Each week, the fax machine spits out another one-page bulletin called the "Diocesan News."
Copies of the weekly diocesan bulletin used to be mailed out. It was a few pages long, with articles from various contributors around the diocese. But since the Diocese is scraping the bottom of the cash barrel these days, this exciting new low-cost format was adopted. Each church can make its own copies (or even just post one copy in the parish hall, to save on toner cost.)
The one-page bulletin has information on the goings on around the diocese. There are concerts, gatherings to raise awareness about various social issues, study groups about various social issues, peace rallies, committee meetings, and the names of people who died this week.
It's kind of depressing.
I guess what bothers me most about the Diocesan News is what's NOT on it: i.e. means of grace.
Free music concerts are a good thing, sure. And, to be fair, in the midst of all the peace and social justice gatherings that the same fifty people all go to, and the committee meetings that I am extremely grateful not to be part of, there is the occasional offering of a retreat day or prayer gathering. That's a step in the right direction.
But, if I'm an ordinary baptised believer, or mostly a believer, sort of, at least on my good days, what help is there for me to, you know, actually grow in my faith? Not to grow in my awareness of all the ways the world is screwed up by the Evil Establishment (you know, Them). Not to grow in my hopelessness that an already tiny and struggling diocese is shrinking as funerals surpass baptisms week after week after week.
To grow in my faith. To learn how to follow Jesus better than I am now.
Is there any place I can go to encounter the Word of God, living and active? Is there anything that will lead me to an encounter with God? Is there any remedy available for my sin-sick soul? Is there any guide who can help me try to stay faithful in the confusing muddle of work and school and daily life in a pagan world?
In other words, what's out there that will tear down and rebuild my heart? Where can I find training in how to live as a saint?
Because just a handful of saints, just a few hearts that have been deeply grasped by grace and set afire with divine love, will do more to bring justice and healing to Japan than twenty thousand discussion groups.
The problem is not a lack of awareness. The problem is a lack of conversion.
2012年2月29日水曜日
don't hold back
Even more apt, 70 years on...
"The Construction of a Christian Culture," 1940
70年経ってなお的中...
"Our American culture, as it exists, is actually the quintessence of all that is decadent in the culture of the Western Christian world. It would seem to be erected on the triple denial that has corrupted Western culture at its roots: the denial of metaphysical reality, of the primacy of the spiritual over the material, [and] of the social over the individual . . . Its most striking characteristic is its profound materialism . . . It has given citizens everything to live for and nothing to die for. And its achievement may be summed up thus: It has gained a continent and lost its own soul."
"Hence in view of the fact that American culture is built on the negation of all that Christianity stands for, it would seem that our first step toward the construction of a Christian culture should be the destruction of the existing one. In the presence of a Frankenstein, one does not reach for baptismal water, but for a bludgeon."--John Courtney Murray, S.J.,
"The Construction of a Christian Culture," 1940
70年経ってなお的中...
「今現在のわたしたちのアメリカ文化は、実は西洋キリスト教世界における退廃的なことを代表している。西洋文化を根本から堕落させた「3重の否定」に基づいているようである。すなわち、「形而上」の現実の否定、精神的なことの物質的なことに対する優位性の否定、そして社会の個人に対する優位性の否定...その最も印象的な特徴は、その全くの唯物主義である。その国民に対して、暮らしに必要なものを何も惜しまず与えているが、命を献げるような価値のあるものは何も提供していない。そして何を達成したかというと、こういうことが言える:大陸を手にして自らの魂を失ってしまったのである。」
「だから、アメリカ文化はキリスト教の思想全体の対極に基づいていることから考えると、キリスト教的文化というものを築く第一歩として、今現在の文化を破壊することであろう。フランケンシュタインが現われると、洗礼を授けるための水ではなくて、こん棒を手にすべきである。」--ジョン・コートネイ・マレーS.J.『キリスト教文化の構築』1940年
2012年2月24日金曜日
sermon preview: Christ into the fray
"Just as Jesus was coming up out of the water, he saw heaven being torn open and the Spirit descending on him like a dove. And a voice came from heaven: 'You are my Son, whom I love; with you I am well pleased.'" (Mark 1:10-11)
The wall dividing the heavens from the earth rips open and the power that created the universe comes cascading down upon a beloved Son. This is no mere tender scene between a father and child; this is a mighty King sending His best Champion into battle. The mission given to Jesus is this: Clear the world of the powers of darkness that enslave and deform humanity. His weapon? Not a sword, but perfect obedience, driven by his passionate love for the Father.
