2012年3月11日日曜日

一年前

東日本大震災一周年にあたり追悼と再生を願う合同祈祷集会
聖路加国際病院 聖ルカ礼拝堂 2012年3月11日 2時半


(ちょうど2時46分、塔の鐘を約1分鳴らす)

ちょうど一年前、金曜日の午後、2時46分、この国の史上最大の地震が東北地方の沖に発生しました。

その時からのイメージがおそらく記憶に新しいと思います。地震や津波、そして原発事故による大量の放射能汚染が及ぼした被害のスケールはとてつもないものでした。今現在の統計によれば、1万5千人以上の死者と未だに3千人以上行方不明者が出た、と言われています。

「未だに」というのは一つのキーワードだと思います。未だに多くの家族がその愛する人を捜し続けている。未だに家に帰られていない人が大勢いる。未だに深い悲しみに陥っている人も大勢いる。未だに将来に対して途方に暮れている人も大勢いることを覚えなければならないかと思います。
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わたしたちが住んでいるこの世界では、このような大きな苦しみがあります。あるカトリックの祈り(Salve Regina)では、この世を「涙の谷」と呼ぶことがあります。

こういう世の中の苦しみを前にして、ヨブと同じように「なぜ?」という問いを投げかけたくなるときは多々ありますが、残念ながら、いくら問い掛けても満足できるような答えはなかなか出て来ないのではないかと思います。

確かに、世界中の苦しみの8割ぐらいは、直接あるいは間接的に人間の罪や暴力や無知や欲張りによって生じるものだと言えましょう。それでも、3・11のようなことはやはり起こります。

聖書には「堕落・堕罪」という話があります。つまり、アダムとエバが犯した「原罪」の話です。これによって一大異変が発生して、世界の本来の姿が失われた、という話です。その結果として、すべての災い、3・11も9・11も子供の病気も戦争など、すべての災いの可能性が世の中に入ってきたわけだという話です。

わたしはそれを信じていますけれども、正直に言えば、あまり満足できる説明になっていないと思っています。しかも、苦しみの只中にいる人にとって、あまり希望や慰めをもたらす説明ではない気がします。

結局は、どうしてあの人が大いに苦しみ、この人があまり苦しまないかということに関して、よく分からないとしか言いようがないと思います。

でもこれだけが分かっています:神の愛からわたしたちを引き離せることは何一つない、ということです(ローマ8:39)。神の愛からわたしたちを引き離せることは何一つない。

3・11の最も恐ろしいところの一つは、そのかつてないスケールです。でも、いつかは、似ているようなことがわたしたち一人一人の身にも起こるります。例外なく、わたしたち全員は、愛する人、家、命そのものを失ってしまう日を迎えます。

最終的には、死がわたしたちをすべていとしく思うことから引き離してしまいます。

でも神は違います。神の愛からわたしたちを引き離せることは何一つないのです。
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別の金曜日の午後、2,000年前の金曜日の午後、この世の悪の災いがイエス・キリストを襲って彼を飲み込んでしまいました。キリストもすべてを失われたのです。友人も、家族も、夢も、命も、一瞬にしてすべてがイエスから奪い取られたのです。ところが、神の愛からわたしたちを引き離せることは何一つありません。

まことの神は生きている人と死んだ人の主です。暗闇の只中に光を、死の只中に命をもたらすことがおできになる神です。神にとって、行方不明という人なんていません。

そして神の愛は、史上のすべての震災を一緒にしても、それよりもはるかに強いものです。

「わたしの愛からきみたちを引き離せることはないよ」という神の約束を信頼しましょう。そして、去年の大きな悲劇によって犠牲になった人々、被害を受けた人々、今でも不安定な生活を余儀なく送っている人々のために、神の慈愛を願い求めたいと思います。

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