2012年3月4日日曜日

なおも望みを抱いて(創世記 22:1-14)

大斎節第2主日(B年)
聖路加国際病院聖ルカ礼拝堂 2012年3月4日・10時30分 聖餐式


このイサクが捧げられる話は、史上最も恐ろしいストーリーの一つだと思います。もしかしたらあまり集中しないでこれを早く読めば、悩まされないかもしれません。でもちゃんと読んで、想像力を使いながら行間も読んだら、たぶん読めば読むほど耐え難くなってくるのではないかと思います。

例えば、アブラハムはこういうことを神に言われます:「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサク」(創世記22:2)――同じようなことを繰り返している感じです。これは、アブラハムが誰の話しか誤解したり、わざと勘違いして逃げたりすることができないように、そうなっていると思います。

しかも神は「イサク」という名前を使われます。「笑い」という意味です。イサクはミラクルベビーでした。年老いたアブラハムとサラへの天からの贈り物。彼らの心の喜びでした。神は「イサク」「笑い」と言いながら、その子を「献げ物としてささげなさい」と仰っているわけです。イサクがもたらしてくれる笑いを死なせなさい、ということ。

「次の朝早く、アブラハムはろばに鞍を置いた」(創世記22:3)。次の朝。アブラハムはどのような夜を過ごしたでしょう。何が求められているかを知っていて、何も誰にも言えない、その心の苦しさ。

そして、気づきましたか?モリヤ山まで三日間かかったということに。三日間。アブラハムにとって、どういう旅だったでしょう。夜、たき火のそばで寝ている息子を眺めながら。旅路で見たいろんな新しいことについてお父さんと話したがるイサクとともに進みながら...

そして最後に、自分の「息子イサクを縛って祭壇の薪の上に載せた」(創世記22:10)ときの耐え切れない切なさ。これはきっと、やっと何が起こっているのかに気づく息子が抵抗しないように、すぐに終わらせられるように、そうしたのではないかと思います。

だから、この11節、天使が「アブラハム!アブラハム!」と必死に呼びかけたときのアブラハムの返事は、どういう声で、どういう心境で言ったのか、想像してみてください:
  「はい。」+   +   +
ああ、怖い!恐ろしい話です。これはビデオ屋さんの映画だったら絶対借りません。聖書以外の本だったら読みません。ハッピーエンドでよかったですね!

でもそもそもアブラハムは、なぜこういうことをしようと思ったのか。なぜ自分のいとしい息子を捧げ物にすることを承諾したのか、そのわけについて考えたいと思います。まず、言っておかなければならないことは、アブラハムには、一つのことがはっきり分かったからだと思います。すなわち、ヤハウェが唯一のまことの神であられる、ということです。
神が本当に神であると認めるというのは、定義からして、その仰ることがすべて正しい、というのをも認めることです。神がお求めになることならば、人は当然それに従うべきです。神ですから。これは、はっきりさせたいところです。神の場合は、「してはいけない」ことは何一つない、ということです。「神はそういうことを求めてはいけない」という話はあり得ない、ということです。

神は誤った判断を一切なさらないのです。物事を見誤ることはないのです。少しでも。

だから、わたしたち小さくて、時代や文化に大いに影響され、心の歪めた人間の目から見て「不条理、理不尽」だと思っていても、実はわたしたちの決めることではないわけです。ヨブの話を覚えていますか?ヨブは訴えてみました:「不正!理不尽!」そして神の答えは?お前、何様だと思っているのか?わたしがこの宇宙全体を創造したとき、お前はどこにいたのか?レベルは全然違うのです。

こういうわけで「倫理学」というものを割り引いて捉えないといけません。倫理の弱いところは、倫理を考える人が十分物事を把握していない、その視野は十分広くない、十分客観的に検討していない――というか、それができないのです。だから結果として、いわゆる「倫理原則」をうまく使って、最初から自分で決めたことを正当化してしまうことになることはしばしば起こります。

昨日読んだある記事にこういう言葉がありました:「倫理学者と手品師の仕事は似ている。いずれも、おもな仕事は当たり前のことから目をそらすことだ」と。倫理は、したいことを「していいよ」と訴えつつ、かつその責任を取らない方法になりがちなのです。

アブラハムの倫理的ジレンマを見てみましょう。息子を捧げ物にべきかどうか。うーん、どうかなあ。そのメリット・デメリットを考えましょう...

やはり無理です!そういう問題ではありません。神の示されたご意思は、人間のさまざまな倫理的工作を突き破ってしまいます。み心に従うかどうか、それだけが問われます。「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて」、と。

しかしながら、神のご意思が十分明確でない場合は、倫理は役に立つかもしれません(例えば終末期のケアに関するさまざまな決定)。でも実を言いますと、もうちょっと曖昧であってほしいところに、神のご意思が十二分明確に示されている場合が多いと思います。例えば:
  • 会社からお金をつまみ食いしていいのか?だめです。
  • 結婚している同僚と寝ていいのか?だめです。
  • 結婚する前、または結婚外の肉体的関係を結んでいいのか?だめです。
  • 通勤電車の人をパンチするところを空想していいのか?だめです。
  • 人の気持ちを盛り上げるために嘘をついていいのか?だめです。
  • 不倫とか暴力がない場合、夫婦を続けなければならないのか?その通り。
  • 胎内の命を守らなければならないのか?その通り。
  • 面倒くさくても年上の父親の世話をしなければならないのか?その通り。
  • 兄嫁を赦さなければならないのか?その通り。