説教プレビュー:争いに飛び込むイエス
「水の中から上がるとすぐ、天が裂けて“霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。すると、『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』という声が、天から聞こえた」(マルコ1:10-11)
天と地の隔壁が引き裂かれて、宇宙を作り出した力がいとしいみ子の上に土砂降りに降りかかる。これは、可愛らしい親子のセンチメンタルな話ではない。これは、偉大な王がその優秀な闘士を戦闘に送っているシーンである。イエスに与えられている大きなミッションは、人類を支配し堕落する暗闇の勢力を世の中から押しのけることである。その武器は?剣ではなくて、父への愛に燃えている、完全な服従となる。
2012年2月19日日曜日
内面的生活を第一に(申命記6:1-9)
夕の礼拝 2012年2月19日
申命記という書物は、エジプトでの奴隷生活の苦しみから神に導き出されたイスラエルの民に向かって、モーセが語る長いスピーチです。その冒頭にこの言葉があります(申命記6:4):
♪ シェマ、イスラエル、アドナイ エロヘイヌ、アドナイ エハッド ♪
聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。
そしてその続き(日本語のヘブライ語順に合わせて):
あなたの神、主を愛しなさい、心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして。
+ + +
新約聖書も旧約聖書も、その中心の中心に、神との親しい関係があります。
この関係しか、人間の心の奥底にある望み、渇望を満たすことができません。モノも、お金も、成功も、恋愛も、名誉など、これらのことだけでは、満ち足りた心が得られない。心の本当の平安が得られないのです。
申命記の6:4-5は「シェマ」(「聞け」)と呼ばれます。ユダヤ人はこれを毎日唱える習慣があります。
「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたの神、主を愛しなさい、心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして。」
敬虔なユダヤ人であったイエスも、これを「第一の掟」として認められました。
+ + +
「心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして。」
神との交わりは心にも魂にもーー要は、わたしたちの理性にも、わたしたちの意志にも、わたしたちの感情にもーーつまり、内面的生活全体に関わっている、ということです。
新約聖書も旧約聖書も、その中心の中心に愛があります。
まず、神のわたしたちへの愛があります。そしてそれから生まれる、わたしたちの神への愛があります。申命記の7章(9-13)には:
それと比べて、モノも、お金も、成功も、恋愛も、名誉も、結局足りないものだと分かります。
イエスは長い間、荒れ野で祈りながら断食しておられ、お腹が大変すいてきたとき、悪魔から一つの誘惑を受けられました:「あんたは神の子なら、持っているはずの不思議な力を使ってこの石をパンに変えればどうだ」と。
こういうふうに誘惑されたイエスは申命記のみ言葉を抜粋して答えられました:
「人はパンだけで生きるのではない。人は主の口から出るすべての言葉によって生きる」(申命記8:3)
つまり、人間の内面的な生活、神との交わりを慕う心、こういうことはものよりも、食べ物そのものよりも遥かに大事だということです。心の奥底の渇望は、主の口から出る言葉によって*のみ*満たされるのです。
わたしたちは物質的に恵まれているとき、あるいは世俗的な意味でうまくやっているときに、一つの危険があると思います。それは、高慢になって神を忘れてしまう、ということです。すべてのものは主からいただく賜物であることをすっかり忘れてしまうのです。神なんて要らない、とそこまではっきりした考えがなくても、神が*いないかのように*生きようとするのです。
「自分の力でいけんじゃない?」と勘違いしてしまいます。
病院という場所は、そういう勘違いができなくなってしまった人たちが集まる場所です。病気になってしまう、あるいは親しい人が病気になってしまうと、自分の力がいかに小さいものか、いかに神の恵みによって生かされてきたか、ということに気づかされることがあります。
病気にならなくてもこういう勘違いを防ぐ方法は、やはり感謝することだと思います。
申命記8章:
「あなたは食べて満足し、良い土地を与えてくださったことを思って、あなたの神、主をたたえなさい。わたしが今日命じる戒めと法と掟を守らず、あなたの神、主を忘れることのないように、注意しなさい」(申命記8:10-11)
神をたたえる、神に感謝することです。
だから、お金があろうと貧乏であろうと、生活がうまくいっていてもいっていなくても、人生の中心に置くべきことは、お金、モノ、成功などではなくて、唯一わたしたちの心の奥底の渇望を満たすことができる、神との交わりです。
実は、神ご自身がその交わりを慕う思いをわたしたち人間の心に置いてくださいました。その子供たちがご自分を忘れないために。
大先生の聖アウグスティヌスは、このことにひらめいたのです。その自伝の冒頭にこういう言葉があります:
「あなたはわたしたちをご自身に向けてお造りになった。だから、わたしたちの心はあなたのうちに憩うまで、安らぎを得ることができないのである。」(『告白』)
祈りましょう。
主よ、あなたは豊かな愛をわたしたちに注いでくださいます。また、愛の交わりにわたしたちを招いてくださってありがとうございます。あなたはわたしたちを愛し、祝福してくださると約束されました。どうか、わたしたちも心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたを愛することができるようにしてください。また、表面的なこと、お金やモノや成功やこの世的なことを人生の中心にすることなく、内面的な生活、つまりあなたとの交わりを一番大事にして、あなたのみ言葉一つ一つを心の養いとして求めるようにならせてください。アーメン
申命記という書物は、エジプトでの奴隷生活の苦しみから神に導き出されたイスラエルの民に向かって、モーセが語る長いスピーチです。その冒頭にこの言葉があります(申命記6:4):
♪ シェマ、イスラエル、アドナイ エロヘイヌ、アドナイ エハッド ♪
聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。
そしてその続き(日本語のヘブライ語順に合わせて):
あなたの神、主を愛しなさい、心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして。
+ + +
新約聖書も旧約聖書も、その中心の中心に、神との親しい関係があります。
この関係しか、人間の心の奥底にある望み、渇望を満たすことができません。モノも、お金も、成功も、恋愛も、名誉など、これらのことだけでは、満ち足りた心が得られない。心の本当の平安が得られないのです。
申命記の6:4-5は「シェマ」(「聞け」)と呼ばれます。ユダヤ人はこれを毎日唱える習慣があります。
「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたの神、主を愛しなさい、心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして。」
敬虔なユダヤ人であったイエスも、これを「第一の掟」として認められました。
+ + +
「心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして。」
神との交わりは心にも魂にもーー要は、わたしたちの理性にも、わたしたちの意志にも、わたしたちの感情にもーーつまり、内面的生活全体に関わっている、ということです。
新約聖書も旧約聖書も、その中心の中心に愛があります。
まず、神のわたしたちへの愛があります。そしてそれから生まれる、わたしたちの神への愛があります。申命記の7章(9-13)には:
「あなた[神の子供たち全員]は知らねばならない。あなたの神、主が神であり、信頼すべき神であることを。この方は、ご自分を愛し、その戒めを守る者には千代にわたって契約を守り、慈しみを注がれる...あなたたちがこれらの[掟]に聞き従い、それを忠実に守るならば、あなたの神、主は先祖に誓われた契約を守り、慈しみを注いで、あなたを愛し、祝福し、数を増やしてくださる。」「慈しみを注いで、あなたを愛し、祝福してくださる。」*こういう*天の父との親しい交わりにわたしたちが招かれています。
それと比べて、モノも、お金も、成功も、恋愛も、名誉も、結局足りないものだと分かります。
イエスは長い間、荒れ野で祈りながら断食しておられ、お腹が大変すいてきたとき、悪魔から一つの誘惑を受けられました:「あんたは神の子なら、持っているはずの不思議な力を使ってこの石をパンに変えればどうだ」と。
こういうふうに誘惑されたイエスは申命記のみ言葉を抜粋して答えられました:
「人はパンだけで生きるのではない。人は主の口から出るすべての言葉によって生きる」(申命記8:3)
つまり、人間の内面的な生活、神との交わりを慕う心、こういうことはものよりも、食べ物そのものよりも遥かに大事だということです。心の奥底の渇望は、主の口から出る言葉によって*のみ*満たされるのです。
わたしたちは物質的に恵まれているとき、あるいは世俗的な意味でうまくやっているときに、一つの危険があると思います。それは、高慢になって神を忘れてしまう、ということです。すべてのものは主からいただく賜物であることをすっかり忘れてしまうのです。神なんて要らない、とそこまではっきりした考えがなくても、神が*いないかのように*生きようとするのです。
「自分の力でいけんじゃない?」と勘違いしてしまいます。
病院という場所は、そういう勘違いができなくなってしまった人たちが集まる場所です。病気になってしまう、あるいは親しい人が病気になってしまうと、自分の力がいかに小さいものか、いかに神の恵みによって生かされてきたか、ということに気づかされることがあります。
病気にならなくてもこういう勘違いを防ぐ方法は、やはり感謝することだと思います。
申命記8章:
「あなたは食べて満足し、良い土地を与えてくださったことを思って、あなたの神、主をたたえなさい。わたしが今日命じる戒めと法と掟を守らず、あなたの神、主を忘れることのないように、注意しなさい」(申命記8:10-11)
神をたたえる、神に感謝することです。
だから、お金があろうと貧乏であろうと、生活がうまくいっていてもいっていなくても、人生の中心に置くべきことは、お金、モノ、成功などではなくて、唯一わたしたちの心の奥底の渇望を満たすことができる、神との交わりです。
実は、神ご自身がその交わりを慕う思いをわたしたち人間の心に置いてくださいました。その子供たちがご自分を忘れないために。
大先生の聖アウグスティヌスは、このことにひらめいたのです。その自伝の冒頭にこういう言葉があります:
「あなたはわたしたちをご自身に向けてお造りになった。だから、わたしたちの心はあなたのうちに憩うまで、安らぎを得ることができないのである。」(『告白』)
祈りましょう。
主よ、あなたは豊かな愛をわたしたちに注いでくださいます。また、愛の交わりにわたしたちを招いてくださってありがとうございます。あなたはわたしたちを愛し、祝福してくださると約束されました。どうか、わたしたちも心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたを愛することができるようにしてください。また、表面的なこと、お金やモノや成功やこの世的なことを人生の中心にすることなく、内面的な生活、つまりあなたとの交わりを一番大事にして、あなたのみ言葉一つ一つを心の養いとして求めるようにならせてください。アーメン
