2012年5月20日日曜日

どこに向かっているのか、分かった方がいい(ヘブライ12:18-29)

夕の祈り 2012年5月20日
聖路加国際病院 聖ルカ礼拝堂


ヘブライ人への手紙は実は手紙ではなくて説教の原稿なのである。礼拝の中で読み上げられるように書かれている。説教者は、1世紀の教会コミュニティに向かって話している。大きな社会の中に住んでいる信者たちの小さなグループである。

この人たちにとって、クリスチャンであること、キリストに従って生きることは、時々すごく大変なことになっている。いろいろなつらい思いをしてきた。あるメンバーは家や職を失ってきた。あるメンバーは牢屋に入れられた。殆どのメンバーは周りの人からののしられたり、あざけられたりしている。少なくとも、冷たい目で見られている。

だから外からいろんな形で困難がある。クリスチャンであることは、決して人気を集める方法ではない。むしろ、損失や損害につながることもある。

これ以外にも、イエスの教えに従っていこうとすることからもいろんな困難が出て来る。今日読んだ箇所の前に説教者は言った:「すべての人との平和を、また聖なる生活を追い求めなさい。聖なる生活を抜きにして、だれも主を見ることはできません」(ヘブライ12:14)。

「聖なる生活」というのは、山の上で20年間断食するというような話ではない。そちらの方がやりやすいかも知れない。邪魔する人がいないから!

むしろ、「聖なる生活」は極めて日常的、かなり地味なことである。すべての人と仲良くすること――嫌なやつを含めて!自分に悪いことをした人を赦すこと。出会う人に思いやりと忍耐を示すこと。噂話に加わらないこと。人の悪口を言わないこと。みだらなことと関わらないこと。お金や才能を神に喜んでもらえるように使うこと。贅沢ではなくてわりとシンプルな生活をすること。同じコミュニティの人で助けを必要としている人がいれば世話をすること。何らかの祈りの生活を守ること。定期的に礼拝に集まること。

この説教を聞いている人たちの中で、できるだけこういう「聖なる生活」に励んでいこうと思っている人はいるだろうけれども、逆にその負担を感じて、あきらめつつある人たちもいる。周りのみんなと違う生活はもう疲れている。社会に理解されない、受け入れてもらえないことはもう、十分。正直言えば、キリストに従うことは面倒くさく感じる!

説教者は、ちょっと前にヤコブのお兄さんエサウの話をした。エサウは「ただ一杯の食物のために長子の権利を譲り渡した」と言ってしまった(ヘブライ12:16)。つまり、今の空いているお腹を満たすために、永遠の祝福をいただくチャンスを見逃したのである。

わたしたちにも同じように誘惑がある、と言っている。安易な生活、面倒くさくない生活、周りのみんなと同じような生活で「まあ、いいか!」と言って、永遠の祝福のチャンスを見逃すのである。
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3・11の大震災によって一つ明らかになったのは、世の中のすべてが揺り動かされ得る、ということではないかと思う。

普段、当たり前と思われていること、信頼できるだろうと思われていることは、またたく間に消えてしまった。東北の人たちはその朝、家を出たとき、当然また愛する人に会えると思っていた。その夜、寝る場所があると思っていた。車があると思っていた。そのためのガソリンがあると思っていた。わたしたちも、一日中携帯電話が使えると思っていた。電車が来る、しかも時刻どおりに来ると思っていた。スーパーに飲み物、食べ物があると思っていた。お金さえあれば、何とかなると思っていた。

でも普段わたしたちが当然だと思っていることは実は極めてもろいのだということに気づかされたのである。地球の地殻がちょっとだけ動くとドカン!すべてが変わってしまう。すべてが揺り動かされる。

スケールはもっと小さいけど、病院でも同じようなことがある。何も考えないで、普段の日常生活を送っている人が、ある日、医者に一言言われると、突然すべてが揺り動かされてしまう。自分の周りで世界が粉々に砕け散っていく。

3・11の後で見えたのは、そして病院でもよく見えるのは、すべてが揺り動かされてしまうと、人は本当に信頼できることに気づいたりする、ということ。

そして意外と、最も信頼できることはたいてい目に見えないことだということに気づくのである。例えば勇気。人の親切。希望。愛。

そして世の中で最も確信できることは、神の愛である。どんな地震でも津波でも、どんな医者からの宣告でも、どんな病気でも、死そのものでも、神の愛を揺り動かすことができるのは、何一つない。

ヘブライの説教者は、その愛にしっかりしがみつきなさい、ということを促しているのである。その神の愛を自分の人生の土台にして、そして人生の目的として置きなさい、と。

説教者が必死に話しているのは、神の愛を拒むことが可能だからである。恐ろしいことに、わたしたちは生き方によって、神の愛は自分にとって意味ないことだ、と示すことができるのである。神がいないかのように生きることができる。

(もちろん「神の愛はわたしにとって意味ない」とはっきり言う人は少ないが、でも実際の生き方によって、まさにそういうことをそれとなく言っている人はいる――経験者が語る!)

モーセのときにイスラエルの人々も神に背を向いた。わたしたちにとって神の愛は何だ、とそれとなく示したのである。神の恵み深いみ言葉を聞かないことによって、事実上、その愛を拒んだのである。

このように自分たちの自由に選んだことによって、40年間荒れ野でさまようい、約束された憩いの土地に入れずに死んでしまったのである。

わたしたちにも、同じことを選ぶことができるのである。神の愛を拒むことができる。自分の思うように生きていって、一生ある種の荒れ野でさまようい、平安を味わうことなく過ごしてしまうことはあり得るのである。

ところが、み恵みによって神の愛を受け入れるのであれば、何があっても、神の祝福からわたしたちを引き離すことがない。世の中で神の祝福を奪い取ろうとするあらゆる力を、イエス・キリストは十字架の上で打ち破ってくださったのである。だから神の永遠の祝福は確信できる。その祝福に向かって歩み続ければ、必ず辿り着くのである。

今でも、その永遠の祝福を垣間見たり、味わうことができる。キリストと共に生きることは楽ではないかも知れない。所々周りのみんなと違う生活になるかも知れない。面倒くさいと感じるときもあるかも知れない。

でも、その報いもある。揺り動かすことのできない平安を知ることができる。

しかもキリストと共に生きること以外に、人の心の飢え渇きを満たすことがないのである。

でもこの世では垣間見たり、味わったりする喜びは、やがて本当の故郷、「生ける神の都、天のエルサレム」(ヘブライ12:22)に着いたら、もう取るに足りないことと思うようになるだろう。

そのとき、終わることのない大きな祭りになる。天使たちの合唱にわたしたちも加わる。そして、この世において直面した苦難や小さな犠牲、キリストに捧げた小さな愛の業一つ一つが喜びをもたらすものになる。そのとき、神への感謝は尽きない。神は、そのみ子の流された血によってわたしたちをご自分の友達にして、その聖霊の力と知恵によってわたしたちに最後まで帰り道を辿るようにしてくださったことが明らかになるからである。

「このように、わたしたちは揺り動かされることのないみ国を受けているのですから、感謝しよう。感謝の念をもって、畏れ敬いながら、神に喜ばれるように仕えていこう」(ヘブライ12:28)

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