2012年3月7日水曜日

何かをやめる

「夕の祈り」オルガンコンサート
聖路加国際病院 聖ルカ礼拝堂

今、教会の暦で大斎節中。大斎節とは、2月の半ば(灰の水曜日)で始まり、イースター(復活祭)前の40日間。

これはより一層自分を振り返ったり、見詰めなおしたり、聖書を読んだり、祈ったりする時期です。

やや地味で、ちょっと緊張感のある時期です。受験前の2ヶ月間に似ているかもしれません。日曜日以外、この時期にお祝いをあまりしません。結婚式も原則として行わないのです。

何で40日間というと、聖書によれば、イエス・キリストがその働きを始める前に、40日間荒れ野で断食された。(40は、聖書暗号では「長い間」という意味)

まあ、そこまでするのは、普通の人にとって難しいと思います。

実は、大学で試として1週間断食した...全く宗教上の理由ではなかった。(大学生にるまでに、教会を卒業したつもりでいた。)ただ、一週間何も食べないでいけるのかな?どういうことが起こるか...好奇心があったのです。

何が起こったかというと...お腹がすいたのです!(笑)

でもそれは最初の2-3日。その後、空腹感がない。しかも、集中しやすくなります。気分がすっきりします。不思議でした。

大学で試したことの中で白状できるのはこれぐらいですけれども...(笑)

とにかく、長い間断食することは、普通は難しい。だから教会ではもっと小さいスケールで、大斎節中「何かをやめる」という習慣が昔からあります。

この「やめる」ことは、もちろん好きなことでないといけないのですね。だから、わたしが「40日間納豆を食べない!」と言ってもあまり意味がないのです。そもそも納豆が嫌いですから。
でも逆にお酒になりますと、相当きつい!(いつか、勇気を出してコーヒーをやめるように頑張りたい...考えるだけで禁断症状が出そうです!)

でも、どうして「何かをやめる」という変なことをするのでしょうか。だってそれは、現代社会と全く正反対なことになってしまいます。世の中では、もっと買い物する、もっと消費する、もっとモノを持つ流れになっています。いろんなことを満喫して、いろんなことを経験して、いろんな楽しみを得ることが美徳になっています。

だからこそ、こういう変な習慣は大事だと思います。現代社会の「もっともっと」主義の中で、何かをやめる、より少ないもので間に合わせることによって、すでにあるものへのありがたさをよみがえらせることができるからです。贅沢な暮らしを当然だと思ってもっと欲求するのではなくて、今すでにある恵みにもう少し満足できるような訓練だと思います。

(「そんなに贅沢な暮らしはしていない」と思っている方はいらっしゃいましたら、一週間だけスーダンとかインドとか中央アメリカで生活してみると、間違いなく見る目が変わります。日本に住んでいるわたしたちは、どう考えても贅沢な暮らしをしているからです。)

だから、「何かをやめる」ことによって、すでにあるものへの感謝の気持ちを改めることに役立つのだと思います。そして、わたしたちは世界の大多数の人よりも物質的に恵まれていることを改めて気づくことにもつながります。

でも教会では、「何かをやめる」ことにもう一つの理由があると思っています。それは、自分に対して欲求が持っている力を打ち破る効果があるからです。何かをやめるとき、良く気づくのは、もしかして初めて気づくのは、いかにそのものを頼りにしていることか、ということです。

わたしが断食をすると食べ物ばかりを考えてしまいます。少なくとも最初のころ。甘いものをやめると、オフィスにあるチョコレートの箱を一日20回ぐらい見詰めている自分がいます。

お酒をやめると、毎晩帰り道、肩の上に悪魔がしっかり座ってそそのかします:「今日は大変だっただろう。ビール一杯はどう?リラックスできるよ。当然のご褒美よ!」

要は、何かをやめると、そのものへの欲求が生意気な子どものようになってきます。注目されたい。満足させてもらいたい。ちょうだい!ちょうだい!ちょうだい!

皆さんは分かりませんが、わたしは自分の欲求に左右されていると思うといやです。何をどうするか、どういう生活をするか、わたしが欲求に強いられるのではなく、自由に決めたいのです。

まあ、そういうわけで、大斎節中、さまざまな欲求の出すぎをたしなめる修行として、「何かをやめる」という習慣が昔からあります。

こういう話をするとどんどんお腹がついてきます。だから、お話はこれで終わりにしたいと思います!

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