heart of worship
In my heart of hearts, I am a vaulted-ceiling-high, and deeply unfulfilled, Anglo-Catholic.
If I could construct life exactly as I pleased like some kind of online virtual world, my Sunday worship experience would be drenched in billowing clouds of top-grade incense smoke, mellifluous Sanctus bells rung vigorously at all the right moments, Palestrina chanted by a boys choir, and two guys flanking me at all times to hold up the sleeves of my chausable, like an ecclesiastical security detail. I would own a biretta, whose headband would be worn from overuse.
There would be a great big, lovely statue of the Blessed Virgin in a small side chapel in the sanctuary, with rows and rows of votive candles that were always almost all lit.
There would be stained glass...well, pretty much like the stained glass we have now in the hospital chapel.
And everybody attending worship would make the sign of the cross and bow. A lot.
For more reasons than I can possibly enumerate, I am very glad that I cannot construct my life exactly as I please, or even to any noticeable degree as I please. L'enfer, c'est nous meme.
Like everything else in the universe, worship isn't about me, or even about me and God. It's about the incarnation of Christ in a local community of believers, with a unique history and culture and character.
So, because of the particular community I'm part of, I have to forgo the smells and bells. In return, I get wonderful, gritty reality, a family worshippping together in its own way and in the process being slowly transformed into the likeness of Christ.
I wouldn't have it any other way. Doesn't mean I don't long for all that stuff, though.
But, as spiky as I might be by temperment, I have also come to believe that the worship that we find described in the Psalms finds its truest expression in gatherings like this one:
Anyone who has really spent time chewing on words like Alleluia and Hosanna and Amen, which pretty much demand to be shouted, should be able to see the connection.
I mean, do you think that, if they had the technology, the Levites would NOT have jacked their harps into amps? Do you think they would not turn cartwheels if somebody set up a drum kit in the tabernacle? Do you think they didn't have their hands in the air when, for example, they sang this:
Praise the LORD! Hallelu Yah!
Praise God in his sanctuary!
Praise him in his mighty heavens!
Praise him for his acts of power!
Praise him for his surpassing greatness!
Praise him with the sounding of the trumpet!
Praise him with the harp and lyre!
Praise him with timbrel and dancing!
Praise him with the strings and pipe!
Praise him with the clash of cymbals!
Praise him with resounding cymbals!
Let everything that has breath praise the LORD! Hallelu Yah!
(Psalm 150)
Praise the LORD with the electric guitar and keyboard and drums and sound system.
It is not really my cup of tea. It is so unseemly, and so biblical.
If I could construct life exactly as I pleased like some kind of online virtual world, my Sunday worship experience would be drenched in billowing clouds of top-grade incense smoke, mellifluous Sanctus bells rung vigorously at all the right moments, Palestrina chanted by a boys choir, and two guys flanking me at all times to hold up the sleeves of my chausable, like an ecclesiastical security detail. I would own a biretta, whose headband would be worn from overuse.
There would be a great big, lovely statue of the Blessed Virgin in a small side chapel in the sanctuary, with rows and rows of votive candles that were always almost all lit.
There would be stained glass...well, pretty much like the stained glass we have now in the hospital chapel.
And everybody attending worship would make the sign of the cross and bow. A lot.
For more reasons than I can possibly enumerate, I am very glad that I cannot construct my life exactly as I please, or even to any noticeable degree as I please. L'enfer, c'est nous meme.
Like everything else in the universe, worship isn't about me, or even about me and God. It's about the incarnation of Christ in a local community of believers, with a unique history and culture and character.
So, because of the particular community I'm part of, I have to forgo the smells and bells. In return, I get wonderful, gritty reality, a family worshippping together in its own way and in the process being slowly transformed into the likeness of Christ.
I wouldn't have it any other way. Doesn't mean I don't long for all that stuff, though.
But, as spiky as I might be by temperment, I have also come to believe that the worship that we find described in the Psalms finds its truest expression in gatherings like this one:
Anyone who has really spent time chewing on words like Alleluia and Hosanna and Amen, which pretty much demand to be shouted, should be able to see the connection.
I mean, do you think that, if they had the technology, the Levites would NOT have jacked their harps into amps? Do you think they would not turn cartwheels if somebody set up a drum kit in the tabernacle? Do you think they didn't have their hands in the air when, for example, they sang this:
Praise the LORD! Hallelu Yah!
