2012年5月13日日曜日

キリストの愛を住まいに(ヨハネ15:9-17)

復活節第6主日(B年)
聖路加国際病院聖ルカ礼拝堂 10時30分 聖餐式


最近、同じ家に住むということについて考えています。当たり前のことと思われますが、夫婦や家族同士でも同じ屋根の下で生活をして、同じ空気を吸って、同じ食卓を囲む――やはり大したものだと思います。世の中に家のない人もたくさんいますし。

何でこういうことについて考えているかというと、最近、家庭でうまく行かなくなった話を伺っているからです。やはり同じ家に住むには、たとえ親戚であっても最低限のルールというか条件があると思います。一緒に住んでいる人たちにつらい思いをさせないとか、乱暴なことをしないとか――こういう根本的なルールは多くはないけどあると思います。せめてこういうルールを守れない人は、家から出てもらうしかなくなってしまうのです。

聖書はこの世界自体が人間の「家」として造られたのだと言います。今日のイザヤ書でも:
神は「天を創造し、地を形づくり/造り上げて、固く据えられた...混沌として創造されたのではなく/人の住む所として形づくられた」(イザヤ45:18)

これは、物理化学の分野でも話題にされます。つまり宇宙も、物質も、生命そのものも存在し得るように、すべてがぴったりできている、ということです。

これは実に不思議な話です。まず、何かが在るということ自体は不思議です。何もないという可能性もあったのです。むしろ、何も存在しない確率の方がはなはだしく高かったのに、この世界が存在するようにすべてがぴったりできているわけです。

こういうふうにたとえられます。あなたは南米とかで死刑を宣告された囚人だと想像してみてください。壁の前に立たされる。銃殺隊が出て来る。50人の兵士たちが並び、ライフル銃を構えてあなたの胸を狙う。少佐の命令をスタンバっている。

少佐は「討て!」と叫び、50人の銃声が響く...

ところがどういうわけか、あなたは生き残っている!しかも、かすり傷一つない!そこで何気なく「ああ、危なかった!さあ、帰ろう!」と言うのでしょうか。「どうして?!?」と何か説明を求めるに違いないと思います!

50人の兵士たちが一斉にあなたから外れたのは偶然と思えるのでしょうか。もう一つの可能性があります:自分が知らないだけで、兵士たちは実はあなたの味方であって、あなたを応援していて、わざと外した、ということです。

わたしたち人間が在ることは、殆どあり得なかったのです。存在しない確率が非常に高い。宇宙は絶好なバランスが取れているから、存在し得るようになっています。例えば:
 重力と電磁気力の比率がちょうどいい(相対的強弱度)
 宇宙の膨張速度(早く広がっているスピード)もちょうどいい
 原子核の結合エネルギーもちょうどいい(核子の結合の強さの度合い)などなど

原子核の結合エネルギーというのは、Post-Itと同じ話です。Post-Itの接着力が強過ぎると、紙にくっ付いてしまって、取るとき紙をやぶいてしまいます。接着力が弱過ぎると、紙にちゃんとくっ付かないで、落ちてしまいます。

原子核の結合エネルギーも、ちょっとだけ強過ぎると回っている粒子が回れなくなって、核に衝突してしまいます。ちょっとだけ弱過ぎると粒子がどっかに飛んでしまいます。

宇宙のすべてがちょうどぴったりできています。ちょうどいいと言うと、いろんな値はあるけれども、例えば10の40乗分の1ぐらい変わったら、宇宙が存在し得なくなったり、物質そのものができなくなったり、まして生命を維持できなくなるのです。さまざまな値は無限小に近い偏差より少しずれたら...すべてがパッ!になる、という話です。

この非常に良くバランスの取れている宇宙ならでは人間の生命が可能となるわけです。「偶然の積み重ね」だけでは理にかなわない話です。人間が存在し得るように造った方がいるとしか説明のしようがないのです。しかも、物理科学の視点から見ても、この方がわたしたち人間の味方であり、わたしたちを応援して、わざとこの世を「人の住む所として形づくられた」ように思われるのです。
+   +   +
聖書では、アダムとエバという最初の人は人類を代表する立場にあります。彼らの住まいとして、神はこの世界をお造りになったと言われます。

