2011年10月18日火曜日

着替えて、パーティーにおいでよ!(マタイ22:1-14)

聖霊降臨後第17主日(A年・特定23)
司祭 ケビン・シーバー
聖路加国際病院聖ルカ礼拝堂
2011年10月9日・10時30分 聖餐式


一つ、幼子の時のはっきり覚えている記憶があります。ある夜、いつものように、親がわたしを彼らの寝室に置いてあったベビーベッドに寝かしました。このベッドは、牢獄のように、周りに柵が巡らされているタイプでした。

たぶん眠りから目が覚めたと思いますが、突然恐ろしいことに気づいてゾッとしました。それは、暗い部屋に置いてあるお母さんの椅子に、ものすごくデカイ、真っ黒のゴリラが座っているわけ。300キロぐらいの大きさでした。ゴリラが動かず、わたしの方をじっと見据えているわけです。

「ヤバイ!静かにしないと、彼がこっちにやってくる!」と思ってあせりました。

長い間、暗闇の中じっと座り込んで、ゴリラを見据えていました。叫ぶ準備はできていました。でもその状態が長引くと、ようやく「ここから脱走しなきゃ」という結論に至りました。

そのための勇気を搾り出すのにちょっと時間がかかりましたが、「いっせいのせ!」と柵を乗り越え、床に飛び降りて、走り出しました。長い廊下を風のように速く走り、曲がってリビングに入ってしまいます。すると、明るいリビングが人でいっぱい!みんな話したり笑ったりしています。暖炉で火が燃え上がっています。ポップコーンやお菓子があっちこっちに置いてあります。みんな何か飲み物を飲んでいます。

実は、大みそかの晩で、両親がニューイヤーズイブ・パーティーを開いていたのです。

もちろん両親にゴリラのことを報告しましたが、信じてもらえませんでした。でも落ち着かないので、みんなで寝室に戻りました。すると、電気をつけて見ると、なんとずる賢いゴリラがデパートの袋を椅子に置いて、その上に父親の黒いレインコートをかぶせて、ちょっとゴリラっぽくしたのです。そうやってゴリラは無事に逃げることに成功したわけです。
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とにかく、それまでに暗闇の中で、一人ぼっちで、恐怖のあまり動けなかったのは事実です。抜け出せないだろうと思っていました。無力感を覚えていました。

そして突然、パーティーの真っ只中にいました!周りはみんな幸せでいっぱい。もう、恐れることはない。しかも、寝る時間はとっくに過ぎていたにも拘わらず、ポップコーンを食べコーラも飲ましてもらえました!

きっとイエスが神の国に人を呼び掛けられたとき、それに応じた人たちは似ているような経験をしたと思います。ただもっともっと大きい、もっと深い経験をしたと思います。

確認させていただきたいのですが、天の国・神の国というのは、地図に載せるような場所でもないし、死んでからの行く先でもありません。神の国というのは、今ここで、神の友である状態、神のほかの友だちとの交際がある、と言ってもいいと思います。神の国に入るというのは、罪悪感から抜け出して、神との和解を得ること、互いに仕え合うという共同生活を送ることです。

さて、2000年前に、パレスチナに住んでいることを想像してみてください。しかも、あなたはエリーとではなくて忌み嫌われる徴税人、あるいは娼婦、いわゆる「素行の悪い人」、いわゆる「負け組み」の人、それか外人であることを想像してみてください。

神の民の中で、とてもしっかりして、ご立派な体面を保つ人がいます。彼らは律法の掟をきちんと守ります。掟を犯さないために山ほど必要以上の規定をきちんと守ります。毎日7回祈ります。ありとあらゆるものの10分の1を捧げ物にします。安息日になると、一個のイチジクでさえ運びはしません。汚れているものに接触しないし、罪人との交際はしません。世の中の卑しい、罪深いことと全く関わっていません。

でもあなたは違います。あなたはそれらの真っ只中にいます。いかがわしい家に生れたかもしれません。自分自身が間違った選択をしてきたかもしれません。誰かからひどい扱いを受けたかもしれません。ただ大失敗をしただけかもしれません。とにかく、あなたは「罪人」の運命を受け入れざるを得ないのです。それが自分にも分かっているし、周りにも分かっています。

そして一つ確かだと思われることがあります。それは、立派なファリサイ派の人々は神に好意をもたれているけれども、あなたみたいな罪人は神に近寄ることは不可能だ、ということ。アダムとエバがエデンの園に戻れないように「きらめく剣の炎を置かれてた」と同じように、あなたの罪深さがあなたと神との間にあって、ブロックしています。恵みから遠ざけているのです。

罪人はどっち道、神に近寄りたくないでしょう。アダムとエバは罪を犯してしまった後、神から隠れたのです。罪悪感は300キロのゴリラのように、わたしたちを怖がり屋にしてしまうのです。罪人にとって、神との出会いは怒りとの出会い、裁きとの出会いなのです。