Praise God in his sanctuary!
Praise him in his mighty heavens!
Praise him for his acts of power!
Praise him for his surpassing greatness!
Praise him with the sounding of the trumpet!
Praise him with the harp and lyre!
Praise him with timbrel and dancing!
Praise him with the strings and pipe!
Praise him with the clash of cymbals!
Praise him with resounding cymbals!
Let everything that has breath praise the LORD! Hallelu Yah!
(Psalm 150)
Praise the LORD with the electric guitar and keyboard and drums and sound system.
It is not really my cup of tea. It is so unseemly, and so biblical.
2012年2月14日火曜日
Chi-chan
It's been three years since my friend Chi-chan died, at age seven, after an unsuccessful bone marrow transplant. "Chan" in Japanese is the diminutive form of "san," kind of like Lil' in English. Used for children, especially girls. The poem refers to a hidden skylight in the hospital's small chapel called Teusler Hall. The skylight can only be accessed by ducking under a low-hanging wall. It is too narrow for someone with broad shoulders to stand up inside.
Careful when you make that face, I say
It might freeze up like that
That’s okay, you say
I’ll just pour hot water on it
You, the bed, the world entire
Mother moon encircling
Love's gravity stirring the soul's deeps
Never alone, you were
Never left to your own devices
A father's marrow
Red sun hovers low on the horizon
Love pouring down into your bones
Terrible gift you gave to him
A father's burden
and greatest honor
Truly this is bone of my bone,
Flesh of my flesh
Tongue-tied love's calligraphy
smoothly penned in blood
+ + +
秋高し
母娘(おやこ)の涙
神を問う
Vaulting autumn sky
Mother daughter tears streaming
Querying God’s grace
Everyone else got to go home
Why me? Was I bad? Did I sin?
Child theodicy like a roundhouse kick to the solar plexus
No, no little one, no and a thousand times no
Neither hath she sinned, nor her parents:
but that the works of God should be made manifest in her.
He is always with you, Come what may, never apart
Your tears rend His heart
That all you got up your sleeve, Chaplain?
This the full extent of learned divinity?
All for this?
+ + +
words fail, falter, fall out of joint and so
I show you the secret place in Dr. Teusler's Hall
the only way in is to be small
the kingdom belongs to such as these
tunnel dug straight up into the sky
discovery's smile
tongue tip darting out as ever
small enough to stand tall
here alone, beloved child, autumn cascading quick-silver
over your bald crown
heaven's delight a mantle on your slight, titanic shoulders
+ + +
The blanket on your death bed
Pooh gazing fondly at a flower
"Thank you for blossoming for me."
Oh, my kingdom for a cup of hot water…
Careful when you make that face, I say
It might freeze up like that
That’s okay, you say
I’ll just pour hot water on it
You, the bed, the world entire
Mother moon encircling
Love's gravity stirring the soul's deeps
Never alone, you were
Never left to your own devices
A father's marrow
Red sun hovers low on the horizon
Love pouring down into your bones
Terrible gift you gave to him
A father's burden
and greatest honor
Truly this is bone of my bone,
Flesh of my flesh
Tongue-tied love's calligraphy
smoothly penned in blood
+ + +
秋高し
母娘(おやこ)の涙
神を問う
Vaulting autumn sky
Mother daughter tears streaming
Querying God’s grace
Everyone else got to go home
Why me? Was I bad? Did I sin?
Child theodicy like a roundhouse kick to the solar plexus
No, no little one, no and a thousand times no
Neither hath she sinned, nor her parents:
but that the works of God should be made manifest in her.
He is always with you, Come what may, never apart
Your tears rend His heart
That all you got up your sleeve, Chaplain?
This the full extent of learned divinity?
All for this?
+ + +
words fail, falter, fall out of joint and so
I show you the secret place in Dr. Teusler's Hall
the only way in is to be small
the kingdom belongs to such as these
tunnel dug straight up into the sky
discovery's smile
tongue tip darting out as ever
small enough to stand tall
here alone, beloved child, autumn cascading quick-silver
over your bald crown
heaven's delight a mantle on your slight, titanic shoulders
+ + +
The blanket on your death bed
Pooh gazing fondly at a flower
"Thank you for blossoming for me."
Oh, my kingdom for a cup of hot water…
eating is believing (John 6:41-51)
At this the Jews began to grumble about him because he said, “I am the bread that came down from heaven.” They said, “Is this not Jesus, the son of Joseph, whose father and mother we know? How can he now say, ‘I came down from heaven’?”
”Stop grumbling among yourselves,” Jesus answered. “No one can come to me unless the Father who sent me draws him, and I will raise him up at the last day. It is written in the Prophets: ‘They will all be taught by God.’Everyone who listens to the Father and learns from him comes to me. No one has seen the Father except the one who is from God; only he has seen the Father. I tell you the truth, he who believes has everlasting life. I am the bread of life. Your forefathers ate the manna in the desert, yet they died. But here is the bread that comes down from heaven, which a man may eat and not die. I am the living bread that came down from heaven. If anyone eats of this bread, he will live forever. This bread is my flesh, which I will give for the life of the world.”
"This bread is my flesh, which I will give for the life of the world."
Bread. Flesh. Given. Of course the Eucharist springs to mind. But I think there's something more than just a reference to the sacrament going on here.
Just the day before, the crowds didn’t "get it" when Jesus fed the five thousand from some kid’s lunchbox. Whoa! Awesome trick! Who is this guy? Maybe there’s more where that came from!
Jesus tries to explain, but he can’t get through to them. All you want is more bread. More bread? You should want so much more! I'm here to give you the kind of bread that will nourish eternal life inside you. All you've got to do is believe in me, Jesus says.
First we want more proof, they say. Loaves and fishes are nice, but how about calling down some manna? That’s something they say the Messiah will be able to do. Then comes the show-stopper: “I am the bread of life…I have come down from heaven.”
"At this the Jews began to grumble about him because he said, ‘I am the bread that came down from heaven.’" From heaven? Yeah, right. We know where you live.
I recall reading somewhere that manna was often a symbol for the Torah. At Mount Sinai, the Torah, too, came down from heaven. So the Israelites liked to speak of Torah as manna, the wisdom and the word coming down like angelic bread from heaven, the candid disclosure of God’s holy and gracious heart.
