2011年10月5日水曜日

悲しんでいる神のもとに立ち帰る(ホセア13:4-14)

聖ルカ礼拝堂 夕の礼拝 2011年10月2日

神の心に大きな葛藤がある。 一方では、神はその民をトコトン愛している。他方では、神は裏切り者であるその民にひどくがっかりして、無念極まりない。

ホセア書の背景について一言。ホセアは、紀元前8世紀、イスラエルで活躍していた。イスラエルとは、2つに分かれたユダヤ人の国で、北の王国。その国がアッシリア王国に壊滅させられる直前、ホセアが神の預言者として活躍していたのである。

ちなみにイスラエルが滅ぼされたのは、紀元前721年。だから「ナニィ?!」で覚えられる。ついでに、ユダ・エルサレムがバビロニア王国に征服されたのは、紀元前586年...コムロ?

とにかく、ホセアを理解するためには...
預言者として、彼は神のみ思いと深く共感できたのだ、ということ。父なる神と同じ心境になり切っていたのです。だからホセアも、その同胞であるイスラエルに対して愛が燃え上がっていたと同時に、イスラエルに対するせつない気持ちと怒りを抱いていた。

だから、ホセアに授かったみ言葉はすべて、そういう心の嘆きとして捉えるべきである。脅しでも、宣言でもない。

聖書的に言うと、預言は将来の出来事についての話ではなくて、今、この状況に置かれているこの民に対する神の思い、それが預言である。だから「預言」と書いて、「予言」とは書かないのである。

ホセアが嘆いていたイスラエルの過ちは何でしょう。さあ、どこから話せばいいか分からない!

まず、イスラエルは政治的に多くの相手と遊び回っていたことがあった。神に信頼を置けるのではなくてさまざまな戦略的提携を頼りにしていたのである。

これで、自分たちの立場を強く守れると思っていたのである。でもホセアはこの考えに対して無意味だ!と言うわけ。アッシリアが近いうちに来るぞ!そして来たら、どんな条約を結んでいても、何の役にも立たないぞ。

さらに、イスラエルの民は周りの国と見境なく交際していたこともあった。その風習と宗教的に様子をどんどん取り入れていた。

彼らが考えていたのは、我々に示されているアブラハム、イサク、ヤコブの神を拝みつつ、周りの国の神々をも拝む、という都合のいいことだった。

だから、高台でいけにえを捧げたり、たまには自分たちの子どもをもいけにえにしたり、礼拝の中で性行為を行ったり、酔っ払ったりしていたようである。

ある意味で、周りの神々は目に見えない「天地万物の神」より近い存在になっていたでしょう。分かりやすいでしょう。そういう神々はどちらかというと人間臭い部分がある。

でも明らかなご利益である。お香とかワンカップ酒とか何かの備えを捧げれば、豊饒[=子作り]や豊作や雨などをいただける。さっぱりする。

逆に天の父なるまことの神だったら、すべての恵みを与えようとしておられる、惜しまず与えようとしておられる。ただ、供え物として何を求められるかというと、正義と愛、憐れみ、忠実であること。

大変過ぎる。

とにかくまことの神もその他の神々も、両方を拝めば万全だ、と思っていた。そうやって抜け目がないのだ、と。

ホセアはこの都合のいい思いを今日、読んだところで打ち砕く:
「わたしこそあなたの神、主。エジプトの地からあなたを導き上った。わたしのほかに、神を認めてはならない。わたしのほかに、救いうる者はないのだから。荒れ野で、乾ききった地でわたしはあなたを顧みた。養われて、彼らは腹を満たし、満ち足りると、高慢になり、ついには、わたしを忘れた。」(13:4-6)

そして神の怒りが湧き出る。
「そこでわたしは獅子のように、豹のように道で彼らをねらう。子を奪われた熊のように彼らを襲い、脇腹を引き裂き、その場で獅子のように彼らを食らう。野獣が彼らをかみ裂く」(13:7-8)

子を奪われた熊のように。熊にとって最も大事なことは自分の子供たち。それが奪い取られたら、怒りを覚える。

神にとって最も大事なことは、その民とのつながりである。それが奪い取られたら、怒りを覚えるのである。
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神と同じ心境のなっているホセアは、神の悲しみ、くやしさに心打たれている。

ただし、わたしが先言ったように、これは最終的な判決でも予告でもない。神の怒りを伝える話し方である。ホセア書を続けて読むと、また和解への呼びかけも出てくるのである。

でもその怒りより深い感情もあった。それは、民に対する神の慈愛である...
「まだ幼かったイスラエルをわたしは愛した。エジプトから彼を呼び出し、わが子とした。」
「エフライムの腕を支えて、歩くことを教えたのは、わたしだ。しかし、わたしが彼らをいやしたことを、彼らは知らなかった。」
(11:1,3)

父親よりも、母親よりも、旦那よりも、神の愛は深いものである。どうして偽りの神々のところに行ってしまうのか!すべての恵みは神からのものであるのに!
「[わたしの民]は知らないのだ。穀物、新しい酒、オリーブ油を与え、[偶像]を造るため使ってしまった金銀をも、豊かに得させたのはわたしだということを。」(2:10)

顧みてくださる神はお一人だけである(出エジプト3章の「わたしの民の叫び声を聞き、その痛みを知った」というシーンを思い出す。)

わたしたちを知り尽くされて、それにも拘わらずトコトン愛してくださる神は、お一人だけである。
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ホセアは神の思いに深く共感できた一つの理由は、実際に妻に不貞をされていた男だからでしょう。

妻との間に3児を使ってから、移り気な心を持っている妻は家出して別の男のところに走ってしまう。

やがて不倫もうまく行かない。最終的には、妻が売春(性的奴隷)に陥ってしまう。

そこで神はホセアに仰る:出掛けて、妻を連れて帰ってきて、仲直りをせよ。

律法から見ても、普通の精神状況から見ても、かなり無理なことだと思う。でもホセアは神に従い、妻を再び迎え入れる。

このことによって、わたしたちは神の心を垣間見るができる。
「主は再び、わたしに言われた。『行け、夫に愛されていながら姦淫する女を愛せよ。イスラエルの人々が他の神々に顔を向け、その干しぶどうの菓子を愛しても、主がなお彼らを愛されるように。』」(3:1)
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わたしたちがあらゆる意味で不忠実であるとき、神を無視するとき、ほかの神々を拝んだり、ご利益主義的なことを頼りにしようとするとき、自分の都合のいいことばかりを考えて生きるとき---神はこういうときに深く悲しみ、怒りを覚えられる。そういうお方である。

と同時に、それでもわたしたちとつながっていたい、という底の知れない思いも抱いておられるのである。

イエスの十字架でこの二つの側面が示されている。十字架によって、神から離れてしまうわたしたちの本当の立場が明らかにされている。そして、それをどうしても乗り越えようとしておられる、神の深い慈愛が明らかにされている。

こういった神の愛をあまり知らないでいる気がする。ちょっとせつない。わたしたちの裏切りで悲しんでいる神の痛みを黙想したいと思う。

そして、常にわたしたちとの和解を待ちわびている神のみもとに急いで立ち帰りたいと思う。

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