ところが、そこでナザレのイエスがあなたに仰います:
 おいでよ!悔い改めてみ国に入りなさい。父の友になりなさい。あなたの罪よりも父の愛の方がはるかに大きい。悔い改めて、赦しをいただきなさい。そしてみ国の祭りに参加しなさい。

さて、あなたは、イエスに招きに応じますか?
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イエスの招きに応じないのは、一番しっかりしてそうな人たち。当然、神の国に入れるだろうと思っている人たちです。招かれる必要なんてない。自分の食卓に座るのに、招待状はいりません。

だからファリサイ派の人々は神の招きを聞き捨てにします。イエスのたとえ話では、神を表す王様は、王様らしくなくお客さんにお願いします。『招いておいた人々にこう言いなさい。「食事の用意が整いました。牛や肥えた家畜を屠って、すっかり用意ができています。さあ、婚宴においでください。」』(マタイ22:4)

「しかし、人々はそれを無視した」(マタイ22:5)

み国に入るのは、自分の功によるものでも、良き働きによるものでもありません。招待客のみが参加できることです。そして招待されない方法は、招待されなくてもいいのだ、と思い込むことです。ファリサイ派の人々は、イエスも、洗礼者ヨハネも相手にしません。2人とも「悔い改めなさい」と訴えていたのです。ファリサイ派の人々は「悔い改める?!何を!?」

『婚宴の用意はできているが、招いておいた人々は、ふさわしくなかった。』(マタイ22:8)
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だから神の国に入るのは、招待客のみのことです。でも信じられない人が招待されるのです。
「『町の大通りに出て、見かけた者はだれでも婚宴に連れて来なさい。』そこで、家来たちは通りに出て行き、見かけた人は善人も悪人も皆集めて来たので、婚宴は客でいっぱいになった。」(マタイ22:9-10)

善人も悪人も。普通の人も、徴税人も、娼婦も、素行の悪い人も、負け組みの人も、外人も。「だれでも」。皆さんも。わたしも。

だから結果として、教会は常に罪人だらけ!2人-3人とてもいい人がいて、2人-3人とても嫌なやつがいて、そして大勢の人はその間に入るはず。なので、何でこの人と共に礼拝しなくてはならないか、と思ったことがあるかもしれません。でも招待ができるのは、王様のみ!

だから、救われる資格はありません。結局、み国に入るというのはそういうことです。暗い、むなしい生き方、自分を中心とする生き方から脱出して、神の友達になり、神の友達と仲間になって、他の人に仕える生き方に入ることです。

招かれたら、「いいとも」と応える以外に、救いの要件はありません。

いや、はっきり言いますと、実は要件があります。実は極めて厳しい要件があります。けれども、十字架の上でイエス・キリストがその要件をすべて満たしてくださいました。イエスの流された血が、罪人を神から遠ざけていた剣の炎を消しました。イエスの光は暗闇を打ち勝っています。イエスは300キロのゴリラである罪悪感を追い払ってくださったのです。

キリストのおかげで、神との出会いは、もはや怒りとの出会い、裁きとの出会いではなくて、赦しと憐れみとの出会いに変わっています。
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だから、救いの要件は満たされています。残っているのは、招きを受け入れるだけです。

ところが、救われた者としてのマナーはあると思います。ここは誤解してほしくないところです。救いに値するようなことはありません。自らみ国の宴の席を確保する方法はありません。しかし、み国のお客さんに求められるマナーはあると思います。
「王が客を見ようと入って来ると、婚礼の礼服を着ていない者が一人いた。王は、『友よ、どうして礼服を着ないでここに入って来たのか』と言った。この者が黙っていた。」(マタイ22:11-12)

この「婚礼の礼服」は一体何なのでしょうか。ここで聖パウロは明らかにしてくれると思います(コロサイ3:5-14):
だから、地上的なもの、すなわち、みだらな行い、不潔な行い、情欲、悪い欲望、および貪欲を捨て去りなさい...これらのことのゆえに、神の怒りは不従順な者たちに下ります。あなたがたも、以前このようなことの中にいたときには、それに従って歩んでいました。今は、そのすべてを、すなわち、怒り、憤り、悪意、そしり、口から出る恥ずべき言葉を捨てなさい。互いにうそをついてはなりません。古い人をその行いと共に脱ぎ捨て、造り主の姿に倣う新しい人を身に着け、日々新たにされて、真の知識に達するのです...
 あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい。これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです。
 
わたしたちはキリストによって結婚パーティーに招かれています。しかも、それにふさわしい礼服もキリストが用意してくださっています――つまり、生まれ変わった者として生きる力を与えてくださるのです。どうして、古い、汚れている服を着たまま出席するのでしょうか。どうして、依然としてそのままの生き方をしようとするのでしょうか。

主よ、どうか主が用意してくださったご馳走を、感謝をもって味わうことができますように。どうか、キリストと共に生きる喜びが分かることができますように。アーメン。

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