To hear and believe Torah, to be nourished and filled by God’s Word, to let it guide all your steps, was to come to know God in the most intimate way. It was to learn how to live and flourish in His presence. It was joy and delight.
It was REAL LIFE, clear-headed and astonishing.
Not so long ago, Jesus scolded his disciples when they tried to press some pita sandwiches on him: “My food is to obey the will of the one who sent me, and to finish the work he gave me to do” (4:34).
These are words spoken by a man who KNEW intimate communion with the Father, and the deep joy and liberty of conforming his own will to that best and most beautiful Will.
Now, here is Jesus, claiming that HE HIMSELF is God’s Torah, God’s Word which “became flesh and dwelt among us” (1:14). Everything Jesus shows us comes straight from the heart of the Father.
And the disclosed Word is this: I love you. I love you. I love you so much I will lay down my life for you. I call you “friends.”
Hear and believe this Word, Jesus says, trust with your life the One who sent it, and it’s yours, always. This Word will be very near you, in your mouth and in your heart.
Let me nourish you with this Word, Jesus says, let me refresh and sustain you with my own life. Walk with me. Let my will become your will. Share in my joy, my delight. Live life to the full. Live forever....
2012年2月12日日曜日
神の「よろしい」(マルコ1: 40-45)
顕現後第6主日(B年)・聖路加国際病院聖ルカ礼拝堂
2012年2月12日・10時30分 聖餐式
人は親になると大きく変わると思います。でもおじいさん、おばあさんになると、もっと大きく変わる気がします。
うちのおやじは、僕が子どものころ、かなり厳しかったです。本人もストイックだったし、子どもたちに対しても結構シビアなときがありました。友人によく言われました:「お前のとうさんは怖うぇぇよ!」
→ 僕は怖いかどうか、ぜひ子どもたちに聞いてみてください!(笑)
ありがたいことは、おやじは気まぐれではなくて、考え方は一貫性があって、明らかだったので、分かりやすかったです。特に嫌いなことは2つありました:
1. 自分の子どもが周りの人に迷惑をかけること
2. 子どもが同じ失敗を繰り返すこと
子どもがこのようなことを起こしたたら、たいていの場合、おやじが怒ります。その反応はかなり怖かったものです。目つきがきつくなり、歯を食いしばるようにして話すわけ。「やめろ!」(ああ、怖っ!)
でも、この同じ人が今度おじいちゃんになったら、いきなり穏やかになりました。とても優しいやつになっています。孫たちにメロメロ。「ジュース、もう一杯ほしい?いいよ。」「あれ?壊したかい?No problem!」とか。なんてこと!?!!ありえない!
とにかく、言いたいことは、子供のころ、自分にとって権力のある人(親、先生、牧師)から、自分の持っている「神像」に大いに影響を受ける、ということです。
そういうわけで僕は、長年、神はどちらかというと怖い存在だとずっと思っていました。歯を食いしばりながら、僕をじっと見詰めて、何か失敗したらすぐに懲らしめるような神ではないかなぁと思っていました。
いい子にすれば、大人しくすれば喜んでもらえるけれども、失敗したら、罪を犯したら、その期待に裏切ったら、雷が落ちるのではないか、と思っていました。
最初は、そういう神が怖かったのですが、結局、そういう神だったらいらない、と思うようになって、とても長い間神から離れて行ってしまったわけです。
+ + +
今日の福音書を読んだら、この「重い皮膚病を患っている人」は、そのような神像を抱いていたのではないかなと思いました。
どの種類の病気だったかはっきり分かりません。ハンセン病、乾癬(かんせん)、アトピーなどの皮膚病は、全部「レプロス」という単語でひとまとめにされて、旧約聖書では「汚れ」=人を汚す病気と見なされました(レビ記13-14)。
いずれにしても、ただの病気だけではなくて、その人が、あるいはその人の親とかが、悪いことをしたからこういう病気にかかってしまうという発想もありました。病気は罪が及ぼす結果の一つだという考えです。
当時、これらの病気には治療方法がないし、感染しやすいものと思われたので、患っている人たちは村八分にされました。完全隔離になります。親戚や村から離れて、村外に他の病人とともに極めて貧しい生活に強いられていたのです。
しかも、道を歩くとき、自分から「ケガレ!ケガレ!」と叫びながら進まなければならないことになっていました。
そういうふうにさせれてしまう人たちは、やがて自分の中にそういう偏見を取り込んでしまいます。
だから、福音書に出て来るこの人がイエスのところに来てひざまずく時点では、もう、かなり大胆なことをしているわけです。無断で人に近寄ることは、当時の社会のルール違反だからです。
そこでその人は「み心ならば、わたしを清くすることがおできになります」。
要は、イエスには自分を治す力があることは疑わないけれど、自分を治す意思があることを疑っています。
周りの人々から汚れた者、近寄っちゃいけない者、迷惑の存在と見なされてきました。
もしかしたら、神からも同じように見なされているかも知れません。そして神の子であるこのイエスからも、そういうふうに見なされているのではないか、と思っていたでしょう。
治りたい。普通の生活に戻りたい。良くなりたい。だからあえてイエスの足元にひざまずいています。けれども、このイエスに拒まれてしまうかも知れません。
そこでイエスの反応はどうだったでしょうか。
「イエスが深く憐れんで」――この翻訳はちょっと弱いです。直訳すると「イエスのはらわたが動かされた」となります。どちらかというと「怒りを覚えた」に近いニュアンス。
おそらく翻訳した人たちは「きつ過ぎる」と思っていたかも知れません。助けを求められただけで、どうしてイエスは怒りを覚えるだろう、と。だから「イエスが深く憐れんで」と訳したでしょう。
でも十分理解していなかったではないかと思います。ここは、イエスがこの人に対して怒っているわけではありません。
違います。イエスの怒りは、弱い人、病気の人が社会から完全に隅っこに追いやられていることから生まれたものだと思います。悪いことをしていないのに、極貧生活に強いられている人がいる社会に対する怒りです。
また、律法を守れない人――汚れと見なされる病気にかかったり、罪を犯したりする人を神のところに連れて帰るのではなくて疎外してしまう世の中を見て、イエスが怒りを覚えていらっしゃるのではないかと思います。
この重い皮膚病を患っている人が崩れ落ちるほど打ちのめされて、神の憐れみを求めることでさえ恐れています。エジプトで奴隷生活に苦しんでいた民の嘆き声を聞き、苦悩から救い出してくださった神の憐れみを疑っています。
