればよいでしょうか。遠ざかっていて、神の愛から離れていたわたしたちは、神の憐れみによって、そのみ子イエス・キリストを通してウェルカムされている、いつまでも神につながっているので、どう応えるべきでしょうか。
12章では、パウロが信仰生活のビジョンを描いてくれます。おもに三つの側面があります。
I. オール・オア・ナッシング
まず最初に、弟子であることはオール・オア・ナッシングの問題です。
「こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。」(12:1)
「自分の体」。聖書では、「体」はその人全体、全人格、そして自分が送る人生全体を表す単語です。だから聖書によれば、日曜日と平日の違いはありません。最終的には肉体と魂を分けて考えられません。
わたしたちはクリスチャンとして、自分の一部分だけを神に捧げようとすることはよくあります。自宅を売りつつその中の部屋に「立入禁止」という掲示を貼るような感じです。
キリストが教えてくださった祈りでは「日ごとの糧を今日もお与えください」となっています。それは、神が日常のすべてにご関心をお持ちだからです。わたしたちの人生のあらゆるところが良い知らせの対象となっています。神はわたしたちが自分のすべてを捧げて欲しい。思いも、話し方も、関わり方も、キャリアも、様々な選択も。そうすれば、神はわたしたちのすべてを癒し、祝福してくださるのです。わたしたちが捧げないことは、神は祝福なさらないのです。
エフェソのクリスチャンたちにパウロがこう書きました。わたしたちは「愛に根ざして真理を語り、あらゆる面で、頭であるキリストに向かって成長していきます」(エフェソ4:15)
要は、12章の1節でパウロがこういうことを言っていると思います。
「皆さん、神の助けを得てこういうことに頑張って欲しいです。すなわち、皆さんの日常生活――つまり寝て、起きて、食べて、働いて、走り回っている日々を神への供え物として捧げなさい。神に一番喜んでもらえることは、日々の生活の中で神の恵みと神のご計画を受け入れることです」
オール・オア・ナッシング。わたしたちはすべてを神に捧げます。神はすべてを癒し祝福してくださるのです。
II. 戦いであることを覚悟しなさい
それからパウロが言っているのは、信仰生活は戦いであることを覚悟しなさい、ということです。
「あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい」(12:2)
世の中にいながらイエスに従うことは、戦いです。困難と摩擦が必ず伴われます。すべての福音書ではイエスが仰っています。「世があなたがたに対立するなら、その前にわたしに対立していたことを覚えなさい」(ヨハネ15:18。マタイ10:22、マルコ13:13、ルカ21:17参照)。
摩擦が生じるのは、イエスに従うこと=世のやり方に従わないことだからです。弟子は違う道を歩むのです。視野を狭くしたりヘンテコリンになったりするわけではありません。が、「変わっている人」と思われてしまうことにひるまないことです。みんなと違う選択をすることで理解してもらえないときがある、軽蔑されるときもあることを覚悟することです。み国の価値観は世の価値観とは違います。重なるときもあれば、全く異なるときもあるのです。
この2節でパウロがこういうことを言っているのではないかと思います:
この世の型に押し込められることをやめなさい。何も考えずに、周りの人たちのやっていることに合わせてはいけない。むしろ、神をじっと見詰めなさい。そうすれば、あなたたちはうちから新たにされ、変えられていくのです。神の求めていることは何であるか理解するように努力して、それに積極的に応えなさい。周りの社会はいつもそのいいかげんな生き方に倣わせようとしているけれども、一方、神はあなたのうちにある素晴らしさを引き出し、一人前の人間に仕立ててくださるのです。
これは決して安易なことではないと思います。わたしは、毎朝、着替えながら主の祈りを唱えます。「み国が来ますように、みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように」と言ってからだいたい30分以内にこの世の型に押し込められてしまいます。我が先で、慌しくて、気を散らされたもう一人に。
だからこそ、毎朝「誘惑に陥らせず、悪からお救いください」ということをも祈っています。四方八方から悪魔に悩まされてしまうのです。つまずかせようとしています。悪魔はとても機敏で、その人その人にあった誘惑をもたらすのです。人によって甘いものだったり、いけない雑誌だったり、意地の悪い思いだったり、噂話だったり、お金に関する選択だったりして。
しかしながら、21世紀の日本社会に住んでいるわたしたちにとって、共通して気をつけないといけないところがあると思います。クリスチャンとして、わたしたちは流されないように精一杯立ち向かわなければならないと思います。