神は人のために絶好な環境を用意してくださいました。「園のすべての木から取って食べなさい!」(創世記2:16)と神は仰います。何不自由ない世界になっていたのです。

でも、そのエデンの園という「住まい」に住むには、一つだけの条件がありました。善悪の知識の木からは食べてはならない、というこれだけのルールがありました。

(こういう話は、人間の自由を表わしている話です。つまり人間はロボットではないから、神の愛に応える=神の言うことを聞くかどうか、選択できるはずです。強制ではありません。善悪の知識の木は、神が示してくださることとは関係なく、自分で身勝手に良し悪しを決める態度を表わしていると思います。)

とにかく神により絶好な環境が備えられて平和と幸福の道が開かれたところに、アダムとエバはそのたった一つのルールを破ったのです。唯一の禁断の果実を食べてしまいました。

人の心の中には、反抗したがる何かが存在しているということだと思います。安全で、幸せいっぱいの暮らしが用意されても、あえてそれを拒んで、勝手に進む道を選んでしまう傾向が人の心にあるということだと思います...
+   +   +
イエスはその弟子たちに:「わたしの愛にとどまりなさい」(ヨハネ15:10)。この「とどまる」に当たる単語(meno)は「住む」という意味です。「わたしの愛の中に住みなさい・居候しなさい」とイエスが仰っています。

つまり、イエスとの親しい交わりの中には、わたしたちの居場所がある、ということです。心のよりどころ。生きているキリストと一緒に日々の生活を送ることができるのです。イエスの友人として生きることができるのです。それこそ、「喜びが満たされる」人の生き方になる、とイエスが仰っているのだと思います。

でも、イエスとの交わりを保つには、イエスの愛の中に居候するには、やはり条件があります:「わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。」(ヨハネ15:10)

注意:イエスの愛・憐れみをいただく、イエスとの交わりに迎え入れていただくためにその掟を守らなければならないという話ではない――それだけ分かっていただきたいです。
 「わたしはあなたがたを愛してきた」(ヨハネ15:9)
 「わたしはあなたがたを友と[呼んである]」(15:15b)
 「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ」(15:16)
イエスの愛が必ず先です。わたしたちに先立って、イエスが愛してくださっているのです。

神は愛をもって、愛のゆえにこの世界を人の住む所として形づくられたと同じように、イエスは愛のゆえにわたしたちをその交わりに迎え入れてくださるのです。

ただし、わたしたちはそこに住み続けるためには、イエスに倣って生きるように励むことが求められているわけです。それはこの「家」の決まりなのです。「わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる」(15:10)

イエスの掟とは?簡単であって簡単でない気がします:「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である」(15:12)

この掟は実は幼稚園児にも分かる話です。仲良く遊ぶこと。おもちゃを一緒に使うこと。頭ぶつかったり、泣かせたりしたら「ごめんね」と誤ること。「ごめんね」と言われたら「いいよ」と赦してあげること。

「互いに愛し合いなさい。」家族関係や近所付き合い、教会の付き合いだけではなくて、国際情勢や国家の経済レベルでこういう掟が守られたら、世の中はいきなり天国のようになります。

だけでそう簡単にはいかないのです。人間の心の中には、反抗したがる何かが存在しているからです。でも幸いなことに「わたしの愛にとどまりなさい」と仰るイエスは、とどまるための恵みをもわたしたちに与えてくださいます。

「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」(15:13)。これはわたしたちへの模範である以前に、イエスのしてくださったことを表わしている言葉です。わたしたちを「友」と呼んでくださったイエスは、わたしたちのためにご自分の尊い命を十字架の上で捨ててくださったのです。

その「十字架の愛」という大きな力をいただく人は、少しずつ愛することを学んでいけるのです。学んで、また失敗して、また学び直していけるのです。そしてイエスはそういう人の味方になり、応援してくださるのです。

イエス・キリストは、わたしたちをご自分の交わりに招いてくださっています。ご自分の愛にとどまってほしいのです。そのために、わたしたちに呼び掛けて、ご自分の跡に従っていく恵みを日に日に注いでくださるのです。

キリストの愛の家に居候していいのです。今日、これからその愛の家の食卓を囲み、イエスとの交わりにいられることへの感謝を分かち合いたいと思います。

0 件のコメント:

コメントを投稿