周りの社会の悪影響を受けて、「神像」が非常に歪んでいるのです。お前が汚れた者だ、ここにいっちゃいけない者だ、としきりに言われてきたこの人は、「もしかしたら、神の手に届かないところにいるかも」と思うようになってしまっているのです。
神の憐れみの手、赦しの手、癒しの手の届かないところにいる人は一人もいません。そういう話は、サタンの口から出る嘘にほかなりません。
人類の大敵であるサタンは告発人で、わたしたちを神の愛から引き離そうとします。あなたみたいな人は、神の恵みにふさわしくない。あなたみたいな罪深い人とは神が無関係だ、と。
ところがイエスは、救い主です。病んでいる人、人生に迷っている人、神の道から離れてしまった人に出会い、神の愛に連れて帰るために来られた方です。
皆さんは、この重い皮膚病を患っている人の気持ちに共感できるでしょうか。神の憐れみの手の届かないところにいるかも知れないと感じたことがありませんか。こんなわたしがきっと赦してもらえない。失敗を繰り返したわたしにきっと神はうんざり。こんなわたしは周りの人に迷惑ばかり。きっと神にも迷惑だろう。
違います。全然違います。
「み心ならば、わたしを清くすることがおできになります」...「よろしい。清くなれ」憐れみをもらいなさい。赦しをもらいなさい。癒しをもらいなさい。
イエスは手を差し伸べてこの人に触れられました。この人、他人に触ってもらえたのは、何年ぶりでしょうか。他人がこの人の悲しみ、痛み、不安、孤独感に向き合ってくれたのは、何年ぶりでしょうか。
イエスは手を差し伸べてその人に触れられました。
イエスは手を差し伸べてわたしたちにも触れてくださいます。神の深い憐れみをわたしたちに注ぎ込んでくださいます。
何よりもそのイエスとの触れ合いができるところは、これからいただく聖餐式にあります。パンとぶどう酒がイエスの体とイエスの血、イエスご自身となるのです。イエスの差し伸べられた手となります。
今日も、どうぞこの聖卓に近づき、その豊かな憐れみをいただきなさい。
神に「よろしい」と言われているのです。
2012年2月12日・10時30分 聖餐式
人は親になると大きく変わると思います。でもおじいさん、おばあさんになると、もっと大きく変わる気がします。
うちのおやじは、僕が子どものころ、かなり厳しかったです。本人もストイックだったし、子どもたちに対しても結構シビアなときがありました。友人によく言われました:「お前のとうさんは怖うぇぇよ!」
→ 僕は怖いかどうか、ぜひ子どもたちに聞いてみてください!(笑)
ありがたいことは、おやじは気まぐれではなくて、考え方は一貫性があって、明らかだったので、分かりやすかったです。特に嫌いなことは2つありました:
1. 自分の子どもが周りの人に迷惑をかけること
2. 子どもが同じ失敗を繰り返すこと
子どもがこのようなことを起こしたたら、たいていの場合、おやじが怒ります。その反応はかなり怖かったものです。目つきがきつくなり、歯を食いしばるようにして話すわけ。「やめろ!」(ああ、怖っ!)
でも、この同じ人が今度おじいちゃんになったら、いきなり穏やかになりました。とても優しいやつになっています。孫たちにメロメロ。「ジュース、もう一杯ほしい?いいよ。」「あれ?壊したかい?No problem!」とか。なんてこと!?!!ありえない!
とにかく、言いたいことは、子供のころ、自分にとって権力のある人(親、先生、牧師)から、自分の持っている「神像」に大いに影響を受ける、ということです。
そういうわけで僕は、長年、神はどちらかというと怖い存在だとずっと思っていました。歯を食いしばりながら、僕をじっと見詰めて、何か失敗したらすぐに懲らしめるような神ではないかなぁと思っていました。
いい子にすれば、大人しくすれば喜んでもらえるけれども、失敗したら、罪を犯したら、その期待に裏切ったら、雷が落ちるのではないか、と思っていました。
最初は、そういう神が怖かったのですが、結局、そういう神だったらいらない、と思うようになって、とても長い間神から離れて行ってしまったわけです。
+ + +
今日の福音書を読んだら、この「重い皮膚病を患っている人」は、そのような神像を抱いていたのではないかなと思いました。
どの種類の病気だったかはっきり分かりません。ハンセン病、乾癬(かんせん)、アトピーなどの皮膚病は、全部「レプロス」という単語でひとまとめにされて、旧約聖書では「汚れ」=人を汚す病気と見なされました(レビ記13-14)。
いずれにしても、ただの病気だけではなくて、その人が、あるいはその人の親とかが、悪いことをしたからこういう病気にかかってしまうという発想もありました。病気は罪が及ぼす結果の一つだという考えです。
当時、これらの病気には治療方法がないし、感染しやすいものと思われたので、患っている人たちは村八分にされました。完全隔離になります。親戚や村から離れて、村外に他の病人とともに極めて貧しい生活に強いられていたのです。
しかも、道を歩くとき、自分から「ケガレ!ケガレ!」と叫びながら進まなければならないことになっていました。
そういうふうにさせれてしまう人たちは、やがて自分の中にそういう偏見を取り込んでしまいます。
だから、福音書に出て来るこの人がイエスのところに来てひざまずく時点では、もう、かなり大胆なことをしているわけです。無断で人に近寄ることは、当時の社会のルール違反だからです。
そこでその人は「み心ならば、わたしを清くすることがおできになります」。
要は、イエスには自分を治す力があることは疑わないけれど、自分を治す意思があることを疑っています。
周りの人々から汚れた者、近寄っちゃいけない者、迷惑の存在と見なされてきました。
もしかしたら、神からも同じように見なされているかも知れません。そして神の子であるこのイエスからも、そういうふうに見なされているのではないか、と思っていたでしょう。
治りたい。普通の生活に戻りたい。良くなりたい。だからあえてイエスの足元にひざまずいています。けれども、このイエスに拒まれてしまうかも知れません。
そこでイエスの反応はどうだったでしょうか。
「イエスが深く憐れんで」――この翻訳はちょっと弱いです。直訳すると「イエスのはらわたが動かされた」となります。どちらかというと「怒りを覚えた」に近いニュアンス。
「イエスが深く憐れんで、手を差し伸べてその人に触れ、『よろしい。清くなれ』と言われた」(マルコ1:41)
おそらく翻訳した人たちは「きつ過ぎる」と思っていたかも知れません。助けを求められただけで、どうしてイエスは怒りを覚えるだろう、と。だから「イエスが深く憐れんで」と訳したでしょう。
でも十分理解していなかったではないかと思います。ここは、イエスがこの人に対して怒っているわけではありません。
違います。イエスの怒りは、弱い人、病気の人が社会から完全に隅っこに追いやられていることから生まれたものだと思います。悪いことをしていないのに、極貧生活に強いられている人がいる社会に対する怒りです。
また、律法を守れない人――汚れと見なされる病気にかかったり、罪を犯したりする人を神のところに連れて帰るのではなくて疎外してしまう世の中を見て、イエスが怒りを覚えていらっしゃるのではないかと思います。
この重い皮膚病を患っている人が崩れ落ちるほど打ちのめされて、神の憐れみを求めることでさえ恐れています。エジプトで奴隷生活に苦しんでいた民の嘆き声を聞き、苦悩から救い出してくださった神の憐れみを疑っています。
周りの社会の悪影響を受けて、「神像」が非常に歪んでいるのです。お前が汚れた者だ、ここにいっちゃいけない者だ、としきりに言われてきたこの人は、「もしかしたら、神の手に届かないところにいるかも」と思うようになってしまっているのです。
神の憐れみの手、赦しの手、癒しの手の届かないところにいる人は一人もいません。そういう話は、サタンの口から出る嘘にほかなりません。
人類の大敵であるサタンは告発人で、わたしたちを神の愛から引き離そうとします。あなたみたいな人は、神の恵みにふさわしくない。あなたみたいな罪深い人とは神が無関係だ、と。
ところがイエスは、救い主です。病んでいる人、人生に迷っている人、神の道から離れてしまった人に出会い、神の愛に連れて帰るために来られた方です。
皆さんは、この重い皮膚病を患っている人の気持ちに共感できるでしょうか。神の憐れみの手の届かないところにいるかも知れないと感じたことがありませんか。こんなわたしがきっと赦してもらえない。失敗を繰り返したわたしにきっと神はうんざり。こんなわたしは周りの人に迷惑ばかり。きっと神にも迷惑だろう。