A. 一つは、子どもに対する態度だと思います。日本は、実施される中絶の数において、世界のトップクラスに入ります。子どもにとって、母親の胎内でさえ安全でないことが多いわけです。
だけど実際にこの世に生れる子どもたちの間でも、お家が安全でないことがいかに多いことでしょうか。この一年間、病院の小児病棟に何人か、親から虐待を受けた子どものケースがありました。一生の体の傷を受けている子もいます。全員、当然心に深い傷を受けています。
このようなニュースは毎週のように耳に入ります。つい昨日、大阪で7歳の子どもがずっと虐待を受け、やがて暴行で殺されたというニュースがありました。残念ながら全く珍しくない話です。
でも報道される話だけではありません。先日、結婚を考えている女性と話していて、殆ど毎日夜12時前に帰ることがない仕事をしながらどうやって子育てができるか、と悩んでいたのです。わたしは「それは無理です」とずばり言いました。それはある種の育児放棄だから、そういう仕事をやめてから子供を考えなさい、と言いました。
少なくとも、彼女は悩んでいました。自分の子のクラスメートの間で、下校して夕方7時、8時、9時まで一人で留守番する子は1人だけではありません。両親は何を考えているでしょうか。借金でもあるかも知れません。もしくは、快適な生活やいい旅行や私立学校のためにお金をためているかも知れません。会社での立場を失いたくないかも知れません。
分からないけれどもいずれにしても子どもの心はどうなるのでしょうか。愛情に包まれている安心感。お父さんとお母さんにとって何よりも大事な存在だという自覚。
今の日本社会においてこそ、クリスチャンの両親だけではなくて、子どもたちとの関わりのある人――つまりわたしたち全員が気をつけないといけません。経済的な余裕、キャリア、自己実現などを子どもよりも大事にする社会に倣ってはいけないのです。
子どもたちは、神からの贈り物です。わたしたちに託されている聖なる責任です。神は特に弱い者、無防備な者に心を配られます。なおさら弱くて無防備な子どもたちはそうです。
B. もう一つ要注意なところは、人間理解です。世の中で、人間の命は、その生産性や役に立つことによって評価されがちです。
何も生産しない、もう役に立たないと思われる人は、では、価値がないのでしょうか。例えばアルツハイマーを患っている人。寝たきりになっている人。知的障害のある人など。こういう人たちは社会から除外されるべきでしょうか。実際にそう訴える人はいます。
生産しない人、「役に立つ」と思われるようなことができない人はどうも「迷惑」とされる傾向は日本に強いと思います。こういう考えをうのみにしている人が緩和ケア病棟に入院すると大変なことになります。当然、生きたいという望みはあります。愛する人とできるだけつながっていたいのです。でも同時に非常に不安。生きることそのものが周りの人に迷惑に過ぎないと感じるからです。生きる価値がないと思ってしまいます。だから鬱っぽく、早く終わりにしたいと嘆いて最期を迎えるのです。
役に立たないと思われる人生をできるだけ早く終わらせる動きはどんどん盛んになっています。今は、ヨーロッパで最も著しくなっていますが、アメリカと日本は同じ方向に進んでいます。
わたしたちは気をつけないといけません。命を粗末にしてはなりません。人間の尊厳は、神にかたどって造られていることにあって、役に立つかどうかとは関係ありません。
III. 素直に自分を見詰める
最後に、パウロは、自分自身を素直に見詰めることを進めています。
「自分を過大に評価してはなりません。むしろ、神が各自に分け与えてくださった信仰の度合いに応じて慎み深く評価すべきです。」(12:3)
他の人の弱点を探すのが得意であるのは、わたしだけではないはずです。逆に、自分自身の粗削りのところは見逃しやすいです。
皆さんは、人生で今何をしているのでしょうか。どこに向かっているのでしょうか。いつまでも時間があるわけではありません。皆さんは分かりませんが、自分の場合は、なりたい自分、神に望まれている自分と今現在の自分との間のギャップがあることを痛感しています。かなり大きなギャップです。
自分のことで、気づいていない欠点は何でしょうか。神の恵みによって変えていただくべきところは何でしょうか。魂の庭で生えている雑草は何でしょうか。
こういう雑草を見極める、現実的な目で自分を見詰めるスキルは信仰生活に必要不可欠。ここで、昔からの習慣として、毎日の振り返りが非常に役立ちます。5分でもかけて、去った一日を振り返って、神の恵みが働き掛けていたところはどこだったのか、み心に応えていなかったときはいつだったのか。
もっともっと話すべきことがありますが、ここまでにします。パウロは、イエス・キリストに従う人生・信仰生活のビジョンを描いてくれています。このような信仰生活は難しいです。たまには不便で、つらいことがあります。でも、この上ないやりがいがあるので、挑戦してみませんか。
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