これらのことは全部、聖書で明確に取り上げられているものです。これらについて、神のみ心が分かっています。良く考えようとか、メリット・デメリットを検討する必要は全くありません。わたしたちの唯一のジレンマはこれです:み心に従うか、それかみ心に逆らうか。それだけです。
+   +   +
でも、アブラハムにはもう一つのことが分かりました。「献げ物の小羊はきっと神が備えてくださる」(創世記22:8)ということ。どうしてそんなことを言えるのでしょうか。

アブラハムがすでに年老いて、年老いた妻のサラとの間で子どもができていなかったとき、神は彼に告げられました。「あなたを多くの国民の父とする」(創世記17:5)。自分の息子、サラとの間で生まれる子を通して、星の数ほどの子孫ができちゃう、と神が告げられたのです。

これは、神のアブラハムへの約束です。最初は、アブラハムにとってやすやすと受け入れられる話ではありませんでした。子ども?100歳の自分と90歳の妻に?でも、一年後、ほら!イサクが生れました。約束は実現されたのです。

だから神が約束を守る方であることは、アブラハムによく分かります。「多くの国民」を息子イサクを通してできることが、神に約束されています。そして神は必ず約束を守る方です。だから「献げ物の小羊はきっと神が備えてくださる」と言えると思います。

神がお求めになることは、時々大変に思うときがあります。耐え難いと感じるときもあります。でも神は決していたずらしたり、無意味で求めたりすることはございません。

もちろん、これこら何が起こるか、アブラハムにははっきり分かりません。人間は、将来を前もって知りたがるけれども、それは許されていないことです。(マヤの暦のどのこのはすべてデタラメです!)

アブラハムが刃物を手にしたとき、きっとその神への信頼が極端に試されたと思います。試されたけれども、アブラハムは望みを失いませんでした。唯一のまことの神、生きる人と死んだ人の主である神、約束を必ず守ってくださる神に望みをかけ続けたのです。

だからこそアブラハムは「我々の信仰の父」と呼ばれるのです(ローマ4:16)。聖パウロが言います:
「アブラハムは希望するすべもなかったときに、なおも望みを抱いて、信じ、[『わたしはあなたを多くの民の父と定めた』(創世記17:5)]と言われていたとおりに、多くの民の父となりました。」(ローマ4:16)

ヘブライ人への手紙の著者はこういうふうに言います:
「信仰によって、アブラハムは、試練を受けたとき、イサクを献げました。つまり、約束を受けていた者が、独り子を献げようとしたのです。この独り子については、『イサクから生まれる者が、あなたの子孫と呼ばれる』と言われていました(創世記21:12)。アブラハムは、神が人を死者の中から生き返らせることもおできになると信じたのです。それで彼は、イサクを返してもらいましたが、それは死者の中から返してもらったも同然です」(ヘブライ11:17)
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もう一つの恐ろしいストーリーをわたしたちは知っています。これもある息子、愛される独り子についてのストーリーです。このストーリーの子も、捧げ物として選ばれるのです。

この子も、木の上に屠られるように定められます。その木をこの子にも背負わせられます。そしてご自分がその木を運ばれます。モリアという山ではなくて、ゴルゴタという丘の上まで。

ところが、このストーリーでは、その子が何も知らないでその捧げられる場所に連れて行かれるのではなくて、自ら進んで、神のみ心に従ってそこまで足を運ばれます。

また、このストーリーでは、天使などが間に入ったり、金属がその子の体を刺し貫く前に止めたりはしません。ギリギリで免れることはありません。いけにえは実行されてしまいます。その子は死なれます。

アブラハム以上にキリストは何も、その命でさえ、惜しまなかったのです。最後の最後まで神に望みをかけ続けられたのです。
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でも、神は約束を守られる方です。生きる人と死んだ人の主です。最終的に理不尽なことを求めたりはなさいません。神は、アブラハムと同じようにイエスへの約束をも守られました。その話はイースターになったらしましょう!

こういう神ですから、神に信頼を、希望をかけることは、どんなときでも必ず賢い選択です。逆に、神を信用しない、ほかのことに最終的な希望を置くことは、愚かな選択です。

逆説ですが、イエスはそういうことを仰っているのではないかなと思います:

「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである」(マルコ8:35)

つまり、いつ、どこ、どの程度神のみ心に従うか、自分で決めようとする人は、結局神とのつながりを切ってしまって、本当の命をいただけなくなってしまうのだ、ということです。逆に、神に身を任せる人、神が計り知れなく恵み深くて慈しみ深い、必ず約束を守る方であると分かって、何があっても神に信頼・希望をかけ続ける人は、神との交わりを大いに味わえる人だ、と。それこそ、永遠に至る命だ、ということだと思います。

「信仰を持つ」というのは、こういうことです。約束を決して敗らない、慈愛深い父に信頼と希望をかけ続けることです。

きっと神が備えてくださる。アブラハムはそう思って、裏切られませんでした。イエスもそう思われて、裏切られませんでした。わたしたちが必要としていることも、きっと神が備えてくださる。その約束をしっかり受け入れて、前向きにこの大斎節を送りたいと思います。

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