違います。全然違います。
「み心ならば、わたしを清くすることがおできになります」...「よろしい。清くなれ」憐れみをもらいなさい。赦しをもらいなさい。癒しをもらいなさい。
イエスは手を差し伸べてこの人に触れられました。この人、他人に触ってもらえたのは、何年ぶりでしょうか。他人がこの人の悲しみ、痛み、不安、孤独感に向き合ってくれたのは、何年ぶりでしょうか。
イエスは手を差し伸べてその人に触れられました。
イエスは手を差し伸べてわたしたちにも触れてくださいます。神の深い憐れみをわたしたちに注ぎ込んでくださいます。
何よりもそのイエスとの触れ合いができるところは、これからいただく聖餐式にあります。パンとぶどう酒がイエスの体とイエスの血、イエスご自身となるのです。イエスの差し伸べられた手となります。
今日も、どうぞこの聖卓に近づき、その豊かな憐れみをいただきなさい。
神に「よろしい」と言われているのです。
2012年2月10日金曜日
sermon preview: the "I am willing" of God
"If you are willing, you can make me clean." Jesus was filled with compassion. He reached out his hand and touched the man. “I am willing,” he said. “Be clean!” (Mark 1:40-41)
The idea of "bad karma" is completely antithetical to scriptural revelation. It implicitly denies the mercy and loving-kindness of God. God is not some tyrant, watching over our shoulders to punish us as soon as we mess up. To be sure, turning our backs on the will of God carries grievous consequences. But the mercy of God is far bigger than that. God is always willing to forgive us, and heal us, and stand us back on our feet. This is precisely what Jesus Christ, who is "the face of God," shows us.
説教プレビュー:神の「よろしい」
「『み心ならば、わたしを清くすることがおできになります』と言った。イエスが深く憐れんで、手を差し伸べてその人に触れ、『よろしい。清くなれ』と言われた。」(マルコ1:40-41)
「罰当たり」という発想は聖書の啓示にまったく相容れない。神の慈愛を暗に否定してしまうからである。神は暴君のように、わたしたちの生活ぶりをじっと監視して、しくじったらただちに懲らしめるような方ではない。確かに神のみ心に背くことには痛ましい結果が伴う。が、神の憐れみはそれよりもはるかに大きい。神はいつでもわたしたちを赦し、癒し、再び立ち上がらせてくださろうとしておられる。「神の顔」であるイエス・キリストが示してくださったのは、まさにそういうことである。
2012年2月8日水曜日
a find
I love opening up old, dusty books that I've never heard of before and discovering unexpected treasures inside.
Probably operating under some kind of low-level panic control impulse, I am cleaning out the chaplain's office at the hospital. At least four generations of chaplains have left their books behind here. Most of it is sheer crap. Fatherhood of God, Brotherhood of Man kind of Protestant rationalism (=embarassed, petulant Deism) at its most boring. Plus, heaps and heaps of pastoral counselling pablum, for chaplains who are wanna be pipe-smoking psychotherapists.
It's all so drearily respectable. So Seventies, like, let's hug and do bong hits, man. So begging to be dismissed and forgotten forever.
I am gleeful at the prospect of exorcising the office of it all.
But here and there, among the tomes of twaddle, I find a book that seems of at least passing interest.
So, today, my eye was caught by a little book called "The Gospel of Victory." Ooh. What have we here?
If this were published in 2012, it would go straight into the round file. But this one was published in 1955, before the prosperity gospel and Word of Faith quasi-magical mumbo jumbo urging us all to live our best lives now by naming it and claiming it. What would a "Gospel of Victory" mean to people in the 1950s?
The subtitle reads: "A Study in the Relevance of the Epistle to the Galatians for the Christian Mission Today." Well, despite the fact that "today" is a half century ago and the fact that the subtitle contains the red-flag word "relevance," I decided to take a look. After all, at least the focus is on Scripture. One book of Scripture even, not a scatter shot of proof texts.
I was also intrigued by that little "the." "For the Christian Mission," implying, I think quite radically, that there is ONE mission entrusted to the Church by its one Lord Jesus Christ. I'd bet 1,000 yen that any publisher today would change that either to "for Christian Mission" or, more probably, "for Christian Missions." Because, you know, "mission" is something that various church groups just sit around and think up on their own for more or less imperialistic reasons.
The author is M.A.C. (Max) Warren, whom I don't know from Adam. On the inside flap, I read that Dr. Warren is (was) General Secretary of the Church Missionary Society. So I do the calculation. 1950s. Hmmm. At the time, people in charge of British missionary societies were probably still believing Christians, maybe even true evangelicals.
The publisher is SCM Press. I have a vaguely positive impression of that publishing house, not sure why. Unlike HarperSanFrancisco or Church House or Seabury.
So I open up the slim book to chapter 1, "Paul and Abraham." And there, on the first page, behold! Rhetorical and theological delight! Here's the opening salvo:
Max concludes:
And that's just page one!
I'm definitely reading on.
Probably operating under some kind of low-level panic control impulse, I am cleaning out the chaplain's office at the hospital. At least four generations of chaplains have left their books behind here. Most of it is sheer crap. Fatherhood of God, Brotherhood of Man kind of Protestant rationalism (=embarassed, petulant Deism) at its most boring. Plus, heaps and heaps of pastoral counselling pablum, for chaplains who are wanna be pipe-smoking psychotherapists.
It's all so drearily respectable. So Seventies, like, let's hug and do bong hits, man. So begging to be dismissed and forgotten forever.
I am gleeful at the prospect of exorcising the office of it all.
But here and there, among the tomes of twaddle, I find a book that seems of at least passing interest.
So, today, my eye was caught by a little book called "The Gospel of Victory." Ooh. What have we here?
If this were published in 2012, it would go straight into the round file. But this one was published in 1955, before the prosperity gospel and Word of Faith quasi-magical mumbo jumbo urging us all to live our best lives now by naming it and claiming it. What would a "Gospel of Victory" mean to people in the 1950s?
The subtitle reads: "A Study in the Relevance of the Epistle to the Galatians for the Christian Mission Today." Well, despite the fact that "today" is a half century ago and the fact that the subtitle contains the red-flag word "relevance," I decided to take a look. After all, at least the focus is on Scripture. One book of Scripture even, not a scatter shot of proof texts.
I was also intrigued by that little "the." "For the Christian Mission," implying, I think quite radically, that there is ONE mission entrusted to the Church by its one Lord Jesus Christ. I'd bet 1,000 yen that any publisher today would change that either to "for Christian Mission" or, more probably, "for Christian Missions." Because, you know, "mission" is something that various church groups just sit around and think up on their own for more or less imperialistic reasons.
The author is M.A.C. (Max) Warren, whom I don't know from Adam. On the inside flap, I read that Dr. Warren is (was) General Secretary of the Church Missionary Society. So I do the calculation. 1950s. Hmmm. At the time, people in charge of British missionary societies were probably still believing Christians, maybe even true evangelicals.
The publisher is SCM Press. I have a vaguely positive impression of that publishing house, not sure why. Unlike HarperSanFrancisco or Church House or Seabury.
So I open up the slim book to chapter 1, "Paul and Abraham." And there, on the first page, behold! Rhetorical and theological delight! Here's the opening salvo:
PAUL was a slave of Jesus Christ, 'bought with a price': and as such was a man under a divine constraint, filled with an overwhelming sense of obligation--'woe is unto me, if I preach not the gospel."...We may seek to study [Paul] as a disciple, as a pioneer missionary, as a statesman; but our study will be in vain unless we recognize that the three men are one man, always to be seen in the context of devotion and obedience to a Redeemer who was no remote object of worship but his accompanying Lord.The first paragraph has me ready to raise a celebratory fist in the air. "Accompanying Lord." Wow. That will bear chewing on for a while. Max goes on:
Paul's "theology was a theology of experience, if ever there was one. It was hammered out in via and not in a study. It was never reduced to a system, indeed it could not be, for it was wholly involved with a Person. For Paul theology was the exploration of a friendship, and like that friendship the theology was something which grew."To be sure, these are somewhat risky words, because a liberal "Christian" could use these or similar words before launching into an attempt to deconstruct Paul into smithereens. But after that "accompanying Lord" phrase, I'm willing to give Max the benefit of the doubt. For now.
Max concludes:
"The last word on Paul's theology written at the end of his life was the simple testimony of a man to his friend: 'I long to know Christ...I do not consider myself to have "arrived", spiritually, nor do I consider myself already perfect. But I keep going on, grasping ever more firmly that purpose for which Christ grasped me.' (Phil 3:8, 12 Phillips translation)""A man to his friend." Paul to Jesus. Already I have much to think about. Jesus Christ as Lord and proper object of devotion and obedience but also "accompanying Lord," implying the necessity of a journey and Christ's abiding presence with me on that journey. And then the idea of Paul, the ex-Pharisee lone wolf, driven and sustained his whole amazing life by a deep friendship with Christ.
And that's just page one!
I'm definitely reading on.
2012年2月4日土曜日
sermon preview: Jesus gives evil a beat down
"And he came and took her by the hand and lifted her up, and the fever left her, and she began to serve them." (Mark 1:31)
Last week, in the synagogue in Capernaum, Jesus confronted and drove out the evil spirit that was harassing a man (Mark 1:21-26). Compared with that, the "miracle" He now performs, healing the fever of Peter's mother-in-law, somehow seems a bit trifling. But God doesn't only deal with the massive evils in the world. God hates evil, it's true, but at the same time He loves us passionately. So, He is concerned about whatever troubles us and prevents us from living abundantly. Jesus came not only to drive out evil, but also to bring in joy.
説教プレビュー:悪をやっつけるイエス
「イエスがそばに行き、手を取って起こされると、熱は去り、彼女は一同をもてなした。」(マルコ1:31)
先週、カファルナウムの会堂でイエスはある男性を虐げている悪霊に立ち向かい、それを追い払われた(マルコ1:21-26)。それと比べると、今度の「奇跡」――イエスがペテロのしゅうとめの高熱を癒される出来事は、何かしら取るに足りないものに感じる。でも神は世の中の強大な悪に対処なさるだけではない。確かに神は悪を憎まれるが、同時にわたしたちを熱烈に愛しておられる。だから、わたしたちを悩ませていること、豊かな命を妨害することにまで、関心を寄せてくださる。イエスは、悪を追い出すだけではなくて、喜びをもたらすためにも来られたのである。
登録:
投稿 (Atom)